みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

周辺観光 (2024/09/28 訪問)

 結婚記念日ランチで袋井市中心街に出掛けましたので、久野城、遠州三山の法多山、法多山では厄除団子を購入、油山寺を序でに訪ねました。

 遠州三山は下記の通り
 Ⅰ:法多山 静岡県袋井市豊沢2777   厄除団子が有名 久野城から南東に約5.5km。
 Ⅱ:油山寺 静岡県袋井市村松1番地    目のご利益、掛川城大手二の門が移築 久野城から北に約2.3km。
 Ⅲ:可睡斎 静岡県袋井市久能2915-1 春の牡丹、近くのユリ園 久野城から北西に約1.3km。
  今回可睡斎には雷が鳴り始め雨に成り寄りませんでした。

 又、袋井市内には城びと登録の馬伏塚城が在ります。
 Ⅳ:馬伏塚城 静岡県袋井市浅名1156 久野城から南へ約6.4km。(最終訪問令和5年3月10日、投稿令和5年4月20日をご覧ください)

 投稿写真は①久野城大手門橋近くに在る松下期の久野城復元図。
 ②~⑦油山寺の掛川城大手門移築の山門、同解説板、山門櫓への登り階段、山門の主柱副柱梁等の木組み、切通堀切、高土塁の様な土塁法面。
 ⑧~⑩法多山本堂、仁王門、厄除団子。

 記念ランチを入れて約6時間ほどの城探訪と法多山、油山寺参拝でした。結婚記念の食事も年々簡素に成って来ましたが達者で長生きが一番です。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

シダ好きにはたまらない城 (2024/09/29 訪問)

正直、シダのことばかり記憶に残っていて、城址の印象があまりありません。西側に連続竪堀などがあるようですが、確認してないですね。本郭まで行って、ほうほうの体で帰って来てます。これが1月や2月だと、もっとじっくり散策しているのですが。
温暖化の傾向は城めぐりをする側にとっても厳しい話です。冬場に集中して山城を巡りたいですが、どうしても夏場に(もう秋ですが)訪問せざるを得ない場合もありますので。
シダ好きにとっては天国ですが、そうでない者にとってはエグいです。これ以上、比高が高かったら無事に帰ってこれるかわからないですね。
まあ‥お勧めは冬場ですが、夏場でも他の城では出来ない体験をすることが可能です。「蓼(たで)食う虫も好き好き」といいますので‥。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

和歌山城 紀州青石と和泉砂岩  (2024/02/25 訪問)

しかし和歌山城の紀州青石の敷石は雨に濡れるとじつに、良い色をしています。青というより緑に近いような、いかん!また石の写真ばかりになってきてる。でも和歌山城は石を楽しむ城だと個人的に思っています。紀州青石は雑賀崎で採取され、和泉砂岩は友ヶ島(未訪問)や加太などで採取されます。また一部に花崗斑岩が用いられています。
石垣の使用部が見た目にわかり易く、また採取地も判明している稀有な城で、石垣の採取地と合わせて訪問すると、いっそう楽しめると思います。友ヶ島はまだ訪れたことが有りませんが、日本のラピュタと呼ばれる、旧日本軍の遺跡の眠る島は一度、訪問したいと思っております。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

和歌山城 紀州青石 (2024/02/25 訪問)

今さらですが和歌山城の続きです。前回は天守まで投稿したので、今回は復興櫓から多聞櫓を周遊してから本丸までの道筋です。天守曲輪の東に本丸御殿跡があり、そこに至る道は紀州青石の石畳が敷かれています。紀州青石は雨に濡れると青みを増し、美しい光沢が出るので、この日のような小雨の日は和歌山城の訪問に適しているといえるでしょう。
以前の投稿の内容になりますが、天守台の石垣は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて和歌山城を築かせた時の遺構だとされています。和歌山城の石垣の中でも最も古い石垣とされ、紀州青石(緑泥片岩)が積まれています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

春日神社から軽い登山となります⛰ (2024/09/28 訪問)

平清水館の北西にある,春日神社から軽い登山となります。春日神社は狭い生活道路の行き止まりに登り口があります。駐車場はありませんので,マイカー登城の方はご注意ください。ゴミステーション前に1台路駐がやっとだと思います。
崩れかけた石段をしばらく進むと,春日大神があります。さらに進むと削平地がありますが,実態はわかりません。冬期間はここより先は閉鎖されるであろう,チェーン用の杭が2本ありました。
ここからは道は悪くなりますが,ひたすら尾根を進みます。やがて,春日神社に到達します。
さらに尾根を進むと,雷神山山頂となり,約5m四方の平坦地があります。ここが平清水館。雷神塔の祠アリ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

117【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と箕輪城 (1/4)-箕郷支所と観音口) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑲です。
少しブランクが空いて申し訳ありません、浮気の話からの続きです。

直政最初の居城「箕輪城」を訪れました。訪れたのは昨年の12月なので、ちょっと古い写真ですいません。

高崎駅西口から群馬バスの伊香保行で30分「箕郷田町」(写真②)で下車しました。まずバス停そばにある高崎市役所箕郷支所(写真③)でスタンプをGETし登城開始します。

箕郷支所の前の旧下田邸には、忠臣蔵四十七士の中で隋一の剣豪「堀部安兵衛」の作と伝わる庭園がありました(写真④)。新発田藩の浪人であった安兵衛は、何度かこの下田邸を訪れ剣術の指南をしていたそうで、その時に依頼されてこの庭園を作ったとされています。そして安兵衛はその後、赤穂藩家臣の堀部氏の婿養子となり赤穂藩へ仕官する事ができたようです。ちょうど晩秋できれいでしたが、もう一週間早く来ていれば、もっと紅葉の色が鮮やかだったようで、そう思うと少し残念です。

箕輪城は大きく3つの時代(長野氏→北条氏→徳川氏)に分けられるそうです。まず箕郷支所からいちばん近い観音口から入ります。すると水の手曲輪に最初の長野氏の遺構がありました(写真⑤⑥⑦⑧)。武田との戦いの激戦を物語る歌碑で、水の手を断たれてよほど苦しかったのでしょう。しかし水を汲みに行った者はだれも帰って来なかったという悲惨さを詠んだ歌でした。そしてその武田が滅びると、直政が使者を務めた北条との交渉で、箕輪城は鉢形城主「北条氏邦」の持城となります。北条時代は現在の搦手口が登城口だったようです。氏邦は南東から西側にかけて空堀や郭馬出を作るなど、土造りの巨大な城を完成させ、その空堀や馬出は今でも残っています。

北条氏が滅びると、1590年徳川家康は秀吉の命で駿府から関東へ移封、江戸城の築城を始めます。直政はここで上野国を賜り、徳川家臣団で最高の12万石で箕輪城に入ります。そして北条時代の城を拡張し、更なる大改修を始めました。三の丸の要所には石垣を積み、さらに櫓門や木橋などを作り、城下町を整備します。1598年直政が高崎へ移った後、1615年箕輪城は一国一城令で廃城となったため、その後は手を加えられる事もなく、そのおかげで直政当時の石垣などが現在もよく残っていて、その直政時代の櫓門や木橋が現在再現されています。直政この時30才、15才の時に浜松で小姓として一介の草履取りから始まり、あれから15年後、ついにここ箕輪で徳川家臣団の筆頭にまで登り詰める事ができました。

私は観音口から登って、木俣から高崎市街の方向を眺めてみました(写真⑨⑩)。家臣団筆頭となり箕輪城主となった直政は、どんな気持ちでこの景色を眺めていたのでしょうか? きっと自分が家康様をここから天下人にしてみせると、この景色を眺めながら、固く心に誓っていたのではないでしょうか?・・・

次はいったん麓へ下りて、今度は直政時代の登城口である大手口から再度登城してみようと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

人類(城びと)とシダ類との闘い (2024/09/29 訪問)

城びと戦士の先人方の投稿を参考にさせていただいたのですが、夏場は「シダ」が酷い様子。嫌な予感しかしない‥
といって三重の城を完遂するためには避けて通れません。季節的には良くないですが、例によって行けるだけ行ってみることに。
愛宕山大権現まではスムーズに来れますが、そこから先はシダしか見えない‥これ登城道? 一瞬心が折れそうになりますが行くしかない。真ん中のへこんでいる所が道筋のようだ‥道というよりシダなのだが、トーダイさん、とばつびしゃもんさん、イオさんに続きます。城びと戦士の「はしくれ」としてシダに負けるわけにはいかないのです!
城域に近づいてくるとシダが途切れてくるので脇から城域に侵入。東に尾根が続くのでまずはそっちを見に行きます。東端は竪堀か登城道か良くわからないです。そこから引き返して主郭を目指しました。
トーダイさんの写真を参考にすると1月でもけっこうシダが残っている様子。これは長島城を攻略するためにはシダと仲良くなるしか無さそうですね‥‥

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

石積みがあるのだが (2024/09/29 訪問)

イオさんの投稿にある小山浦集会所の脇の道をひたすら登り、どうもここじゃないと気づき引き返します。橋を渡り「うしろやま城跡」の石碑を確認して、東屋のあたりまでのぼって引き返します。正直縄張りが分かりにくいです。季節も良くないので遺構がわかりにくい、最近夏場が長くなって山城が散策しにくくて困ります(ここは平山城ですが)。
なんとか石積の遺構は確認しましたが、イオさんの投稿にあった「水門」は確認できませんでした。ちょっと残念。ここに来るのは十数年ぶりになりますが、前回は城址にたどりついたか怪しいものがあります。たしか山頂まで登って戻ってきたような‥まったく無駄骨お疲れ様です、我ながら。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

もう一つの鬼ヶ城 (2024/09/29 訪問)

鬼ヶ城には二つあります。一つは城びとの有馬氏の「鬼ヶ城」もう一つが国指定の名勝で世界遺産に登録されている「鬼ヶ城」です。
山城の方は現地の案内板に記載がありません(鬼の見晴らし台とある)。実際に訪れてみると「鬼ヶ城城跡」の標識がたってます。扱いがぞんざいですわ。せっかくここまで来たのだから、両方寄らない手はないです。まずは世界遺産の方から紹介。
熊野灘に突き出た石英粗面岩(案内板より)の岩盤が海に浸食され大小無数の奇岩となっています。浸食によって形成されたと思われる扁平地があり、昔に鬼と恐れられた「多娥丸(たがまる)」と呼ばれた鬼がここに住み着き、坂上田村麻呂の放った矢によって討たれたという伝説が残っています。確かに鬼か海賊でないと住むのは難しそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

勝尾城とセットかと思ったら… (2024/07/05 訪問)

勝尾城とセットかと思ったら,分割されていたので,勝尾城を編集し直して,筑紫氏館をアップします。

+ 続きを読む

ぴーかる

源経基館 (2024/09/14 訪問)

【源経基館】
<駐車場他>館跡入口<36.058468,139.500640>に2台程駐車できる
<交通手段>車

<見所>土塁・横堀
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画の旅6城目。源経基館は平安時代中期に源経基が武蔵介として坂東に赴いた時に館としたと伝えられます。現地の遺構は単郭方形の高土塁、周囲に深い堀を廻らしています。また北西(戌亥)方向に櫓台と思われるひと際高い土塁があります。現地の発掘調査で出土品が全く出なかったので時代の推定が出来ないそうですが、私が見る限り完全な防御性の高い城と言ってよく、室町時代中期~戦国時代にかけてのお城と考えます。甲賀中惣群や三重県の中世単郭方形の平城の遺構と似た雰囲気があります。関東平野でこのような遺構がある城跡があるなんて以外で、出会いに感謝です。見応えがありました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

大看板が復活していました (2024/09/28 訪問)

 本丸の南側に大看板が有りましたが、鉄骨を残して久野城址大看板が外されていました。(最終訪問日令和6年4月7日時点)
 いつか復活されるだろうと思っており、半年ぶりに袋井市中心街に出向いた序でに寄ってみました。
 車は今回、ちょっと間なので大手橋手前の駐車エリアを利用。
 
 本丸は一昨年に樹木の伐採されて奇麗になって居ましたが夏草や竹などが伸び茂り大手側からは見えないので、高見に登って本丸側を確認しましたら竹林の茂みの上に久野城址の4枚大看板が残って居た鉄骨やぐらに昔通り掛かって居ました。東名道からは良く観える事でしょう。

 もう一つの気掛かりは、東の丸から北側の横堀下側小竹の茂みが本年4月訪問時には伐採が残って居りましたので、その後の伐採事業は如何進捗したかの確認、北東側から確認するも、夏草も茂り、竹の成長も早く北東、北側横堀法面の小竹の伐採を遠目確認する事は出来ませんでした。
 元湿地沼地濠であった水田は久野城の周辺として編入されていますが、水田耕作が無くなり夏は葦が茂り、東側、北側の曲輪法面は良く観えません、葦の伐採もこれから大変な事です。

 大手橋から東曲輪、高見の登り、南の丸、西側エリアの散策路は草刈されて歩き易くなっています。20分程の散策観察でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

関ヶ原陣跡制覇ウォーキング (2024/09/29 訪問)

関ヶ原陣跡制覇ウォーキングに参加してきました。選択したのは勿論、松尾山城迄めぐる制覇コースです。諏訪湖1周とほぼ同じ16kmのコースでしたが8:30に出発し、正午過ぎに完歩達成しました。関ケ原の古戦場を散策するのは実に19年ぶりで松尾山ですら前回の攻城から14年が経ってしまっていました。スタート地点付近は、近くに巨大箱物もできていてきれいな公園として整備されていてとても新鮮でした。細川忠興陣跡、黒田長政・竹中重門陣跡、本田忠勝陣跡、藤堂高虎・京極高知陣跡、福島正則陣跡、脇坂安治陣跡などは今回が初チェックでしたし、松尾山城の散策マップも手に入れることができて収穫の多いウォーキングとなりました。参加費1000円でタオルが頂け、バナナ、ペットボトル飲料、キャンディーが供されるなどお得感が高かったです。松尾山城は先を急いでしまったためくまなくすべての郭を回れたわけではないので、また機会があったら訪れてみたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

天守の写真はいいのが撮れた (2024/02/12 訪問)

古久留里城で迷子になって久留里城の天守曲輪に入れなかった後で訪ねた大多喜城では天守が臨時休館日だった。まったくもってなんて日だ。でも青空がやたらと綺麗だったので天守の写真だけはいいのが撮れた。

+ 続きを読む

小城小次郎

復旧は進んだだろうか (2024/02/12 訪問)

訪ねた2月はまだ久留里城の天守曲輪が災害復旧工事中で立ち入れず、古久留里城は台風のせいか遊歩道や案内板が一部消滅していて正真正銘迷子になった。今はそれぞれどうにかなっているのだろうか。

+ 続きを読む

しんちゃん

八幡平の城跡 堀跡 (2021/12/31 訪問)

本郭の北東にも曲輪が配され、本郭と北東の郭(二の郭)の周囲には幾つもの堀切が配され、遺構を良く残しています。
特に二の郭の北側と南側には堀切が二重に切られており、基本に忠実な縄張りを有しています。歴史に残るような戦いの記録が無いようなので、おそらく第二次高天神城の戦いの後に廃城になったのではないかと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

八幡平の城跡 新野氏の詰城で武田軍による改修を受ける (2021/12/31 訪問)

静岡県御前崎市新野の八幡平の城は今川系新野氏の舟ヶ谷城の詰城とされています。元々は単純な縄張りだったようですが「長篠・設楽原の戦い」の後の天正年間初期(1578年ごろ)に高天神城への軍道の押え(繋ぎの城)として改修を受け、多くの堀切、横堀、馬出などが整備されたようです。
歴史的な意味合いとしては比較的地味な城ですが、山城(平山城)としての遺構を多く残る良城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

怨霊が漂っていそう。 (2024/09/28 訪問)

田城城は九鬼岩倉神社が城址とされています。九鬼嘉隆の兄で九鬼家当主・浄隆の城とされ、浄隆の死後、息子の澄隆が家督を継ぎますが、まだ幼かったため成長するまで嘉隆が補佐役を務めたとされています。嘉隆は後に信長に仕え水軍を率いて活躍し第二次木津川口の戦いの勝利にも貢献します。
天正12年(1584)九鬼家当主・澄隆が病死し嘉隆が九鬼家の家督を継ぎます。澄隆の死は嘉隆による毒殺が疑われているようです。
そんな嘉隆も関ヶ原の合戦では西軍に付き、西軍が敗北した際に答志島に逃れ、家臣の勧めで自害したそうです。

田城城を訪問した際には、すでに暗くなってきておりました。なんとなく城址としての雰囲気はありますが、遺構らしきものは見当たりませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

南東から訪れるべき (2024/09/28 訪問)

前回、訪問した際にハンターのいた北側から入って行ったのですが、ここからだと道が途切れていて途中から直登に近い感じになります。城址の場所は合っているはずなのですが、藪がきつくて見通しが悪い。土塁らしきものがあるような気がするが間にヤブが立ちふさがります。今回は最高所まで登って元来た道を帰りました。
イオさんの投稿にあった南東側の登城口から登るべきでしたね‥。今回の登城で3回目になりますが、初回は写真が喪失して、2回目は頓挫。これは4回目もありそうですが季節を選びたいですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

山頂は土砂降りだった…☂ (2024/07/05 訪問)

新鳥栖駅観光案内所でレンタサイクルを利用。天候は曇りだったので,安堵してました。ところが,九州横断自動車道の高架をくぐったあたりから小雨が降ってきました。まだ大丈夫と決行しましたが,山頂に近づくにしたがい土砂降りとなりました。足元が滑りやすいワケではなかったので,サクサクと登城しました。
麓の農家ではヤギが放たれておりビックリしましたが,人間慣れしている様子でした。往路も復路も目が合いましたが,復路ではびしょ濡れになった姿を鼻で笑われた気がしました…。
一通り散策できたのですが,モヤがすごくて失敗写真のヤマとなりました。石垣系はほとんど失敗してました…<泣>。
曇り空の新鳥栖駅観光案内所に戻ったら,勝尾城は土砂降りということに驚かれました。
『やっぱり,もってるんだナ…☂』
雨男健在です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ44