続日本100名城

いいもりじょう

飯盛城

大阪府大東市

別名 : 飯盛山城
旧国名 : 河内

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飯盛城
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イオ

とことん飯盛城(支尾根の曲輪群) (2023/02/11 訪問)

(続き)

飯盛城は南北にのびる主尾根だけでなく、主尾根から東西に派生する支尾根にも多数の曲輪群を連ねていますので、支尾根の曲輪群もいくつかめぐってみました。

倉屋敷郭から西にのびる支尾根の曲輪群は、北條神社へと続く遊歩道沿いのため散策しやすいのは良いんですが、階段状に続く曲輪に堀切と土塁があるくらいで、これというほどのものは見付けられませんでした。

一方、御体塚郭から北東にのびる支尾根の曲輪群は全くの未整備で、真冬でも灌木が生い茂りまっすぐ進むことも困難です。それでも灌木が比較的少ない土塁の上を歩いたりしながら進んで行くと、階段状の曲輪の切岸に石垣を発見! 手持ちの縄張図には石垣の表記はなかったので、思いがけない遭遇に失われつつあった気力も回復。その先にも四条の堀切が明瞭に遺っており、苦労しながらも行ってみた甲斐がありました。

続いて、御体塚郭から東にのびる支尾根へ。こちらは曲輪群といっても斜面に三段ほどの腰曲輪が設けられている程度ですが、急傾斜に数段にわたって築かれている石垣はかなりの規模で、状態も良く見応えがありました。ただ、灌木が茂ってないのは良いものの、逆に支えにできる樹木もない状態でストックだけを頼りに急斜面を上り下りするのはなかなか大変でした。

さらに、倉屋敷郭から北東にのびる支尾根の曲輪群にも行こうとしましたが、行く手が灌木と藪に覆われているのを見て気力が尽きました…。「とことん飯盛城」としては決して十分とはいえませんが、主要部を石垣で固めつつ土塁や堀切など土の城の要素も兼ね備えた飯盛城は天下人の居城に相応しい城であり、「見応えのある城に行きたい」という当初の目的からは大満足の結果でした。

駐車場に戻った時には登城開始から4時間あまりが経過しており、下山して大東市立歴史民俗資料館でスタンプ&飯盛城のコーナーを見学して、大東市役所前の三好長慶公像の写真を撮って、とことん飯盛城を締めくくりました。
 

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イオ

とことん飯盛城(御体塚郭周辺) (2023/02/11 訪問)

(続き)

倉屋敷郭から三本松丸を抜けて御体塚郭へ。御体塚郭手前(南東下)の谷部にも状態の良い石垣が見られます。御体塚郭は三好長慶の死を秘して遺体を仮埋葬した地で、中央に塚状の石組みがあり石碑も建てられているので、てっきり長慶の墓碑だろうと思って碑文を読んでみると……登山三百回記念?? 気を取り直して御体塚郭の東斜面に回り込むと、一部崩落してはいるものの見事な石垣が遺っていました。

御体塚郭と北郭の間には巨大な堀切があり、岩盤を削り込んで尾根筋を遮断しています。北郭は飯盛城北端の曲輪で、生駒山地の北西突端にあたるため、北東から南まで素晴らしい眺望が開けていました。北郭の先は四条畷神社に下りる道なので、ここで引き返して今度は支尾根の曲輪群をめぐります(続く)。
 

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イオ

とことん飯盛城(高櫓郭周辺) (2023/02/11 訪問)

(続き)

千畳敷郭と高櫓郭を分かつ堀切を越えて登って行くと、高櫓郭の南下には堀切と土橋が設けられており、高櫓郭には城址碑と説明板、西麓での四条畷の戦いで討死した楠木正行(小楠公)の銅像が建てられています。高櫓郭の北下は本郭で、展望台からは大阪平野が一望でき、この日は淡路島まで見通すことができました。高櫓郭と本郭の東下には数段の帯曲輪が設けられ、斜面には多くの石垣が見られます。遊歩道を歩き回って5箇所ほど石垣を確認。石垣の山城とは承知していましたが、これほどあちこちに遺っているとは…。実に探しがいがありました。

本郭北下の倉屋敷郭から先に進む前に、西側にのびる支尾根の曲輪群(別途投稿します)に寄り道を。西麓の北條神社へと続く遊歩道を下って行くと、倉屋敷郭の西斜面に段築状に築かれた石垣が状態良く遺っていました。遊歩道沿いの曲輪群を見て回った後、倉屋敷郭に戻り御体塚郭を目指します(続く)。
 

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イオ

とことん飯盛城(千畳敷郭周辺) (2023/02/11 訪問)

南北朝期に四条畷の戦いの陣城となっていますが、本格的な城郭としては戦国中期に木沢長政による築城が始まりで、太平寺の戦いで木沢長政が討たれると安見宗房が城主となり、戦国後期には安見宗房を敗走させた三好長慶が芥川山城から居城を移して現在見られる形に改修しました。三好長慶の病没後、織田信長の上洛によって三好氏から畠山秋高の城となるも、信長の河内平定に伴って廃城となったようです。

河内・大和国境となる生駒山地北西部の飯盛山頂部に位置する城で、発掘調査により多数の石垣だけでなく瓦や礎石建物の存在が確認されており、天下人・三好長慶の居城に相応しい先進的な城だったと考えられます。西麓には東高野街道が走り、大和川水運にも接続する水陸交通の要衝でもあります。

さて、この前週に輪中の城めぐりをしていますが、ほとんどが明瞭な遺構の見られない城だったこともあり、今度は見応えのある城に行きたい! ということで、続100名城の飯盛城にやって来ました。当初は野崎観音側から野崎城を経由して歩いて登るつもりでしたが、下調べで山頂手前に登城者用の無料駐車場が設けられていることを知り、登城道沿いに特に遺構がないのなら…と車で行くことに。阪奈道路を生駒側から向かったため分岐を行き過ぎてから折り返す必要があったり、分岐の先も対向困難な細道だったりはしたものの、キャンピィだいとうの少し先の駐車場から登城開始です。

駐車場からしばらく舗装道を進み、途中から山道に入っていくつかの削平地を抜けると虎口に行き当たります。虎口の両脇は石垣で固められ、東下には数条の巨大な竪堀が落ちていました。虎口の西上には南北三段の南丸があり、虎口に至る登城道を見下ろす東辺に土塁が設けられています。南丸の南西麓には畝状空堀群がある…はずですが、笹藪に沈んでいてよくわかりませんでした。

南丸の北側の広い曲輪を抜けると千畳敷郭に至ります。千畳敷郭は南北二段の城内最大の曲輪で、発掘調査で礎石建物や土師皿が出土しており、居住空間だったと考えられています。上段にはNHKやFM局の送信所が建てられており、北側は整備用の舗装道により改変されているものの虎口らしきものも見られ、南西辺には土塁が続き、南西下の尾根道は土橋を設けた堀切で遮断しています(ずいぶん笹藪に覆われていますが)。千畳敷郭北下の鞍部は高櫓郭との間を分かつ堀切となっていて、道路の改変は受けつつも東西両側に竪堀の痕跡が見られます。

なお、千畳敷郭の東下には馬場と呼ばれる曲輪があり、現在は楠公寺の敷地になっています。馬場北西の舗装道東下にはわずかに石垣が見られました。

(続く)
 

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城郭情報

城地種類 山城
築城年代 建武年間(1334〜1338)
築城者 佐々目憲法?、木沢長政?
主要城主 木沢氏、安見氏、三好氏
近年の主な復元・整備 木沢長政、三好長慶
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、竪堀、畝状竪堀群、堀切、井戸跡
住所 大阪府大東市北条/四條畷市南野
問い合わせ先 大東市生涯学習部生涯学習課文化財グループ
問い合わせ先電話番号 072-870-9105