いわいがきじょう

石井垣城

鳥取県東伯郡

別名 : 岩井垣城、中山城
旧国名 : 伯耆

投稿する
池の西側の空堀
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

ぴーかる

石井垣城 (2024/10/05 訪問)

【石井垣城】
<駐車場他>春日神社入口横<35.513791,133.583522>に駐車できます。
<交通手段>車

<見所>横堀・箆津敦忠墓地
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅5城目。現地説明板によると石井垣城の前身は南北朝時代に初期に伯耆守護代の糟谷氏の居城中山城であったようで1333年に船上山合戦に勝利した名和氏が鎌倉幕府方の糟谷氏を攻めて落城します。のちに国人領主の箆津(のつ)氏が入城し整備したと推定されています。この地方では珍しい複郭式の城跡です。
 主要部や要所要所の投稿は城びと初になります。駐車場に城跡の説明と簡単な縄張り図の案内板があるので写真を撮って巡るのがよいかもしれません。春日神社の北側一帯が主要部のようですが、主要部南側の堀が浅く曲輪のはじまりがちょっと不明瞭です。中心部にL字状の僅かに石塁の残る土塁があり虎口跡、ここら辺が主郭かなあと感じさせます。L字状土塁から西側へ続く道を行くと北側に横堀が縦横に見られます。この辺りの堀は深くて明瞭です。
 道を進むと池を北側から西側へ大きく回り込むようにして行けることになります。池の周囲は西側以外は表面観察で残る遺構は見当たりません。西側に当時の墓地地区があり五輪塔などが点々と残された曲輪があります。池の西側に東西に走る城跡最大の空堀があり見応えがあります。その空堀の横、池のほとりに箆津敦忠墓地がひっそりとあり、今でも地元の方かと思われるお供えがありました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

伯耆未踏の城廻りⅣ (2022/06/21 訪問)

 富長城初登城を終えて9号線、山陰道で東進、鳥取県も高速が出来て便利に成りました、中山ICを降りて、西のなかやま温泉、図書館、保育園側に向かい、大手側からの登城を試みるが、登り山道は有るが案内板指示板も無く、草も茂って居り諦めて東側の春日神社側に廻る、中山IC出口へ廻り西へ直ぐ北の林道へ杉林の薄暗く細い道、500m程進むと林道の3,4倍の広さアスファルト舗装、駐車に最適、春日神社参道第一鳥居のすぐ横です。駐車場(35°30'50"N 133°35'01"N)
 石井垣城と先に投稿した小波城は城びと未投稿でしたので最初の投稿と成ります。

 駐車場周辺は草が刈られ、春日神社境内も綺麗に清掃されて居る、案内板は神社参道鳥居の南側に在り真新しい、狛犬、鳥居を潜って石階段を登ると土塁を切った様な参道、奥に本殿、境内以外は城域なのですが杉林、草シダ類が深く茂り足を踏み入れるのに躊躇します、今回参考にした古城盛衰記さん余湖図コレクションさん俯瞰図に依ると春日神社の北側に本丸、各曲輪、堀に土塁が良く残ってる様ですが草深で良く見通せない、藪漕ぎは不安もあるし、神社境内の土塁と堀道を観て終わる事にした、秋以降春先の草が枯れて頃の登城投稿者に探訪報告はお願いしたい。
 高速ICも近く駐車場も有るので寄りやすいとは思います。

 歴史は案内板に由ると
 石井垣城は14世紀中頃の国人領主層の一人で箆津豊後守敦忠の居城であったと伝わる。石井垣城周辺は、中山と伯耆国絵図に記されてる。元弘3年(1333年)の船上山合戦に勝利した名和氏の軍勢は、幕府方で中山城に居た伯耆守護代の糟谷氏を攻めて敗走させた。石井垣城は、この中山城を箆津氏が後に城館として整備したものと推定される。
 構造は案内板に由ると
 城館規模は南北450m、東西250m、東に甲川が北流し、比高15mの断崖、西は谷と湿地、南と北は複数の堀切で区画された複郭式の城で、郭、空堀、土塁、石塁、土橋などの遺構が良好に残ってる。
 主郭部は堀と郭によって守られた北東部で、虎口が南側に在り、土橋で南側の郭群とつながっている、西側の南北に伸びる平坦面は字名を御墓ノ峯といい、その中央付近で空堀や土塁で区画された中世墓地が確認され、現在でも地表面に五輪塔や宝篋印塔が見られる。
 (以上平成30年大山町の案内板)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 複郭式平山城
築城主 糟屋氏?
築城年 正慶2年〔北朝〕/元弘3年〔南朝〕(1333)以前
主な改修者 箆津氏
主な城主 糟屋重行、赤坂幸清、箆津敦忠
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、石塁、堀切、馬出、土橋
再建造物 石碑、説明板
住所 鳥取県東伯郡大山町石井垣