歴史好きには真田推しが多い。小勢力でありながら、戦国の世を大胆に突き進んだ印象が強いからでしょうか。それにしても、あれだけ徳川と事を構えておきながら後世に家名をつなげたのはなぜか。それは偏にこの男の忍耐のおかげかもしれません。
真田信之ーー。絶大な人気を誇る真田信繁(幸村)の兄で、父は戦国一喰えない男との呼び声が高い昌幸。関ヶ原前夜、家名を残すために信之だけが東軍の徳川に臣従したエピソードはこの親子を語る上で外せませんね。
そんな信之が約9万石で松城(後の松代城。長野市)に入るのは1622年。父祖の地である上田(長野県上田市)から引き剥がされた格好でしょうか。というのも上田は真田家発祥の地であると同時に、徳川にとっては思い出したくもない惨敗の地。それが原因で関ヶ原に遅参したと言われる2代・秀忠の意図が透けて見えるような気もします。
それはともかく、松代は名城。本丸はかつて武田信玄が北信濃攻略の拠点とした海津城の主郭をほぼ踏襲して築かれたと推定されます。城の北側を流れる千曲川を自然の要害とした梯郭式の平城で、武田流築城術の特徴である丸馬出とその外側の三日月堀が近世以降も取り込まれています。信玄と上杉謙信の宿命の地・川中島からも程近く、両者にとって最大の激戦となった「八幡原の戦い」(1561)は、海津城の存在が発端だったといいます。
たしかに北の要害に違いありませんが、真田が治めた頃の松代はすでに安定期の城。少なくとも遺構からはそういった印象を受けます。現存する石垣の中で最も高く、最も古い様相(16世紀末。算木積未発達)なのが戌亥隅櫓台。天守台相当の規模ですが、天守はなかったと推定されます。
その後、廃藩まで約250年間、真田氏10代が松代藩主を務めます。信之は子孫安泰のための礎を見事に築きますが、一方で華々しく散った弟の陰に隠れることが少なくありません。すでに高齢となったお兄ちゃんが上田からの移封を内心どう捉え、そして耐えたのか。2つの城を歩き比べながら思いを馳せるのも一興かもしれません。
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