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小城小次郎

山岳寺院の色彩を持つお城 (2024/04/28 訪問)

交通の要衝にあって長尾景虎の攻城戦など数々の戦乱に巻き込まれたお城だが発掘の成果は日常的な営みを示唆している。縄張を見る限りは山岳寺院からの転用とも考えられそう。ある時点で山を下りた吉傳寺の存続時期が鍵か。

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you

葛葉城 大阪府和泉市 (2025/01/26 訪問)

恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉


JR北信太駅の南西、信太森葛葉稲荷神社の敷地内に
土塁と思しき遺構が確認できます。

興味をそそられたのは、写真にもあります葛葉伝説。
“うらみ”は葛の別名「裏見草」によるもの、
葛は葉の裏側のほうが白く輝いて見映えがいい珍しいつくりになっているそう。
個人的には「裏見」と「憾み」がかかっているのではないかと思います。

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ぎりょう

古代の豪族道嶋一族の本拠地 赤井官衙遺跡 (2025/01/19 訪問)

 冬型の天候も緩んだ1月19日、宮城県東松島市教育委員会の文化財講演会「道嶋氏の台頭と陸奥国」を聴きに出かけました。道嶋氏は約1300年前の古代陸奥国に栄えた一族です。講師は多賀城跡調査研究所所長吉野武さん。道嶋氏が本拠地とした赤井官衙遺跡(発掘調査により牡鹿柵と考えられている)の概要も含めて詳細なお話を聴くことができました。また同市の奥松島縄文村歴史資料館では2月24日まで「牡鹿柵造営 だいたい 1300年企画展」を開催中です。講演会参加前に訪問し、発掘された材木塀跡(柵跡)などを観て、その後は赤井官衙遺跡を訪問しました。私が昨年夏から始めた古代城柵・官衙遺跡探訪の8カ所目となります。
 遺跡の規模は東西1.7km、南北1kmと古代城柵・官衙では大きい方でしょう。海岸線より約5km離れた標高は2mの浜堤上に築かれています。西側には蛇行する河川跡が、四方で材木塀跡・大溝跡など外郭施設が発見されています。周辺は田畑や民家となっていますが、遺跡のほぼ中央部が公園化され説明板が設置されています。ここは令和3(2021)年に「赤井官衙遺跡群」として国指定史跡になっています。

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T-Shionoya

街中に残る土の末森城 (2024/12/15 訪問)

昨年12月中旬に訪れた愛知県名古屋市の末森城。

那古野城や古渡城から東へ約5km、比高20mほどの尾張丘陵の縁に築かれた城。

1548年に織田信秀(信長の父)が築城し、古渡城から移転。北の守山城と共に尾張の防衛ラインを担ったとのこと。
間もなくして信秀が亡くなると、信長の弟信行が引き継ぐが、1558年に信行が亡くなると共に廃城。
しかし末森村古城図に丸馬出が描かれているため、小牧長久手の戦いの際に織田信雄方が改修したと推測されています。

現在はほぼ全域が城山八幡宮の敷地となり、二ノ丸跡には近代建築の昭和塾堂、本丸跡は駐車場、本丸北側の曲輪には本殿が建つ。

訪問して最も印象深かったのは、丘陵の中腹部に築かれた本丸南から東に掛けての空堀だが、本殿西側の土橋を構成する空堀も巨大。更に金網に遮られるが、本殿が建つ曲輪の周りの空堀も確認可能。
本丸跡の稲荷社部分は西へ小さく膨らんでおり、二ノ丸と本丸を繋いだ通路に横矢を掛けているでしょうか。
そして神門付近で丸馬出の位置を想像するなどしていると、滞在時間は約2時間。

城としての整備状況はやや粗いものの、逆に土の遺構の武骨さを感じた、私の城郭巡りの191城目でした。

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ろっし

お城探訪 (2025/01/26 訪問)

石がゴロゴロしてるから、足元の注意は必要だが比較的登りやすい城跡。

石垣跡、大堀切、連続の堀など見れます。

帰りは害獣避けの柵をしっかり閉めてかえりましょう。

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いんげん丸虫

大栗須城 三重県熊野市 (2024/12/31 訪問)

大栗須城 (おおぐるす)
標高210mの山城です。山頂に曲輪が
2つ、堀切が2本とコンパクトな縄張り
ですが、堀切の側面には石積があり
風格を感じます。
地元の林業関係の方しか来ないような
所にひっそりと遺構があります。
決まった道はなく、尾根の先端から
必死に直登しました。
藪漕ぎはありません。

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しんちゃん

下世話で申し訳 (2013/12/14 訪問)

またちょっと古い写真で申し訳ない。天守がリニューアルしたというので是非再訪したいと思っていますが、今年はまとまった休みが取れそうもないので訪問は正月以降になりそうです。天守以外にも見所が多い城なので楽しみにしています。
城主が宇喜多秀家→小早川秀秋→池田氏と変わっているのも非常に興味深いですね。そういえば小早川秀秋と言えば男色家の側面があって、けっこうエグいエピソードが残っているようですが、美丈夫で有名な秀家にことをどう見ていたのかな? 小早川家と言えばもとは大老格なので顔を合わせる機会も多かっただろうし。じつは真面目に興味があります(ポカッ!)。ちなみに私にそっちの趣味はありませんぞ。
慶長4年(1599)に家康追及の動きが有った際に諸大名の動向は割れ、伏見の家康邸と大阪の前田邸に諸大名が集結しましたが、秀秋の動向は分かりません。「関ヶ原軍記大成」には小早川秀包が前田邸に終結したとありますが秀秋の名前はどちらにも無いですね。

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しんちゃん

美しい水城 (2014/01/06 訪問)

今治城は慶長7年(1602)から9年(1604)にかけて藤堂高虎によって築かれました。石垣と堀は当時の姿をほぼ残しているようです。本来の天守は層塔型の美しい建物だったのですが、現在の再建された模擬天守はすいぶん形状が異なるようです。だいぶ昔ですが、私が訪問した時はただのエレベータ付き展望台として機能していたと思います。今はどうなのでしょうか?

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しんちゃん

尾根一帯に曲輪 (2018/01/06 訪問)

河後森城の投稿です。風呂ヶ谷を囲うように尾根一帯に城域が広がっており、遊歩道を歩いていけば各曲輪を見て回れます。南東の新城だけ独立しているようですが、かつては尾根沿いに繋がっていたのではないでしょうか。堀切にかかる門の先に西第十曲輪があって、そこから尾根沿いに曲輪が連なり、本郭・東第三曲輪・古城と見て回れます。

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城域2 (2025/01/18 訪問)

 奥の院のある本丸跡から比叡山方面へ向かうと城域2を散策することができます。4カ所に城域は分かれて存在しています。それぞれ曲輪が残っていて楽しむことができますが、倒木などもあり歩きにくい所もありました。白鳥山頂が主要な曲輪で、北白川城出丸(北城)の説明板があります。

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城域1 (2025/01/18 訪問)

 狸谷山不動院より登城しました。駐車場から250段の階段を上がり、清水寺の清水の舞台と同じ懸崖造りの本堂を横目に進んで行くと登城口に行くことができます。熊出没注意の看板があり、京都市内でも熊が出るのかと熊鈴を装着して登城路を登って行くと15分くらいで本丸といわれている奥の院に着きました。
 京都府教育委員会文化財保護課のHPより縄張り図は参考に散策しました。ぴーかるさんが登城時参考にされた「京都府中世城館跡調査報告書」の図と同じものと思います。1~4までの曲輪群がありますが、城域はかなり広いので今回は城域1と2を散策しました。狸谷山不動院より登城すると奥の院のある瓜生山山頂には容易に行けます。説明板があり北白川城本丸跡の記載がありました。周辺および尾根に曲輪が展開しています。京都一周トレイルのコースになっている周辺から外れて尾根の曲輪を散策すると倒木なども多く歩きにくい場所もありますが、それなりに進むことはできます。曲輪、空堀、土塁などが残っていました。

 自分なりに各尾根の曲輪も散策したつもりでしたが、ぴーかるさんの投稿を見直してみるとかなり見落とした場所もあるような気がします。機会があれば、他の城域も含め散策したいですね。

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しんちゃん

でかい土塁 (2014/10/06 訪問)

今日は26日なので、すこし26(ふる)い写真を・・。今年のGWとお盆は最大4連休取れれば御の字です。遠出はしばらく難しそうです。
特別史跡・水城ですが天智2年(683)白村江での戦いで敗れた後、唐・新羅の日本への信攻に備えて大野城や基肄城と同時期に築かれました。全長1.2km、幅77m、高さ9mのでかい土塁で吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれています。当時の日本にこれだけの城柵や山城を築く能力があったことに驚かされます。

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しんちゃん

ももももも・・ (2025/01/25 訪問)

某ゲームアプリで石高が少なくなってきたので、尾張周辺を散策して来たのですが武将がゴロゴロ落ちていて逆に大赤字です。現在待機武将が26人です、10万石や7万石クラスがゴロゴロ余ってます。ヤバイな~・・
しかし、犬山城はいつ来てもいいですね。桃の瓦は全部で8個あるみたいです。4つくらい見つけたかな・・現存天守はやっぱりいいですよ。

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しんちゃん

遺構は良く残っている。 (2024/09/18 訪問)

いんげん丸虫さんの投稿にもありますが、確かにこの城址には複数の呼び名が付いているようです・・宇津野城、鳩が森城など。
鳩ヶ城は寛治2年(1089)山本家隆によって築かれたとされています。山本氏は後三年の役の際に源義家に従って軍功をたて、現在の塩原町から矢板市にかけての箒川筋八ヶ村・伊佐野郷十五ヶ村を領有していました。
城址は箒川の西の丘陵に築かれ、主郭の周囲には土塁や堀が良く残っています。南側にも郭がありますが、比較的小振りな城址だと思います。土塁は良く残っているほうですが、草ぼうぼうで少しわかりづらい。まあ土ですからね・・草も生えますね。wwWWww

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しんちゃん

権現 (2024/09/18 訪問)

矢板城は平安時代末期に塩谷氏の重臣・矢板重郎盛兼によって築かれたとされます。江戸時代には廃城になっていたものの、「たたり山」と呼ばれ遺構がそのまま残っていたようですが、明治以降に開発でじわじわ削られ今ではほとんど残っていないようです。

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奥平信昌 (2025/01/23 訪問)

 1600年関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が娘婿奥平信昌を加納藩主10万石に据え、加納城築城を命じました。当時の目的は西国大名への抑えでした。岐阜城の石や建物を移したとされ、東北隅櫓は岐阜城の天守を移したと伝わっています。二の丸にあたる岐阜地方気象台に石垣が残っていました。それ以前にも城はあり文永2年(1445年)、守護代斎藤利永によって築かれたのが最初のようです。城主は斎藤妙椿、妙椿養子の妙純と続きます。斎藤妙純の失脚により一度城はその機能を失いました。発掘により本丸周囲は障子掘であった可能性が高いようです。
 本丸の形状が四角形ではなく凸型になっていて、これは出枡形を本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴のようで加納城がその初現ということで「加納城型」ともいわれています。本丸周辺は石垣がよく残っています。
 
 今までは夏にしか来たことがなく石垣も草に隠されたところがあり、一度冬に登城したいと思っていました。岐阜市に所用があり、JR岐阜駅からも徒歩約15分で登城できるので、空き時間を利用してぶらりと行って来ました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【清沢の石切場跡】
<登城路>大山祇神社から比叡山に到る旧道を進みます。城域1の南側の谷に3股に分かれる分岐があります。そこを直進すると着きます。ちなみにその分岐の右手の沢を登っていくと城域2に到ります。

<感想>登城時には石切り場跡とは知らずに城域1の東ゾーンを散策中、上から谷に堡塁が見えて、切岸を頑張って降りて見ると谷一帯に石垣群が広がっていました。こんなすごい遺構が何で誰も取り上げていないのだろうと、帰宅後インターネットで調べた限りですが、「城中心のお出かけ記」さんに同じような事が書かれていました。そこでは清沢の石切場というらしく、検索すると「瓜生山歩人」さんに石切場の事がアップされていました。そこには昭和15年の地図に石切場の記号が書かれていました。
 谷は主郭の手前で2手に分かれて、右手に行くと上部の大空堀の南端とぶつかります。左手に行くと両サイドから城門みたいな岩壁で間口を狭くして、中がホール状の行き止まりになります。ここは岩場の感じは全くないです。また南ゾーンの尾根先が2股に分かれた間の谷に見事な曲輪の石垣が残されています。谷底の通路壁の石垣や谷の土留めの石垣、虎口や堡塁にも石垣が残り私にはどう見ても城跡の一部だったように見えました。(まだ納得いっていない)当時はどんな感じだったろうと想像すると、大空堀の南端はぷっつり切れて崖になっているので削り取られた感があります。尾根の曲輪群は輪郭がきちんと残っているので改変されていない、谷のすぐ上部が主郭主要部になることから当時もこの谷に何らかの防御の施設があったはず、と考えたい。想像と浪漫をかきたてられる場所でした。

<軽いまとめ>曲輪群の多さに日を分けて攻城し、投稿をまとめるのに数日かかって、もはや我が城のように愛着がわきました。将軍山城はそこを占拠した者が都度改修したり、曲輪群を造成したり、出ていく時には城を焼いたりして手を加えてはいますが、その分曲輪群が多い凄い大城郭となった。私が見た感想ですが、やはり南方向の麓の北白川から谷を登って攻めてくる敵を強く意識した造りになっていると感じました。戦国時代は最後に比叡山に陣取った浅井・朝倉軍を京への侵攻を押さえるために明智光秀が軍を詰めています。それにしては比叡山からの進入口にあたる城域2の北東方向の守りは薄いように感じました。私自身は光秀はあまり手を加えていないように思いました。山から京都市街が一望でき、足利義晴・義藤父子が見えているのに入京(御所に入れない)できない悔しい思いの方が強く印象に残りました。(もしかしたら籠城とはいっても慈照寺に常駐してたかも)
 
 読んで下さった方、長々とお付き合いいただきありがとうございました。拙い文章であまり良く伝わらなかったとは思いますが、とにかく凄い城跡だった事は確かです。また城びとで全ての遺構を巡れたのは私が初めてであろう、ちょっと自慢で満足しています。忘れられない城跡となりました。

<満足度>◆◆◆

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いんげん丸虫

見処一杯 (2024/12/31 訪問)

整備された見学しやすい城跡ということ
で、公園化されてるのかと思い、あまり
期待しなかったのですが、遺構満載の
素晴らしい城跡でした。
石積み、虎口、堀切、横堀、畝状竪堀群
などなど、、未訪の方は是非どうぞ。

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南曲輪群(南城) (2025/01/25 訪問)


 現地の縄張り図では二の丸と表記されていました。ただ二の丸というにはかなり離れています。明智光秀がこの城を攻めいたときに築いた相城という説もあります。北側に見事な堀切があり、城内には石垣も少し残っていました。倒木がありますが、散策には概ね支障はありません。

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北曲輪群(北城) (2025/01/25 訪問)

 鞍馬街道と敦賀街道とを押さえる要衝の地にある城で城谷山の山頂部にある北曲輪群(北城)と東部尾根部分(シロヤマ)にある南曲輪群(南城)に分かれています。文明年間に山本佐渡守尚親が築いたとも、明応年間に山本対馬守資幹が築いたともいわれていますが、詳細は不明です。
 北曲輪群(北城)は現地の縄張り図では本丸と表記されていました。
主郭周辺より3方の尾根に曲輪が展開しています。北西の曲輪に浅くなった堀切がありました。石垣が残っていると書かれた本もありましたが、よくわかりません。

 静原神社付近より北曲輪群へ登城するルートもありますが、自分は静原小学校跡より南曲輪群へ向かいました。右参道静原山の石碑より歩いて行くと城跡の標識があり、それに従って山へ向かいました。すぐに道がわからなくなり右往左往しながら麓に辿り着きました。登城口がわからず仕方なく直登始めると、すぐに京都洛北ライオンズクラブと左京消防団静原分団設置の標柱を見つけ見上げると木にピンクリボンを見つけました。標柱は山岳ルートへの救助用標識だと思います。そこにはそれなりの踏み跡があり、ほっとして、その道(踏み跡ですが)を登りました。ところが途中でピンクリボンを見失い、また直登。しかし少し登って見上げると石垣があり、何とか城域に辿り着きました。南曲輪群から北曲輪群へはなだらか坂で倒木はありましたが、ストレスは少なかったです。帰りは静原神社側へ下山しましたが、こちらは急坂でトラロープたよりに降りて行きました。登城口さえわかれば南曲輪経由で登城した方が負担は少ないと思います。

 地下鉄国際会館駅より静原までバスがありますが、本数が少ないので注意が必要です。

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