(26人目)井伊直政の続き⑩です。
天正壬午の乱の時、家康が陣を敷いていたとされる「新府城」を訪れました。JR新府駅から15分程歩き、そこから最後に心臓破りの階段を登ると本丸の藤武神社です(写真①)。
いや~感動です! 南側三の丸にあるの桝形虎口と丸馬出の向こうには、雪をかぶった富士山がきれいに見えました(写真②③:訪れたのは3月です)。新府城から富士山がこんなによく見えるとは思ってもみませんでした。そして本丸から西側には、同じく雪をかぶった南アルプスの山々が迫ってきれいに見えました(写真④)。このような雪をかぶった雄大な山々が連なる姿は、私の住む九州では絶対に見られない光景です。この日は雲ひとつない晴天で、しかも月曜の午前中という事もあり、2時間滞在しましたが、滞在中またもや誰にも会わず、この広い新府城と感動の絶景を一人占めー! 大満足の登城でした~!😊
では少し冷静になり本題に入ります。
ここでまず築城した武田勝頼の事を考えてみました。
勝頼は、北西側には2つの出構を構築してそこに鉄砲陣地を設けていたという事は、北西から攻めて来るであろう織田軍を想定していたと思われます(写真⑧の手前下に出構がある)。さらに南東側には巨大な丸馬出と三日月堀を構築していました。これは南東から攻めて来るであろう徳川軍を想定していたと思われます(写真⑤⑥)。もう少し築城に時間があれば、たった68日で落ちる事もなかったでしょうね。勝頼のくやしさが、この本丸にある勝頼公慰霊の社(写真⑦)から伝わってくる気がしました。
次は徳川家康の事を考えてみました。
家康と北条氏との関わりは二度ありました。
一度目はこの「天正壬午の乱」です。信長亡き後、空白地帯となった甲斐・信濃の争奪戦です。伊賀越えから一か月後、休む間もなく出陣した家康はここ新府城に陣を敷き、北西にある「若神子城」に陣を敷く北条氏直と対峙します。この時北条軍は2万とも4万とも、徳川軍はわずか数千、完全にに不利な状況です。
私は本丸に立ち北西側を眺め考えてみました(写真⑧)。右の山と山の切れ目あたりに北条軍が陣を敷いていた若神子城があります。家康と直政は同じようにここから北条軍を眺め、この不利な状況をどうやって覆せばいいのか? 悩みながらもいろいろと起死回生の策を巡らせていたのではないでしょうか?
しかし待てよ・・・ここでふと疑問が?🤔
家康はこの新府城のいったいどこに陣を敷いていたのでしょうか? その当時は勝頼が火を放ってからまだわずか数ヵ月なので、あたりは一面焼け野原だったはずです。なのにどうやって80日もここに滞在する事ができたのでしょうか? まさかこの寒くて焦げ臭い場所に80日も野宿できるはずがありません。どうやらここには見張りの兵のみを置き、南東側にある有力者の屋敷や寺社に滞在していたようです。
さらに北条軍はこの膠着状態を打開するため、背後の小田原から1万の増援部隊を出します。それに対峙できるのは甲府にいた鳥居元忠の1500の兵のみ(黒駒の戦い)。挟み撃ちにあった家康は、もはや絶体絶命の大ピンチ! しかしここから、どうやって北条軍を破り、直政はどのようにしてその勝利に貢献したのでしょうか? そのヒントが、直政が滞在していたのではないかとされている「平塩寺」にありそうなので、次はここから平塩寺に向かおうと思います。
【注意】新府駅から徒歩で登城する方へ
新府駅から新府城まで、何と飲料水の自販機は1台もありません!(当然お店などもありません)。飲み物などは電車に乗る前に買って乗って行った方がいいです。私は知らずに喉の渇きに耐える羽目になってしまいました。また新府駅は無人駅ですが交通系ICは使えます(タッチ機あり)。最後に電車を待っている間に、駅前の菜の花畑から撮影した富士山も添えさせていただきます(写真⑨⑩)。
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