みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

チェブ

番外編、小山田 信茂墓(伝)鎧塚の巻。 (2024/12/29 訪問)

東京都あきる野市にある山城「戸倉城」。
登山経験がなく体力が人並み以下なので、攻め込む事ができません。
なので今回は、以前、所用でこの辺りの地図を見ていたら意外なお名前に出会ったので確認しに向かってみました。
「小山田 信茂墓 鎧塚」
武田家家臣がなぜ、北条領に?

五日市街道から檜原街道に曲がり、少し先に五日市警察があります。その裏手に『あきる野市郷土館』と『五日市高校』。この『五日市高校』の敷地の少し高い所に「鎧塚」の石碑がありました。
フェンスがあり中には入る事はできません。

小山田 信茂さんは、武田家の滅亡の話しには必ず登場する人物です。いわゆる裏切り者です。
その後、甲斐善光寺で処刑されます。
山梨県大月市にある、信茂さんの「岩殿山城」へおじゃました時には、大軍勢が攻め込まないように守ってくれたヒーローだったと受け継がれてました。。(こちらも山城なので登山口で退陣しました(´ε` ))
東京都あきる野市に小山田 信茂さん、信光さん親子が落ち延びたという伝承があるようです。
大月からあきる野への間道があったのでしょうか?
ギリギリ北条領なので、見つからないで良かったです。

私は昔、あきる野市民だったので、今でも通っているお店があります。JR五日市駅からバスに乗るまでの空き時間、檜原街道を歩くと、美味しいお土産と「鎧塚」に出会えますよ。

+ 続きを読む

しんちゃん

二階堂氏 (2024/09/14 訪問)

須賀川城は本丸跡に二階堂神社があり、南の市民交流センターが二の丸にあたるようです。周囲は堀と町屋によって囲まれ、橋によって繋がっていたようです。応永6年(1399)足利満貞・満直の家臣・二階堂行続によって築かれたとされています。
戦国時代から幕末まで城主が幾度となく変わりますが、寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩主となった後、廃城となりました。現在は市街地に飲み込まれ遺構は有りません。北西にある神炊館神社は二階堂氏によって城域内に勧請されたものとされます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

草がぼうぼう (2024/09/15 訪問)

長沼南古館は江花川北岸の段丘上に築かれていました。堀などの遺構が残っているはずですが、足を踏み入れるのを躊躇するほど草が生い茂っているので外観で済ませています。案内板が立っているので、場所の特定はできました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

二本カヤ (2024/09/15 訪問)

中畑陣屋は天保8年に幕府旗本・松平軍次郎康済によって築かれたとされています。周囲は私有地になっていて立ち入ることは出来ません。陣屋の庭園跡が個人の敷地内になっていますが、二本カヤを今でも見ることができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

紆余曲折 (2024/09/18 訪問)

御前原城はシャープ栃木工場の南側の一角に築かれていて、周辺が公園として残されています。城址への入口は北側に付いていますが、虎口や大手は南側に付いていて、周囲に堀や土塁が残っています。
昭和38年に国道4号矢板バイパスの路線決定により存続の危機に立たされましたが、保存運動がおこり県知事の決定で路線が変更となりました。とはいえバイパス開通後の開発により主郭と虎口以外の遺構は消失してしまったようです。
現在残っている遺構は15世紀のものとされますが、御前原城の起こりは、建久3年(1192)ごろ、塩谷北部地域を治めていた塩谷朝義に跡継ぎがいなかったため、宇都宮朝綱の孫・朝業が養子となって、この地域を治めたとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

落胆と幸運の清洲城 (2025/01/24 訪問)

本日は急遽愛知県清須市の清洲城へ。

時間の読みが外れて一時は落胆。
しかしその後に2本目があった幸運!!

+ 続きを読む

しんちゃん

城前官衙 (2025/01/02 訪問)

多賀城は外郭部分の南門と築地塀が再現されており、その内側に配されていた官衙の主屋が構造復元されています。政庁南大路の脇には排水用の暗渠も設けられていたようです。多賀城には鎮守府が置かれていた時期が有りましたが、主要な機能は胆沢城に移り、宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂の乱で政庁や官衙の建物はほぼ全焼したと見られます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

伽羅御所 国衡館 (2017/05/02 訪問)

伽羅御所・・岩手県平泉町平泉伽羅楽にあった奥州藤原氏の居館跡です。奥州藤原氏三代秀衡が嘉応2年(1170)に鎮守府将軍・陸奥守に任じられた際に柳之御所が政庁として大改修されたため、新たに居館として築かれました。現在は市街地に飲み込まれ、かつての栄華を感じとることは難しそうです。

国衡館・・平泉小学校・幼稚園が館跡になります。藤原国衡(くにひら)は奥州藤原氏三代秀衡の長子でしたが、側室の子であったため当主にはなれず、泰衡や弟たちとの争いを傍観するしかなかったようです。奥州合戦で阿津賀志山の戦いに総大将として出陣するも戦死しています。館跡は周囲より高地にあり、雰囲気はあります。

同日に訪問した接待館の写真も掲載します。やはり春は良いですね。今は4月中旬か下旬ぐらいの頃が一番良い頃合いでしょうか。5月上旬はもう暑い気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

佐野厄除け大師 (2024/09/14 訪問)

佐野厄除け大師の名で知られる栃木県佐野市の惣宗寺には佐野城の門が移築されています。道路を隔てた向こうには物産館と佐野ラーメンの店があります。この一帯に佐野が詰まっている感じがしますね。後ろの写真は小山市にある壬生城の門です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

仕切られた主郭。 (2024/09/18 訪問)

飛山城の続きです。7つの郭で構成されているとされ、北西部の4~5つの郭が主郭という扱いになるようです。最も広くて、建物跡が多い曲輪4が主郭の中でも主要な部分になるのでしょうか。主郭が郭で仕切られているので、実際は異なる郭のように見えます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

引地山城と到津八幡神社 (2025/01/19 訪問)

到津の森公園から北東へ歩いて10分、地図で推測しながら国道3号線から少し坂を登り路地へ入った、このあたりの小山に本曲輪があったのではないかと思われます。今では座禅道場が建っていました(写真①②)。土塁や他の曲輪などもあるはずなので、少しでも見る事がでる場所がないか小山をぐるりと一周してみましたが、裏手からは土塁らしきものが少し見えるのですが、「私有地につき立入禁止」の札や柵があり結局は中に入れませんでした(写真③)。

ならば次は、ここからさらに東へ5分程歩いた所にある「到津八幡神社」へ行ってきました(写真④⑤⑥)。到津(いとうず)という地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の折に宇美の里で応神天皇をお産みになり、豊浦宮へお帰りの際に御座船を当地に着けられたそうで「到津=着いた港」という意味のようです。そしてその皇后をここにお祀りしたのが起源だそうで、安産などの守り神となっているようです。

その後平安時代に入ると、神社は宇佐神宮の神領となり、宇佐大宮司の支族が到津氏を名乗ってこの地を守りました。鎌倉時代には宇佐宮司の清水氏が代官として派遣され、引地山城を築城します。戦国時代には大友宗麟との戦いで宇佐神宮が焼け落ちたため、宇佐の宮司たちは戦火を逃れて、しばらくこの地に滞在したようです。今では二つの山は別々になっていますが、これは住宅開発によるもので、かつての到津八幡神社と引地山城は、一つの尾根でつながった一つの山であったと思われます。

江戸時代には、神社は小笠原家から庇護を受けていたようです。小倉藩小笠原家と水戸徳川家は輿入れなどで縁があり、江戸の小石川後楽園から譲り受けたという石橋がここにありました(写真⑦)。水戸黄門様も渡ったことがある橋ではないかと言われているそうで、小笠原家と水戸徳川家との間には良縁があった事が想像できました。

次は、ここから西に見える花尾山(花尾城)に登ってみようと思います。

P.S チェブさんへ
ライオンまんじゅうのルーツは今川焼か🤔? 私もそこまではよくわからないので、ここは地元北九州出身の「にのまる」さんなら御存知かと(城野も北九州)。ちなみに左があんこ、右がカスタードでした。本物のライオンもいましたよ!
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

とりあえず「行った」ことにしておこう (2025/01/04 訪問)

土佐泊浦背後の松瀬山に城跡があります。
皆さんのレポート通り、南海病院の敷地となっています。
どうやら新病棟の工事中で病院に行くのも躊躇してしまいました。
周囲を一周して退却、とりあえず「行った」のポチはしておきます。
長宗我部氏の阿波侵攻で唯一落ちなかった城なのでいつか公開される日が来てほしいですね。

+ 続きを読む

天守無しがアツい

信玄ミュージアム (2025/01/12 訪問)

(HP)https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html#hotta

武田神社の向かいに信玄ミュージアムという施設があります。入館は無料…入口には信玄が着用したと伝わる兜と鎧(1枚目)が置いてあり、兜を被って鎧の後ろに回り記念撮影ができました。この白い毛が生えた兜…オリジナリティを感じたのでそれを被ってみました🪖

すると館員がそれに気づいて「お写真撮りましょうか?」と言ってくれたので、お言葉に甘えて2枚撮ってもらいました(1枚目はマスクをつけたまま…2枚目は表情が分かるようにそれを外して歯を食いしばり口を横に開きながら😬)

武田神社では躑躅ヶ崎館の御城印が扱われていましたが、ここでは武田氏館跡(2枚目右)と信玄ミュージアム(2枚目左)のが販売されてました

躑躅ヶ崎館=武田氏館と言えるので、信玄ミュージアムは一応別の建物だから…(躑躅ヶ崎館のは昨年(2024年1月に)購入済なので)片方だけの購入でもいい気はしましたが…「これが5種類ならともかく、2種類しかないから1枚も2枚も大して出費は変わらん」…というのもあり、結局両方買いました

この施設には常設展示室と特別展示室(有料)…そして旧堀田古城園という古民家と庭がありました。常設展示室では武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)にまつわる展示が…

奥の方に関連書籍がたくさん並べられてるコーナーあり…マンガを1冊読みました。それによると…信虎の政策は戰のために民に重税を課すのは当然…領主は民から搾り取り威圧的になる事で示しがつくというもの

けれど息子の信玄は…「人は城 人は石垣 人は堀 なのであり、圧政で支配するなんて間違っている」「人の和こそ最大の武器であり、民の生活の安定こそ第一に考えるべきである」というポリシーで父と対立

そして親父信虎を家臣と共謀して「駿河国に隠居していただきます」と告げて追放。この時信虎の命に従うものはおらず、周囲の者にあっさり取り押さえられる形で籠に乗せられたようなので…どうやらゼロと言っていいくらい…周りからの支持を得てなかったものと思われます

それから由布姫というカフェで…謙信ラーメンというメニューを摂りました。謙信の名が付いてはいても中身は…メンマとナルトとチャーシューとノリの入った醤油ラーメンです🍥🍜🐖

腹ごしらえを済ませた後はフォトブース陣屋にて甲冑の撮影をまたしちゃいました(3枚目)。ここのはお触り禁止であくまで撮影のみ…けれど甲冑の後ろに並ぶ武田軍の旗が格好良さを引き立たせており…(1枚目の甲冑とは)また違った魅力を感じた気がします

旧堀田古城園の建物は基本…外からの見学のみで、どうしても中に入りたいという場合には受付で許可を得てからと説明に書かれてました。けどそこまでしなくていいかなと思えたので、ここは外からの見学だけにしておきました

レコードに黒電話、レトロテレビなど昭和チックな部屋(4枚目)と屋敷全体(5枚目)を撮影してから特別展示室に向かいました。そこの館内は全て撮影禁止だったため、代わりに旧堀田古城園の画像を載せてる…とも言えますね

館内には武田氏の歴史を記録した甲陽軍鑑…武田氏館から出土した品々(銅銭、瓦、天目茶碗など)が展示。奥にある映像展示では…肖像画とアニメーションの融合とでも呼ぶべき映像が流れました

信玄の肖像画は幾つかありますが、そのどれもがかなり顔の印象が異なるもの…なのでどれが実際の信玄に近いのかははっきりとは分かっておらず、謎に包まれているそう

なので「これ最も近いかも」と伝わる肖像画を元に信玄の顔がアニメ化され…彼の生涯が紹介されていました(赤ん坊として生まれた→幼少期→初陣で勇ましく活躍→父を追放→三方ヶ原で家康に大勝する…)

そもそも…その肖像画も…信玄の死後、後世に描かれたものだって結構あるんじゃないかと思うんですよね。例えば信玄と家臣24人を描いたものがあるのですが…それは江戸期に信玄ブームというか人気に火がついたあたりに描かれたもの…本人の死後100-200年経ってからなので、本人および家臣の顔は作者の想像で描かれたのは言うまでもない😅

当時は肖像画しか人の顔を記録するものは無く、しかもそれだって本人の死後に描かれることは珍しくなかった…墓はあるようですが、そこに遺骨は果たしてあるのか?そう考えると…もはや本人は本当はどんな顔してたかなんて分かりようがない🤔

「信玄の死因」についての紹介文もあり…結核説…肺がん説…暗殺説…がありました。有力視されてるのは結核説。ちなみに修羅の刻(日本の歴史上人物が出てくる川原正敏先生のマンガ)では暗殺説…不破虎彦という若者に首の骨をへし折られてあの世逝き…👼

まぁ…当時は今より医学なんてかなり遅れていたと思われるし、そもそも結核(当時の呼び名は労咳)だったとしてもそれを診断できたのか?ガンならなおさら怪しい…診断できたとしても、特効薬も無いため気休めの漢方薬くらいしか出せるものがない…様子が目に浮かぶ

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

堀などの遺構が良く残る。 (2024/09/14 訪問)

犬飼城は康暦元年(1379)小山義政によって小山城の支城として築かれ、元亀4年(1573)に犬飼康義が城主になりましたが、宇都宮氏に攻められ廃城になったとされています。ただ案内板によれば、現在の縄張りは宇都宮氏によって南西方を守るために再構築されたものと思われるようです。
城址は私有地のようですが、駐車場や城址への案内の標識など、親切に整備されています。ありがたく散策させていただきました。主郭の周囲には堀が巡らされ、土橋で周囲の郭(二の丸)と繋がっています。竹や木が多いので写真では解りにくいですが、堀切などの遺構はなかなか見事なものです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

小野寺城 道の駅・どまんなかたぬま (2024/09/14 訪問)

栃木県栃木市岩舟町にある小野寺城は保元元年(1156)小野寺義寛によって築かれました。小野寺氏は藤原秀郷の流れを汲み、山内首藤氏の庶流であるとされます。また小野寺氏は多くの分流があるとされ、下野の小野寺氏が嫡流とされているようです。
城址は明治のころには土塁も残っていたようですが東北自動車道建設のために失われたとされ、周囲は畑地や宅地になっています。高速道路の東側のすこし南方に義寛(小野寺禅師太郎)の墓があります。義寛は源為義に仕えて軍功があったため、小野寺保を与えられ小野寺氏を称したとされます。義寛の子、道綱は承久3年(1221)68歳で京都宇治橋の合戦に参加し討死したと案内板には記載があります。

この日の昼食は佐野市の道の駅「どまんなかたぬま」でいただきました。名物佐野ラーメンと芋フライのセットでお得感があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

十九夜堂 (2024/09/14 訪問)

宇都宮景綱の甥・泰貞が戸祭氏を称し、戸祭城を築いたとされています。十九夜堂と書かれた額のかかった公民館に石碑があります。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

R246沿いなので,迷わないと思います… (2024/12/23 訪問)

丸山城址公園自体が巨大な土塁のようなので,愛甲石田駅からでも伊勢原駅からでも,R246沿いを進めば見落とすことはほぼほぼないと思います。
周辺を散歩されている方は多数見かけましたが,主郭部にはほとんど人がいなかったです。

伊勢原駅を中心とした,七沢城,糟屋館,丸山城,岡崎城の4城ですが,平塚駅を拠点として攻城しました。平塚駅北口と伊勢原駅南口間に,路線バスの運行数がかなりあるためです。小田急線沿いにこだわるなら,本厚木駅か海老名駅が拠点になるのかな…と思います。
なお,平塚駅北側には「平塚市総合公園」がありますが,「ひらパー」という人は見かけませんでした…<笑>。なんちゃって関西人なら,絶対言いそうなんだけど…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

半地下 (2024/09/18 訪問)

早雲さんを散策に出したら景勝さんを連れてきて急速に石高が足りなくなりました・・いえ、こっちの話。
飛山城の続きです。大手は東側に付いていて、堀と土塁が二重になっています。いずれも大規模なもので、中世の戦国城郭がこの規模で再現されているのは感動ものです。二つ目の堀を渡ると門があります。この門、4日前に夜襲に来たときには閉まっていましたが、この日は開いています。北と南を4号堀が仕切っていて、まずは南側を散策すると半地下の建物があります。この建物、以前訪問した時には中に入れた気がするのですが入ることは出来ません。記憶違いかな?
4号堀を越えて北にいくと曲輪4にたどり着きます。ここには掘立柱建物が再現されていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域1:曲輪群[主郭ゾーン]】
<見所>大空堀・土塁・曲輪群

<感想>瓜生山山頂を主郭とする曲輪群で主郭の西側に2つ腰曲輪があり、そこから西ゾーンと南ゾーンの連段曲輪群に枝分かれしていきます。主郭の東側は3段程に横に広い曲輪が広がり「報告書」の縄張り図では大きく6つ程の曲輪があります。この東側の曲輪群は各々の土塁虎口の遺構が明瞭に残り見応えがあります。主郭東側からの切通しは主郭西下段の副郭と思われる曲輪を分断しているためハイキングコースとして後世に人が通ったためにこうなったと考えます。主郭ゾーンと東ゾーンを分断する南北100m程はしる大空堀は圧巻の見応えで、おそらく箱堀、またはU字状の幅広の空堀と思われます。大空堀の南端は南からの谷の終着地点と繋がっていて、明らかに人為的に垂直に削った8m程の切岸(もはや垂直の壁です)なっています。ちょうどこの切岸の東側が東ゾーンの主郭部があり横矢の総攻撃が加えられる鉄壁の守りになっています。
 山頂の主郭は築城者の細川高国が勧請した将軍地蔵が当時があり、石積みの石室(現在はコンクリで間詰めされています)も残っています。主郭は大城郭の中心部にしては小さく、私の考えでは将軍義晴・義藤が籠城するのには吹きっさらしのこの場所ではないなと思いました。主郭の東側の曲輪群かあるいは別の場所(この次に投稿します)におわしましたと感じました。

<城域1の全体的な考察>いくつもの城域を束ねる心臓部にふさわしい城跡で、城域1は南から谷底を上がって来る敵を防御する造りになっています。谷は城域1の南側で幾筋かに分かれていますが、それぞれの山側の尾根に曲輪群を設けて谷に向かって両サイドから攻撃できるようになっています。城域1の北東部から北方向に太い尾根が伸びていて、100m程先のピークが堡塁になっていますが、堀切も何も無くて北側の守りは無かったように感じました。次の投稿は将軍山城の最後になります。[清沢の石切り場]と軽い[まとめ]です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

城びと未登録のお城攻め「細野城」。 (2024/12/29 訪問)

北条家の家臣、内藤 秀勝さんの居城「細野城」は国道412号沿いにあります。
しかし難攻不落の「細野城」。国道412号の曲がりくねる途中なので路駐ができません。左手に入ると、建物の駐車場になり行き止まりです。
で、戻り国道412号を左折。『馬渡大坂』がまた細く、カーブがきつい道でした。結果、ふもとの中津川の駐車場から歩きました。
「田代城」や三増合戦の古戦場は中津川の向こうです。

「細野城」は説明板があります。
建物の前は畑になっていました。畑に土塁が残っています。
中津川に戻ると滝の案内板がありましたが、そんな元気は残っていません。
退陣しました。

ちょっと脱線します。
トクさんの「ライオンまんじゅう」、今川焼の進化形ですよね。
会社で『今川焼今川焼』騒いでいたので、同僚が八王子駅の近くにある『都まんじゅう』を買って来てくれました。
今川焼より小ぶりです。*写真、ありません。
『都まんじゅう』を調べてみたらトクさんの地元、福岡県がルーツでした。
日本100名城の「八王子城」や続100名城の「滝山城」攻めのお土産にいかがでしょうか?

+ 続きを読む

ページ42