はじめての訪問 鯛飯もおいしかったです
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2025/01/30 13:02
宇和島訪問 (2025/01/11 訪問)
はじめての訪問 鯛飯もおいしかったです
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2025/01/30 12:40
庄内の乱における古戦場 (2024/01/05 訪問)
南北朝時代から安土桃山時代まで幾多の戦乱に巻き込まれた場所のようです。島津家を揺るがすきっかけとなる庄内の乱の際もこの城下で戦があったようです。
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2025/01/30 12:32
島津家発祥の地 (2024/01/05 訪問)
特に遺構がすごく残っているではありませんが島津家がここから発展していったみたいです。
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2025/01/30 11:51
黒田六端城を行く:(1城目)黒崎城 (2025/01/19 訪問)
JR黒崎駅北口から東へ歩いて15分、そこから小高い丘を15分登った頂上に黒崎城はありました。ここは黒田六端城の一つです。
関ケ原の翌年、黒田長政は豊前中津から筑前福岡へ、細川忠興は丹後宮津から豊前中津へ国替えとなります。その時、慣例では前年の年貢は置いて行くのが原則なのですが、何と長政が持って行ったため忠興は大激怒! 年貢を返すよう求めます。しかし長政はこれを拒否したため、両者は犬猿の仲となり一発触発の状態になりました。よって長政は忠興との戦に備え、豊前国境に六つの城を築城して重臣を配置します。これが黒田六端城です。
ここは長崎街道が眼下に見える、六端城の中でもまさに忠興が居城とするため築城していた小倉への玄関口にあたります。ここに長政は、父官兵衛の時代からの重臣を務める「井上九郎右衛門(之房)」に築城を命じ15,000石で与えます。之房は大河ドラマ軍師官兵衛では高橋一生さんが演じられ、有岡城に幽閉されている官兵衛を助け出したシーンなどはまだ私の記憶に残っている人物です。しかしその後一国一城令があり、黒崎城はわずか十数年で廃城になってしまいました。石垣などは洞海湾の護岸工事に使われたそうで、今では一部しか残っていないようです。
途中の黒崎駅で、うどんとかき揚げ丼の定食を食べました。さくさくのかき揚げとだしだけでとったうどんはとても美味しかったです。でも九州の人間はこの味が当たり前なのですが、関東の方はしょうゆ味に慣れているので、このあごやかつおだしだけの味では物足りないかもしれませんね(笑)。逆に私はしょうゆ味のうどんはちょっと・・・という感じです(笑:すいません)。
ちなみにこの騒動の結末は、榊原康正の仲介で、長政が分割返済するという形で決着したようです。しかしこの一件で、いつ戦を起こすかわからないと警戒された長政は、徳川幕府から完全に信用を失い、危険人物にされてしまいます。時を同じくして危険人物とされていた福島正則は、石垣の無断修理を理由に改易されてしまいました。徳川秀忠は長政に、江戸へ来て弁明するよう求めます。次は長政の番か? このままでは黒田家が危ない! さあどうする長政? (この続きは天守復元論争で)。
次は六端城の2城目、若松城へ向かいます。
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2025/01/30 11:49
長谷山城 城びと未登録 (2025/01/26 訪問)
姫路から赤穂に向かって国道二号線を走って行くと、相生の手前に、狭隘部があり、そこの中に独立峰で急斜面の小山があります。北麓を国道が、南麓をJRが走り、少し南の山際には山陽新幹線も。かつては南麓に山陽道が通っていたと。地名は大門で、まさに「門」とするのにふさわしいです。
砦を築くのに最適だなあと前々から思っていたのですが、やはり城が作られてました。城郭放浪記さんに倣い、北西から取り付き、登って行きました。疎林で直登に問題ありません。急斜面なので立木を掴みながらになります。
頂上に近づくと、北側斜面に、これでもかの畝状竪堀が出現。興奮しました。城郭放浪記さんによると、東側まであるそうですが、削られたりシダに沈んだりで分かりづらいと。Ⅰ郭の虎口に石積にも見えるところがあるとも書いてあります(写真6)。一方、Ⅰ郭西面の切岸は自然石でなくて石垣に見えました(写真7,8)。行こうと思いつつ長年経ってしまってた、長谷山城に今回登ってとても良いものを見られました。
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2025/01/30 08:05
田中城(滋賀県高島市)・尾根の曲輪群 (2024/11/09 訪問)
(続き)
田中城は山頂部の主郭から尾根沿いに南へ曲輪群を連ねていて、順路は曲輪群の南端から主郭を経て北西端の堀切まで続いています。曲輪群の南端には見張所跡の土塁があり、ここから高島方面が見渡せる…はずですが、木々が茂っていて眺望はききませんでした。順路を外れて見張台跡の南にも行ったものの、土橋状の細尾根が続いているのを見て満足してしまい、その先にあったはずの堀切を見落としてしまいました。
順路に戻って曲輪群を北へ。曲輪群の西辺には断続的に土塁が続き、土塁の向こう側は切り立った崖になっています。主郭の手前には竪堀も見られました。竪堀を過ぎて登って行くと主郭の背後を守る横堀と土塁があり、そこから登って主郭に到着。主郭はいったんは綺麗に整備されたんでしょうけど、登城時は草木が伸び盛っていて散策しづらい状態でした。主郭の奥にはのろし台と呼ばれる櫓台があり、のろし台の上にはつぶて石が大量に積まれています。のろし台からは高島平野と琵琶湖、さらには琵琶湖の東岸まで見渡すことができました。
最後に主郭から北西に続く細尾根をたどります。こちらも両端が切り立った崖になっていて、滑落すると戻って来れなさそうです…。そして細尾根の先には堀切が尾根を断ち切っています。これで田中城をひとめぐり。あとは順路をたどって下山しました。
城びと未登録ながら、山岳寺院を改修した中腹の曲輪群も城郭らしさのある尾根の曲輪群も大いに見応えがありました。また、前半生に謎が多い明智光秀の足跡が史料上最初に確認される城だけに、前々から行ってみたいと思っていましたが、やっと果たすことができました。麒麟がくる放送前から5年越しで細々と続けてきた麒麟がくる紀行も、これでようやくひと区切りです。
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2025/01/29 21:52
温泉パン。 (2024/09/18 訪問)
御前城は氏家小学校の敷地内になっています。土塁が残されているようなのですが、写真の土盛りは違うようですね。場所が場所なので散策が出来ていません。
鎌倉時代初期に宇都宮氏の分家の氏家氏の祖である氏家公頼の居館が有ったとされ、戦国時代には頻繁に城主が変わっていたようですが、慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易されると廃城になったようです。
近くの道の駅・喜連川(さくら市)では地元の名物である温泉パンを販売しており、近くに直販所もあります。昭和30年頃食パンの余り生地を丸めて焼いて食べたところ、美味しかったのが温泉パンの原型になるようです。日持ちがするので、いくつか買って帰りました。
けっこう美味しいと我が家でも評判です。
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2025/01/29 20:05
ほりかけの矢穴石 (2025/01/25 訪問)
某アプリで石高がピンチになったので、尾張・美濃の城を廻りまくって来ました。中でも名古屋城と犬山城は直に訪問しています。いずれも全国的な名城なので、季節に一回は訪れたいと思っています。名古屋城の石垣の調査と工事はまだしばらくかかりそうなので気長に待つことにします。
本丸御殿の近くには刻印石がいっぱいありますが、堀かけの矢穴のある石が有りました。矢穴の掘りかたの参考になりますね。この近くには「山田」の刻印のある石もあります。たしか毛利〇〇さんの担当の石ですね。
ちなみに某アプリのほうは石高はがっつり入りましたが、それ以上に浪人武将がわんさかいて、待機中の状態です。貫活もがんばっていますが、入って来るのはしばらく先です。困ったニャ・・
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2025/01/29 19:46
直虎さ~ん (2025/01/26 訪問)
井伊谷城は井伊氏の山城で山頂に主郭が設けられ、周囲を土塁で囲んだだけの比較的単純な縄張りです。永禄5年(1562)に井伊直親が謀殺され、井伊氏が存亡の危機を迎えた際に女性城主として気丈に振るまったのが大河の主人公にもなった井伊直虎です。
リアル女城主の城なので、某アプリで直虎さんが出てこないかな? と思って訪問しましたが、見つかったのはショボイ顔をした井伊直盛さんでした。誰だっけこの人・・あっ、直虎のお父さんだ・・。どうやら直虎さんはイベント限定で通常の城攻めでは見つけることが出来ないようです。テンションだだ下がりですわ。
井伊谷城は遺構はあまり残っていないようですが、周囲の見晴らしは良好です。主郭も2段になっていて、一段高い所に三角点があります。
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2025/01/29 19:02
砥石城 (2024/12/21 訪問)
【戸石城】
<駐車場他>砥石城跡駐車場・東麓にある陽泰寺にて御城印販売しています。
<交通手段>車
<見所>曲輪・堀切・主郭石積み跡
<感想>1泊2日上田の旅2城目。現地説明板によると砥石城は築城年代は不明だが、戦国時代に村上氏が小県方面に進出する拠点の城としていた。1550年武田晴信が大軍を率いて砥石城を攻めるが大敗させます「砥石崩れ」。1551年に真田幸隆は調略によって落城させ武田晴信より真田郷を与えられます。以降は真田氏の城となります。
城は南西にある米山城、そこから北東の尾根を登って砥石城(砥石曲輪)、砥石城から北へ山の鞍部曲輪から本城(主要部の曲輪群)、主郭北の堀切から山頂の枡形城(物見曲輪か?)の4つの曲輪群から構成されています。
麓の模擬城門櫓のある櫓跡から登城して山の鞍部尾根上に出ます。南西方向に登ったピークが米山城で上下段の曲輪があります。鞍部尾根に戻ってそこから北東方向に急峻な尾根を登りますが階段が付いているので体力次第で登れます。登ったピークが砥石城で周囲を高い切岸で囲んで南端の独立した出城といった感があります。砥石城から北が山の鞍部尾根曲輪になっていて本城(主要部)の南虎口曲輪になっていたようです。本城は一転し広大な段曲輪が広がり見応えがあります。また主郭の石積み跡が良く残されています。枡形城は主郭背後の大堀切をのぼったピークにあり物見がある小さな曲輪です。背後にミニ堀切を備え北東方向の真田氏館・真田氏本城が見渡せます。真田太平記や真田氏の歴史ドラマなどで頻繁に名が挙げられる城だったので行ってみたかった城の1つ。満足できるいい城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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2025/01/29 10:49
花尾城(2/2):井戸周辺は圧巻です (2025/01/22 訪問)
花尾城の続きです。過去のとある煩悩さんの投稿に、井戸を観るために行ったとあり、何の事だろうと思いながら登りました。でもその理由が行ってみて分かりました。確かに!この井戸を観ずして何しにここまで登ったのかという感じです。本丸から下の段への石垣の左に(写真①)の標識がひっそりとありますので見逃さないように。そこから下はすごい角度の急斜面、鎖につかまりながら下ります(写真②③④)。すると二つの登り石垣と井戸が(写真⑤⑥)、またその横には石垣・畝状竪堀・大堀切があり(写真⑦⑧⑨⑩)、これはもう圧巻でした。大内・毛利・大友・豊臣など、東から攻めて来る強敵が多かったので、防御の中心を本丸の東側にあたるこの地に置いていたのではないかと思われます。きっとここで数々の戦が繰り広げられたのでしょうね。
とある煩悩さんが、この二つの登り石垣に囲まれた井戸にはどのような意味があるのだろうか? と思われていたようなので私も井戸の前に立ち考えてみました。すると二つの事が思い浮かびました。
まず一つ目は、ここは湧き井戸というより溜め井戸だったのではないでしょうか? 雨が降ると二つの登り石垣の間を雨水が川のように流れ落ち、一番下にある井戸に溜まっていくようにしたのではないかと思います。おそらく石垣の間は今では土が堆積していますが、当時は土などなく底には石を敷き詰めて流れやすくしていたのではないかと推測します。そして二つ目は、これもあくまで推測ですが、この井戸の中にはもしかして抜け穴があったのではないでしょうか? 二つの登り石垣の間は、今では土が堆積して浅いですが、当時はもっと深く、敵から見えないよう身を隠しながら移動する事ができ、そして井戸から城外へ出られる抜け道があったのではないかと推測しました。もしそうなら、城外の援軍との連絡や最後の脱出経路として使われたのかもしれません。井戸の底の横に小さな穴らしきものが見えたので、あそこの石を一つ外せば人が這って入れるトンネルがあるのでは?・・・なんて想像してしまいました。
いや久しぶりに、想像をかき立てられる、いい山城に出会えました。
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2025/01/29 08:03
田中城(滋賀県高島市)・中腹の曲輪群 (2024/11/09 訪問)
(続き)
田中城の中腹には松蓋寺の寺坊跡を改修した曲輪群が広がっています。順路は曲輪群の東側を通って、内部に入る前に北東裾の遺構を見て回るよう設定されています。北東隅から数段下った曲輪にはいくつかの竪堀や土塁が見られ、北西方向へは横堀から続く竪堀が落ち、北側に下りて行くと武者隠しから堀切をはさんで細い土橋が北東方向に続いていました。土橋の先まで行って引き返すと、土橋を歩いている間ずっと武者隠しから狙い撃ちされていることを感じます。
順路の分岐まで戻り、今度は曲輪群の内部へ。中腹の曲輪群は土塁で方形に区画され、分厚く高さのある土塁も随所に見られます。あちこち寄り道しつつも順路に従って曲輪群の北辺を進むと、観音堂へと続く尾根筋を堀切で断ち切っており、堀切に面する曲輪には分厚い土塁がめぐらされていました。堀切を南に抜けた曲輪から順路は石段を上って観音堂へと続きますが、南に続く細長い曲輪に寄り道すると、道沿いに水の手が今も水をたたえていました。
石段を上ったところに建つ観音堂は松蓋寺の頃からの遺構なんだとか。また観音堂の南側一段上の方形の曲輪には松蓋寺の塔跡と思われる基壇と礎石がある…らしいですが、東端を通る順路さえわかりづらいほどの藪に覆われていて、何も見えませんでした。そして尾根筋に到達。尾根沿いに展開する曲輪群をめぐります(続く)。
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2025/01/29 07:33
落ち葉を踏みしめながら。 (2024/11/13 訪問)
磐越東線完乗に出かけた日。乗り通しにはこだわっていないので途中下車して三春城へ行くことにしました。(前回訪問時は東京⇆郡山⇆三春。)
三春駅から歩いて、搦手から登城。
深まりゆく秋の風景が美しすぎて、過去を訪ねる旅で出会えたこの時間と空間のことをきっとずっと覚えているだろうと思いました。
激しい戦さの時代が過去のものとなった今、このお城が辿った歴史を伝えつつ、訪れる人たちに癒しを与えてくれる、生きたお城として在り続けているのだなぁと感じました。
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2025/01/29 07:00
近場で (2025/01/12 訪問)
中途半端に時間が出来たので近場の前田城に再訪しました。
宝寿寺が二郭ですが寺の建物は廃墟となっていて倒壊注意。
堀切跡の通路を隔てた墓地が主郭です。
前回は夏に訪れたので周囲の堀は藪。
今回はどうかな?と行ってみると一部堀の形が確認できました。
十河城主、十河景滋の弟前田宗存が築城した城です。
ここも長宗我部元親の侵攻により落城、廃城となりました。
登城時の脳内再生は孤高の天才、前田智徳の応援歌でした♪
マエケンもいるんですけどね。
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2025/01/28 23:12
宇良めし也 (2024/09/18 訪問)
川崎城は塩谷城とも呼ばれ、平安時代の末から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した塩谷氏の城でした。築城者は宇都宮業綱の次男で鎌倉幕府御家人である塩谷朝業とされています。朝業は鎌倉幕府三代将軍・源実朝と和歌を通して親交を深め「信生法師集」を残しています。朝業は文武両道に優れた武士でしたが、実朝の死を機に出家を決意し、八歳になる娘から恨み言を歌にして詠まれ、それに対して返歌を詠み、その二首が「信生法師集」に記されているようです。
川崎城は宮川の西岸に築かれ、南北に城域が広がっています。城域全部を見ることは出来ませんでしたが、一の堀は見ごたえがありました。本丸の南に南曲輪、北に二の丸、西に帯曲輪があり、本丸の周囲に一の堀が配されていました。
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2025/01/28 21:12
堀、土橋、土塁、虎口。 (2024/09/18 訪問)
岡本城は岡本北小学校の北側の河岸段丘の北側に築かれていました。段丘の先端が本丸で、かつては五重の堀を有していたようです。現在は本丸周辺の見学が可能で、土塁や堀切、虎口に続く土橋などの遺構が残っていて、状態はなかなか良いと思います。
岡本城は宇都宮氏の北の守りとして、岡本富高が南北朝期に築いたとする説と、寛正3年(1462)に玉生信濃守綱重が築いたとする説が有るようです。なんにせよ、このようにして見学をすることができるのは有難いことです。
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2025/01/28 20:59
放し飼い禁止。 (2024/09/18 訪問)
倉ヶ崎城ですが周辺で、でかいシェパードを放し飼いにしているオヤジがいたので、喜連川陣屋の門のみでの投稿になります。栃木にはまた行こうと思っているので、今回はこれで勘弁してください。今はこれで精いっぱい・・(リベンジを誓う)。
喜連川陣屋は関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川に興された喜連川藩の藩庁になります。喜連川家は足利尊氏の弟・基氏の子孫であるため幕府より10万石相当の格式を与えられていました。
道の駅喜連川では餃子を食べそこなったのでラーメンを頂きました。その名もSSTDX! なんじゃそりゃ?
しろびと・しんちゃん・とうこう・デラックス ということで。
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2025/01/28 09:45
花尾城(1/2):山頂からの眺望は抜群なのですが・・ (2025/01/22 訪問)
花尾城は、標高351mの花尾山の山頂に築かれた山城で、麻生氏が築いたとされています。大内・毛利・大友などに攻められ、幾度も戦場になったようです。そのせいか、至る所に石垣や畝状縦堀、大堀切や登り石垣といったものが見られ、かなり見応えがありました。麻生氏は、最後は豊臣秀吉に屈して所領を没収され、その後は筑前に入った小早川隆景の家臣となったようです。
ちょうど黒崎駅バスターミナル内で、花尾城の発掘調査に携わった木村幸雄さんという方の展示会が開催されていたのを偶然知り、これはラッキーと見学してから行きました。模型や発掘品や調査記録などがありました。とても尽力された方のようです(写真⑦⑧⑨⑩)。
黒崎駅バスターミナルから[73]の八幡駅行に乗り、花尾西登山口で下車(写真①)ここから歩いて40分程で山頂へ着きました。バスが標高150mの登山口まで登ってくれますので、残りの登りも最初の5分以外は緩やかでさほどきつくなく、ハイキングにはちょうどいい山だと思います。私もとある煩悩さんと同じ、中登山道から登り東登山道から下りました。
山頂本丸からは、北に洞海湾と戸畑・八幡・若松の街並みや、黒崎城も小さく見えました。また東には皿倉山も見えて眺望は抜群です。ただ晴天なのに何故か?・・・「もや」がかかっていて、響灘までよく見渡せなかったのがちょっと残念でした(写真⑤⑥)。天気予報によると、ここ1週間は3月並みの暖かい日が続いていたので、今年は早くもPM2.5が飛来して「もや」がかかっているそうです。今年は黄砂の飛来や花粉も早まるとの予報も出ているので要注意ですね。
次は、この城の最大の見どころ登り石垣と井戸を見て来ます。
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2025/01/28 08:05
田中城(滋賀県高島市安曇川町田中)・山麓から中腹へ (2024/11/09 訪問)
田中城(上寺城とも・城びと未登録)は、高島七頭にかぞえられる田中氏が戦国期に松蓋寺跡を改修して築いた城で、近年、永禄9年以前に明智十兵衛が田中城に籠城していたことを示す史料が発見されました。信長公記には、織田信長が朝倉義景を攻める際に浅井氏の勢力下にあった田中城に宿泊したこと、その後、浅井長政の離反により信長の攻撃を受けて落城し、明智光秀に与えられたことが記されています。籠城するなどで田中城のことをよくわかっている光秀に任せた、ということでしょうか。
上寺停留所脇の駐車場から登城開始。駐車場奥の説明板に掲載された縄張図には散策コースと主な遺構が書き込まれていて、大いに参考になりました。また散策コース沿いの民家では、車庫内に田中城跡歴史ハイキングMAPが備え置かれており、こちらも大変役に立ちました(ありがとうございます)。そして田中城跡石碑脇の登城口のゲートから防獣柵を抜けて城内へ。
ゲートをくぐると順路の表示に従って防獣柵沿いに北へ進みます。少し行くと右手に家臣団の屋敷跡と思しき竹藪が見えてきました。ハイキングMAPによれば屋敷跡には土塁があるはずですが、防獣柵越しではよくわかりません。どうしたものかと思っていたら順路の突き当りにゲートがあったので、そこから防獣柵を出て竹藪に踏み込み、屋敷地を区画する土塁をしっかり確認できました。
ゲートに戻るとまた順路をたどって行く…つもりが、分岐を見落として中腹から山麓まで階段状に続く小曲輪群に迷い込んだりもしましたが、何とか順路に復帰して登って行きます。中腹の曲輪群の少し手前、登城道を見下ろす位置には見張所跡と表示された土塁が遺っていました。順路を外れて見張所跡奥の堀切と竪堀にも下りてみましたが、幅も深さもある堀切が尾根を断ち切り、派生した竪堀がはるか下まで落ちていて、大いに見応えがありました。
順路に戻って少し登れば、中腹の曲輪群に到着です(続く)。
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2025/01/28 07:01
神内城 香川県高松市 (2025/01/11 訪問)
城びと未登録城です。
道路沿いに説明板が立ち、民家の間の道を通って登城口へ。
山裾には神内氏の墓と云われる五輪塔が十数基あり、その背後から登ります。
登城路の藪は刈ってあり少し登ると主郭に到着。
主郭から堀切を隔てた2郭には明瞭な土塁も残っています。
さらに堀切を隔て、高くなった櫓台と思われる部分があります。
主郭には腰曲輪が付いていて急峻な切岸を見上げる感じです。
城主の神内氏はこの辺りに勢力を持った植田氏の氏族で屋島の源平の戦いにも参加しました。
その後、戦国時代には木太町にある神内城に移ります。
背後には藤尾山、東西に川が流れる立地で小規模ながらも見どころのある城でした。
【見どころ】
・二郭の土塁
・郭を隔てる堀切
・主郭の切岸
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