富長城初登城を終えて9号線、山陰道で東進、鳥取県も高速が出来て便利に成りました、中山ICを降りて、西のなかやま温泉、図書館、保育園側に向かい、大手側からの登城を試みるが、登り山道は有るが案内板指示板も無く、草も茂って居り諦めて東側の春日神社側に廻る、中山IC出口へ廻り西へ直ぐ北の林道へ杉林の薄暗く細い道、500m程進むと林道の3,4倍の広さアスファルト舗装、駐車に最適、春日神社参道第一鳥居のすぐ横です。駐車場(35°30'50"N 133°35'01"N)
石井垣城と先に投稿した小波城は城びと未投稿でしたので最初の投稿と成ります。
駐車場周辺は草が刈られ、春日神社境内も綺麗に清掃されて居る、案内板は神社参道鳥居の南側に在り真新しい、狛犬、鳥居を潜って石階段を登ると土塁を切った様な参道、奥に本殿、境内以外は城域なのですが杉林、草シダ類が深く茂り足を踏み入れるのに躊躇します、今回参考にした古城盛衰記さん余湖図コレクションさん俯瞰図に依ると春日神社の北側に本丸、各曲輪、堀に土塁が良く残ってる様ですが草深で良く見通せない、藪漕ぎは不安もあるし、神社境内の土塁と堀道を観て終わる事にした、秋以降春先の草が枯れて頃の登城投稿者に探訪報告はお願いしたい。
高速ICも近く駐車場も有るので寄りやすいとは思います。
歴史は案内板に由ると
石井垣城は14世紀中頃の国人領主層の一人で箆津豊後守敦忠の居城であったと伝わる。石井垣城周辺は、中山と伯耆国絵図に記されてる。元弘3年(1333年)の船上山合戦に勝利した名和氏の軍勢は、幕府方で中山城に居た伯耆守護代の糟谷氏を攻めて敗走させた。石井垣城は、この中山城を箆津氏が後に城館として整備したものと推定される。
構造は案内板に由ると
城館規模は南北450m、東西250m、東に甲川が北流し、比高15mの断崖、西は谷と湿地、南と北は複数の堀切で区画された複郭式の城で、郭、空堀、土塁、石塁、土橋などの遺構が良好に残ってる。
主郭部は堀と郭によって守られた北東部で、虎口が南側に在り、土橋で南側の郭群とつながっている、西側の南北に伸びる平坦面は字名を御墓ノ峯といい、その中央付近で空堀や土塁で区画された中世墓地が確認され、現在でも地表面に五輪塔や宝篋印塔が見られる。
(以上平成30年大山町の案内板)
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