みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 天王山陣所 (2025/09/15 訪問)

設楽ヶ原の合戦で内藤修理亮昌豊が陣を張った天王山陣所には横田備中守綱松の墓所もあります。綱松は原虎胤の子で横田備中守高松の養子となって設楽ヶ原の合戦で戦いました。綱松は次男・三男・四男と共に討死にし、残った子の尹松(おそらく五男)が江戸幕府の旗本として5000石を領し、述松・由松・栄松と続き、準松の代で9500石を領しました。みんな松ですな・・

天王山陣所から南に少し移動すると設楽原歴史資料館があります。駐車場との境に馬防柵があり、周囲には土塁があります。後世のものだと思いますが、なんとなく陣地の雰囲気が有る資料館です。資料館の南側に墓所が有り、竹広の住人が戦死者の亡骸を葬った信玄塚があります。合戦では両軍合わせて1万5000もの死者が出たとされ(正確な数は不明)大塚・小塚の二つがあり、大塚が武田軍 小塚が織田・徳川軍の死者を葬っているとされます。身ぐるみはいだあとだと思いますが、合戦ともなれば田畑は荒れ、地元も結構な損害を被るわけで戦死者の鎧や刀などを売るのはやむを得ないとされていたようです。
織田・徳川軍の陣地構築に地元の住民もかり出されていたようで、裏方として勝利に貢献していたと思います。馬防柵の前には三重の土塁があったとされ、織田・徳川の鉄砲隊を保護していたようです。野戦においてこんな戦場は前代未聞でしょう、まるで第一次世界大戦の塹壕戦のようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

虎渓山永保寺 (2021/10/28 訪問)

虎渓山永保寺は岐阜県多治見市虎渓山町にある寺院です。南禅寺塔頭の正的院の末寺とされますが独自の存在感を放ってます。
京都でなくここにあるのが良いんですね。オーバーツーリズム無いし。
正和3年(1314)に夢窓疎石によって水月場(国宝観音堂)が建てられ、庭園も夢窓疎石によるもので国の名勝に指定されています。秋の紅葉が素晴らしく、モミジも良いですが開山仏徳禅師お手植えとされるイチョウは実に見事です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

TMN97

新発田城 (2025/09/22 訪問)

新発田城

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

TMN97

村上城址 (2025/09/22 訪問)

村上城址。
熊出没により登城を断念。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シャンシャン

夕暮れの品川台場 (2025/09/18 訪問)

お台場にある砲台跡。
第三台場はしっかり整備されており、石垣や建物の礎石も残っていて見どころが多い。
レインボーブリッジから見下ろすと、台場の全景が見えて絶景!
背景にはフジテレビや高層ビルがあり、江戸時代と現代の対比が面白い。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シャンシャン

江戸城の外堀 (2025/09/18 訪問)

虎ノ門駅周辺にある江戸城外堀の石垣を見学。
11番出口にある江戸城外堀跡地下展示室には展示説明もあり、地下から石垣を見上げることができて面白い。
すぐ近くにある旧文部省庁舎の中庭にも石垣がひっそりと保存されており、高層ビルの狭間に江戸の面影があり興味深い。
都会のど真ん中にこういった城跡が保存されているのはありがたい。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

尼子十旗 (2025/06/30 訪問)

尼子十旗の一つ神西城は神西氏の居城です。主郭からの眺めが良く、立派な石碑が立っています。主郭から先は虎ロープが張ってあり、そこから先は訪問していません。途中矢竹がいっぱい植わっていて、それはそれで良いのだけど郭が良く見えないのは少し残念。
戦国時代の神西元通は永禄12年(1569)の尼子勝久を擁しての尼子再興軍に参加するため、毛利氏の目付の中原就久を末石城にて殺害しました。天正6年(1578)の上月城落城時には尼子勝久ら一族の者と共に自害したとされています。
これも忠臣の最期の一つだと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 天王山陣所・武田勝頼公指揮の地 (2025/09/15 訪問)

設楽原歴史資料館のある場所は周囲より高い丘地になっていて、なかなかの広さがあります。このあたりからなら合戦が良く見えますね。
丘地の西側の麓に甘利郷左衛門信康の碑があります。信康は武田二十四将の甘利信忠の弟で、兄の死後は甘利家の名代を務めていたとされています。江戸時代に書かれた「甲斐国志」には長篠(設楽ヶ原)の戦いで戦死したと書かれ「甲陽軍鑑」にも山県隊に「あまり衆」が属していたと記載が有るようです。地元の伝承によれば左翼の柳田前激戦地を担当し、旗色が悪くなり退却戦に至ると敵の防御陣地構築に協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したそうです。
「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈では、山県らと共に左翼(南側)に陣し徳川軍に対したとされ、勝楽寺前から竹広表まで奮戦し中央の隊とも力を合わせ第三の柵まで破る勢いであったが、山県・原が討死するとじりじりと押されダンドウ屋敷付近で立ったまま無念の切腹をしたとされています。
左翼に位置していたのであれば「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈の方がすっきりします。切腹の際も、こちらは地元の住民を恨んででは無く、敵の作った堀と柵が無かったら家康の本陣も崩すことが出来ただろうに・・という解釈になっています。

天神山陣所は内藤修理亮昌豊が陣を張った場所とされ、昌豊の墓もあります。武田勝頼が戦中にここへ陣を移して昌豊とともに指揮を取ったともされ「武田勝頼公指揮の地」の石碑もあります。
東郷中こども園の北側の広場にあり、子供たちの遊び場になっていますが、北側の林に入ると陣地らしい扁平地が広がっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

ぎゃふん (2025/01/06 訪問)

なんと・・イオ殿のカメラの破損は4か月前のことでござったか。ぐぬぬ・・こんなときは  ぎゃふん!

ぎゃふんって・・ いつの時代でござるか! そもそも私生活でそんな言葉使う奴はおらぬでござる。びっくりして忍者言葉になっているでござる。ニンニン
稲積城は那珂川の北に位置する河岸段丘の上に築かれていて、稲積神社の周辺に土塁や空堀が残されているでござる。田んぼや畑になっている場所も多いでござる。天仁2年、那須氏二代・須藤資道によって築かれたとされているでござるが、真偽は不明でござる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

+ 続きを読む

飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会開催!

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

+ 続きを読む

トク

【宮本武蔵】(10)富来城(九州の関ケ原(後編)) (2025/07/11 訪問)

宮本武蔵の続き(10)です。

たけぞう(武蔵)が九州の関ケ原で戦った痕跡を探しに、富来城を訪れました。

父の無二斎とともに黒田官兵衛がいる中津へ行き、この頃18才のたけぞう(武蔵)は、東軍の黒田兵として出陣します。1600年9月13日に別府の石垣原(いしがきばる)にて、黒田官兵衛は細川家老(杵築城主)松井康之とともに、西軍の大友義統(宗麟の子)の軍勢を破り勝利します(写真⑧⑨⑩)。そしてその翌日から、西軍の残党が残る富来城を10日間にわたり攻撃します。そこには、たけぞう(武蔵)がいたという記述が残っていました(写真⑤⑥)。

富来城は1261年頃に富来氏によって国東半島(くにさきはんとう)の東端に築かれた城です(写真①②③)。今では本丸の一部がわずかに残るだけですが、当時は河口に向かって二ノ丸・三ノ丸とあり、川を天然の堀とし、水運を利用したかなり大きな城だったようです(写真④)。

代々富来氏は大友氏に仕えていましたが、1593年に豊臣秀吉が大友義統を改易すると富来氏も離散し、垣見家純が秀吉から2万石を与えられて富来城に入ります。そして家純が岐阜の関ケ原へ行っている留守中に、官兵衛は富来城を包囲し攻めました。わずか500名で守るこの城を、9000名の黒田軍が10日かかっても落とせなかったので、かなり当時は強固な城だったと思われます。しかし、主君の家純が大垣城で討死したと知らせが入ると、家臣たちは開城し降伏したそうです。

この時の戦いで、塀を乗り越えようとしたたけぞう(武蔵)は、敵から竹槍で刺され足を負傷したと伝わっています。お城にあった説明板に、ここで負傷した事が書かれていました。どうやらたけぞうが負傷した直後に降伏し開城されたようです。でもこの記述以外に、具体的な証拠は何も見つかりませんでした(すいません)(写真④⑤⑥)。

おそらく相当ショックだったのではないでしょうか? 兵法者にもかかわらず剣を抜く前にけがをした自分が情けなかったのではないでしょうか? 「自分はまだ弱い、もっと強くなりたい!」と悟ったたけぞう(武蔵)は、傷が治ると故郷美作の宮本村へ戻ります。しかしそこでは宇喜多の残党で刀を捨てない者、かつ池田氏へも従わない者への刀狩りが行われており、武蔵は間違って村人に通報され、山中に隠れます。そこで隙を見て、平田家の家財一切を姉(無二の実子)に処分するよう託し、もう宮本村には戻れないと悟り、諸国流浪の剣術を極める旅へ出る事にしました。この頃からたけぞう改め、「宮本武蔵」と名乗るようになったようです。各地で道場破りを行い、「60余回決闘して一度も敗れなかった」と自ら語った事が小倉碑文には書かれています。特に京都で足利将軍家剣術指南役を務めた名門、「吉岡一門と対決した」とも書かれており、これは有名ですよね。

次はその、吉岡一門との決闘場所(京都一乗寺)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん?松山城(三之丸) (2025/05/18 訪問)

(続き)

翌朝、まだ暗いうちから起き出して朝食前に三之丸へ。この日の撮影はスマホだけが頼りです。三之丸は堀之内とも呼ばれるように四方を外堀(二之丸石垣の麓は内堀)で囲まれ、北御門と東御門が設けられていました。江戸中期には藩主御殿が二之丸から移され、藩政の中心となったほか、重臣の屋敷も建てられましたが、明治には陸軍の管轄となり、現在は城山公園(堀之内地区)として整備されています。

まず東御門を起点に外堀をたどってみましょう。東御門は失われているものの、櫓台と石垣は一部遺されています。外堀南東隅から振り返ると、外堀越しに天守群と本丸の櫓群が見えます。麓から天守を仰ぎ見ることができる城下町っていいなぁ。「松山や秋より高き天主閣」正岡子規の句が思い出されます(初夏ですが)。白鳥が泳ぐ外堀を眺めつつ南辺から南西隅で折れて西辺をたどり北西隅へ。北西隅には札の辻があったようで石碑が立てられていました。北辺の外堀は北御門跡までで、その先は埋め立てられています。

北御門跡から三之丸に入り、今度は土塁の上を歩きます。土塁上から見下ろすと外堀の水面までなかなかの高さ(約5m)があります。市民の格好の散歩道なのか、午前6時前後ながら土塁上で幾人もの人とすれ違いました。さすがは松山城。そして土塁上をたどって東御門に戻りました。

城山公園(堀之内地区)の北半分は令和9年完成予定で整備工事中でしたが、案内看板によれば、北御門の立体・平面表示や北御門東側の土塁の立体表示、武家屋敷の間取りの平面表示など、発掘調査の成果に基づきかつての姿を感じられるように整備されるようなので、完成後にぜひまた訪れたいものです。

…ということで、見事な高石垣といい、見応えある天守群といい、カメラ破損の傷心を癒してくれた登り石垣といい、さすが日本三大平山城に数えられるに相応しい素晴らしい名城でした。搦手側にも二之丸にも行けませんでしたし(ついでに100名城スタンプも押し忘れ)、整備後の三之丸も見てみたいので再訪はもちろんですが、次回は「?」の付かない「とことん松山城」でめぐってみたいものです。


> しんちゃんさん

カメラ破損のお見舞いありがとうございます。…といっても4か月遅れの投稿なので、いつぞやのカメラ派?スマホ派?の頃の話なんですけどね。保証期間はとうに過ぎていましたが、修理対応期間内だったためレンズ部分を交換して復活し、今も元気に活躍してくれています。それにしても、カメラを破損した時は城めぐりを続ける気力を失うほどに凹みましたが、登り石垣ひとつで気力を回復させるあたり、それ相応には城キチなんでしょうなぁ(笑)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

東別院と下茶屋公園 (2025/08/08 訪問)

この日の仕事を終え、時間があったので訪問しました。
地下鉄名城線の東別院駅から徒歩5分、東本願寺名古屋別院周辺が城跡です。
この日は境内でイベントが開催されており、多くの人で賑わっていました。
人混みをかき分けて辿り着いた石碑と説明板が立つ場所へ。
境内の端にあるので人も無く写真も撮影できました。

周囲を歩き、隣接する下茶屋公園へ。
ここには堀跡を利用した池や皆さんのレポートにもある名古屋城関連の石があります。

織田信秀が信長に那古屋城を譲りこの城に移りました。
信長が元服した城でもあります。
信秀はその後末森城を築き移ったため14年で廃城になりました。

【見どころ】
 ・名古屋別院の立派な本堂
 ・堀跡を利用した下茶屋公園の池
 ・名古屋城に関連する石垣の石

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

北海道&東日本パス第2弾 仙台市博物館から本丸へ (2025/09/20 訪問)

仙台市博物館で十分満足してはいましたが、せっかくここまで来て本丸をスルーするわけにはいきません。見聞館の展示もしっかり拝見させていただきました。今回も二の丸や堀切跡などへは足をのばしていないので、またの機会にはもう少し広範囲に攻めてみたいと思います。仙台駅へは徒歩で向かいましたが、幸い雨に降られることはありませんでした。泊をとった盛岡ではかなりの雨が降っていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の合戦 丸山砦。 (2025/09/15 訪問)

所かわって設楽ヶ原の決戦場に移動しました。決戦場の北端近くに丸山と言う小山があり、この周辺が大宮前激戦地と呼ばれています。はじめは織田軍の佐久間信盛が陣を敷き、武田軍の馬場美濃守がこれを奪い占拠したとされています。
砦と言うには、本当に小さな小山ですが頂部には陣地の石碑がたっています。

この周辺で多くの上州武者が討死したとされ、後世の堰堤の工事中に彼らの携行していた物と見られる「矢立硯」が連吾川の近くで発見されました。矢を入れておく箙(えびら)や鎧の引き合いに入れて携行し、陣中で武士たちの戦功を記録するのに使ったようです。

そこから北上して行くと名高前激戦地の「かるた」の読み札がたっています。「かるた」かぁ・・いや考えるのはよそう(ドドドドンキ♪)なるようになりますさ。
ここでも馬場美濃守信房・土屋昌次らと織田軍左翼の水野信元・佐久間信盛。丹羽長秀らが激しく戦っているようです。このメンツがぶつかった姿を考えるとヨダレが出ますな。そそりますな!
さらに北上すると馬防柵左端にたどり着きます。馬防柵終点・・

長篠・設楽ヶ原の合戦場の周辺は史跡の宝庫です。昔に一通り散策しましたけど結構なボリュームでしたよ。しばらく通いましたね。地の利っていいですな~♪


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

医王寺山勝頼本陣 (2025/09/15 訪問)

武田勝頼本陣の麓の医王寺は永正11年(1514)に寺院として成立しました。三河の高僧・克補契嶽(こくほかいぎょく)に開山を依頼しましたが、初めにこの地に菴を構えたのは琴室契音とされています。創建は戦国時代になるので、ひょっとしたら医王寺は長篠城の詰城か支城の役割も考えられていたのかもしれません。
勝頼の三河侵攻の理由として「信長が本願寺を攻めたので、本願寺の後援をすること」が目的だったとする説がある。言い換えれば、火事場ドロ的なアレで鬼の居ぬ間に三河侵攻の拠点を確保したかったようにも見える。
でも信長からすると「カモがネギしょってきやがったぜ」状態だ。織田・徳川連合軍が来てからの勝頼は完全にダボハゼ状態で、あの武田軍の猛将たちを次々と無駄死にさせてしまっている。もったいないなあ・・もしあと7千人の増援が見込めたら、家康の首くらい取れただろうか? 妄想が止まらなくなるので、これくらいにしておこう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

円郭式の田中城 丸馬出がシンボルだが・・・ (2025/08/14 訪問)

お盆休みに立ち寄った静岡県藤枝市の田中城。

志太平野北部、瀬戸川などが流れる湿地帯の微高地に円郭式の縄張で築かれた城。
北側には東海道が走る要衝の地。

15世紀頃に今川氏の命で土豪の一色氏が屋敷を拡張した徳一色城が始まりとされ、1570年には武田氏が攻略し、馬場信春が改修して田中城に改名。
長篠の戦いで武田の勢力が弱まると、徳川が攻撃を繰り返し1582年についに開城。
17世紀初めに酒井忠利が四之丸を増設し、正門を平島口から大手口に変更。江戸前期は城主が度々変わったが、江戸中期からは本多正信の弟正重系の本多氏が務めたとのこと。

現在、本丸には小学校が建ち城域の大部分は宅地化・農地化されているが、その区画には円形城郭の痕跡が見られ、所々に堀や土塁が点在。
また下屋敷(別荘)跡に本丸櫓や厩などが移築され史跡公園化されている。

実際に訪れると、やはり遺構は少なく、6つを擁したシンボルの丸馬出も新宿二之門前の三日月堀が半分残るだけという点が少々残念。
一方、三之丸に稜堡のような突出部が存在したことを知れたのは収穫で、質素ながら二重櫓が現存する点も貴重なこと。
また旭傳院の山門は予想外に小さく、城内にあった屋敷の門と考えられている模様。

丸馬出が1か所だけでも完全復元できると更に城跡らしくなりそうに感じた、私の城郭巡りの210城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

左大弁

広いです (2025/09/21 訪問)

秋田駅からバスで約20分。
資料館で1時間、城内を一通りまわって30分の計1時半というところです。
特に城内は広いので、歩き回るだけでも大変ですが、水洗トイレ跡は現代でも通用しそうでした。

+ 続きを読む

しんちゃん

お城稲荷四兄弟 (2025/01/06 訪問)

瓜連城は延元元年(1336)南北朝の争乱の時代に楠木正成の一族・楠木正家によって築かれたとされてます。周囲を土塁や堀が巡っていることを考えると戦国時代にも使われていたのでは。
瓜連城の鬼門の位置に源太郎稲荷があり、案内板によると長男の源太郎狐は本家のこの里を守り、甚二郎狐は野、紋三郎狐は山、四郎介狐は海を守ることになったそうな。四匹の狐はそれぞれの地で敬われ、土地の守り神となったそうな。
こうして源太郎狐は瓜連城・甚二郎狐は米崎城(那珂市)・紋三郎狐は笠間城・四郎介狐は湊城(ひたちなか市)と、それぞれ郷土の稲荷神社に祀られているそうな。
ほんまかいな そーかいな。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ40