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トク

【宮本武蔵】(7)利神城(武蔵初決闘の地) (2025/06/04 訪問)

宮本武蔵の続き(7)です。

宮本武蔵が初めて決闘をした地とされている、利神城下の平福を訪れました。宮本武蔵駅から智頭急行で3駅ほど戻った平福駅(写真⑤)で降りると、利神城のあった利神山(373m)が、すぐ目の前に見えました(写真①②)。

利神城は南北朝時代に別所敦範が築いたのが始まりとされ、別所氏は秀吉配下の黒田官兵衛に攻め落とされます。この時、竹山城主の新免貞重はいち早く黒田に付き、共に利神城を攻めたため、竹山城は安堵されたようです。その後の豊臣政権下では、この一帯は宇喜多秀家の所領となります。関ケ原後は池田輝政の甥の池田由之が城主となり、三層の楼閣を築き城下を整備して行ったようです。という事は決闘が行われたのは、宇喜多時代という事なりますね。利神城の現在はガイドツアーの時以外登城する事はできませんが、城びと先人の方々の投稿を拝見すると、あさんや赤い城さんなど多くの方がガイドツアーに参加されているようで、ここは城びと投稿者にとっては人気の城なんだ~と、びっくりしました😯(写真④)。

たけぞう(武蔵)が7才になった時、養父の無二が離婚してしまいます。その後、無二の妻でたけぞうの養母でもある「よし子」は利神城下の平福の実家に戻り再婚したようです。13才になったたけぞう(武蔵)は母恋しさに無二の元を抜け出し平福へ行きます。そこで母よし子の叔父の道林坊に預けられ、結局また厳しい剣術の稽古に明け暮れたようです。

たけぞう(武蔵)はその13才のある日、この平福の金倉橋のたもとに「何人なりとも望みしだい手合わせいたすべし。われこそ日下無双兵法者なり!」と掲げられた高札を見ます。そしてこの高札を掲げた「有馬喜兵衛」に勝負を挑み、喜兵衛を一刀のもとに倒したと言われています。決闘の場所は作用川に掛かるこの「金倉橋」でした。そこにはその事が記された小倉碑文を写した石碑があり、喜兵衛の立札が再現されていました(写真⑦⑧⑨)。

実はこの決闘には裏話があり、喜兵衛は子供と勝負するのは気が乗らず、大人の対応をしたらしいです。たけぞうは道林坊から、「ばか者、謝ってこい!」言われ謝りに行きましたが、そこで謝るふりをして油断させ、木刀で倒してその後ボコボコに殴って殺したというのです。当時のたけぞうは(写真⑩)のような、言う事をきかない相当な悪ガキだったようです。

無断で決闘をして卑怯な手を使った事を知った道林坊は激怒し、たけぞうは勘当されてしまいます。勘当されて路頭に迷い、生活に困ったたけぞうは、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城で、アルバイト募集の求人を知り、身分を隠して密かに足軽(門番)のアルバイトをします。そしてそこで、ある事件に巻き込まれてしまいます。

次はその門番をした(姫路城)を訪れます。
 

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たぬ

絶景眺望 (2023/06/24 訪問)

三方を海に囲まれた眺望が素晴らしい城。
沖縄グスク特有の曲線的な石垣が美しい。
一度は行ってみるべき城。

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小城小次郎

人柱伝説 (2025/01/30 訪問)

このお城が百名城にも続百名城にも名を連ねなかったことは不思議でならない。それくらいよいお城だと思う。お城の裏鬼門には人柱祠があるが単なる伝承ではなくここからは本当に埋められた老武者が見つかっている。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「安芸国 毛利氏息づく 郡山城」
(あきのくに もうりしいきづく こおりやまじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「いと高き山 天守頂く 松山城」
(いとたかきやま てんしゅいただく まつやまじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「古高山城 新高山と にらめっこ」
(ふるたかやまじょう にいたかやまと にらめっこ)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「新高山城 古高山と にらめっこ」
(にいたかやまじょう ふるたかやまと にらめっこ)

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しんちゃん

崋山神社 (2025/09/07 訪問)

田原城の本丸には巴江神社があり、城主三宅氏の遠祖・児島高徳などを祀っています。戸田氏じゃないのが少し残念。
田原城址に隣接する崋山神社には田原藩家老で学者や画家としても高名な渡辺崋山を祀っています。昭和34年の伊勢湾台風で崩壊しましたが後に再建されました。渡辺登(崋山)の父は江戸詰だったため、登は江戸の田原藩藩邸で生まれています。諸々の理由で貧乏暮しに陥り、少年時代は得意の絵を売って家計を助けていたようです。後に田原藩の家老職に就きますが活動は江戸が中心だったため人脈が非常に豊富だったようです。
どうやら、この崋山神社・田原城の出丸跡になるようです。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

天下普請で造られただけに、名古屋城には刻印石がとても多い。本丸御殿の東側に吉田城に飾られているのと同じ刻印の石があるはずなのだけど写真が見当たらない。10枚目の写真は吉田城にある「山田」の刻印石です。
徳島藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)の家臣の山田宗重もしくは山田宗登に由来が有るようで、吉田城の山田の刻印石には海洋生物の棲管が付着しており、沿岸部で採石されたものと推定されています。ちなみに吉田城の刻印石は名古屋城築城の際に余った石材を利用しています。あざす。
名古屋城天守台の石垣は焼跡のひびや変形が見られ痛々しい。特別史跡なのは解るが、痛みの激しい石は交換しないと危ないと思う。石垣の修理の際には傷んだ石はけっこう交換するようですよ。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

ちょうどこの日は城(しろ)の日だったのですな。名古屋城もそれなりに桜はあります。個人的には城・桜・富士が好きですが、この三つが見れるのは山中城くらいかな・・? でも近世城郭に桜は良く映える。

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朝田 辰兵衛

三木の干し殺し… (2025/07/02 訪問)

鳥取城,備中高松城を訪城したら,三木城をスルーする理由はありません。二の丸に建てられている「みき歴史資料館」も無料なのに資料が充実しておりビックリしました。また,ここにも諏訪原城と同じネーミングの「かんかん井戸」がありました。全国を廻るとまだまだありそうな気配がします…。
なお,別所長治公&照子夫人の首塚を散策後,グーグルマップに「三木城新城跡」の表記を発見したので行ってみたら,パネルも何もない空き地になっていました…<泣>。
意外とタイムロスがあり,帰還日のため鷹尾山城の散策は断念。往路は福岡空港に飛びましたが,復路は伊丹空港から越後に帰還しました。

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肉球

見どころは土塁 (2025/08/18 訪問)

跡地には住宅と畑が広がり見どころは天神曲輪の土塁のみです。
発掘調査で障子堀が確認されているようで、それを示すような案内板や標柱が所々に建てられています。
車は騎西図書館の駐車場を利用させてもらい散策しました。

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chiroru

大きな石垣 (2025/08/23 訪問)

小田原駅からは、小田原宿観光回遊バス「うめまる号」に乗り、車内では添乗ガイドさん付きで小田原の街の名所を車窓で眺めながら、
一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)下車。バスが到着するタイミングで現地ガイドさんが待機してくれいてガイドをお願いし登城。

いきなり、南曲輪石垣が歓迎してくれます!散策路も整備されており歩きやすいです。
馬屋曲輪で説明を頂いた、馬が水を飲む所に大変なロマンを感じました。暑く晴れていたので雨水の通り道ははっきりとは見えませんでしたが、それも今でも見ることができるし、今でも湧き水が出てるそうです。
井戸曲輪は圧巻です。
物見台から見る小田原と相模湾とても美しい。
最後は大手道から降りてきて、排水路跡も。

手軽に小田原が楽しめる物を食べたくて、小田原駅構内にある喫茶店で食べたパスタは、さっぱりとして美味しかった。

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駿府城

駿府城公園はこれからどう変わる?未来の姿をご紹介します!

皆さん、駿府城公園内に設置されているこちらの看板はご覧になりましたか?
この看板では、これまでの駿府城公園の歩みや整備のポイント、そして「これからの駿府城公園」の姿をわかりやすく紹介しています。
駿府城公園は、これまで「駿府公園基本計画・基本設計」や「駿府公園整備再評価計画」に基づき、整備を進めてきました。今後はその方針を踏まえながら、家康公の時代の歴史を感じられる景観を再現するため、野外展示施設の整備や本丸広場の整備を行っていきます。
整備後の公園は、「歴史遺産」「市民の憩い」「防災拠点」をテーマに、訪れる皆さんが「歴史を感じながら楽しめる空間」へと生まれ変わる予定です。
この看板は、駿府城跡天守台発掘調査現場「発掘情報館きゃっしる」をはじめ、公園内の施設や静岡市歴史博物館にも設置されています。お散歩の途中や公園を訪れた際には、ぜひ立ち止まってご覧ください♪

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「SLの 煙たなびく 津和野城」
(SLの けむりたなびく つわのじょう)

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へす

【赤色立体地図かるた】

一夜城 石垣山城 同じ城
(いちやじょう いしがきやまじょう おなじしろ)

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

名古屋城本丸御殿の上洛殿は寛永11年(1634)に三代将軍徳川家光の上洛に併せて増築されました。江戸時代には御書院・御城書院と呼ばれ本丸御殿の中でも、最も格式の高い造りになっています。
天下普請で築かれた名古屋城には様々な石材が使われていて、二の丸の東や北側の高石垣は養老山地から取れる「河戸石」を使っています。例の「南蛮たたき」の場所の石垣ですわ。砂岩のクセに堅いので和泉砂岩のように崩れては来ません。でも割れた場所をしげしげ見るとやはり砂岩なんですね。この石材、加納城でも使用しています。産地が近いんですね。
ちなみに名古屋城の砂岩は加賀の前田家が運び込んでいます。

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しんちゃん

1万石の近世城郭 (2025/09/07 訪問)

田原城は文明12年ごろに戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築きました。戸田氏飛躍の城で、慶長6年から戸田尊次が1万石で入り、寛文4年には三宅康勝が1万2千石で入り三宅氏の居城として明治まで続いています。
この城も1万石の城ですが、近世城郭としての特徴をしっかり備えています。1万石の豆大名でも城を持てるというのは海防上の理由かな。
田原半島の尾根上には烽火台がずらりと並び、のろしリレーで外国船の襲来を通達できるようになっています。

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しんちゃん

苗木城 (2019/03/09 訪問)

一万石の城にしては、かなり頑張っていますね。そもそも一万石で城が立つの?と思いますが、豊橋市の隣の田原藩も1万石だけど、けっこう立派な城が立ってます。立地の問題ですかね?

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トク

【宮本武蔵】(6)竹山城(武蔵が少年期を過ごした地) (2025/06/04 訪問)

宮本武蔵の続き(6)です。

たけぞう(武蔵)が少年期を過ごした竹山城(岡山県美作市)を訪れました。ここは生誕の地の候補(美作説)にもなっていますが、私は高砂説で話を続けさせていただきます。高砂で生まれ3才でこの地へ養子に出されたたけぞう(武蔵)は、養父となった竹山城家老で新免流の剣者「平田無二(新免無二斎)」の元で剣術の稽古に励みます。

岡山から智頭急行を乗継ぎ「宮本武蔵駅」で降りました。何だかすごい駅名です😱!(写真①)。降りた瞬間に身震いがしてしまいました(笑)。駅から北を眺めると標高430mの竹山が見えました(写真②)。あの山頂に竹山城があったようです。城主は赤松氏の流れをくむ新免氏とされ、祖父の平田将監と父の無二は宇喜多秀家から3,600石を与えられた当時の城主「新免貞重」に仕えていました。平田家は代々新免家剣術指南役であり、将軍足利義昭にも剣の手ほどきをした事もある名門ので、新免の名を名乗る事が平田家には許されていたようです。竹山城にも登ってみたかったのですが時間がなく、ぴーかるさんの投稿を拝見すると、山頂には何もないようなので今回登城はパスし、城下の武蔵ゆかりの地を巡る事にしました(写真⑩)。

駅から南へ20分程歩いたところに、美作説の生家とされる家がありました(写真④⑤)。そこには二刀流で構える若き武蔵の銅像もありました(写真⑥)。おそらくここで3才から13才までの10年間を過ごしたと思われます。そしてこの銅像の場所には今でも道場がありました(写真⑦)。ここで父の無二から想像を絶する過酷な猛稽古を受けていたようです。また家の横には讃甘神社があり(写真⑧⑨)、幼いたけぞう(武蔵)は、ここで又八・お通と知り合い仲良く遊んでいたようです(写真③)。

ある日、讃甘神社のお祭りで、宮司の太鼓のバチさばきを見たたけぞう(武蔵)は、その時二刀流を思いつきます😯。元々新免家は十手術の使い手、左手に持つ十手を剣に置き換えた発想だったのかもしれません。

次は、たけぞう(武蔵)初決闘の地、平福(利神城)を訪れます。
 

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