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にのまる

11年6ヶ月27日で悲願達成 (2025/06/30 訪問)

「根室半島チャシ跡群」として国史跡に指定されている24箇所のうちどこに行こうか悩んだ末、以下の2箇所に行って来ました。

【ポンモイチャシ】
・釧路8:21→(花咲線)→10:53根室
・根室11:05→(根室交通バス)→11:49納沙布岬
で向かいました。
納沙布岬バス停から徒歩数分のところにある標柱が目的地です。
草叢の状態によっては見つけられないかも……と覚悟していたので、『根室半島チ』(まで見えた)の文字が読めた時は感動しました。
周辺は相当繁っていたので標柱が隠れないように刈ってくださっているのかなと思いました。本当にありがたいです。
標柱までかすかに踏み跡がありました(todo94 さんの👟でしょうか⁉︎)が、掻き分けて行くのは無理っぽかったのでここまでにしました。次の方への道しるべになれずにすみません。
帰りのバスの時間(12:40発)まで納沙布岬を見学。北方領土について勉強不足を痛感しました。

【アツケシエト2号チャシ】
納沙布岬からバスで根室に戻り、観光案内所で電動自転車を借りました。急坂、長坂が多かったので電動にしてよかったです。
少し不安な道ではありましたが、海岸際に標柱があるという情報をもとに自転車を漕ぎました。
あったー‼️
『アツケシエト二号チ』(まで見えた)と読めてほんとにホッとしました。
標柱の写真を何枚も撮ったあと、二号があれば一号もあるかも?とそのまま自転車で進んでみました。しかし、風が強く、このまま突進したら海にドボンしてしまうかもしれないと思ったのでギリギリの手前のところまでで引き返しました。

残りの時間で“日本最東端の駅”を明け渡した旧東根室駅に行くかエスカロップのお店に行くか悩んで、エスカロップの「どりあん」さんに行きました。おいしかったです!

✳︎✳︎✳︎
観光案内所で100個目のスタンプであることを伝え、記念写真を撮っていただきました。スタッフの方、思い出の一枚をありがとうございました。

11年6ヶ月27日で遂に100名城スタンプラリー制覇です。
“ニッポン城めぐり”でお友達の赤い城さんには攻略当日、リア攻めポチでご報告済みです。その節はお祝い伝言ありがとうございました。

この10年余りの間に私生活でもいろいろあり、“お城にでも行かないことにはやってられない”という日々もありました^^;
スタンプ帳を片手に全国をまわり、たくさんのお城と人とに出会えたことはとても幸せでした。ボロボロのスタンプ帳、大事にします。

まだまだ城旅は続きます!
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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ぴーかる

牛込城 (2025/05/17 訪問)

【牛込城】
<駐車場他>未調査
<交通手段>牛込見附跡から徒歩で築土城跡・御殿山城跡⇒そのまま徒歩で。

<感想>1泊2日江戸満喫旅5城目。1日目の江戸城外濠巡りのついでに来ました。牛込城は戦国時代中期に後北条氏に仕えた牛込氏の城館だそうです。現在は光照寺になっていて、4時過ぎていたので門扉がピシャっと。すぐ横を通る神楽坂ってラーメン通りになっているようで、沢山ラーメン屋が並んでいました。ここで夕食すればよかった。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

浦城散策2/2(畝曲輪~井戸跡) (2025/05/24 訪問)

畝曲輪はこの城の見どころのひとつだと思います。ただし,この日は立入禁止措置が取られていました…<泣>。
武者溜まりとして機能した二の丸からの眺望はとても良いです。

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小城小次郎

先代伊達政宗像 (2024/12/01 訪問)

大手門復元も視野に入れた総合整備開発事業は何と令和20年度まで続くらしい。長生きしなければ。本丸に立つ伊達政宗騎馬像の先代上半身は戦時供出の難を逃れたもので、新設された緑彩館のそばに移設されていた。

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朝田 辰兵衛

浦城散策1/2(本丸~登城口) (2025/05/24 訪問)

浦城,けっこう大変でした。登城口から余裕で行けるのはほんの少し。東側腰曲輪に向けてほぼほぼ直登です。もしかしたら,もっといいルートがあるのかもしれません。
カモシカ遭遇は想定していましたが,現れませんでした。ま,クマが出なかっただけ安堵です。

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しんちゃん

粟屋勝久の国吉籠城 (2016/08/14 訪問)

国吉城は佐柿国吉城の名でも知られ、若狭国の守護大名・武田氏の家臣であった粟屋勝久によって戦国の城として改修されました。勝久は越前朝倉氏の数年にわたる攻撃に耐え、粟屋勝久の国吉籠城として後世にも評価を受けています。籠城戦は永禄6年(1563)から永禄12年まで行われました。そのうち大きな戦いは二度ほどで、永禄6年の戦いでは武士200人、百姓600人ほどが籠城し、勝久は百姓勢を上手く使い、百姓が大石・古木を落として敵を苦戦させている間に武士団が敵を蹴散らし、攻め手は四分の一を失い敦賀まで退却しました。

麓にある居館跡は城主の者とされ、石垣も残っています。山上の城の主郭周辺にも整備中の石垣が有りました。


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しんちゃん

河越城の戦い (2013/12/25 訪問)

河越城は関東管領扇谷上杉氏が古河公方足利成氏に対抗するために太田道真・道灌父子に命じて長禄元年に築いたとされています。扇谷上杉氏はこの河越城を6代、80年に渡って居城としていました。大永4年(1524)北条氏綱は江戸城を攻め落とし、同6年には河越城を攻め、まだ若い上杉家当主の朝定は松山城に逃れ、ついに北条氏は河越城を手中に納めました。
扇谷・山内両上杉氏と古河公方足利晴氏は北条氏康に対抗し連合軍を結成し、大軍を以て川越城を包囲しますが、相手が少数と油断している隙を突いて北条軍は夜襲をかけて敵を撤退に追い込みました。

豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家康が関東に移封になると酒井重忠が1万石で川越に入り、江戸時代には川越藩の政庁として存続し、現在は本丸御殿の一部が残っています。

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イオ

六角氏の隠れ城(主郭) (2025/05/04 訪問)

室町中期に六角高頼の命により三雲典膳が築いたとされ、甲賀五十三家に数えられる三雲氏代々の居城となっています。三雲氏は六角氏を重臣として支え、観音寺騒動や織田信長の上洛の際には観音寺城を落ち延びた六角承禎や六角義治を三雲城に受け入れていますが、織田方の佐久間信盛に攻められて落城しました。

山頂手前の登城口まで舗装道が続いているので、登城口前の駐車場から登城開始。登城口には城址碑と説明版、リーフレットの入ったケースが設置されています。登城口からすぐに分岐があり、八丈岩へは帰りに立ち寄ることにして、まずは大手道へ。大手道沿いには新しい感じの石垣があちこちに見られ、城郭遺構ではなさそうだけど…と思っていると、「近代の治山石垣」との表示が設けられていて、城好きの視点に立った案内だなぁ、と妙に感心させられました。さらに登った石材が散乱しているあたりは「近代の採石場跡」とのこと。この石を用いて治山石垣を積んだのでしょうね。

採石場跡を過ぎて坂道を上ったところが主郭です。主郭の北辺から東辺にかけて石垣が遺り、石垣は東辺で内側に折れて枡形虎口を形成しています。主郭の石垣には治山石垣よりはるかに大きな石材が用いられていて、矢穴がくっきりと残っています。枡形虎口を抜けると広大な郭が広がっていて、石組みの井戸もありました。西辺には尾根の削り残した長大な土塁が続いています。土塁の向こう側、主郭西面には2条の竪堀を落としていました。

主郭に続いては土塁伝いに山頂部の郭群に向かいます(続く)。
 

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todo94

三連休初日・献血前の攻城 (2025/07/19 訪問)

博多に前泊して朝8時過ぎに熊本駅に到着しました。駅から熊本城へは徒歩でのアプローチです。グーグルマップのルートは古城堀端公園の近くを通っていました。坪井川の先に熊本城大天守を望むことができました。復興城主証で湧湧座には無料で入ることができます。9時の開館からしばし展示を楽しんで10時予約の献血ルームに向かいました。下通り献血ルームでは2回、献血をしていますが、COCOSAに移転後は初めての献血でした。

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赤い城

松鶴城 徳島県阿南市 (2025/07/06 訪問)

城びと未登録城です。
椿泊半島の先端に位置し、阿波水軍の拠点でした。
行くまでの道路は狭く、それでも地元の方の往来も多いのでかなり手前の漁協近くの広くなった場所に車を置き歩きました。
それでも30分程度で城跡の椿泊小学校に到着。
潮の香りが心地よいです。

小学校や周囲の民家には石垣が残っています。
小学校前に石碑も立っており、そこから上に登る道があったので登ってみました。
登りきったところは小学校のグラウンドでおそらくここが主郭だったと思います。

椿泊集落の道にはクランク部分もあり、町並み全体で守っている感がありました。

【見どころ】
 ・小学校周辺の石垣
 ・城を守る造りの城下町

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にのまる

🦌🦌 (2025/06/29 訪問)

ハルトルチャランケチャシから徒歩移動しました。
住宅街に小山を発見。
おーここだ!
順調に来られてホッ。
さっそく博物館のスタッフさんに教えていただいたポイントに向かおうと思いつつ小山のてっぺんを見上げると……何かいる😲
大きな角の鹿が2頭🦌🦌。
鹿は列車の車窓からも見えたし、町なかにもいるんだろうなとは思っていましたが、以前清里の森の中で大きな鹿と対峙してフリーズしてしまったことを思い出してドキドキしてきました。
モシリヤチャシは埋蔵文化財調査センターの職員さんのガイドで見学可能となっています。機会があればお願いしたいですが、野生動物に対する知識も充分に持っておかなければと思いました。
周囲を一周したあと、釧路川や幣舞橋の眺めを楽しみながらホテルに向かいました。
今回、地道に貯めてきた20ポイントを投入し、東横イン釧路十字街に2泊しました。

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イシテル

水堀に映える逆さ天守 (2025/07/20 訪問)

令和8年3月末で天守閉館となりますので、その前にと思い行ってきました。
朝8時に到着し、開館時間9時まで堀を一周しながら楽しんでいましたら、天気も良く水堀に映る逆さ天守や櫓、石垣が綺麗で写真撮影。
撮影した写真を投稿します。

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しんちゃん

満願寺の裏山に道が続く (2025/06/28 訪問)

満願寺城は満願寺の裏山が城址とされ。お寺の案内板にも山城についての記載があります。訪問しても良さそうな雰囲気が出ているのでありがたくお邪魔しました。西尾根も城址の様なので、まずはそこから見に行くことに。東西のピークの間が堀のようになっていて、西の墓地の周辺に郭の様な雰囲気はありますが、明確な遺構は見当たりません。
ほどほどで引き返していくと東の主郭に至る標識を発見。登って行くとすぐに主郭に到着します。主郭は崩落個所が有るためロープが張ってあるなど、ある程度の制限はありますが、木々の間から宍道湖を見ることが出来ます。
満願寺城は宍道湖の北の丘陵一帯が城址とされ、戦国時代には北側も佐田水海が広がり三方を水に囲まれていたようです。大永元年(1521)湯原信綱によって築かれ(6年後の説も)、後に湯原春綱は毛利元就に下り毛利方の水軍として活躍しました。
永禄12年からの尼子勝久の再挙を図る戦いでは毛利・尼子両氏で満願寺城を巡って激しい戦いが繰り広げられています。

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しんちゃん

春日神社南の三重堀切と曲輪 (2025/06/29 訪問)

今回も口コミをよく読まずに来ています。城めぐりをしている時は、忙しくてゆっくり見ている時間は無いし、普段皆さんの投稿は読んでいますが3000城全部を覚えるのは無理ですわ。
改めて見ると石井垣城の投稿も人によって内容が様々です。私も春日神社の北側の曲輪や池の周辺を回って見ましたが、藪化も進んでいるので比較的散策しやすそうな南側の三重堀切を見に行きました。堀切は全部で5つあったと思いますが、主な堀切が三つ東西に長く続いていて、堀切に挟まれた台地が東西に長い曲輪となっていて土塁を備えており、その土塁にも浅い堀が付いているようでした。それで堀切が5つあるように見えたのだと思います。この辺りは夏でも遺構が比較的判別しやすいので一見の価値はあると思います。

南北朝時代の初期には伯耆国の守護代・糟谷弥次郎元覚の拠点であったとされ、元弘3年(1333)船上山合戦の後に南朝方の名和長年に攻撃され落城し、糟谷氏は滅んだとされています。14世紀中ごろには国人領主・箆津氏の居城であったようです。


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ぴーかる

御殿山城 (2025/05/17 訪問)

【御殿山城】
<駐車場他>築土八幡神社鳥居前の交差点にコインPあり。
<交通手段>牛込見附跡から徒歩で築土城跡⇒そのまま徒歩で。

<感想>1泊2日江戸満喫旅4城目。1日目の江戸城外濠巡りのついでに来ました。城びとポイントの西の「御殿坂」の地点に標柱があり(詳細は添付写真読んで下さい)ます。遺構は残っていないので標柱だけ撮影しました。東京のちょこ城、標柱があるだけまだましかな。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

あまりの暑さにアタマが回んない・・ (2025/06/29 訪問)

赤崎山城は尼子十砦(じっさい)の一つとされています。尼子十旗と別に十砦があるのですがウィキにほとんど載っていないのが悲しい。
城郭大系にも載っていたりいなかったり、赤崎山城には原民部少輔がいたようですが詳細は不明・・島根県の山城の本が欲しくなってきた。とりあえず北の賀茂神社の脇から伸びる道を選択したのですが、これが「失敗」。
東の山辺大堤ルートから登った方が絶対良いですね、とくに「この季節」は。北ルートから登城したのですが、道が草ぼうぼうで、尾根に直登で取りついたのだけど、足元が良く滑るので大変でした。おまけに主郭まで尾根上は酷い藪が延々と続き、正直帰りたいと思いましたが、せっかく途中まで来たので最後まで行くことに。
途中堀切らしい箇所があり、東ルートへの分岐箇所を通りすぎて主郭に到達しましたが主郭はヤブと化していました。冬は雪が降るかもしれないし、登城するタイミングの難しい城ですね。
周辺を散策した後は東ルートで降りました。途中、足元が見えず注意が必要な箇所は有りましたが、来た時より全然ラクです。でも北口に戻るのに、最短ルートの反対側を迂回して延々と時間と体力を浪費して戻って来ました。6月末といっても30度を余裕で越えているので頭が全く廻っていないんですよ。暑いと判断が鈍るのは本当みたいです。

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しんちゃん

熊野神社 (2024/12/30 訪問)

新井宿城は善慶寺の裏手の山が城址とされています。ただし推定地で城郭大系にも本当に「さらっ」と紹介されています。とりあえず熊野神社の写真が1枚だけ・・ちゃらり~
口コミを見ると善慶寺の「新井宿義民六人衆」も訪問されているようですが・・行ってません。たまには口コミも見ておかなくてはいけませんな。新井宿村に梶原日向守が51貫文役高を有していたようです。熊野神社の周辺は道が狭くて難儀しました。

まったく関係ないですが、残りのラーメンの写真は名古屋市東区徳川町のラーメン店「如水 本店」の写真です。塩ラーメンが人気の店でいつもお客さんでいっぱいですが、すこし辛目の「たいわん」もメチャおいしいです。あっさり系なので年齢問わず食べられるのも良いですね。

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しんちゃん

岩屋堂要害 (2025/01/05 訪問)

岩屋堂城は本丸の周辺に遺構を良く残しています。やや南西寄りに虎口と見られる箇所が有り、周囲に土塁が良く残っています。本丸の川沿いの周辺には帯状の腰曲輪が取り巻いています。
鎌倉時代に周辺を所領とするに及んで、江刺郡に千葉頼胤の三男・胤道が配されたとされています。胤道に関しては豊田城主であったとする説もあるようですが、詳細は不明。南北朝時代の以降は葛西氏の一族・江刺氏が江刺郡の惣領職となり、江刺氏が勢力を増すにつれ葛西氏との争いが多くなり康安元年(1361)に両者の合戦が有り、文明17年(1485)と明応4年(1495)にも江刺降見と葛西政信の合戦がありました。後者の戦いで江刺氏が敗れたため、岩谷堂城には政信の孫・重胤が入り郡内を取りまとめています。
豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となった後は木村吉清の家臣・溝口外記が入りますが葛西大崎一揆で討死し、一揆の鎮圧後は伊達家の所領となり万治2年(1695)岩城宗規が5000石で入り、岩屋堂伊達氏の治める要害として9代続いて明治維新に至ります。

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ぴーかる

築土城 (2025/05/17 訪問)

【築土城】
<駐車場他>築土八幡神社鳥居前の交差点にコインPあり。
<交通手段>牛込見附跡から徒歩

<感想>1泊2日江戸満喫旅3城目。1日目の江戸城外濠巡りのついでに来ました。築土城は城とはありますが、戦国時代に上杉氏が築いた塁だったそうで、詳細は分かっていません。遺構は残っておらず、現地は築土八幡神社が小山の上にあります。神社お参り、撮影して終了。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

桜の園に大日様。 (2025/06/28 訪問)

皆さんの情報投稿にあるように『福性寺』の駐車場を借りました。
散々『福性寺』を観て周り、向こうの「飯沼城」にお邪魔しました。
*『福性寺』が城趾と思い、途中で皆さんの写真と違うと気付いた。が正解です。
皆さんが、大体1枚目に投稿している「飯沼城」の入口から入城しました。
綺麗に土塁に守られてました。
説明板には桜園氏の御名前がありましたが、どのような活躍をした方かは不明です。
築城と廃城もはっきりしていないらしく、取った取られたを繰り返した地域なのでしょう。
塚のようなこんもりした所がありました。
説明板に『大日様』とあり北の郭にあったのを、小学校建設の為、こちらに移設されたんだとか。
桜の木々があり、春は綺麗なのでしょう。
今頃は蝉の大合唱で賑やかなのかも。

私の知り合いに、歴史好きの方がいます。
ただし、飛鳥時代一択なんだそうです。
1人も気楽だけど、こんな時に城友さんが欲しいと思った「飯沼城」攻めでした。

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