長篠・設楽ヶ原の古戦場に向かう途中、新城城の近くの車道沿いに彼岸花の群生地が有りました。古戦場の周りには武田軍の名だたる武将の墓や供養塔がたくさんあるのですが、各所に彼岸花が咲いており供養に来ているような気がしてきます。
土屋昌続(次)の墓は設楽原資料館のやや北東にあります。
昌続は武田二十四将の一人で、重臣の中では最も若い部類に入ります。「片手千人切り」で有名な土屋惣蔵昌恒の兄に当たり、初陣は激戦で知られる第四次川中島の戦いとされています。また元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦いでは徳川方の鳥居忠広と一騎打ちを行い、忠広を討ち取っています。忠広は後に徳川十六神将と呼ばれるようになり、十六神将と二十四将の一騎打ちが行われた稀有な例になると思います。数々の戦で武功を挙げてきた昌続ですが設楽ヶ原の戦いでは真田信綱、真田昌幸とともに天王山に陣を敷き、馬防柵の二段目までを突破したが火縄銃の一斉射撃を受け討死したとされます。誰に討たれたのかすら分からぬ非業の最期と言えるのではないでしょうか。昌続の墓の脇には従士の温井左近の塚があります。良く見ると木の影から頭だけ出ています。
温井は昌続が討たれた後、すかさず首を斬り取り、信州まで逃れたところで首を埋め、殉死したとされています。壮絶ですな。
さらに北上すると堀 無手右衛門(むずえもん)の墓があります。無手右衛門は勝頼の叔父・一条信龍の家臣で長篠・設楽ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍相手に殿を務め、討死したとされていますが、この時点では生存していたとする説もあるようです。
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