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しんちゃん

寿能城 (2024/12/23 訪問)

寿能城は岩槻城の支城として永禄3年(1560)ごろに築かれたとされています。かつての見沼が三方を囲み自然の要害であったとされ、寿能公園一帯がかつての本丸跡で、墓碑の建っている塚が物見櫓の跡と言われています。
岩槻の太田資正の子である潮田出羽守資忠の居城とされ、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城したとされています。近くにある大和田公園(大宮第二公園?)にも遺構があるというので、一応見に行ってみましたが、はっきりとわかる遺構は見つけられませんでした。土塁といえば土塁に見えないこともないし、違うと言えば違うし・・

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ぶらりと居館跡 (2025/01/16 訪問)

 山頂の城跡に続いて居館跡も久しぶりに散策しました。こちらは観光客はほとんどみえませんでした。

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ぶらりと登城 (2025/01/16 訪問)

 ぶらりと岐阜城へ行って来ました。昨年は岐阜の街は散策しましたが、山頂へは行かなかったので1年とちょっとぶりになります。岐阜城に最初に登城したのは小学生のときですが、高校生の頃、司馬遼太郎の「国盗り物語」を読み、この城に興味を持ち何回か登城しています。司馬遼太郎は国盗り物語の中で「美濃を制する者は、天下を制することになる」「美濃は、郡のかずでいえば十数。コメのとれ高は六十五万石はくだらない。その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。」と書いています。小説の主人公である斎藤道三と織田信長が美濃の拠点としたのが、この岐阜城(稲葉山城)でした。
 いつものように散策しようと思いましたが、この日は山頂施設解体にともない資材運搬用モノレールを設置作業のため本丸下の井戸を通るルートが通行止めになっていました。井戸周辺にいい石垣があるのに残念でしたが、仕方ありません。
 平日でしたが多くの観光客の方がみえていました。

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しんちゃん

小栗一族 (2024/12/23 訪問)

大成館は十三歳で徳川家康の小姓となった小栗忠政の館とされています。忠政は近江姉川の戦いで攻めてきた敵に対し、家康所有の信国の槍を取って渡り合い、その褒美として信国の槍を賜ったとされています。後に武州安立郡大成村550石を含む2550石の領地を与えられ、死後は普門院に葬られました。
幕末に活躍した小栗上野介忠順は、本家政信の子孫で、新政府軍に徹底抗戦を主張し陸軍奉行及び勘定奉行を罷免されると、家宝の信国の槍などを普門院に預け、領地である上州権田村へ隠棲しますが慶応4年(1868)4月6日朝敵として捕えられ斬首されました。
館跡とされる普門院には忠順の供養塔と、野球のボールのような形状をした小栗上野介招魂碑が建てられています。

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しんちゃん

平城に匹敵する陣屋跡 (2024/12/23 訪問)

赤山城は現地案内板には赤山陣屋と記され、伊奈忠治が新たに赤山領七千石を賜ったことから元和4年(1618)に構築を始めた大規模な陣屋だったようです。城址碑と案内板のある場所の北側一帯が広大な陣屋跡(本丸に相当)で西側に二の丸、陣屋の北側に出丸が配され、周囲一帯に家臣屋敷地が配された、平城に匹敵する陣屋だったようで、城址碑の東西に整備された空堀跡が残っています。
周囲は道が狭いので離れた場所に車を置いてきたのですが、この日はハンドルロックのトラブルが継続的に続いて往生しました。
原因は大き目の変換機をソケットに接続していたためで、スターターが一時的な電力不足に陥っていた可能性があります。エンジンをかける際にソケットからプラグを抜くようにしてから、トラブルが無くなりました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域2:曲輪群[2-4]】
<登城路>前投稿の曲輪群[2-1]の北面がハイキングコースになっているので曲輪群の東端からゆるやかに北方向に向かって進むと土橋に着きます。ここからが曲輪群[2-4]になります。

<見所>土橋
<感想>北東方向に伸びる尾根上に築かれた曲輪群で、南から進んで行くと上記の土橋が現れます。ここから城跡のようで、土橋は土塁上を渡るようになっています。土橋の北側に腰曲輪、南側は扇状の谷の削平地になっていて、土塁土橋はこの削平地の背後の渡り廊下的な感じになっていたようです。そこから北東方向に尾根斜面を登りますが、だいぶ曲輪段は薄くなっていてほとんど山になってしまっています。最頂部の主郭とその南下段(倒木が多い)曲輪は良く残存しています。主郭から北方向に下る小さかったろう曲輪群も今はほとんど無くなっています。さらに北側は広い平坦地の曲輪になっていて、北端に土塁と竪堀が残り、城域2全体の北側の虎口になっています。比叡山に抜ける最北の曲輪群なのでガチガチの堀切等の防御遺構は見受けられずちょっと緩めの基地感がありました。次の投稿はいよいよ主要部に入ります。城域1曲輪群[東ゾーン]です。

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しんちゃん

鎌倉公園 (2024/12/23 訪問)

鎌倉公園が館跡とされています。ここには岩槻太田市の家臣・松野氏がいたとされ、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に岩槻城主太田市に従って防戦したが敗れ、秀吉の軍門に降ったとのことです。翌年8月、徳川家康が関東に移封になると徳川氏に仕え、200石の旗本として旧領の御蔵村を賜り、幕末までこの地を支配したとのことです。
かつては東西に長さ40mほどの土塁があったようですが、現在は見当たりません。空堀も失われてしまったかな?

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じゅんじん

17年ぶり (2025/01/11 訪問)

雪で大変!靴がびちゃびちゃ!
前田利長さまにお会いしてきました。

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じゅんじん

石垣 (2024/11/24 訪問)

石垣が並べられていました。

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国指定史跡 日本遺産 日根荘 (2025/01/13 訪問)

JRが和歌山行きと関空行きに分かれる、日根野駅。変わった名前と思い調べると、五摂家の一つ、九条家が開墾したという日根荘があり、現在にも遺構が残り、土地の利用も当時とあまり変わっていないとされています。ずいぶん前から、気になっており、土丸城、雨山城登城とセットにして訪問しました。
 日根野の少し北を流れる近木川畔の積善寺城を訪れたときにも驚いたのですが、山中でもないのに、川が激しく台地を侵食して川面がかなり下の方にあります。日根荘の樫井川も川面がかなり下にあり、水利に使えません(写真1)。代わりに溜池がたくさん作られています。高野山が開拓に失敗したあと、1234年、九条家に開拓を請け負わせました(命じたのはだれ?)。樫井川から取水し、5mほどの高低差で3km程を流す、用水路:井川(ゆかわ)を作るなどをして開拓に成功し、自家の荘園にしました。九条家最大の荘園であり、また、荘園は寄進による所有が通常なのに、自ら開拓したところが貴重とのことです。1501~1504年には、京都の戦乱を避けて当主がここに滞在していました。また、土丸城、雨山城は、住民が戦から避難する「山入り」「山上がり」に利用されていました。その関連性がみとめられ、雨山城、土丸城も日本遺産に指定されました。
 樫井川の川面と台地の高低差が小さくなった所に堰を設けて取水口にしています(写真2~3)。堰は近代化してますが、機構そのものは昔と変わらず田畑を潤しています。日根荘散策後、土丸バス停から土丸城にアプローチしていきます。

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半布里コミッティ

「とみか歩け歩け大会」~加治田城攻略編~ を開催します!

『加治田城跡』を目的地に歩け歩け大会を開催します。
富加町B&G海洋センターから出発し、清水寺を通り加治田城を目指します。
加治田城跡からの眺めを楽しみながら堂洞合戦などの歴史を解説します。
山城の竪堀では「城攻め攻防戦」の実演を行います!


令和7年2月23日(日)午前8時30分~正午ごろ


★全行程約8km(山道・急傾斜・階段があります)

   富加町B&G海洋センター 8時30分集合
    ↓
   清水寺
    ↓
   加治田城跡(解説)
    ↓
   加治田城竪堀群にて関高校地域研究部による城攻め実演
    ↓
   清水寺へ下山
    ↓
   富加町B&G海洋センター 解散

★持ち物    水筒・ティッシュ・手袋 (双眼鏡などがあればお持ちください)

★参加料    100円 当日に受付でお支払いください。

★参加対象   先着60人。どなたでも。 
        小学3年生以下は大人が同伴してください。

★その他    雨天(雪)中止
         ※中止の場合、当日午前7時30分に富加町広報無線で放送します。
         ※前日までの雨、雪の状況で中止する場合があります。

<申し込み先・問い合わせ>
令和7年2月16日(日)までに、富加町B&G海洋センターに、電話・FAX・直接窓口でお申し込みください。
また、添付しました二次元コードからもお申込みいただけます。

富加町B&G海洋センター 富加町夕田238番地
電話:0574‐54‐2886  FAX:0574‐54‐2928

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イオ

別城一郭の城 (2024/10/20 訪問)

築城時期等は不明ながら在地土豪の米原氏が築いたとされ、東側を東山道、西側を北国街道が通る交通の要衝だったことから、美濃の斎藤妙椿の侵攻を受けたり、京極氏・浅井氏と六角氏の境目の城として争奪戦が繰り広げられたりしましたが、織田信長の近江攻めで佐和山城が開城すると、太尾山城も開城し廃城となりました。

お城EXPOの後、米原市役所駐車場(120分無料)から登城開始。太尾山城は北城と南城からなる別城一郭の城で、湯谷神社の登城口から10分あまりで南城北端の堀切に到着。堀切の東側は竪堀となって落ちていました。堀切から南城に入ると、北辺を土塁で囲んだ曲輪(副郭)があり、北東隅は櫓台だったようです。副郭から東にのびる尾根にも堀切があるようなので行ってみましたが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。南城の最高所が主郭で、説明板によれば主郭の土壇からは礎石建物が検出されているそうです。主郭から南西方向に下りて行った先には堀切を設け、尾根筋からの侵攻を遮断しています。

南城南西端の堀切で引き返して北城へ。南城から北城への尾根筋は自然地形であり、少々藪化している堀切からが北城になります。階段状に設けられた曲輪群を抜けた最高所が主郭で、北辺を土塁で囲んでいます。主郭には説明板が立てられ、その脇からは琵琶湖方面を見渡すことができました。主郭から東にのびる尾根にはいくつかの腰曲輪と堀切があり、東尾根から北側に回り込むと、主郭直下に土塁囲みの小曲輪がありました。この小曲輪からも礎石建物が検出していて、櫓もしくは倉庫と考えられるようです。そして北城から北側に下りて行き、盗人岩からの眺望を堪能したりしつつ、青岸寺に下山しました。

米原駅からも徒歩圏内であり、随所に説明板や案内表示が設けられて登城しやすい城でした。あとはもう少し藪が刈られていれば、もっと見応えがあるんでしょうけど…。
 

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todo94

星ヶ城攻城前日の観光 (2024/01/11 訪問)

直島城から地中美術館へは徒歩でアプローチしましたが、地中美術館から宮ノ浦港へも徒歩で向かいます。直島パヴィリオン、赤かぼちゃ、宮浦ギャラリー六区、I♥湯と巡って昼食をとり、宮ノ浦港から豊島へと渡りました。家浦港から豊島美術館へも徒歩。豊島美術館は美術館自体が作品そのものという感じで、しばし、水の動きに見とれていました。道すがら、アート作品を鑑賞しつつ、心臓音のアーカイブ迄、豊島を味わってから唐櫃港へ。そこから小豆島にわたって土庄にて泊をとりました。

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小城小次郎

じょうじょうじょう (2024/04/27 訪問)

全国にちょいちょい存在する「じょうじょうじょう」のひとつ。越後守護・上杉房定や関東管領・上杉顕定をも輩出した上条上杉家は上条政繁の代に上杉景勝から離れて幕臣になっている。相当プライドの高い家柄だったのだろう。

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しんちゃん

江戸城夜景 (2024/12/30 訪問)

茨城に向かう前に江戸城の夜景を拝んでいきました。夜の江戸城もなかなか良い味出しています。台東区浅草橋三丁目にある甚内神社は武田家家臣・高坂弾正の子・甚内を祀っています。宮本武蔵に師事し、奥義を極めるも武田家再興のために幕府開府早々に治安を乱したため、瘧(おこり=マラリア)にかかって苦しんでいるところを捕縛され鳥越の刑場で処刑されたようです。
現在は病の治癒を望む人々の信仰を集めているとされ、8月12日の命日は多くの参拝客が集まるようです。

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しんちゃん

目黒 (2024/12/30 訪問)

目黒氏館は目黒川の西側の台地状に築かれていて、現在は東京都立目黒高等学校になっています。目黒氏は武蔵七党の一つ横山党の一族とされますが江戸氏の勢力拡大により会津に移ったのではないかとされています。目黒氏は承久の乱の後の、ある時期に移住をしたとみられるため、目黒氏に関わる伝承は当地には残っていないようですが、地名にはしっかりと痕跡が残されています。
どうせ遺構もないからと夜襲にて済ませてしまっていますが、写真で見るとなんとも味気ない。代わりと言ってはなんですが、美しい東京の夜景と、遅めの晩御飯にいただいた横浜系醬油とんこつラーメンの写真を投稿します。

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宗春

年末年始に帰省先でちょいと城攻めしよう その⑤(おまけ)犬山城 (2024/12/09 訪問)

年末年始は開いていない城も多かったのですが、何とか訪問出来るところを探して攻めてみました。

訪問時期が年末年始ではないのでオマケで犬山城。JR東海のEX会員限定の御城印が目的で訪問しました。

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しんちゃん

伊達与兵衛房実 (2024/12/23 訪問)

大和田陣屋の跡地は宅地開発されて見る影もないようです。かつては高さ3mほどの土塁があったようですが、時代の流れを感じます。
岩槻城主太田市の重臣・伊達与兵衛房実は豊臣秀吉による小田原攻めの後は徳川氏に仕え、武蔵国足立郡に250石を与えられ大和田陣屋を構えたとされます。後に450石で常陸国鹿島郡に加増転封となったようです。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域2:曲輪群[2-1]】
<登城路>麓からは曲輪群[2-2]と同じ経路で、曲輪群[2-2]の登り口が城域2全体の西の虎口となっており、枡形と土塁が残されています。そこからハイキングコースを少し進むと京都一周トレイル東山61番の札があります。そこからコースから外れて右手の尾根を進むと主郭に到ります。

<見所>腰曲輪・連段の曲輪群
<感想>城域2には4つの曲輪群があり、かつて東山新城という別城であった説もありますが西隣の城域1に非常に近く、足利義晴・義藤父子が近江坂本へ避難するにはここを通るルート上にあることから最終的には将軍山城に吸収されていたと考えます。この曲輪群
[2-1]が城域2の最大の曲輪群で、中心部であったろうと思われます。主郭に説明板があり説明板には北白川城(将軍山城)の出丸と書かれています。
 城跡は尾根に沿って削平された曲輪群がTの字のように配されています。前述の西端の虎口は枡形や▢状土塁、尾根土塁等の遺構が残り見応えがあります。最高所の主郭から東方向は細かい連段になっていて、土塁が食い違いに配されてジグザグに動かされます。東端に堀切があります。主郭から南方向には綺麗に削平された腰曲輪が数段取り巻いてあり、そこから南方向に細かい連段が9段程連なっていて最下段に主郭より広い曲輪があります。規模も大きく十分に1つの城塞の規模のある城跡です。なかなかの見応えでした。次の投稿は曲輪群[2-4]です。

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しんちゃん

初鹿野伝右衛門 (2024/12/23 訪問)

土呂陣屋は彩の国大宮メディカルセンターが跡地になるようです。地蔵堂はそこから南西150mあたりにあるようです。徳川家康に仕えた武田家遺臣の初鹿野伝右衛門信昌が土呂にて700石にて開いた陣屋のようです。

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