たじみくにながてい

多治見国長邸

岐阜県多治見市

別名 : 多治見城
旧国名 : 美濃

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正中の変 (2024/11/10 訪問)

 多治見国長は、美濃守護土岐頼貞の一族で、多治見郷に在住したことにより多治見氏と称しました。正中元年後醍醐天皇の密旨を奉じて、鎌倉幕府討伐を計画しますが、この密事が密告により露見し国長の宿所京都錦小路高倉の邸が六波羅探題の将小串三郎左右衛門尉範行に襲撃され国長は36歳で非業な最期を遂げました。鎌倉時代末期の地味な武将ですが、多治見まつりでは「多治見国長公を中心とした美濃ゆかりの武将と華やかな奥方による武者行列」(多治見市HPより)が行われる有名な武将です。
 遺構がなく石碑だけの城址などは2度行くことはほとんどないのですが、近くを通ったので寄ってきました。JR多治見駅から徒歩約15分多治見銀座商店街に石碑と説明板があります。

余談
 多治見市の名物は鰻だそうです。市内には鰻屋が多く20軒以上の店があります。老舗の多くは土岐川の近くにありますが、かつて川をいけす代わりに使っていた名残ということです。昔から窯業が盛んで陶工たちが体力回復のためよく食べられていました。また内陸なので新鮮な海の魚は食べられないかわりに陶器商人の商談成立などの祝い事で寿司の代わりに鰻が食べられるようになったという説もあります。自分は多治見国長館石碑から徒歩5分くらいの場所にあるその名も「うなぎや」さんという店でうな丼をいただきました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:多治見国長邸 (2024/09/24 訪問)

多治見駅から徒歩15分弱で、多治見国長邸跡(35.332910、137.129583)に着きました。

多治見国長(1289-1324)は、美濃国(岐阜県南部)の守護・土岐頼貞(ときよりさだ)の同族。
後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加するも、一族の妻の密告により計画が発覚します。
国長公の京都の宿所は六波羅探題の軍勢三千余騎により包囲されますが、わずか20人で勇敢に戦った末に非業な最期をとげたそうです。
これを「正中の変」といい、「太平記」などにも記されているようです。

多治見銀座商店街アーケード通りの脇に多治見国長公邸跡がポツンとあるだけです。
多治見国長公遺碑前に猫様が鎮座(守り猫かな?)してました。石碑や説明板等の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桜城(城びと未登録 愛知県豊田市)を目指す為、多治見駅から電車(JR➡愛知環状鉄道)で新豊田駅に向かいました。

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しんちゃん

多治見邸リターンズ。土岐氏の流れを汲む多治見氏の館跡。 (2022/10/22 訪問)

久々に近くを寄ったので訪問してみました。館の主の多治見国長は正中元年(1324)
京都で非業の最期を遂げますが、地元の多治見市では人気があるようで「多治見まつり」
の武者行列の中でも主役の扱いを受けているようです。土岐氏の流れを汲む饗庭氏の
一門らしく中央の石碑には桔梗の紋が彫刻されています。

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しんちゃん

すごい人の屋敷跡と知らずに (2016/11/20 訪問)

7年間の写真データが出てきたので掲載させていただきます。
町中にひっそりとお墓のようなものがたたずんでただけなので
ふーん、といった感じで2枚しか写真を撮っていませんでした。
しまった、もっと写真を撮っておけば良かった。
それを言ったらきりがないのですが、この多治見国長氏、ちょっとした有名人のようなのです。
後醍醐天皇の討幕計画に参加しようとして密告されて
三千の兵相手にわずか二十騎で勇敢に戦いものの見事に玉砕したらしいですね。
いやあ、そんなすごい人の屋敷跡だと知っていたら
もっとじっくり調べておけばよかった。
それを言ったらきりがないんですけどね。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 多治見国長
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 多治見氏
遺構 消滅
指定文化財 県史跡(多治見国長邸跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県多治見市新町2
問い合わせ先 岐阜県教育委員会社会教育文化課
問い合わせ先電話番号 058-272-8754