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石垣など散策 (2025/01/30 訪問)

 石垣を観て廻るだけでかなりの時間が経ってしまいました。緑泥片岩、和泉砂岩、花崗斑岩などの石が使われています。積み方も野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギと築城された時期によるものですが、各種そろっていて楽しませてくれます。「和歌山の近世城郭と台場」(戎光祥出版)には特徴の一つが野面積みの高石垣と書いてありました。見どころいっぱいの城址です。
 久しぶりに登城したので、風景が新鮮に感じ多彩な石垣などにテンションも高くなってしまいました。次回来る機会があれば、のんびり半日以上かけて散策したいと思っています。

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徳川頼宜 (2025/01/30 訪問)

 久しぶりの登城です。和歌山市近傍の城跡に来ることはありましたが、和歌山城はなぜかスルーしていました。前は緑の季節に登城したので、いつか葉の落ちた季節に行こうと思い今日の登城となりました。この城の魅力は石垣だと思っています。多彩な石を使った多彩な積み方を楽しむことができます。時間の関係でさらりと回りましたが、それでも3時間近くかかりました。1日過ごしてもいいかなと思います。

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しんちゃん

八幡神社 (2024/09/15 訪問)

守山城の投稿です。訪問時間が遅かったせいで主郭周辺の写真しかありません。主郭は八幡神社の境内で、周囲に土塁が残っていました。守山小学校が三の丸で、二の丸の間に堀と石垣が残っているようです。

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ぴーかる

真田氏館 (2024/12/22 訪問)

【真田氏館】
<駐車場他>御屋敷公園第1駐車場
<交通手段>車

<見所>虎口跡・土塁
<感想>1泊2日上田の旅2日目3城目。現地説明板によると真田氏館は1583年に真田昌幸が上田城を築城する前の真田氏の居館で真田幸隆・真田信綱の代から用いられていたとされます。館跡は土塁囲みで東西に上下段の2段構造になっています。南面の土塁下部と大手門跡には石垣が残されています。内部の皇大神社は荒廃を憂いた真田昌幸が勧請したとされます。添付写真のように昨晩からの降雪で積雪が酷くて遺構があまり見られなく、この後の天白城・松尾古城の登城を断念し、隣接の真田氏歴史館を観覧しました。出発時の宿泊した鹿教湯温泉の方は積雪があまりなかったので昨日行けなかった丸子城に向かいました。

<満足度>◆◆◇
<宿・温泉>宿泊は鹿教湯(かけゆ)温泉に宿泊しました。菩薩様が鹿に化けて信仰厚い猟師に温泉の場所を教えてくれた伝説のある温泉地です。匂いや色の無いあっさりした温泉ですが温泉からあがった後に効いてくるいい感じの温泉でした。

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しんちゃん

稲村御所 永享の乱 (2024/09/15 訪問)

稲村御所とは第二代・鎌倉公方足利氏満の四男である足利満貞を指すとされています。福島県須賀川市稲字御所にある稲村御所は満貞の御所が有った所とされ、釈迦堂側に稲川が合流する地点の南西の丘陵に築かれ、現在は畑地や荒地になっているようです。
草が生い茂っていて解りづらいですが、周囲には土塁が残っていると見られ、北側には堀跡も残っているようです。
足利満貞は永享10年(1438)に発生した「永享の乱」で足利持氏に味方し、永享11年2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害しています。

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しんちゃん

郭多数 堀も良く残る (2024/09/15 訪問)

天正18年(1590)須賀川二階堂氏の一族・箭田野安房守義正の時代に攻め手の伊達政宗の軍勢1万に対し、500の兵で籠城し2ヶ月もの間、持ちこたえたとされています。
天栄村ふるさと文化伝承館から道が付いており、比較的容易に訪問することが出来ます。堀切などの遺構が残っており、本丸・二の丸の他にも郭が多数あったようです。

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ゆき

人取橋古戦場跡 (2024/05/03 訪問)

瀬戸川館跡の近くが人取橋古戦場があります。詳細は割愛しますが伊達政宗が蘆名・佐竹連合軍と戦った場所です。鬼庭左月斎の供養碑がありましたので手を合わせました。

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ゆき

二本松藩本拠地 (2024/05/03 訪問)

大規模な城郭になっています。本丸跡と麓の資料館とのセットでコンパクトにして回りました。畠山氏から始まり会津戦争まで経験した歴史の長いお城でした。

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ゆき

伊達政宗居城の地 (2024/05/03 訪問)

二本松城とのセットで行きました。こちらは伊達政宗公が約一年程居城したそうです。本丸後には野面積みのような石垣がありました。東北地方も戦国時代は様々な戦で血を流してます。この周辺だけでもいくつか城がありました。

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エンスイ

宇和島訪問 (2025/01/11 訪問)

はじめての訪問 鯛飯もおいしかったです

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ゆき

庄内の乱における古戦場 (2024/01/05 訪問)

南北朝時代から安土桃山時代まで幾多の戦乱に巻き込まれた場所のようです。島津家を揺るがすきっかけとなる庄内の乱の際もこの城下で戦があったようです。

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ゆき

島津家発祥の地 (2024/01/05 訪問)

特に遺構がすごく残っているではありませんが島津家がここから発展していったみたいです。

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トク

黒田六端城を行く:(1城目)黒崎城 (2025/01/19 訪問)

JR黒崎駅北口から東へ歩いて15分、そこから小高い丘を15分登った頂上に黒崎城はありました。ここは黒田六端城の一つです。

関ケ原の翌年、黒田長政は豊前中津から筑前福岡へ、細川忠興は丹後宮津から豊前中津へ国替えとなります。その時、慣例では前年の年貢は置いて行くのが原則なのですが、何と長政が持って行ったため忠興は大激怒! 年貢を返すよう求めます。しかし長政はこれを拒否したため、両者は犬猿の仲となり一発触発の状態になりました。よって長政は忠興との戦に備え、豊前国境に六つの城を築城して重臣を配置します。これが黒田六端城です。

ここは長崎街道が眼下に見える、六端城の中でもまさに忠興が居城とするため築城していた小倉への玄関口にあたります。ここに長政は、父官兵衛の時代からの重臣を務める「井上九郎右衛門(之房)」に築城を命じ15,000石で与えます。之房は大河ドラマ軍師官兵衛では高橋一生さんが演じられ、有岡城に幽閉されている官兵衛を助け出したシーンなどはまだ私の記憶に残っている人物です。しかしその後一国一城令があり、黒崎城はわずか十数年で廃城になってしまいました。石垣などは洞海湾の護岸工事に使われたそうで、今では一部しか残っていないようです。

途中の黒崎駅で、うどんとかき揚げ丼の定食を食べました。さくさくのかき揚げとだしだけでとったうどんはとても美味しかったです。でも九州の人間はこの味が当たり前なのですが、関東の方はしょうゆ味に慣れているので、このあごやかつおだしだけの味では物足りないかもしれませんね(笑)。逆に私はしょうゆ味のうどんはちょっと・・・という感じです(笑:すいません)。

ちなみにこの騒動の結末は、榊原康正の仲介で、長政が分割返済するという形で決着したようです。しかしこの一件で、いつ戦を起こすかわからないと警戒された長政は、徳川幕府から完全に信用を失い、危険人物にされてしまいます。時を同じくして危険人物とされていた福島正則は、石垣の無断修理を理由に改易されてしまいました。徳川秀忠は長政に、江戸へ来て弁明するよう求めます。次は長政の番か? このままでは黒田家が危ない! さあどうする長政? (この続きは天守復元論争で)。

次は六端城の2城目、若松城へ向かいます。
 

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長谷山城 城びと未登録 (2025/01/26 訪問)

 姫路から赤穂に向かって国道二号線を走って行くと、相生の手前に、狭隘部があり、そこの中に独立峰で急斜面の小山があります。北麓を国道が、南麓をJRが走り、少し南の山際には山陽新幹線も。かつては南麓に山陽道が通っていたと。地名は大門で、まさに「門」とするのにふさわしいです。
 砦を築くのに最適だなあと前々から思っていたのですが、やはり城が作られてました。城郭放浪記さんに倣い、北西から取り付き、登って行きました。疎林で直登に問題ありません。急斜面なので立木を掴みながらになります。
 頂上に近づくと、北側斜面に、これでもかの畝状竪堀が出現。興奮しました。城郭放浪記さんによると、東側まであるそうですが、削られたりシダに沈んだりで分かりづらいと。Ⅰ郭の虎口に石積にも見えるところがあるとも書いてあります(写真6)。一方、Ⅰ郭西面の切岸は自然石でなくて石垣に見えました(写真7,8)。行こうと思いつつ長年経ってしまってた、長谷山城に今回登ってとても良いものを見られました。

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イオ

田中城(滋賀県高島市)・尾根の曲輪群 (2024/11/09 訪問)

(続き)

田中城は山頂部の主郭から尾根沿いに南へ曲輪群を連ねていて、順路は曲輪群の南端から主郭を経て北西端の堀切まで続いています。曲輪群の南端には見張所跡の土塁があり、ここから高島方面が見渡せる…はずですが、木々が茂っていて眺望はききませんでした。順路を外れて見張台跡の南にも行ったものの、土橋状の細尾根が続いているのを見て満足してしまい、その先にあったはずの堀切を見落としてしまいました。

順路に戻って曲輪群を北へ。曲輪群の西辺には断続的に土塁が続き、土塁の向こう側は切り立った崖になっています。主郭の手前には竪堀も見られました。竪堀を過ぎて登って行くと主郭の背後を守る横堀と土塁があり、そこから登って主郭に到着。主郭はいったんは綺麗に整備されたんでしょうけど、登城時は草木が伸び盛っていて散策しづらい状態でした。主郭の奥にはのろし台と呼ばれる櫓台があり、のろし台の上にはつぶて石が大量に積まれています。のろし台からは高島平野と琵琶湖、さらには琵琶湖の東岸まで見渡すことができました。

最後に主郭から北西に続く細尾根をたどります。こちらも両端が切り立った崖になっていて、滑落すると戻って来れなさそうです…。そして細尾根の先には堀切が尾根を断ち切っています。これで田中城をひとめぐり。あとは順路をたどって下山しました。

城びと未登録ながら、山岳寺院を改修した中腹の曲輪群も城郭らしさのある尾根の曲輪群も大いに見応えがありました。また、前半生に謎が多い明智光秀の足跡が史料上最初に確認される城だけに、前々から行ってみたいと思っていましたが、やっと果たすことができました。麒麟がくる放送前から5年越しで細々と続けてきた麒麟がくる紀行も、これでようやくひと区切りです。
 

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しんちゃん

温泉パン。 (2024/09/18 訪問)

御前城は氏家小学校の敷地内になっています。土塁が残されているようなのですが、写真の土盛りは違うようですね。場所が場所なので散策が出来ていません。
鎌倉時代初期に宇都宮氏の分家の氏家氏の祖である氏家公頼の居館が有ったとされ、戦国時代には頻繁に城主が変わっていたようですが、慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易されると廃城になったようです。
近くの道の駅・喜連川(さくら市)では地元の名物である温泉パンを販売しており、近くに直販所もあります。昭和30年頃食パンの余り生地を丸めて焼いて食べたところ、美味しかったのが温泉パンの原型になるようです。日持ちがするので、いくつか買って帰りました。
けっこう美味しいと我が家でも評判です。

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しんちゃん

ほりかけの矢穴石 (2025/01/25 訪問)

某アプリで石高がピンチになったので、尾張・美濃の城を廻りまくって来ました。中でも名古屋城と犬山城は直に訪問しています。いずれも全国的な名城なので、季節に一回は訪れたいと思っています。名古屋城の石垣の調査と工事はまだしばらくかかりそうなので気長に待つことにします。
本丸御殿の近くには刻印石がいっぱいありますが、堀かけの矢穴のある石が有りました。矢穴の掘りかたの参考になりますね。この近くには「山田」の刻印のある石もあります。たしか毛利〇〇さんの担当の石ですね。
ちなみに某アプリのほうは石高はがっつり入りましたが、それ以上に浪人武将がわんさかいて、待機中の状態です。貫活もがんばっていますが、入って来るのはしばらく先です。困ったニャ・・

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しんちゃん

直虎さ~ん (2025/01/26 訪問)

井伊谷城は井伊氏の山城で山頂に主郭が設けられ、周囲を土塁で囲んだだけの比較的単純な縄張りです。永禄5年(1562)に井伊直親が謀殺され、井伊氏が存亡の危機を迎えた際に女性城主として気丈に振るまったのが大河の主人公にもなった井伊直虎です。
リアル女城主の城なので、某アプリで直虎さんが出てこないかな? と思って訪問しましたが、見つかったのはショボイ顔をした井伊直盛さんでした。誰だっけこの人・・あっ、直虎のお父さんだ・・。どうやら直虎さんはイベント限定で通常の城攻めでは見つけることが出来ないようです。テンションだだ下がりですわ。
井伊谷城は遺構はあまり残っていないようですが、周囲の見晴らしは良好です。主郭も2段になっていて、一段高い所に三角点があります。

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ぴーかる

砥石城 (2024/12/21 訪問)

【戸石城】
<駐車場他>砥石城跡駐車場・東麓にある陽泰寺にて御城印販売しています。
<交通手段>車

<見所>曲輪・堀切・主郭石積み跡
<感想>1泊2日上田の旅2城目。現地説明板によると砥石城は築城年代は不明だが、戦国時代に村上氏が小県方面に進出する拠点の城としていた。1550年武田晴信が大軍を率いて砥石城を攻めるが大敗させます「砥石崩れ」。1551年に真田幸隆は調略によって落城させ武田晴信より真田郷を与えられます。以降は真田氏の城となります。
 城は南西にある米山城、そこから北東の尾根を登って砥石城(砥石曲輪)、砥石城から北へ山の鞍部曲輪から本城(主要部の曲輪群)、主郭北の堀切から山頂の枡形城(物見曲輪か?)の4つの曲輪群から構成されています。
 麓の模擬城門櫓のある櫓跡から登城して山の鞍部尾根上に出ます。南西方向に登ったピークが米山城で上下段の曲輪があります。鞍部尾根に戻ってそこから北東方向に急峻な尾根を登りますが階段が付いているので体力次第で登れます。登ったピークが砥石城で周囲を高い切岸で囲んで南端の独立した出城といった感があります。砥石城から北が山の鞍部尾根曲輪になっていて本城(主要部)の南虎口曲輪になっていたようです。本城は一転し広大な段曲輪が広がり見応えがあります。また主郭の石積み跡が良く残されています。枡形城は主郭背後の大堀切をのぼったピークにあり物見がある小さな曲輪です。背後にミニ堀切を備え北東方向の真田氏館・真田氏本城が見渡せます。真田太平記や真田氏の歴史ドラマなどで頻繁に名が挙げられる城だったので行ってみたかった城の1つ。満足できるいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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トク

花尾城(2/2):井戸周辺は圧巻です (2025/01/22 訪問)

花尾城の続きです。過去のとある煩悩さんの投稿に、井戸を観るために行ったとあり、何の事だろうと思いながら登りました。でもその理由が行ってみて分かりました。確かに!この井戸を観ずして何しにここまで登ったのかという感じです。本丸から下の段への石垣の左に(写真①)の標識がひっそりとありますので見逃さないように。そこから下はすごい角度の急斜面、鎖につかまりながら下ります(写真②③④)。すると二つの登り石垣と井戸が(写真⑤⑥)、またその横には石垣・畝状竪堀・大堀切があり(写真⑦⑧⑨⑩)、これはもう圧巻でした。大内・毛利・大友・豊臣など、東から攻めて来る強敵が多かったので、防御の中心を本丸の東側にあたるこの地に置いていたのではないかと思われます。きっとここで数々の戦が繰り広げられたのでしょうね。

とある煩悩さんが、この二つの登り石垣に囲まれた井戸にはどのような意味があるのだろうか? と思われていたようなので私も井戸の前に立ち考えてみました。すると二つの事が思い浮かびました。

まず一つ目は、ここは湧き井戸というより溜め井戸だったのではないでしょうか? 雨が降ると二つの登り石垣の間を雨水が川のように流れ落ち、一番下にある井戸に溜まっていくようにしたのではないかと思います。おそらく石垣の間は今では土が堆積していますが、当時は土などなく底には石を敷き詰めて流れやすくしていたのではないかと推測します。そして二つ目は、これもあくまで推測ですが、この井戸の中にはもしかして抜け穴があったのではないでしょうか? 二つの登り石垣の間は、今では土が堆積して浅いですが、当時はもっと深く、敵から見えないよう身を隠しながら移動する事ができ、そして井戸から城外へ出られる抜け道があったのではないかと推測しました。もしそうなら、城外の援軍との連絡や最後の脱出経路として使われたのかもしれません。井戸の底の横に小さな穴らしきものが見えたので、あそこの石を一つ外せば人が這って入れるトンネルがあるのでは?・・・なんて想像してしまいました。

いや久しぶりに、想像をかき立てられる、いい山城に出会えました。
 

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