応仁文明の乱の舞台となり、戦国時代には明智光秀が攻略した城です。亀山城の前身的な城と伝わっています。西岸寺の横に石碑と説明板がありました。天守閣は西岸寺あたりにあったと説明板に記載があります。ぴーかるさんが投稿されていた堀切跡などへは行きませんでした。
JR亀岡駅から西岸寺まで徒歩約15分で行くことができます。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2024/06/22 16:43
2023/11/15 20:10
余部城 (2023/10/21 訪問)
【余部城】
<駐車場他>西岸寺の駐車場を利用(御城印購入したので)しました。
<交通手段>車
<感想>余部城の築城時期は定かではありませんが、応仁の乱の頃東軍方の野田泰忠という武士の軍忠状に「余部之城」という記述が残されています。戦国時代には波多野氏の傘下である福井貞政が城主となります。天正年間の初めころ明智光秀の丹波攻略によって落城しました。光秀は亀山城築城までの期間はこの余部を拠点としていたようです。
城跡は西側の台地状から東方向へ一部が長く突き出た、西側以外からは東西に長い丘陵地のようになっています。最東の西岸寺辺りが本丸跡で西岸寺さんで御城印を購入した際に非常に丁寧にご説明いただきました。パンフレットも頂けます。説明によると、本丸跡の東側は数メートルの切岸の名残が見られます。二の丸と三の丸の堀切跡が僅かではありますが宅地の下に残っているそうで、地図と照し合せながらこれかと思うポイントを見つけました。三の丸跡の北側の畑が弓場跡だそうです。西岸寺さんの庭から丹波富士、その奥に愛宕山を望むことができます。たぶん説明を受けなかったら、ちゃちゃっと流し見終わっていたと思います。説明後散策して残る遺構は少ないですが城跡の地形を認識して楽しむことができました。
<満足度>◆◇◇
+ 続きを読む
♥ いいね
22人が「いいね」しています。
2022/11/07 12:47
2022/06/07 08:16
交通の要衝 (2022/05/21 訪問)
築城者・築城時期など詳細は不明ながら、応仁・文明の乱では東軍の拠点として野田泰忠が入り、戦国末期には波多野氏に仕えた福井貞政が城主となっていましたが、明智光秀の丹波攻めで降伏を拒んで攻撃を受け落城。亀山城築城までの間、光秀の丹波での拠点となりました。
曽我谷川の段丘上に築かれた城で、山陰道と篠山街道が分岐する交通の要衝に位置し、段丘東端の西岸寺が本丸、西岸寺南脇の坂道あたりに大手門、小字「古城」と「古城浦」の間、「古城浦」の西に堀切があったようですが、宅地開発により遺構は消滅しており、西岸寺に石碑と説明板が建てられているくらいです。
なお、西岸寺から西に約600mの長興寺には余部城主・福井貞政の墓所があります。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
分類・構造 | 丘城 |
---|---|
築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏 |
遺構 | 消滅 |
再建造物 | 石碑(丸岡城跡)、説明板 |
住所 | 京都府亀岡市余部町古城、榿又、下条 |
問い合わせ先 | 亀岡市役所商工観光課 |
問い合わせ先電話番号 | 0771-25-5034 |