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しんちゃん

やっぱマイナー武将の扱いか? (2024/05/06 訪問)

二泊三日の飛騨・高山旅行から帰って来ました。21城ハシゴで回ってきたけど、11城はリピートです。新規は10しかない‥
今回は山城比率が多くてけっこう疲れました。でも全体での比高は2000mちょっとくらいかな?‥富士山といい勝負。これくらいでへこたれてちゃいかんなあ。
埼玉県の幸手城の投稿です。幸手駅のある一帯には、かつて古河公方足利氏に仕えた一色氏が拠点とした幸手城が築かれていたようです。駅前の一画には陣屋稲荷と称される一色稲荷大明神が鎮座し、近くには案内板も設置されています。何かないかなと思って駅の周辺をウロウロしてたら、連絡通路を跨いだ向こう側のロータリーに石碑らしいものがあります。城址碑かなと思って反対側に回ってみると‥
「違うじゃないか」 こんなもんですわ

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とばつびしゃもん

佐渡島の城2 (2024/09/08 訪問)

青木城から車で10分弱で到着。
館跡に遺構らしきものは堀のみ。5分で撤退。

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ハッスルオヤジ

笠間城 (2024/10/14 訪問)

佐白山頂に築かれたお城。

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とばつびしゃもん

佐渡島の城1 (2024/09/08 訪問)

ユネスコ世界遺産登録されて間もない「佐渡島の金山」観光を兼ねて佐渡島の城めぐり。新潟港始発のカーフェリーで両津港へ入り車で佐渡攻城戦開始。
トキの森公園(朝早い時間に入館しないとトキの活動を見られないそうです)に立ち寄ってから登城。城跡看板の前に駐車し案内板を頼りに城址を歩く。単郭単濠の館跡で館東側は姿をとどめていない。堀が残る西側から南側を歩き20分で撤退。

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トク

121【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と高崎城) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉓です。
関ケ原当時の居城「高崎城」を訪れてきました。

直政は1598年家康の命で、箕輪城から中仙道と三国街道の分岐で交通の要所である和田城に移ります。直政この時38才。そしてその時、懇意としていた白庵和尚からの進言で、和田の地を「高崎」と改名し、和田城を改修した高崎城の築城を開始します。その際に、白庵和尚や箕郷の領民たちも皆で高崎へ移住したようです。やはり直政は領民からも慕われていたという事ですね。しかし、わずか2年で直政は築城途中に佐和山城へ国替えとなったため、その後の1619年に入った安藤重信とその安藤氏三代にわたり、高崎城は完成されていったと伝わっています。現在はその安藤氏時代の乾櫓や東門などが移築され、石垣や堀などが残り、当時の面影が残っていました。(写真①-⑥)

そしてtodo94さんオススメの、高崎市役所21Fの展望台に上ってみました。眼下には音楽堂と乾櫓(写真⑧)や、高崎駅と市街地(写真⑨)、そして遠く箕輪城がある箕郷と榛名山までがよく見えました(写真⑦)。とても絶景で感動しました。いい場所を紹介していただき有難うございます。でもあまりの高さに、高所恐怖症の私は途中で足がすくんで動けなくなってしまいました(😱ひぇ~高い!笑)。

関ケ原での直政の赤備えの軍勢は、大部分がここ高崎の兵であったとされています。武田が滅びてから10年、小牧長久手や小田原で活躍した武田の旧臣たちもさすがにもう高齢化し(笑)、高崎へ移ったのを機に、赤備え隊も若返りを図ったようです。そしてこの年(1598年)に豊臣秀吉が死去し、石田三成を中心とした豊臣恩顧の大名たちの不穏な動きが始まります。直政は重臣たちに、この若き赤備えの軍勢を迫り来る決戦に向けて猛訓練をするように命じ、自らは伏見の家康の元に留まり、情報収集と西軍諸将の調略に専念していったようです。

次は(伏見城)直政の調略へ続きます。

(写真⑩)は、高崎駅で買った「峠の釜めし」駅弁です。おいしかったです😊。
 

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赤い城

植松城・中山城 香川県高松市 (2024/09/29 訪問)

芝山城から西に足を伸ばし2城訪問しました。
いずれも明確な遺構はありません。

まずは植松城、さぬき浜街道沿いに位置します。
城跡とされるところは水田となっていました。
周囲の水路や道路が堀跡かな〜と想像しますがなんとも言えません。
もう一つの推定地は浜街道北側の聖神社周辺。
こちらも少し歩いてみましたが住宅地になっていました。

さらに西進し中山城跡へ。
住吉川の南側に位置していました。
こちらも住宅地と農耕地となっていました。
なんとなく、ですが堀の痕跡が感じられました。

いずれも城主は不明ですが勝賀城の香西氏家臣の居城であったと思われます。

お腹空いたので少し離れていますが鬼無のヨコクラうどんで朝うどん。
鶏チャーシュー葱油うどんをオーダー。
変化球ですが柔らかな鶏チャーシュー、美味しかったです。

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シャンシャン

最強の山城 (2024/10/11 訪問)

ついに来ることができた月山富田城!
天気も良くサイコーの山城攻略日和!
随所に残っている石垣や堀切、土塁など見どころ満載!
三ノ丸からの景色もサイコー!

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:野府城 (2024/09/23 訪問)

開明駅から徒歩2~3分で、開明小学校校門前(35.320890、136.772634)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は織田信長の弟の織田九郎信治のようです。
織田信治は森可成とともに1570年(元亀元年)近江国宇佐山城に籠城し、朝倉・浅井軍と戦って討死しました。

野府城は現在の開明小学校一帯に築かれていたそうです。
南側の校門を入ってすぐ左側に石碑と案内板があります。
本日は振替休日で学校はお休みでしたが、門は開いていましたので、校内に入って写真を撮りました。
電車の時間が迫っているので、攻城時間は2~3分くらいで速攻撤退です。次の攻城先=下津城へ行く為、電車(名鉄➡JR)で開明駅から稲沢駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:苅安賀城 (2024/09/23 訪問)

中島城から徒歩30分ちょっとで、城址石碑前(35.288499、136.778307)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、浅井新八郎政高によって築かれたようです。
政高(信広)の子は浅井田宮丸長時で、織田信雄の家老でしたが、1584年(天正12年)伊勢国長島城において津川義冬・岡田重孝とともに羽柴秀吉の計略に掛かった信雄に謀殺されました。
その後、苅安賀城は田宮丸を討った森久三郎が城主となりました。

苅安賀城は苅安賀自動車学校の辺りに築かれていたそうです。現在は石碑が建っているのみです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=野府城へ行く為、名鉄電車で苅安賀駅から開明駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:中島城 (2024/09/23 訪問)

二子駅から徒歩30分くらいで、石碑前(35.270832、136.772977)に着きました。

平安時代末期に中島氏によって築かれたそうです。 中島氏は嵯峨源氏の後裔で尾張大介職を世襲し、代々中島蔵人を称したようです。

石碑が建っているのみです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=苅安賀城はここから徒歩でに向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:片原一色城 (2024/09/23 訪問)

森上駅から徒歩20分くらいで、石碑前(35.248672、136.749779)に着き、石碑を確認した後、神明社(35.248814、136.748963)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)頃に橋本伊賀守によって築かれたと云われています。

片原一色城は神明社一帯に築かれていたそうですが、現在は遺構はなく、石碑が建っているのみです。
石碑は辛うじて読める程度です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=中島城へ行く為、名鉄電車で森上駅から二子駅に向かいました。

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とばつびしゃもん

四方面の扉がある門のあった城 (2024/09/07 訪問)

村上名物の塩引き鮭と海鮮はらこ丼で空腹を満たし村上市郷土資料館へ。資料館で続日本100名城スタンプポン。資料館にはおしゃぎりと呼ばれる祭りの山車が展示されていて、2階には村上城本丸を望む小さな窓がある。
資料館駐車場に車を置いて登城開始。大手門跡に立ち寄り藩主居館跡まで町中を歩き、一文字門跡の石碑から七曲り道を登る。整備されている大手道は歩きやすく15分で四ツ門跡へ。他では見られない四方面に扉のある特異な門があったとか。正面の搦め手道への道は倒木のため立入禁止の看板。左手に進み三の丸にあたる調練場跡を回り、もどって右手の二の丸へ進む。突き出た出櫓台石垣の向こうに本丸石垣の眺めは印象的。黒門跡を通って本丸へ。ここまで40分弱。石碑のある天守跡からは雨上がりの日本海を望む。
本丸石垣の下を回り、出櫓台西側を下りて来た道を戻る。途中、毎日登城する地元のおじさんから声をかけられ、村上でも「クマ」が出たとか。小さな鈴を鳴らしながら下城。新潟市内で宿営。

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sorato

耐震工事中の松本城 (2024/10/02 訪問)

松本城の天守は震度7以上の地震が起こると倒壊の可能性があるということから今年の秋から耐震工事を実施しています

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チェブ

東京水辺ラインで海から眺める。 (2024/10/12 訪問)

以前、伊豆大島の「武田 信道屋敷」に行った際、お土産で購入した 椿油と唐辛子醤油が残り少なくなってきたので、竹芝桟橋にあるアンテナショップに行こうと学生時代の友達と集合しました。

近くに『浜離宮恩賜庭園』があり散歩しようと、竹芝桟橋から歩いていたら写真⑦の『竜馬』と名付けられた可愛い船を見つけました。
これは乗るしかない!っとチケットを購入しました。『竜馬』ではありませんでしたが、平べったい船に乗り出航しました。

竹芝→お台場→竹芝→浅草→両国の順に止まります。
*私達はぐるっと一周して戻るのかと思いましたが、一旦、竹芝に戻り隅田川を進みます。

竹芝→お台場→竹芝は続100名城の「品川台場」が海上から見えます。
幻の『第6砲台跡』も少しだけ近くに見えます。
因みに写真④⑤は、鳥の島です。写している時は『第6砲台跡』だと思ったのですが、位置的に違うかな?

この、東京水辺ラインの発着場が JRの駅の近くにあります。都内の混んだ電車で移動するより快適です。
私達は勢いで乗ってしまいましたが、夜は夜景が綺麗だと思いました。

私は東京都民ですが、スカイツリーやベイブリッジに外国人観光客と同じように、はしゃいでしまいました。
都心は電車やバスの他、船と言う移動手段があった「品川台場」攻めでした。

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甚右衛門

堂沢出城→若槻山城→番所 (2024/10/13 訪問)

蚊里田八幡宮駐車場に停めて参拝後、若槻温泉の横から攻城しました。堂沢出城→若槻山城→番所と攻めましたが、なかなかキツイ登りがところどころにあり、山城・番所背後の大堀切で急下りもあるので結構変化に富んでおり見所多し。番所から更に登り、市内から見えるNTTアンテナまで1時間半くらい。アンテナの脇から蚊里田八幡宮までひたすら下りで1時間少々。こちらも急下りがあり不覚にも左足親指が内出血になってしまいました。

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ぎりょう

宮沢遺跡(城柵・官衙遺跡)宮城県大崎市古川宮沢一本松30 (2024/10/13 訪問)

先週も仕事が忙しく、疲れて昨夜は晩酌もほどほどに、午後8時にはダウン。身体を休めればよいものを、最近始めた古代の城柵・官衙遺跡探訪6ヵ所目で、近場の宮沢遺跡に来ています。
ここは昭和49年から51年の東北自動車道建設にともなう発掘調査で発見された遺跡です。大崎平野の北端部、標高50mほどの丘陵に築かれ、東西1,400m、南北850mの規模で、東北の城柵・官衙遺跡のなかでは規模の大きい遺跡です。発掘調査では掘立柱建物跡や竪穴住居跡が確認され、土師器、須恵器、瓦などの遺物が出土しています。
玉造柵(第二期)跡や覚鱉城跡などの説もあるようですが、文献資料上どの城柵に該当するかはっきりしていません。
遺跡は高速道路によって東地区、西地区に分断されており、公園化により築地跡や土塁跡、建物跡など判りやすく表示されています。
遺跡の最高所から、南東の多賀城跡、西の名生館官衙遺跡方面、紅葉前の山々を望み、しばし古代人の思いにひたっています。
また、すぐ近隣には中世城館(藩政時代は要害)の「宮沢城」(こちらは城びと登録有り)跡もあります。訪問頂いた際にはぜひこちらにもお立ち寄りいただければと思います。
東北自動車道古川ICから9分(5.6km)
駐車場は遺跡東地区に20台ほど、西地区は2台ほどありますが、県道からの連結路は狭いためご注意を。



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チロ子

さすがです (2024/09/30 訪問)

超お城初心者ですが、これは壮観かつ圧感でした。石垣に興味があり、宝探しのように刻まれた形を見つけながら歩いたのですが、普通に見学だけでも1時間以上かかるので、ヘトヘトになってしまいました。。でも、何度も訪れても飽きないでしょう。また来たいです^ ^

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ぴーかる

品川台場 (2024/09/15 訪問)

【続百名城71城目】
<駐車場他>お台場海浜公園北口駐車場
<交通手段>ゆりかもめ

<見所>第三台場内部全体・レインボーブリッジからの眺め
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画の旅2日目10城目。小机のコインPに車を置いてJR、ゆりかもめにて来城しました。東京へは何度も来ていて、十数年前には仕事で東京ビッグサイトにゆりかもめで来たことはありましたが、その時は台場が城という認識もなく、フジテレビ本社ビルを眺めていました。
 お台場海浜公園駅で降りてまず第三台場内部を散策しました。残る陣屋跡礎石や弾薬庫、窪地から土塁砲台の高さの凄さが見応えありました。次に先達の投稿から知ってレインボープロムナードから歩いて行って、台場全体を撮影しました。風がきつかったですが眺めが良かった(東京に来ているぞ!感もあって)のでついつい長居しました。橋上から見て第六台場はジャングル島になってました。
 今、もし海上に台場が5基そのまま残っていればさぞや壮観であったろう(そりゃペリーも近づかないわな)と思います。ちょうど前日行った川越城川越藩、忍城忍藩が築造、防衛担当した繋がりもあって思い深まる要塞散策でした。
 この後スタンプ押印⇒自由の女神像⇒実物大ユニコーンガンダムを見てお台場を終了しました。増上寺、東京タワー、小机に戻りながら京急線沿いのちょこ城を巡る予定でしたが、東京タワーだけで夕方になってしまいまして全然予定巡れずに小机に戻り帰路に着きました。走行距離1160㎞無事走破。

<満足度>★★☆

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:小木江城 (2024/09/23 訪問)

佐屋駅から徒歩30弱で、富岡神社鳥居付近(35.143729、136.695537)に着きました。

古木江城は織田信長の弟、織田信興(信与)が対岸の長島一向宗に対して築いた城です。
1570年(元亀元年)に尾張・伊勢長島一向一揆衆に包囲され、6日間は耐えたものの落城し、信興は自刃しました。
この一件を機に信長の一向宗への憎悪はより強まり、門徒約2万人が焼き殺されたとされる1574年(天正2年)の長島焼き尽くしにつながったようです。

遺構はありません。城址にある富岡神社に城址碑が建てられてるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=片原一色城へ行く為、名鉄電車で佐屋駅から森上駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:大野城 (2024/09/23 訪問)

蟹江城から徒歩30分くらいで、石碑/説明板(35.129486、136.772038)に着きました。

大野城は織田信雄の家臣、佐久間信栄(正勝)により蟹江城の支城の一つとして、1584年(天正8年)に築かれた城です。
信栄は1580年(天正8年)に父である佐久間信盛とともに追放されましたが、その2年後に信盛が死去すると赦免されています。
当初は織田信忠に仕えていましたが、「本能寺の変」で信忠が討死したため、以後は織田信雄に仕えています。
1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」の前哨戦である「蟹江合戦」では城主・山口重政は羽柴方の攻撃から守り抜き、徳川家康に味方しました。
廃城時期は不明ですが、1586年1月(天正13年11月)の天正大地震で大きな損害を被っている事から、そのまま廃城にされた可能性が高いそうです。

現在城址に遺構はありませんが、日光川ウォーターパークの西側にある水田の一角に城址碑と案内板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小木江城を目指す為、永和駅から電車(JR➡名鉄)で佐屋駅に向かいます。

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