戦国中期に筒井順昭が筒井城の詰城として築いたとされ、松永久秀に攻められて筒井城が落城すると、筒井順慶は椿尾上城を反攻の拠点としました。松永氏が滅亡した後は、織田信長の大和一国破城令により廃城となったようです。
県道183号(福住上三橋線)突き当り手前の道路脇に路駐して登城開始。突き当りにある柵の脇の登城口から林道が続いていて、何か所か分岐はあるものの特に迷うことなく城域に到達。ただ、縄張図を見ても自分の現在位置に確証が持てなかったため、とにかく最高所に行けばそこが主郭のはず、とまっすぐ主郭に向かいました(登城口から20分弱)。
主郭には五社大明神が祀られていて後背に土塁を設けています。南側には横堀をめぐらせ、南西部の土橋で主郭部の曲輪群と接続し、土橋脇には石垣が見られました。横堀は東端で竪堀となって落ち、主郭の北西部からも長大な竪堀が水の手まで続いている…はずですが、水の手は見落としてしまいました。主郭はあまり広さはありませんが、主郭の南西には数段の広大な曲輪群が展開しており、東南辺に断続的に土塁を設け、曲輪裾部のあちこちに石垣が施されていました。主郭部南下の登城道を見下ろす位置にもいくつかの腰曲輪が設けられていて、土塁や竪堀で防御されています。
主郭部から西にのびる尾根にも多くの曲輪群が配されています。主郭部と西尾根曲輪群の間は岩盤を削り込んだ堀切によって隔てられていました。西尾根は比較的平坦な尾根沿いに広い曲輪群を連ね、中心となる曲輪は東辺を除く三方を折れを交えた直線的な土塁で囲み、北西外周には横堀もめぐらされています。さらに土塁には石垣が大規模に施されていて、一番の見どころといえるでしょうか。
主郭部と西尾根曲輪群に続いては、周辺の遺構を見て回ります(続く)。
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