高水寺城は北上川の西に位置する独立丘陵の上に築かれていました。建武2年(1335)足利尊氏が斯波高経の長子・家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力の拡大を狙いました。元々、斯波氏は足利泰氏の長男。家氏が斯波郡へ下向し、斯波氏を称したことに始まるとされています。家長以降に本格的な城郭化が進んだと見られ、最頂部が本丸とされています。
本丸には土塁が残り、南部の運動公園周辺が二の丸(若殿屋敷)とされ、本丸の北東が天王平(駐車場)とされ、さらにその先に姫御殿があります。本丸には御殿跡の標識があり、愛宕神社が祀られ、かなりの広さが有りました。
家長以降の斯波氏は7代~10代続いたとされ、足利氏の支流として斯波66郷を支配し「斯波御所」と呼ばれますが、室町時代後期には三戸南部氏との対立が激しくなり、九戸政実の弟弥五郎を入婿に入れるなどして、平静を保ちましたが、やがて家臣の離反が相次ぎ天正16年の石清水右京の訪叛を機に南部信直の攻撃を受け、斯波詮直は大崎氏の下へ逃亡し、戦国大名高水寺斯波氏は消滅しました。
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