寺林城は弘安2年(1279)河野道俊の次男・通重が城主であったとされています。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により浅野六兵衛の陣屋となりました。
光林寺一帯が城址とされ、西側に二重の堀と土塁が残り形状を良く残しています。土塁は三重になっているのかな? 案内板がルンビニー学園側の道路沿いに設置してあるようですが確認はしていません。光林寺を駐車場から眺めると、確かに城郭の風格がありますわ。
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2025/07/14 00:08
北側に二重の堀と土塁が残っている。 (2025/01/04 訪問)
寺林城は弘安2年(1279)河野道俊の次男・通重が城主であったとされています。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により浅野六兵衛の陣屋となりました。
光林寺一帯が城址とされ、西側に二重の堀と土塁が残り形状を良く残しています。土塁は三重になっているのかな? 案内板がルンビニー学園側の道路沿いに設置してあるようですが確認はしていません。光林寺を駐車場から眺めると、確かに城郭の風格がありますわ。
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2024/05/26 09:26
一遍上人ゆかりの光林寺境内に遺構在り (2024/05/22 訪問)
国道4号線西側約1.2km程の低い丘陵地に在ります。
住所:岩手県花巻市石鳥谷町中寺林第12地割(光林寺)
駐車場:光林寺東脇参拝者ジャリ駐車場を利用、もう一つ南の山門前に舗装参拝者駐車場有り。
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
ここは時宗林長山蓮華光院光林寺で時宗の開祖一遍上人ゆかりの寺も有ります、寺林城の遺構は北西側に福祉施設ルンビニー苑・学園南東側境界に隣接して存続しています、松、杉樹木に覆われてこの時期草叢にも覆われて良く観えません北西角を中心に西側、北側に二重土塁、二重堀が繋がっています。
案内解説板が北西角の土塁上に在り、光林寺由緒書が南西の墓地入り口に在ります。
また、光林寺西側には樹木が茂り土塁・堀が有りそうな感じも見受けられました?
本堂を参拝し南側の山門辺りは工事中の様でしたので寄りませんでしたが、城郭放浪記さんの写真館では立派な門と構の様です。
寺林城は伊予河野氏の流れにて築城し光林寺に寄進、一遍上人とのつながりで時宗へ、戦乱の明け暮れで焼失、秀吉の奥州仕置きで浅野氏が陣城し寺領安堵、江戸期には南部氏より70石の寄進。(由緒、案内板抜粋) 由緒書、案内板を写真添付しますのでお読みください。
今回の青森三内丸山遺跡、安倍氏の福島城、13湊遺構を見たいと、車中1泊ホテル4泊6日で青森、岩手、秋田、宮城の未踏、既踏の城・遺跡を探訪し城びと未投稿の城にもなって居ましたので初登城しました。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 河野通重 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 河野氏、浅野六兵衛 |
廃城年 | 天正20年(1592) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 岩手県花巻市石鳥谷町中寺林 |