宮本武蔵の続き(14)です。
巌流島での決闘の後、松井興長の鉄砲隊に守られ中津に着いた武蔵は、おそらく事の状況を無二斎に報告し、そのまま豊後杵築(細川藩の飛地で興長の領地)で匿われたと思います。そこで細川忠興と良好な関係であった隣国日出藩(日出城)の、あの姫路城で世話になった「木下延俊」(妻は細川忠興の妹)にも会いに行き、両家の客分として一年ほど剣術などを教えて過ごしていたのではないでしょうか。きっと延俊とは、あの妖怪退治の話で盛り上がったかもしれませんね。
しかし1613年の徳川家康と豊臣秀頼の会見が二条城で行われた後、にわかに徳川一門に不穏な動きが始まります。この時密かに家康から譜代大名に対し、豊臣との戦支度の命が下ります。巌流島から一年が経ち、いつまでも杵築に居るわけにもいかないと思っていた矢先、武蔵は刈谷城主「水野勝成」に招待されたので三河に行く事にしました。勝成は出奔中に、一時中津で黒田官兵衛に仕えていたとの記録があります。その時に面識があったのかもしれません。そしてこの時の勝成は、関ケ原では大垣城を攻め、守っていた府内城主の福原直高や富来城主の垣見家純などを討った功績で、家康から過去の出奔を許され刈谷3万石の城主となっていました。
勝成は戦を知らない若い家臣たちに剣術や兵法を教え、息子「勝俊」の初陣を補佐してほしいと頼んだようです。そして1615年、勝俊の守役である家老の中川将監(志摩之助)の軍に加わって大坂の陣に出陣します。その時の様子が、福山城に残る水野家の資料に残っている事から、武蔵が参陣していた事は間違えないようです。
結局、水野軍は大野治房を破るなどして、無事に勝俊は初陣を飾りました。ここで武蔵は将監から、三男の「三木之助」を養子にしてほしいと懇願され、断れず養子に迎える事にします。
大坂の陣の功績で、勝成には大和郡山6万石を経て福山10万石が与えられ、1622年福山城を築城します。そして完成すると、完成祝いにその当時明石にいた武蔵は福山に招待され、将監の屋敷に泊まり接待されたようです。その屋敷跡には、武蔵が腰かけたという「腰掛岩」が残っていました。私もその岩に座り、そこから福山城を見上げてみました。武蔵はどんな事を考えながら、ここから福山城を見上げていたのでしょうか? 将監と酒を酌み交わしながら、意外と大坂の陣での話や三木之助は今どうしているのかなどの話をしながら、福山城にかかる月を見上げていたのかもしれませんね。
次は、明石に行く前にしばらく滞在した(姫路城)に続きます。
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