日新館は享和3年に完成した会津藩の藩校です。広い敷地内に日本最古と言われる水練場も備えていました。会津藩の子弟に対しエリート教育を行い、白虎隊の隊士達もここで教えを受けました。彼らは十歳になってから日新館に通いますが、六歳から九歳までの男子は十人前後で「什(じゅう)」と呼ばれるグループを作り、リーダーである什長によって「什の掟」などを教え込まれたようです。
最後には例の「ならぬことはならぬものです」で締めくくるのですが、ちょっと危ないですな。
敷地内の幕末慶事記念室には会津落城時の展示も有り、砲撃でぼろぼろになった若松城の模型もあります。小田山(城)は若松城を砲撃できる好所にあり、ここを官軍に奪われたことで若松城に砲弾が降り注ぎました。小田山城は元は蘆名氏の本城でしたが廃城後は蘆名氏や会津藩の家老の墓地になっていました。「小田山とられて戦はするな」という伝承が残っていたようですが、結果その通りになってしまいました。
幕末から明治にかけては高所から敵地に砲撃を仕掛けることは有効と見られ、旅順攻囲戦における203高地もそれに当たると思います。
私の考えでは関ヶ原の南宮山周辺や自害ヶ嶺のあたりも砲撃戦の陣地を想定していたのではと考えます。
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