武田五砦は、長篠の戦いにおいて長篠城包囲のために宇連川南岸に築かれた武田軍の五つの砦の総称で、鳶ヶ巣山砦を中心に久間山砦、中山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ臥床砦に約3千の兵が布陣しました。鳶ヶ巣山砦には武田(河窪)信実が主将として入り長篠城に睨みを利かせましたが、酒井忠次・金森長近ら織田・徳川連合軍別動隊の奇襲を受けて五砦ともに陥落しました。
集落の自主防災会の倉庫脇が麓からの登城口(案内図あり)ですが、「車で行けます!」との案内表示に従って林道を車で上って行き、ベンチが設置された駐車スペースから登城開始。林道からの登城口を入ったところに金刀比羅神社があり、そこから登城道の右手に曲輪と思しき削平地が続いています。登城道左手には竪堀(?)が落ちていました。削平地の突端が主郭と考えられ、戦没将士の墓碑が建ち、鳶ヶ巣の戦いの説明板の背後には土塁と堀切(らしき地形)が見られました。
主郭から北西方向に下って行くと、尾根沿いに曲輪が展開し、鳶ヶ巣山砦ののぼり旗がひるがえっています。北西尾根の曲輪には階段状に多くの腰曲輪が設けられ多くの兵を収容できそうです。また北西尾根の曲輪からは眼下に長篠城を見下ろし、右手に大通寺山陣地、奥には医王寺山本陣を見渡し、今朝から歩き回った長篠城と武田軍陣地が一望の下です。そして墓地になっている北西尾根突端の曲輪で鳶ヶ巣山砦をひとめぐり。ここからあと少し下りれば麓からの登城口に至るはずですが、車を上に駐めたままなので、来た道をまた上って引き返しました。隅々まで見て回るつもりなら、麓から歩いて往復したほうが早いように思います。
ところで、武田五砦への奇襲戦では、酒井忠次率いる徳川軍2千と織田信長から金森長近に預けられた鉄砲隊5百を含む織田軍2千(徳川軍3千、織田軍5千とも)により別動隊が編成されたとされますが、長近は忠次と同等以上の兵を率いながらその役割は「検使」にとどまり、奇襲戦の功績はほとんど忠次独りのものとして語られています。しかしながら、長篠の戦いの後に長近は信長の名から一字拝領して「可近」を「長近」に改めていることからも忠次に劣らぬ戦功があっただろうことは疑いありません。思うに、後の徳川の天下においては、徳川四天王筆頭の忠次と外様の一大名に過ぎない長近の戦功を同等に扱うわけにはいかないでしょうし、三方ヶ原の戦いで武田軍に完敗した徳川軍としては、長篠の戦いで武田軍を打ち破ったのが織田軍であっては格好がつかない、けれど設楽原での大勝が織田軍の鉄砲隊によるものであることが動せないのなら、せめて武田五砦への奇襲戦は徳川軍の手柄でなければ…というような意識が働いたのかな、とも。さらに、長近という人物はそういう意識を踏まえた上で自らの戦功をひけらかすタイプではないようにも思いますので、後世には忠次の功績のみが語られるようになった、と。…勝手な妄想ですが(笑)
さて、せっかくの機会なので鳶ヶ巣山砦だけでなく、ほかの四砦もめぐってみるとしましょう(続く)。
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