直江家の城なのでどうしても兼続愛に溢れたお城・・という先入観にやられてしまうが実城の先には曲輪・堀切・曲輪・堀切の山城パラダイスが展開し、いい意味で裏切られる。本与板城から与板城に移った時期は実は謎なのだそうだ。
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2025/01/27 19:34
兼続推しのイメージはいい意味で裏切られる (2024/04/28 訪問)
直江家の城なのでどうしても兼続愛に溢れたお城・・という先入観にやられてしまうが実城の先には曲輪・堀切・曲輪・堀切の山城パラダイスが展開し、いい意味で裏切られる。本与板城から与板城に移った時期は実は謎なのだそうだ。
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2025/01/27 19:22
2025/01/27 18:41
踊場駅1番出口が最寄り🚉 (2024/12/24 訪問)
高校生の通学時間とかち合いました。この日は,どうも終業式っぽい雰囲気が漂っていましたが,学生の列はそれほど待たずに途切れました。
踊場駅からアクセスしましたので,にのまるさんの投稿にあった「ねこの踊り場」のパネルを発見📷。
住宅街ということもあり,早々に退却しました。
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2025/01/27 08:43
登城案内 (2024/11/09 訪問)
ちゃんと下調べしていれば、普通は私のような間違い方はしないと思いますが、それでも登城口は結構わかりにくいので、簡単ながら登城案内を。
日吉神社の麓にある鳥居の手前を南に進み、金網フェンス沿いに細道を奥へ(写真①)。
小川に架かる小さな橋を渡って笹藪に突入します(写真②)。11月でもわりと茂っていたので夏場はもっと激しい状態かもしれませんが、笹藪は長くは続かないので、覚悟を決めてGo!
整備された登城道を進むと防獣柵のゲートがあるので開閉して(写真③)、谷を右手に見ながらさらに登って行きます。やがてガリバー堰堤と呼ばれるガリバー旅行記の絵(だと思います)が描かれた砂防ダムが右手に見えてくるはずです。
あとは案内表示に従ってひたすら登って行くと稜線に出ますので、長法寺跡との分岐(写真④)を打下城跡側に進めば5分ほどで到着です。
…ということで、皆さまが私のように、せっかくだから日吉神社にお参りしてから行こう(写真⑤)。登城口は日吉神社の南側だったよな、ああ、社殿南側のこのゲートかな(写真⑥)。道はあるけどほとんど整備されていないような…。あ、あれがガリバー堰堤だな……って行き止まりなんですけど!?(写真⑦) …なんてことにならないことを祈ります(ならねーよ(笑))。
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2025/01/27 08:24
高島郡攻略の陣所 (2024/11/09 訪問)
戦国末期に浅井氏に仕えた林員清が高島平野と琵琶湖を見渡す城山に築いた城で、織田信長に降伏すると高島郡攻略の陣所となりました。林員清が内通の疑いで切腹させられると津田信澄が城主となりましたが、大溝城に居城を移したことにより廃城となったようです。
打下城へは日吉神社の鳥居の手前を南に進み、水路を渡って谷沿いに登って行くのが正しい登城道なんですが、何を思ったか日吉神社の社殿の南側から谷を左手に登って行ったところ、ガリバー堰堤と呼ばれる砂防ダムで行き止まりに…。「近江の山城 ベスト50を歩く」を見てみると「ガリバー堰堤を右手に見ながら」とあるので間違いに気付き、ということは谷の向こう側に登城道があるはず、と谷の水量が少なかったこともあって、少し戻ったところの梯子で谷に下りて対岸に渡り、何とか登城道に合流することができました。あとは案内表示に従って20分あまりで稜線に出て、長法寺跡との分岐から5分で中主郭南西下の堀切に至ります。
打下城は中主郭から派生する北・東・南の各尾根に曲輪を配し、南西方向を巨大な堀切と竪堀群で遮断しています。中主郭は土塁に囲まれた小さな曲輪で、北東部の虎口には石積みが見られました。虎口を出て東尾根を下って行くと、尾根を削り残して北辺の土塁とした広い曲輪が広がっています。虎口まで戻って今度は北尾根を下って行くと、小曲輪群が階段状に連続して北主郭へと続いていました。
北主郭の虎口は南側に開口していて、虎口に至る道は土橋状になっています。土橋の南東下には6条ほどの畝状竪堀群も見られました。北主郭は中主郭よりひと回り大きく、分厚く高い土塁で囲まれています。北主郭の東側と西側にいくつかの小さな曲輪があり、北東裾には畝状竪堀群も設けられています。
中主郭まで戻って最後に南郭を探索するつもりが、見当違いの方向に行ってしまい断念…。堀切や竪堀などそれ相応に見応えのある山城ですし、北主郭の石積みなども見落としているので、いつか再訪したいとは思いますが、わりとハードな山城でもあるので当面はちょっと勘弁かな、とも(笑)
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2025/01/27 07:01
道は無いけど茨の道 (2025/01/04 訪問)
木津城山公園の駐車場を利用します。
階段を登ると公園ですが荒れ気味です。
公園は以前採掘場だったとのことで遺構は消滅、東側の山にある主郭部に登ってみました。
道は付いていないので直登です。
崩れやすい土に苦労しながら何とか南側の尾根状の部分に取り付きました。
が、茨が多く進むのも容易ではありません。
何とか登ると石が転がっていた部分に、さらに登ると主郭です。
主郭は激藪、しかも水道施設の建設により改変されています。
とはいえ、畝状竪堀を見たいので北側に降りて行きました。
いい感じの横堀があり、帯曲輪の先でようやく出会えました。
ここも良いフォトは撮れませんが苦労した甲斐はあったかな?
三好氏家臣の篠原氏の居城でしたがその後長宗我部氏が入りました。
畝状竪堀はその時の遺構でしょう。
その後秀吉の四国攻めでも簡単には落ちなかった城、遺構がほぼ消滅したのは残念ですね。
【見どころ】
・主郭背後の畝状竪堀
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2025/01/26 21:48
震災前の熊本城 (2014/01/09 訪問)
せっかくなので熊本城の11年前の写真をもう一回。大天守も障碍者用の小型のエレベータを付けてバリアフリーで復旧が成されたようです。11年前と比べて、どのように変わったのか見てみたいですね。
大天守に向かう際には「通り通路」と呼ばれる地下通路を通って行きました。本丸御殿は古写真や古文書などを参考にできるだけ当時の工法で再現されていました。最も格式の高い「昭君之間」は豊臣秀頼を匿うために造られたという説もあるようです。現在は入ることが出来ず、復興の目途がたっていない様子。私としては、出来るだけ震災前の状態で復元して欲しいと思います。
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2025/01/26 21:33
十年ひと昔 宇土櫓 (2014/01/09 訪問)
私が熊本城に寄ったのが今より11年前、それから何度か九州には行ってますが熊本城には行っていません。復興の具合も気になるし、そろそろまた訪問してみたいですね。宇土櫓も解体保存工事が行われていて、2月9日より特別公開が行われるようです。姫路城の工事の時もやっていましたね。工事自体は順調にいけば2032年には完了する予定です。あと8年とちょっとかな・・
十年も長いと言えば長いし、あっという間といえばあっという間かな。
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2025/01/26 21:20
山岳寺院の色彩を持つお城 (2024/04/28 訪問)
交通の要衝にあって長尾景虎の攻城戦など数々の戦乱に巻き込まれたお城だが発掘の成果は日常的な営みを示唆している。縄張を見る限りは山岳寺院からの転用とも考えられそう。ある時点で山を下りた吉傳寺の存続時期が鍵か。
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2025/01/26 20:16
2025/01/26 20:06
古代の豪族道嶋一族の本拠地 赤井官衙遺跡 (2025/01/19 訪問)
冬型の天候も緩んだ1月19日、宮城県東松島市教育委員会の文化財講演会「道嶋氏の台頭と陸奥国」を聴きに出かけました。道嶋氏は約1300年前の古代陸奥国に栄えた一族です。講師は多賀城跡調査研究所所長吉野武さん。道嶋氏が本拠地とした赤井官衙遺跡(発掘調査により牡鹿柵と考えられている)の概要も含めて詳細なお話を聴くことができました。また同市の奥松島縄文村歴史資料館では2月24日まで「牡鹿柵造営 だいたい 1300年企画展」を開催中です。講演会参加前に訪問し、発掘された材木塀跡(柵跡)などを観て、その後は赤井官衙遺跡を訪問しました。私が昨年夏から始めた古代城柵・官衙遺跡探訪の8カ所目となります。
遺跡の規模は東西1.7km、南北1kmと古代城柵・官衙では大きい方でしょう。海岸線より約5km離れた標高は2mの浜堤上に築かれています。西側には蛇行する河川跡が、四方で材木塀跡・大溝跡など外郭施設が発見されています。周辺は田畑や民家となっていますが、遺跡のほぼ中央部が公園化され説明板が設置されています。ここは令和3(2021)年に「赤井官衙遺跡群」として国指定史跡になっています。
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2025/01/26 20:01
街中に残る土の末森城 (2024/12/15 訪問)
昨年12月中旬に訪れた愛知県名古屋市の末森城。
那古野城や古渡城から東へ約5km、比高20mほどの尾張丘陵の縁に築かれた城。
1548年に織田信秀(信長の父)が築城し、古渡城から移転。北の守山城と共に尾張の防衛ラインを担ったとのこと。
間もなくして信秀が亡くなると、信長の弟信行が引き継ぐが、1558年に信行が亡くなると共に廃城。
しかし末森村古城図に丸馬出が描かれているため、小牧長久手の戦いの際に織田信雄方が改修したと推測されています。
現在はほぼ全域が城山八幡宮の敷地となり、二ノ丸跡には近代建築の昭和塾堂、本丸跡は駐車場、本丸北側の曲輪には本殿が建つ。
訪問して最も印象深かったのは、丘陵の中腹部に築かれた本丸南から東に掛けての空堀だが、本殿西側の土橋を構成する空堀も巨大。更に金網に遮られるが、本殿が建つ曲輪の周りの空堀も確認可能。
本丸跡の稲荷社部分は西へ小さく膨らんでおり、二ノ丸と本丸を繋いだ通路に横矢を掛けているでしょうか。
そして神門付近で丸馬出の位置を想像するなどしていると、滞在時間は約2時間。
城としての整備状況はやや粗いものの、逆に土の遺構の武骨さを感じた、私の城郭巡りの191城目でした。
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2025/01/26 13:36
2025/01/26 13:25
2025/01/26 12:14
下世話で申し訳 (2013/12/14 訪問)
またちょっと古い写真で申し訳ない。天守がリニューアルしたというので是非再訪したいと思っていますが、今年はまとまった休みが取れそうもないので訪問は正月以降になりそうです。天守以外にも見所が多い城なので楽しみにしています。
城主が宇喜多秀家→小早川秀秋→池田氏と変わっているのも非常に興味深いですね。そういえば小早川秀秋と言えば男色家の側面があって、けっこうエグいエピソードが残っているようですが、美丈夫で有名な秀家にことをどう見ていたのかな? 小早川家と言えばもとは大老格なので顔を合わせる機会も多かっただろうし。じつは真面目に興味があります(ポカッ!)。ちなみに私にそっちの趣味はありませんぞ。
慶長4年(1599)に家康追及の動きが有った際に諸大名の動向は割れ、伏見の家康邸と大阪の前田邸に諸大名が集結しましたが、秀秋の動向は分かりません。「関ヶ原軍記大成」には小早川秀包が前田邸に終結したとありますが秀秋の名前はどちらにも無いですね。
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2025/01/26 11:27
2025/01/26 11:13
2025/01/26 09:43
2025/01/26 09:25
城域1 (2025/01/18 訪問)
狸谷山不動院より登城しました。駐車場から250段の階段を上がり、清水寺の清水の舞台と同じ懸崖造りの本堂を横目に進んで行くと登城口に行くことができます。熊出没注意の看板があり、京都市内でも熊が出るのかと熊鈴を装着して登城路を登って行くと15分くらいで本丸といわれている奥の院に着きました。
京都府教育委員会文化財保護課のHPより縄張り図は参考に散策しました。ぴーかるさんが登城時参考にされた「京都府中世城館跡調査報告書」の図と同じものと思います。1~4までの曲輪群がありますが、城域はかなり広いので今回は城域1と2を散策しました。狸谷山不動院より登城すると奥の院のある瓜生山山頂には容易に行けます。説明板があり北白川城本丸跡の記載がありました。周辺および尾根に曲輪が展開しています。京都一周トレイルのコースになっている周辺から外れて尾根の曲輪を散策すると倒木なども多く歩きにくい場所もありますが、それなりに進むことはできます。曲輪、空堀、土塁などが残っていました。
自分なりに各尾根の曲輪も散策したつもりでしたが、ぴーかるさんの投稿を見直してみるとかなり見落とした場所もあるような気がします。機会があれば、他の城域も含め散策したいですね。
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2025/01/26 02:38
でかい土塁 (2014/10/06 訪問)
今日は26日なので、すこし26(ふる)い写真を・・。今年のGWとお盆は最大4連休取れれば御の字です。遠出はしばらく難しそうです。
特別史跡・水城ですが天智2年(683)白村江での戦いで敗れた後、唐・新羅の日本への信攻に備えて大野城や基肄城と同時期に築かれました。全長1.2km、幅77m、高さ9mのでかい土塁で吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれています。当時の日本にこれだけの城柵や山城を築く能力があったことに驚かされます。
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