設楽原歴史資料館より南に行った丘陵に、武田四天王の一人とされる山県昌景の陣所と昌景の墓とされる山県塚が有ります。武田軍の左翼の中核を担い徳川家康本陣へ攻撃を仕掛けるも敗退し討死したとのことです。山県昌景の近くには、従士とされる名取又左衛門通忠の墓や山県甚太郎昌次、高坂又八郎助宣の墓があります。山県甚太郎昌次は三枝虎吉の子ですが山県昌景に山県の姓を名乗ることを許されています。昌次の兄の三枝昌貞は武田軍の足軽大将で二十四将の一人とされ姥ヶ懐砦の攻防戦で討死しています。
高坂又八郎助宣は高坂弾正(高坂(香坂昌信 / 春日虎綱)に近い人物とされますが詳細は不明。長篠城の南にある新昌寺にも墓が有ります。山県塚周辺の丘陵が陣跡とされ、遺構は残っていないようですが横堀の様な溝が一列ありました。
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