320mの山城です。詳細不明。
明確な登り口、看板はありません。
きれいな段曲輪をいくつかのぼると
長い主郭に出ます。
この城跡のみどころは、南、南西の
横堀、竪堀群ですね!
明確に残ってます。
山城ファン、土の城が好きな方には
オススメです。
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2025/05/11 12:09
2025/05/11 09:31
南郭(出郭) (2025/01/05 訪問)
(続き)
副郭南西部からは長大な竪堀が出郭とも呼ばれる南郭の北西部まで続いています。竪堀を下りきり登城道を越えて少し上がると、今度は南郭の西側から南側を囲む横堀に至ります。主郭部外周の横堀や竪堀だけでも充分すぎるほどの見応えでしたが、出郭までこれほどの堀がめぐらされていようとは! こちらも倒木をかいくぐりながら堀底をたどり、横堀の南東端から谷に下りて行くと、副郭南東の横堀の合流点から続く竪堀が南郭の東側を走っていました。竪堀と横堀の間から南郭に上がると自然地形の土地が広がっています。自然地形の奥には幾段かの削平地があり、改修途中で廃城になったということでしょうか。南郭はおおむね灌木や藪が茂っていますが、南辺には一部土塁も見られました。
昨年末の城納めとして登城するつもりが龍王山城に時間をかけすぎたため断念し、年をまたいで今年の城初めとしましたが、技巧的かつダイナミックな堀は見応え充分。幸先の良い城初めになりました。手持ちの縄張図には載っていなかったため、登城道の説明板にある東郭奥の水場や南東尾根の堀を見落としてしまいましたが、いずれ再訪したい城ではあるので、その辺はまたの機会の楽しみにしておきましょう。
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2025/05/10 17:29
れきしるこまき企画展「史跡小牧山大手道発掘調査と石垣復元パネル展」 (2025/05/10 訪問)
織田信長が美濃進出のため築城し、小牧長久手の戦いでは徳川家康の本陣となった城です。れきしるこまき企画展「史跡小牧山大手道発掘調査と石垣復元パネル展」が開催されていることを知り登城して来ました。石垣は信長が築いたと推定されています。高石垣ではなく段々に構築される構造となっていて、今は一部が復元整備され少しですが、当時の状況を知ることができます。この城が使われたのは信長のいた時代(約4年)と小牧長久手の戦いの時だけなのですが、他にも空堀や曲輪跡、井戸跡などもあり思った以上に見どころのある城址です。
小牧山の山頂には信長の時代には物見櫓のような建築物があったという説がありますが、現在の建物は無関係の模擬天守です。パンフレットにも天守閣ではなく小牧市歴史館となっていました。この模擬天守は平松茂氏が私財を投じて建設し小牧市に寄贈したものです。そのモデルは西本願寺の飛雲閣というユニークな天守閣です。模擬天守は好きではないのですが、この話を知って少しだけ愛おしくなりました。今では小牧市のシンボルです。
名鉄小牧駅から、こまき巡回バス「こまくる」に乗り小牧市役所前もしくは小牧山前下車。目の前が城址です。「こまくる」は一日200円で乗り放題です。以前に小牧駅から歩いて登城しましたが、20分くらいでした。
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2025/05/10 14:58
鵯尾城 (2025/03/08 訪問)
【鵯尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。鵯尾神社鳥居前、登城口<35.441327, 134.189627>に駐車できます。登城口までは、北東側にある玉津公園より獣よけの網を4箇所開け閉めして進みます。
<交通手段>車
<見所>曲輪・眺望
<感想>転送したら写真全滅だった件、再訪ラスト4城目。現地説明板を要約すると鵯尾城は築城年代不明、鳥取城とともに武田高信の拠点であり南因幡地方からの侵攻に備えた戦略拠点であった。1573年に因幡の甑山城に進出した尼子氏の山中鹿之助と戦ったが敗れ、鳥取城を山名豊国に明け渡します。1575年には毛利氏の家臣が在番し武田高信は城を追われていたと推定されます。諸説ありますが武田高信は後年山名豊国に誅殺されたようです。
駐車ポイント、鳥居のある場所から奥へ進むと登山口の場所に居館の石垣多くあります。近世の集落の石垣か、または当時の居館跡か判別は出来ませんでした。鳥居から1050mの登山です。中間地点に鵯尾神社があります。祠背後の山のピーク行ってみましたが何もありませんでした。そこから山の鞍部を経て再び登り始めます。尾根上の馬場跡に上がるまで小さな腰曲輪が2つあります。現地説明板に馬場⇒三の丸⇒二の丸と名称は付いていますが尾根上の細い尾根曲輪で一応土塁と段を付けている程度です。主郭へは少し登って到着します。中程度の広さで土居も何もありません。登城路の主郭の反対側の尾根には出丸跡があるようですが、低灌木がびっちり生えていて進めそうになかったので止めておきました。遺構に堀切とありますが、表面観察では見受けられませんでした。
これにてこの旅終了。大阪~東京間くらいの距離を走って山城4城攻略して、写真全滅した時は、ほんと超ヘコみましたけど、パソコンを更新してからは順調、再訪しこうして投稿できてよかった。お米・ねばりっこ・カレイの干物のお土産も買えましたし、満足旅でした。走行距離468㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2025/05/10 13:59
2025/05/10 11:27
2025/05/10 09:33
主郭・副郭・東郭 (2025/01/05 訪問)
興福寺大乗院方衆徒の豊田氏が室町中期に築いて居城とした城で、松永久秀の大和国侵攻により落城すると松永方の城として改修されましたが、信貴山城の戦いで松永氏が滅亡すると廃城となったようです。
ぴーかるさんご紹介の倉庫前に車を駐めさせてもらって登城開始。県道沿いの登城口から入って説明板のある分岐から約10分で南郭(出郭)に到達。南郭は藪化していますが、縄張図であたりをつけて藪を突破して土塁を乗り越えると、副郭南側の横堀が広がっていました。
主郭部は最高所の主郭と主郭南下段の副郭からなり、外周を横堀で囲んでいます。倒木をかいくぐって堀底を進むと、副郭南東隅の張出部に馬出状の土塁が設けられていました。馬出から副郭に上がったところの窪地には石材が散乱していますが、櫓台としていた円墳の石室が崩落したことによるもののようです。副郭から主郭に上がるも笹藪に沈んでいたため早々に退散し、次は東郭に向かいます。
副郭と東郭の間には二重の横堀が南北に走り、二重横堀と副郭南側の横堀の合流点には馬出を設け、南に巨大な竪堀を落としています。技巧的かつダイナミックな縄張に思わず声が出ました。松永久秀すげぇぜ…。東郭も藪に覆われていますが、南辺に低い土塁、横堀に面した西辺には分厚く高い土塁が設けられていました。
東郭をひとめぐりすると、今度は二重横堀を北に進んで主郭外周の横堀をたどります。主郭北側には斜面を刻むように横堀が走り、横堀から3条の竪堀を落としています。主郭直下では堀切状となって北東尾根を断ち切り、そのさらに北下にも浅い堀切を設けていました。横堀は主郭西側に回り込んでさらに南に続き、副郭南側の横堀につながる…のかと思ったら一段高い位置で終了。複雑な造りになっています。そこから副郭南側の横堀に下りたところで、横堀が竪堀となって西方向と北西方向に分岐して続いています。まず北西方向の竪堀を下りて行くと、途中で北方向に横堀が派生していて、主郭西側は上下二段の横堀で守られていることになります。
竪堀の分岐まで戻って、今度は西方向への竪堀を下りて行きます(続く)。
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2025/05/09 22:21
2025/05/09 21:03
ここでリーチをかけました… (2025/04/27 訪問)
新井城から,「シーボニア入口」バス停まで徒歩で戻り,「三41」系統のバスで「油壺入口」バス停下車。ここより,徒歩約20分で到着しました。
道路ワキに碑&パネルが設置されており,散策に手間はかかりませんでした。
三崎めぐりを終え,復路は「天神町」バス停より「三61」系統のバスで,「三崎マグロ駅」へと…。
撮れ高がショボいので,この日の夕食「茅ヶ崎 海ぶね ODAKYU湘南GATE藤沢店」で食べた「ざるそばと天丼のセット」と,おみやげで購入した「横須賀海軍カレー」の画像も追加します。
神奈川県の城びと登録城,ここでリーチをかけました。
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2025/05/09 20:12
【春の長崎天草を巡る⑬】(10)本渡城 (2025/04/02 訪問)
春の長崎天草を巡る旅、(10城目)は「本渡城」です。
本渡バスセンター(終点)で降りて徒歩15分、小高い丘の上に本渡城はありました。ここはかつて天草五人衆の一人「天草氏」の居城です。ザビエルの後継として天草に上陸したアルメイダは、天草氏と志岐氏から布教許可を得て天草の地にキリスト教を広めました。医学にも長けていたため診療所なども開き、信者のアダム荒川に医学を伝授して、領民から信頼されていったようです。そのアルメイダとアダム荒川の碑が、城内のキリシタン墓地にありました(写真④)。
ここでは過去に大きな戦いが二度行われました。一度目は、九州を手中にしようとする豊臣秀吉の命で、加藤清正と小西行長がここ本渡城に籠る天草氏を攻めます。ここで小西行長はキリシタンであったため、同じキリシタンたちは保護しようとします。しかし加籐清正はそれを許さず、天草氏・志岐氏を攻め滅ぼしました。この時からこの二人は犬猿の仲となり、この後の朝鮮出兵でも対立します。
二度目の戦いは天草一揆です。ここ本渡は激戦地となりました。寺沢堅高の悪政に業を煮やし、大矢野島で決起した天草四郎率いる天草の一揆軍は、ここ本渡で唐津藩の軍勢と戦い勝利します。そして一気に富岡城まで攻めて行きました。ちょうど(写真⑦)に見えるあたり(本渡市広瀬)が激戦地だったようです。
本渡城の本丸とされる場所には、現在「天草キリシタン館」(写真①②)が建てられていて、天草島原の乱の内容が時系列でとても詳しく解説されています。ここには血染めの天草四郎陣中旗(ここが四郎のいる本陣である事を示す旗)も保管されています(撮影不可)。また乱の後に入った代官の鈴木重成が建立し(幕府軍・一揆軍)両者分け隔てなく弔ったとされる千人塚(写真⑤)や、四郎のいいなづけであったとされる「路香」を弔った「てまり塚」(写真⑥)もありました。ぜひ天草へ来られた時は、天草キリシタン館は見学してほしい場所だと思います。
午後に、本渡バスセンターから富岡港行のバスに乗り、富岡港のそばにある「ホテル四季彩館」に宿泊しました(写真⑧)。ここ富岡で贅沢をした頼山陽に習い、私も奮発して平目のお造りとアワビの踊り食いを注文しました。定年までがんばった自分から自分への御褒美という事で、皆様方お許し願います!(大満足😋天草は本当に魚が美味しいところです!)(写真⑨⑩)。
次は、「富岡城」に登城します。
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2025/05/09 07:14
大村公園 (2025/03/01 訪問)
JR大村駅から徒歩で向かいました。
出迎えてくれた美しい角堀から楽しい城さんぽのスタートです(^o^)/
ゆるい坂を上ると大村神社の真っ白な土塀とそれを支えるどっしりとした石垣が見えてきました。そしてカクカクの虎口門。遥々ここまで来てよかった。お城体験の思い出を重ねることができて感謝です。
見どころのひとつである空堀は草叢に覆われており一層遺構感を醸し出していました。
板敷櫓は開放期間ではなかったので入れませんでしたが、きっと素晴らしい眺めが得られるだろうと想像できます。
新蔵波止の方にくだり、板敷櫓台を見上げます。素晴らしい反りに惚れ惚れ。櫓の有無は未確定のようですが現在見せてくれるこの姿、眼福でした。
続いて井戸や穴門跡(立入制限中)を見学しました。ほかの多くのお城同様、石垣に経年による孕みや割れの問題が出てきているそうです。
大手門から再び本丸へ行き、最後に大村小学校の五教館御成門を見に行きました。駅への往復を除くと約1時間の滞在でした。
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2025/05/09 07:08
2025/05/08 22:23
2025/05/08 22:07
羽柴秀吉 (2025/05/08 訪問)
織田信長と別所長治の間で行われた三木合戦にて織田方が三木城周辺に築いた付城の1つで羽柴秀吉の本陣があったと伝わる場所です。主郭に土塁が残り斜面には雛壇状の曲輪が見られます。堀切などなく駐屯監視機能重視の付城だと思います。主郭にあった仮設展望台は老朽化のため撤去されていました。
登城路は整備されていて気持ちよく散策できます。近くに竹中半兵衛の墓がありました。
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2025/05/08 21:36
2025/05/08 18:47
ポチッがしたいだけじゃないけど。 (2025/05/01 訪問)
前回投稿した「笹子城」の後に「佐是城」へ向かいました。
「佐是城址内虎口」の石碑を道沿いに発見しました。
相方は、『車、停められないから写真を写しておいで』と一言。
ちょっと散策したいけど、ずっーーーーと、運転している相方に悪いのでパチッとして退陣しました。
車で「佐是城」の虎口を通過。
やっぱり、お城巡りは1人の方が気を使わないでいいな、と思いつつ、1人じゃ「佐是城」にも来られなかったから、ありがた山だな。
と、次の目的地を探すため『お城を探す』をビヨーンとしたのでありました。
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2025/05/08 09:31
【春の長崎天草を巡る⑫】(9)大矢野城 (2025/04/02 訪問)
春の長崎天草を巡る旅、(9城目)は「大矢野城」です。
翌朝ホテルを出て、まず大矢野城へ行ってみました。ホテルの前(2号橋バス停)からバス10分の所(大矢野庁舎前)で下車し徒歩5分、大矢野中学校の裏の小高い丘の上にありました。(写真①~⑤)。城主の大矢野氏は元寇ではかなり活躍したようで、蒙古襲来絵詞にもその姿があるようです。私は以前元寇と竹崎季長を追いましたが、この大矢野氏が活躍した事は知りませんでした🤔。
大矢野氏は天草五人衆の一人に数えられ、戦国時代を独立して生き延びますが、秀吉から熊本の地を与えられた小西行長・加藤清正軍に敗れ、領地を没収され小西行長の家臣となります。その後、大矢野種基は秀吉に従い朝鮮へ出兵しますが、そこで命を落としたようです。それからの大矢野氏は、小西行長が関ケ原で斬首になったため、加藤清正に仕え、加藤家改易後は細川氏に仕えたようです。
またここ大矢野島は天草四郎が生まれ育った場所だとされています。天草四郎の父とされる「益田甚兵衛」は小西行長の家臣でしたが、行長死後はキリスト教を棄教する事ができなかったため加藤家へは仕官せず、宇土城下から移住して農民(隠れキリシタン)となってこの大矢野島に住み着き、そこで四郎は生まれたようです。
大矢野城から国道を徒歩で10分ほど戻った所にある「天草四郎メモリアルホール」に行ってみました(写真⑥)。ホールの中はまるで教会のようで、ステンドグラスに囲まれた静かで幻想的な雰囲気に包まれていて、天草四郎の事がシアターなどで解説されていました(写真⑦他撮影不可)。
ホールから海岸を眺めると、雲仙普賢岳や原城も対岸に見えました(写真⑧)。という事は天草四郎も幼い時からこの景色をよく見ていたという事になります。その時の四郎は、永遠にここ大矢野島で自分は平和に暮らせるものとばかり思っていたでしょう。まさか戦乱に巻き込まれ、あげくには総大将に祀り上げられ、最後はあそこに見える原城で最期を迎える事になるとは、夢にも思っていなかったのではないでしょうか?🤔
次はメモリアルホールの前にある(さんぱーる)バス停から、本渡バスセンター行(快速あまくさ号)に再び乗って本渡へ戻り、本渡城に向かいます。
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2025/05/08 07:17
ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑬ (2027/04/27 訪問)
名生城からの転戦です。光岳寺に駐車させていただきました。案内板の位置は、グーグルマップにて確認できますが、ちょっと離れています。案内板の絵図では八幡神社が本丸となっていますが、現状の地図では、土塁が残る鹿島神社が本丸とされています。八幡神社は鹿島神社から1.5kmも離れていたので脚を伸ばしていませんが、案内板の地図からは明らかに外れています。
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2025/05/08 02:15
関東大震災で滑り落ちた本丸石垣 (2025/03/09 訪問)
以前ブラタモリで紹介されたような気もする、天守の裏手付近はミニミニ遊園地も閉演中で観光客は少ないが、見どころは関東大震災で滑り落ちた本丸石垣。こんなにキレイに滑り落ちるのかとある意味感動。だが、野面積みの石垣山城はあまり崩れてないことを考慮すると、石垣の積み方による脆弱は明らかであり、その対称性が興味深い。尚、正面入り口の本丸東堀には花を植えるプロジェクトが進行中とのことである。
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2025/05/07 22:38
四季折々楽しめるお城 (2025/05/03 訪問)
前回は紅葉の季節、今回は新緑の季節。風も気持ちよくて春を存分に感じられる気候でした。
城下町にはたくさんの観光客で賑わい、城にもたくさんの方がいらして嬉しいです。
桜の季節と雪景色の頃も素敵な光景でこのお城は包まれるのだろうなーと思いました。
「城チュロス」とはいチーズ📷
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