天神山城址の仙川を挟んだ向かい側にあるその名も新川・島屋敷通りという団地が島屋敷跡となります。
遺構は残っていませんが、地図で見ると仙川を水濠とした縄張りを偲ぶことができます。
また、解説板も設置されています。
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2025/08/29 17:15
2021.2.20登城 (2021/02/20 訪問)
天神山城址の仙川を挟んだ向かい側にあるその名も新川・島屋敷通りという団地が島屋敷跡となります。
遺構は残っていませんが、地図で見ると仙川を水濠とした縄張りを偲ぶことができます。
また、解説板も設置されています。
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2025/08/29 08:28
【宮本武蔵】(2)島田美術館 (2025/08/26 訪問)
宮本武蔵の続き(2)です。
まず武蔵の資料が数多く残され展示されている、熊本市内にある「島田美術館」へ行ってきました(館内撮影不可)。熊本城そばの桜町バスターミナルから[U4-1]城西校北行に乗り15分、終点で降りた場所にありました(写真①④)。
武蔵は晩年を熊本で過ごします。ここには古美術研究家の故「島田真富」氏が収集した、武蔵ゆかりの品々が数多く展示保存されています。最も有名な復元された晩年の肖像画・島原の乱出陣図・13才の肖像像・枯木鳴鵙(もず)図・愛用の名刀「無銘金重」・二天記(写本)・武州伝来記(写本)、巌流島での木刀・五輪の書(レプリカ)などが展示されており、じっくりと拝見させていただきました。それを写真でお伝え出来ないのが、とても残念です。AJさんも訪れられた事があるようですね。今でも立体入場券もらえましたよ!(笑)(写真③)。
特に「枯木鳴鵙(もず)図」には、繊細で鋭い武蔵の眼力を感じました。また晩年の肖像画の復元には相当苦労されたとの説明がありました(写真②の原画)。今の我々は、あたりまえのようによく目にする絵ですが、400年も経っていたので原画はかなり傷んでいたようです。修復の様子の写真や実際の修復された原画を見ると、よくここまで修復できたなと感動し、関係者の方々の執念を感じました。
ではこれから宮本武蔵という人物の人生を追って、私もここから [武者修行] の旅を始めようと思います。十数回のシリーズになると思いますが、もし御興味ある方に読んでいただければと思います。またよろしくお願いします。
では武蔵の最大のライバルである、小次郎の伝説が残る場所からまず始めていきます。次は(岩国城)に続きます。
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2025/08/29 07:19
山口県庁 (2025/07/13 訪問)
山口県庁が城址で駐車場も利用可能です。
旧山口県庁舎は重要文化財、旧県会議事堂は県政資料館となっています。
表門は現存、枡形があり、周囲には水堀が残っています。
堀の石垣には当時のものと昭和のもの、新旧の石組みが見られます。
東側には石垣や砲台跡もあり、砲撃戦を想定した城であったとされます。
とはいえ、表向きは館でした。
しかし実際には稜堡式の八角形の縄張を持っていてどう見ても城であったと言えます。
【見どころ】
・現存の表門
・水堀
・東稜堡の石垣
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2025/08/29 06:45
北海道&東日本パスで青森の城めぐり① (2025/08/17 訪問)
長い夏季休暇がとれる年だったので、仏ヶ浦をターゲットにして下北半島のツアーに申し込んでいたのですが、2件とも催行中止となってしまいました。よくよく考えてみれば時間がたっぷりあるならば7日間有効の北海道&東日本パスを利用して下北半島に行けば良いわけで、急遽、旅を計画した次第です。しかもツアーでは不可能な青森の城めぐり迄できてしまうなんて将に棚から牡丹餅です。
実家から戻ってきてすぐに東京に向かいまず1泊。次の日は常磐線経由で普通列車を乗り継ぎ八戸に1泊、そして八戸周辺の青森の城めぐりを挙行しました。18日(月)に下北半島の奥まで脚を伸ばすため、17日の泊は、むつ市にとりました。したがって、レンタカーを借り受けた時間は7時間だけ。これで、回れるだけ回るという寸法です。8時に出発してまず向かったのは、田子町の田子城。田子中学校に立派な牛尾館の城址碑といくつかのカラフルな説明板が建っていました。中学校は土日でも部活動をやっていると思われますので、無人のお盆休み中の攻城は、将にベストだったといえそうです。道を挟んで佐々木館もありますが、遺構はこれといって目を引くようなものではありません。この城は、南部信直が少年期から壮年期までを過ごし、南部利直の生誕地という歴史の地というところにものすごく価値があると思います。2004年に高橋克彦の「天を衝く」を読了していたので、とても懐かしく思いました。(自分は、九戸・津軽サイドに肩入れしていたのではありますが。)自分にとって大きな魅力を感じるこの城の初投稿が達成できて感無量であります。なお、田子町はニンニクの生産日本一だそうで、路傍にいくつもニンニクのモニュメントを見かけました。青森県産のニンニクを常備している私にとって忘れられない地となりそうです。
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2025/08/29 00:55
2025/08/29 00:14
2025/08/28 23:36
村上城 (2025/05/11 訪問)
登城後ひと月半後に 熊出没で一時入山禁止になりました。
その後
令和7年7月28日(月曜日)正午
入山禁止は解除となりましたが
今後もクマが出没する可能性がありますので、十分注意が必要です
常に新しい情報を仕入れてから登城しましょう
以下、村山市からの注意事項です
・クマの活動が活発となる「早朝」や「夕方」の入山は避けましょう。
・入山時にはラジオや鈴など音の鳴るものを携行し、複数人で行動するなど、クマとの遭遇を避ける対策を行っていただくようお願いします。
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2025/08/28 22:21
2025/08/28 22:15
中曽根神社 (2025/08/28 訪問)
北千住駅からバスに乗り関原二丁目バス停下車。バス停から徒歩2~3分で跡地の中曽根神社へ行くことができます。石碑と説明板がありました。遺構はありません。
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2025/08/28 22:09
2025/08/28 21:59
赤塚公園 (2025/08/28 訪問)
都営三田線西高島平駅から徒歩約15分、赤塚公園一帯が城址です。本丸には城址碑と説明板がありました。南側の乗蓮寺には赤塚城二の丸跡の石碑が建てられていますが、現在では梅林が二の丸という説が有力のようです。
ウキペディアには「本丸跡を示す石碑の他には土塁、空堀、水堀、堀切、切岸など、江戸城を除く23区内の城跡の中では最も多くの遺構が残っている」と記載がありました。ぶらりと散策しただけでは土塁や空堀等はよくわりませんでした。
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2025/08/28 21:28
2025/08/28 20:47
長福寺 (2025/01/07 訪問)
永禄年間(1558~1569)の夏見城の城主は夏見政芳とされています。城址の大部分は長福寺となっており、土塁が残っています。長福寺は永禄年間に夏見政芳によって再興されたとされ、関わりが深かったものと思われます。
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2025/08/28 20:40
2025/08/28 20:26
2025/08/28 20:23
2025/08/28 18:57
2025/08/28 09:32
【宮本武蔵】(1)小倉碑文(手向山) (2025/08/25 訪問)
皆さんは宮本武蔵という人物をどこまで御存知でしょうか? 巌流島の決闘や二刀流で有名な人物である事は少なくとも御存知と思います。
武蔵は謎多き人物ですが、最近新しく発見された資料などにより、今までの我々の知識とは異なった、その真実が徐々に明らかになっているようです。例えば、巌流島で武蔵は遅刻していないとか、武蔵の一撃で小次郎は死んでいないとか、そもそも佐々木小次郎という名前の人物は存在していないとか、宇喜多軍(西軍)に属し岐阜の関ケ原にいたというのは誤りで実は九州の関ケ原で黒田軍(東軍)に属していたとか、大坂の陣では徳川方として水野軍にいたとか、島原の乱では幕府方として小笠原軍にいたとか・・・などなど。
武蔵の事を知るために、まず1級資料の「小倉碑文」が現在も残る、手向山(たむけやま)へ行ってきました。JR小倉駅入口(または小倉城前)からバス[70]に乗り(手向山)バス停で下車(写真⑧)、そこから15分程の坂を登った頂上の手向山公園に碑文はありました。小倉碑文は、子の宮本伊織が父の武蔵から実際に聞いた話を、武蔵が没して9年後に、伊織本人が菩提を弔い武蔵の言葉を後世に残すために建てた、最も信頼できる資料です(写真①②)。武蔵の1級資料としてはこの他にも「五輪の書」や「沼田家記」、2級資料としては「二天記」などがありますが、各々についてはまたおいおい、お話して行きたいと思います。
展望台からは巌流島や関門橋が見えました。とてもいい眺めでした(写真③)。また公園には、その宮本伊織(小倉小笠原藩筆頭家老)の墓や(写真④⑤)、昭和になって建てられた佐々木小次郎の碑もありました(写真⑥⑦)。
次は、武蔵の資料が数多く残る、熊本の「島田美術館」を訪れます。
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2025/08/28 08:22
【赤色立体地図かるた】 (2023/02/11 訪問)
北守り 南は居館 飯盛城
(きたまもり みなみはきょかん いいもりじょう)
南北に長く続く主尾根の曲輪群は、高低差があり東西にのびる支尾根にも小曲輪群を配する北側が守りを担い、千畳敷郭など広大な曲輪を擁する南側が居住スペースだったと考えられていることは、赤色立体地図を見てもよくわかります。
摂河泉 阿淡見渡す 飯盛城
(せっかせん あたんみわたす いいもりじょう)
飯盛山からの眺望は素晴らしく、眼下の大阪平野(摂津・河内・和泉)はもちろん、淡路島や四国(阿波)まで見渡すことができます。見渡す限り全てが三好長慶の勢力下であり、長慶が天下を統べるに相応しい城ですね。
以上で登城済み11城の投稿完了…と思ったら、4城が差替えになりましたので、うち登城済み2城についてはまた来週に追加投稿いたします。
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2025/08/28 07:02
大内教弘の居館 (2025/07/13 訪問)
大内氏館の北側に観光駐車場があり、さらに道路を挟んだ北側が築山館です。
大内教弘が「築山殿」と呼ばれていて、別邸として築いたとされていましたが、発掘調査や文献から教弘が守護職を息子に譲った後の居館だったようです。
跡地は整備され、掘立柱建物跡などが表示されています。
ここには瓦葺きの建物が可能性があるとのこと。
隣接する築山神社の裏手には土塁が残ります。
見える遺構はこれのみですが大内氏が当時、栄華を誇っていたことが伺えました。
高嶺城にも行きたかったですがこの日も猛暑、時間も限られてたので山口城に向かいました。
【見どころ】
・築山神社北西部に残る土塁
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