ひづめだて

樋爪館

岩手県紫波郡

別名 : 樋爪舘、比爪館
旧国名 : 陸奥

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明石小学校北東角の樋爪館跡案内板
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カズサン

奥州藤原氏系樋爪氏の居館 (2024/05/22 訪問)

 高水寺城を終えて南下約4km程の国道4号線沿い明石小学校、薬師神社、五郎沼辺りが樋爪館跡全体に成るようです。
 樋爪館は東北城探訪3日目岩手県4城目で初登城。

 駐車場:五郎沼古代蓮南のジャリ駐車場は有る、私は橋爪館跡史跡マーク地に路駐、箱清水公民館の東前道幅寄せ路駐。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 箱清水公民館と薬師神社参道がグーグルマップの樋爪館跡史跡マーク地、同じエリアに薬師神社由緒と大荘厳寺跡の石碑、明石小学校北東角に樋爪館跡案内板、五郎沼の蓮池に平泉から株分けされた古代蓮が植わってる、更に南に砂利道の公園駐車場、東は五郎沼、五郎沼駐車場の北側に樋爪館跡周辺の想像歴史絵図、橋爪館の解説板、五郎沼の蓮のいわれパネルが掲示されている。
 想像絵図を見ると平泉の館を小型にした古代ロマンあふれる館跡の様でした、政庁、御殿、寺社、五郎沼と周辺の町屋、五郎沼から北上川を介して平泉への河川交通が容易に考えられます。

 案内板によると
 樋爪館は奥州藤原氏初代清衡の4男で清綱、樋爪氏を名乗り拠点とした、平泉北方の砂金や馬、漆、米などの物産を流通する要所としてと街道、北上川を使い平泉へと繋がっていた。
 頼朝の奥州討伐に樋爪氏も抵抗するも抗いがたく館に火を放ち北の逃亡した。清綱の子太郎俊衡が頼朝に奥州藤原家中唯一一人許されて、この地の戻って寺の住職に成ったという。
 想像絵図を見ると栄華の頃が偲ばれ、史跡は標柱に案内板で830年前の流れを感じる樋爪館跡探訪でした。

 この後は、東北城探訪岩手県5城目寺林城、6城目毒沢城へ登城移動し、先の5月26日と27日に投稿済です。
   

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todo94

献血前の攻城 (2023/06/24 訪問)

もりおか献血ルームメルシーの予約は15:00からなので電車で行けるスポットとして赴きました。「北東北の名城を歩く」や先達のお二人の投稿を拝見しておらず、五郎沼も説明板もスルーしてしまいましたので、いつか再訪せねばなりません。とりあえず、薬師神社と箱清水石卒都婆群には脚を伸ばせたので攻城カウントさせていただきます。

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ぎりょう

比爪系藤原氏の本拠地 (2023/06/10 訪問)

高水寺城訪問の後は国道4号線を4kmほど南に移動して比爪館跡へ。現在は赤石小学校になっている付近一帯が旧比爪館の跡地と云われている。比爪系藤原氏は平泉藤原氏初代清衡の四男清綱の家系で、この地で産出される砂金によって平泉の仏国土(浄土)造営を支えたという。文治5(1189)年の奥州合戦に際して源頼朝が平泉を制圧の後に陣ケ岡に布陣すると、比爪系藤原一族は館に火をつけて逃亡したという。
比爪館は紫波町教育委員会の発掘調査により、御所・政庁・寺院の複合施設で構成され、平泉館(柳之御所)に類似したものと考えられているようだ。
現在、周辺は宅地や小学校となっているが、館跡南側の五郎沼が往時の姿をイメージさせてくれるのみ。(参考文献 もう一つの平泉 羽柴直人著 吉川弘文館)

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トーダイ

館跡の 文化が大切にされています (2019/09/03 訪問)

樋爪館は、平泉初代藤原清衡の四男清綱が派遣され、その子、太郎俊衡、五郎季衡らが
居を構えて周辺を支配されたとされる。樋爪館は赤石小学校の南にある薬師神社一帯に
築かれていたという。(案内板より)

赤石小学校の北東隅<39.535797,141.164364>に案内板を確認後、館跡の薬師神社と
五郎沼の周辺を散策するが、アチコチに案内板があり、古代ハスを保存したり、館跡の
文化が大切にされています。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 藤原俊衡
築城年 平安時代
主な城主 樋爪(藤原)氏
遺構 (発掘調査:掘立柱建物跡、竪穴建物跡、井戸跡)
指定文化財 町史跡(樋爪館跡)
再建造物 説明板
住所 岩手県紫波郡紫波町南日詰箱清水
問い合わせ先 紫波町教育部生涯学習課学習推進室
問い合わせ先電話番号 019-672-5243