伊達政宗の右腕伊達成実菩提寺小堤城/大雄寺を終えて国道6号線を約10km程南下し中島館を目指す、途中の道すがら10年前の東日本大震災の爪痕、ここまで津波到着、津波で浸かったエリアとか標識があちこちに有りました、津波の酷さを実感した次第。
情報源とガイド:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ
駐車:宮城県亘理郡山元町高瀬舘下の中島舘登城口標柱の在る南約50メートル国道6号線東の脇道、アパート西面の路肩が広く路駐可(37°56'50"N 140°53'38"E)
登城は路駐場所から北に約50メートル程国道6号線沿い下り方面、西側の丘陵スロープに中島舘跡の白い標柱が有り道なりに登って行く、西、道なりに進み堀底道の様な個所もある、50m程登って行くと城塁土塁が目に入り手前には土橋が有り城塁を登ると主郭に成る結構広い杉林に覆われてる、中心部は杉を伐採し少し観える化、白い標柱中島館跡、案内説明板が有る、主郭下には帯曲輪?を思わせる空堀?が東の土橋から南、西に伸びている、北は出郭で共に崖下に成ってる。
案内板に在った伝藤原経清居館跡の時代築城と有りましたが戦国期に亘理氏、相馬氏、伊達氏攻防の中、改修が繰り返されてのか?とも思ったりしたり、静かな中での探訪観察でした、帯曲輪?空堀?は樹木が茂り倒れ主郭から眺めただけです。
歴史:中島館跡は亘理権現太夫藤原経清の居館であったと言われてる。 経清は奥州の戦乱「前9年の役」の際、源頼義に従って陸奥の俘囚長阿部氏を攻めた人物で、後に源頼義と袂を分かち囚われて処刑されている。 経清は奥州平泉の地で黄金文化を築いた藤原清衡の実父であり、事実であるならば奥州藤原氏ゆかりとして歴史上由緒ある館跡である。(館跡案内板一部抜粋に由る)
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