青森では安倍氏安藤氏を偲んでの福島城、唐川城、十三湊遺跡の探訪をしましたが平安末期、前九年の役安倍貞任と源義家との抗争、歌合せを偲んで唯一未踏になっていた厨川柵を初探訪しました。弘前から結構遠く約140km程あり途中にはSAで雄大な岩手山を見る事が出来ました。
駐車場:特に無し、厨川八幡宮の手前参道横の原っぱに路駐(39°43'14"N 141°07'34"E h=150m)
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
厨川八幡宮の地が城びとの厨川柵の指定地、背後は北上川の崖となっているが樹木が茂り良く分からない、県道220号線に出て道沿いに壕が確認できる、同じく道沿いに安倍館遺跡(厨川柵、厨川城跡)の解説板と安倍館遺跡の標柱が在る、そこから50~70m南に進み東の北上川方向へ進むと赤い鳥居の稲荷神社、隣接してこじんまりした宗任貞任神社があります、此処が城郭放浪記さんグーグルマップの厨川柵指定地と成っていますが同じエリアでしょう。
少し南に安倍館公民館が有りますが公民館の南側は東の北上川に伸びる横堀が確認できます、もう一本安倍館遺跡標柱の処から同じく東に伸びる横堀が在ります。
神社鳥居の額に宗任・貞任の名が見えますと胸が熱くなります、貞任の思いが後の奥州藤原氏、中世安倍安藤氏へ奥州日之本将軍に、十三湊の繁栄に繋がったのでしょう。
解説板に依りますと
発掘調査によると中世工藤氏の居城厨川城跡と確認されている、厨川城は文治5年(1189年)源頼朝の御家人工藤行光が地頭に任じられて以来、天正20年(1590年)廃城に成るまで約400年岩手郡を治める拠点となっていた。今も残る深い堀は工藤時代のもの、と記されていました。
語り継がれた思いを大切に貞任の厨川柵で脳内整理。
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