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イオ

技巧的な遺構 (2025/04/26 訪問)

戦国期に畠山氏に仕えた保田友宗が築いたと伝わり、羽柴秀吉の紀州攻めの後に廃城となったようです。

大きく蛇行する有田川に三方を囲まれた尾根突端の山城と南麓の居館からなる根小屋式城郭で、居館跡は小学校になっていて遺構は見られません。小学校奥の駐車場に駐めさせてもらって登場開始。駐車場から奥へ続く道をしばらく進むと、右手の斜面に竪堀らしきものが見えてきます。そこから山に取り付いて堀底を登って行くと、果たして主郭から北に続く尾根に設けられた堀切に到達。北尾根には二条の堀切があり、内側の堀切は両端から土塁をはさんでそれぞれ二条の竪堀を落としています。北尾根をもう少し進んだ先では外側の堀切が細尾根を断ち切っていました。

北尾根から戻ると主郭の西面に回り込みます。西面北部には堀切が設けられ、両端がU字状に竪堀となって落ちています。その南には(浅くなってはいるものの)畝状空堀群が斜面を埋め尽くし、うち南端の竪堀は深さも長さもあって明瞭に遺っていました。西面南端の竪堀から主郭に向かうと、あちこちに後世のものと思われる石積が見られました。戦時中、主郭には陸軍の防空監視所が置かれていたようで、その際に改変されたものと思われます。そして主郭北下の曲輪群をひとめぐりし、南麓の八幡神社に下りて行くと、水道施設跡の先に南端の堀切があり、西側では折れを設けて横矢掛りになっていました。

ひとめぐりしても1時間弱の小さな丘城ながら、堀切といい竪堀といい随所に技巧的な遺構が見られ、なかなか見応えがありました。周辺観光の定番(?)、あらぎ島とあわせて、こちらに来る機会には清水城もせひ。
 

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赤い城

松江EXPOに合わせての特別公開 (2025/06/28 訪問)

普段私有地で立入禁止の本丸と二の丸が特別公開されているとの情報を基に登城しました。
EXPOに合わせて3日間だけ公開されるとのことです。
駐車場もあり、よく整備されています。

橋を渡り南大首廓へ、土塁も整備されています。
奥のほうには櫓台跡の高まりもありました。
その先は中の丸との間の深い堀が横たわります。

方形館跡を経て先ほどの堀を横から、やはり深い。
さらに大首郭から中の丸へと進みます。
中の丸は尼子回復戦の際に山中鹿之介が捕らわれていたところと云われています。

その先、いよいよ本丸へ、ボランティアの方の説明を受けながらの見学でした。
本丸と二の丸を発掘調査し、ほとんど埋め戻されていますが一部見学可能、これもいずれは埋め戻されるそうです。
本丸と二の丸の間には堀跡がありますが、これは池だったのではないかとのこと。
縁に石積も残っています。
本丸の斜面からは石垣の築石や裏込め層の粟石が崩壊している部分が出てきており、堀跡には深い穴を見ることができます。
何かしらの建物があったと思われます。

本丸の土塁は高く、外側は崖で攻め込むのは困難。
この土塁部分も発掘の跡が公開されています。
この辺りはローム層で当時の土塁の形が明確に残っていることに感動☺️
さらに本丸に残る石列と石塁も見ることが出来ました。
築地塀と虎口、門の基礎とされていて漆喰と思われる白いものも出ています。

貴重なものを見ることが出来て感激!
関係者の皆さんに感謝し余韻に浸りながらEXPOに向かいました。
EXPOにも尾高城のブースが出ていたので感謝の気持ちをお伝えしました。

【見どころ(本丸と二の丸を除く)】
 ・中の丸を囲む深い堀
 ・中の丸の土塁

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todo94

日帰り静岡ドライブの締め (2025/07/12 訪問)

穴山梅雪の墓がある霊泉寺は小島陣屋のほど近くに位置します。当初、この日帰りドライブ最大のターゲットは小島陣屋でした。恋川春町が小島藩に仕えていたということで、べらぼう紀行に取り上げられたばかりでしたし、昨年のお城EXPOの厳選プログラムで春風亭昇太師匠が2025年のテーマは「陣屋」と予告していましたので、小島陣屋の移築復元された御殿書院はぜひ拝んでおきたかったのです。午前中に恋川春町の作品の現物を見ることができたのは、実にタイムリーだったと感じています。順路が明示されていて手入れもきちんとされていますので、夏場の攻城も暑さにさえ気を付ければ、全く問題はないかと思います。まだまだ整備の途上のようですので、何年かしたらまた訪れたいと思います。

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朝田 辰兵衛

日在城散策2/2(主郭部他) (2025/07/12 訪問)

主郭部は広くてわかりやすいですが,魅力はゴツゴツとした石垣です。当初の目的は法面保護のように思えますが,登り石垣を意識していると感じられるところもありました。尾根北側最高所は城域とは考えづらかったです。シダ類が群生しており,突き進むとマダニの餌食になるだろうと思ったため,適当なところで引き返しました。
足腰に不安のある方は,下山がかなり大変だと思います。しかし,国土地理院の地形図を見ると,ほぼほぼ山の周囲にしっかりとした道があり,そこのどこかに出れば,最悪山の周囲を1周近く廻れば来た道に出ることがわかります。とにかく,自分のフィーリングに合った下山を推奨します。ま,南側尾根を進んで行けば,大きくそれることはないでしょう。

これにて,佐賀県の城びと登録城の未投稿城を解消しました。
九州地方は,しんちゃんさんの頑張りで,福岡県と長崎県に未投稿城があるのみとなっております。

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しんちゃん

奥州藤原氏四代の祖 (2025/01/05 訪問)

豊田館は国道と県道の交差する北東側の丘陵に築かれていました。館跡には江刺市の文化財に指定されている豊田城趾碑があり、
「昔 亘理権太夫(藤原)経清の城であった、経清 平泉の役(厨川柵)で戦死し、其の子権田郎清衡、勤王の勲功があったので奥の六郡の領主としてここに居た。其の当時、北上川は豊田城のあたりを流れていて、浮梁(舟橋)と言う地名が今も残っている(中略・・・)
年を経るに従い土地の人でさえ忘れられるので、この碑を建て、後の世まで伝えるものである。」
といったことが記載されているようです。この碑が立てられたのが安永三年で関わった人物の名も記載されています。
やがて、清衡は藤原姓に戻って、平泉に戻り奥州藤原氏四代の祖となった・・と考えると「おおっ」となりますね。

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朝田 辰兵衛

日在城散策1/2(登城ルート案内) (2025/07/12 訪問)

しりとりの時から,有子山城のアプローチ手札としてロックオンしておりました。ようやく攻城機会に恵まれました。しりとりでは,城びと未登録の千葉の日在城で凌ぎましたが,スッキリはしなかったです。
いざ攻城ですが,登城口付近の「古城」と称される六角堂はありませんでした。しかし,登城口はわかります。コンクリート舗装の林道はやがて埋没状態となり,行き止まり地点から左斜面をよじ登ります。すると,本来なら続いていただろうと思われる林道に出ます。道なりに進んで行くと,砂防擁壁に突き当ります。その右側に切り立った岩場があるので,その隙間を登ると岩棚に出ます。岩棚の排水路を伝って上に出ます。そして,左へ登り続けると南側尾根に出ます。
さらに進むと,進路が間違っていないかどうかを確認できるポイントにさしかかります。岩屋のような,祈りの場か監視場かと思われる特徴的な場所が現れます。ここでかなり安堵すると思います。次は,2つの巨岩をクリアすれば城域に入ります。
定期的に登っている方や,整備されている方もいない感触です。さびしい限りです…。

ところで,ぴーかるさん,城びと登録城1000城クリア,おめでとうございます!
健康に留意して,さらなる高みを目指してください。

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しんちゃん

花巻城 (2025/01/05 訪問)

また季節感の無い写真ですみません、言わずと知れた花巻城の写真です。冬場の東北は正直、城攻めに向いているとは言えないのですが、この時期ならではの雪模様は、独特の美しさです。
本丸は鳥谷ヶ崎公園となっていて、西の入口には西御門が再建されており、御堀には石垣で固めた橋がかかっています。その先はカギ状に折れ南に曲輪が広がり、これらの空間が枡形の役目を果たしているようにも見えます。
城址南西にある大手門跡には鐘楼が建っています。ここにある鐘は盛岡城の鐘楼として正保3年(1646)に鋳造されましたが、少々小振りであったため大型の鐘に代えられ、延宝2年(1674)に盛岡藩主南部重直の許可を得て、花巻城二の丸の四角山と呼ばれる土台に設置されました。明治8年に大手門跡地に移され今に至るようです。

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しんちゃん

昌官忠さんに敬礼 (2025/01/04 訪問)

昌官忠さん、お疲れ様でした。総歩行数79万歩、歩行距離553.2km、一日一万歩歩いても79日分ですね。まるで、江戸時代の人のような歩行距離に素直に脱帽です。皆さん、着実に偉業を達成していますね。
私もそのうち、城攻めに出発できるかな? 先行きはまだ不明です。
厨川柵の投稿になりますが、天昌寺と安倍館稲荷神社の投稿になります。申し訳ないが定番の厨川八幡宮の写真は無いんですね。でも安倍館稲荷神社って面白い社名だと思います。周囲には堀が良く残っていて城館の雰囲気が良く出てます。この辺りだと本丸の南の中館あたりになるようです。フェンスの向こうに堀を挟んで「あべたて保育園」が見えますね。
天昌寺は里館(さたて)跡とされ、安倍氏の厨川柵の一部とされていて、グーグルマップで厨川柵を検索するとここが出てきます。
前九年の役で安倍氏が滅んだ後、空白の時期が続きますが、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、工藤行光が地頭職として定着します。工藤氏ははじめ里館を拠点にしていましたが、安倍館遺跡である厨川城へ拠点を移し、戦国時代には厨川氏の居城だったようです。

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小城小次郎

由来不詳の群郭式のお城 (2024/11/30 訪問)

いわゆる群郭式のお城と解釈でき、立地的には大崎氏一族に関連するお城なのだろうと推察しているのだがその歴史ははっきりしない。公園化されているのは四館分だがそれでも十分な広さを堪能できる。

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ぴーかる

ありがとうございます🐤

あさん、赤い城さん祝辞ありがとうございます。未だ投稿しておりませんが、6月に鳥取県の船上山城に行った時、一昨年のあさんの投稿を頼りに攻略しました。あさんの登った登山道の探勝道(健脚向けコース)を私も負けじと選択して、大石ゴロゴロの場所は私はだいぶ苦戦してやっと登り切りきりました。「あさん、ここを直登したのかーすごいな!」と途中一息いれながらつぶやいたのを覚えています。今となっては楽しかった登山でしたが。皆様今の時期の城巡り熱中症など気を付けて下さい。

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駿府城

「寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~」を開催します!

駿府城公園巽櫓では、小学生の皆さんを対象にした歴史の勉強会「寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~」を開催します!
駿府城、徳川家康、今川義元…静岡の歴史には、興味深い物語が数多く存在します。
「寺子屋駿府城」では、そんな駿府(静岡)に関する歴史の「ハテナ」に、専門家がわかりやすくお答えします。歴史の学習はもちろん、夏休みの自由研究のテーマ探しにも役立つヒントが満載です!

寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~
◆開催日:令和7年8月6日(水)~8月11日(月)
◆時間:10:00~12:00
◆料金:無料 (※別途入館料:大人200円、小中学生50円)
◆対象:小学生 ※同行の中学生や大人からの質問にも対応します
◆申込方法:申込不要!当日直接会場へお越しください
※詳細は駿府城公園公式ホームページをご覧ください。(https://sumpu-castlepark.com/info/archives/3063)

夏休みの思い出に巽櫓で歴史を学んでみませんか?
ぜひお越しください♪

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隠しても痕跡が残る(ブラタモリふう) (2025/07/13 訪問)

 ぴーかるさん城びと登録城1000城登城をおめでとうございます。
 濃尾平野の平城をちょこちょこ巡って、数を稼いできました。平城巡り=石碑巡りとなる中、岩倉城は比較的痕跡が残っています。尾張上四郡の守護代の城館(規模あり)&微高地だからでしようか。
 「愛知の山城ベスト50を歩く」におまけで平城編があり、岩倉城の説明もあります。東の堀跡や南西の堀跡は分かりやすいですが、南東の大手土橋跡は渋いです(写真6)。
 近くの溝口城は、石碑もない。マップでは石碑があるように出てきますが、城びと先人の報告どおり、石碑があるはずの場所は更地になっています。

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岸和田城

青い翼 (2025/07/12 訪問)

7月12日13日、ブルーインパルスの展示飛行では岸和田城空も通過。
ただただ、感動の瞬間でした。

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イオ

あ さんのルートを推奨 (2025/04/26 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期に玉置直虎が増賀山の頂部に築いたと伝わり、山地玉置氏代々の居城となりました。羽柴秀吉の紀州攻めに徹底抗戦するも落城し、廃城となったようです。

上山路小学校前の駐車場から登城開始。あ さんの投稿で案内されている登城口に向かうも、4月下旬ともなるとずいぶん草が伸び盛っていたため、少し北にあるもうひとつの登城口に行ってみました。沢を越えたところから沢沿いに山に入るルートで、最初は道(らしきもの)があったんですが、やがて消え失せ、やむなく沢を渡って急斜面を直登…。しばらく直登すると尾根に出る手前で登城道に合流し、あとは登城道をたどって行きました。

登城口から約20分(直登含む)で馬場と呼ばれる帯曲輪に到達。山頂の主郭からは少し離れていますが、南北に細長く続いています。馬場からも登城道は続いている…はずですが、一帯に杉の落葉が堆積していて道を見失い、ほとんど直登のようになりました。そして主郭西下の帯曲輪に取り付いて主郭へ。主郭の西側には虎口があったようですが、よくわかりません。主郭の東下にも細い帯曲輪があり、南面は急峻な崖になっていました。主郭北下には主郭との間に付曲輪を備えた曲輪が配されています。北にのびる尾根には二重の堀切が設けられ、内側の堀切の両端は竪堀となって落ちていました。

北尾根で引き返して下山する際に登城道をそのまま戻っていくと、特に迷うことも困難な箇所もなく最初に見た登城口に出てきました。最初から素直にあ さんのご案内に従っていれば無駄に直登せずに済んだのに…とも思いますが、あ さんのルートがベストであることを身をもって確認できた、ということにしておきましょう(笑)

さて、鶴ヶ城に続いて田尻城(投稿済)でごっつぁんゴールを決めると、あらぎ島を経由して清水城に向かいました。
 

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todo94

日帰り静岡ドライブ 静岡市清水区・ファンタジー大河ゆかりの人物の墓参り (2025/07/12 訪問)

静岡市清水区の江浄寺に徳川家康の長男・松平信康の墓があると知り、さわやかで昼食をとった後、赴きました。「どうする家康」の信康は心優しすぎるように感じたものです。江浄寺は江尻城内と言ってよい位置にある寺ですので、江尻城主だった穴山梅雪の墓にも足を伸ばすことにしました。霊泉寺はちょっとわかりにくい場所に位置しています。「真田丸」と「どうする家康」での穴山梅雪の描かれ方はあまりに対照的なものでした。「どうする家康」のような善人だったとはとても思えません。武田勝頼が悪者になってしまっていてかわいそうでした。まあ、明智光秀の描かれ方も「麒麟がくる」とは対照的なひどい描かれ方でしたから、私の「どうする家康」に対する評価はどうしても低くなってしまいます。

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赤い城

パノラマビュー (2025/06/28 訪問)

松江EXPOの前に登城しました。
7時頃着いたので三の丸番所が開いてなくスタンプは後回しにしました。
三の丸は発掘調査中で今後も整備が続きそうです。
二の丸の枡形から登って行きます。
二の丸のテニスコートでは暑い朝にも関わらず多くの方が汗を流していらっしゃいました。

こちらも汗だくで登ります。
まずは内膳丸、本丸の北峰にある丸山に所在します。
細長い曲輪でここから本丸を見上げることもできます。
また、内膳丸から遠見櫓にかけて登り石垣が築かれていて海側からの防御を強固にしています。

さらに登ってお馴染みの天守台石垣を見上げました。
やはり圧巻の迫力、朝から興奮状態です✨
四重櫓台、鉄門跡を経て本丸に着きました!
米子市街や大山も望めます。
中海や日本海も見渡せる素晴らしい景色でした。
しばらく景色を楽しんで本丸先の水手御門まで行き引き返し遠見櫓を経て下山しました。

元は山名氏の砦として築かれた米子城、戦国時代には吉川広家が入り築城しました。
関ヶ原の戦い後は中村一忠が入城し大天守などを造営しました。
現在は建物は残りませんが無くても十分楽しめる城でした。

下山したのがちょうど8時半、三の丸番所が開いたので46個目の続100スタンプを押印、尾高城に向かいました。

末筆になりましたがぴーかるさん、1000城到達おめでとうございます✨
レポート参考にしています!
私も追いつきたいですがまだまだですね〜。

【見どころ】
 ・二の丸枡形の石垣
 ・登り石垣
 ・内膳丸から見上げる本丸石垣
 ・天守台からのパノラマビュー

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しんちゃん

黒岩月斉 (2025/01/05 訪問)

黒岩城は北上川の東岸の南北に伸びる丘陵上に築かれていました。館神の祀られている社一帯が「千曳城」跡とされ周囲より高地にあります。南に向かって、「館」跡の正洞寺、上岩崎の黒岩公民館の東側が「館屋敷」跡、下岩崎周辺が「元(本)館」跡、「片月館」跡とされています。
中世和賀氏の時代の複数の城館の総称とされ、北側の上岩崎と南側の下岩崎を合わせて、南北約1km、東西約150mの城域を持っているようです。主要部は北側の上岩崎とされ、下岩崎の元館は和賀氏が最初に和賀郡に移ってきたときの岩崎塞ではないかと考えられています。最後の城主は二子城主の和賀義忠の兄・義宣(黒岩月斉)とされ、盲目であったため黒岩城に分封(分家化)され、新たに千曳城を築いて居住しました。元々当地に居を構えていた小田嶋氏は領地を召し上げられ、2000石の換地を与えられたようですが、後見という名目で「片月館」に据え置かれたようです。

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天守無しがアツい

要害山 本丸 (2025/07/06 訪問)

本丸に到着。その標高は780m
登山して30分で…0mからその高さまで行けるとは考えづらいので…登山口の時点で500mくらいはあるのではないか?⛰️

武田信玄生誕地の石碑…かつて…戦国時代にはこの辺りに武田家の屋敷ならびに庭園があったらしい🏠⛲️庭園の名残り的な大きな石が残っていた🪨麓からあの山道を経て…ここまで運んだと思われる…

昔の人間って…かなりの力持ち🫢

当時は山城が主流…平地に城を設けるようになったのは…江戸時代に近づいた頃…つまり大名同士の戦が無くなり世が平和になってから🏯

信玄はこの辺りで産声をあげ…出陣などで城を出る時は片道30分の山道を下りて…そして戻る時はこの山道を毎回登ってたのか…

往復のしんどい自宅…やれやれだぜ😅

ちなみにここ本丸には(頭の中で当時の様子を思い浮かべながら)20分ほど滞在…ここも日陰にさえ居れば…草木のおかげでそこまで暑くありませんでした🌱🌳

麓の景色も撮ろうかと思ったのですが…木の枝が邪魔してよく見えなかったので止めました

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しんちゃん

高水寺斯波氏 (2025/01/04 訪問)

高水寺城は北上川の西に位置する独立丘陵の上に築かれていました。建武2年(1335)足利尊氏が斯波高経の長子・家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力の拡大を狙いました。元々、斯波氏は足利泰氏の長男。家氏が斯波郡へ下向し、斯波氏を称したことに始まるとされています。家長以降に本格的な城郭化が進んだと見られ、最頂部が本丸とされています。
本丸には土塁が残り、南部の運動公園周辺が二の丸(若殿屋敷)とされ、本丸の北東が天王平(駐車場)とされ、さらにその先に姫御殿があります。本丸には御殿跡の標識があり、愛宕神社が祀られ、かなりの広さが有りました。
家長以降の斯波氏は7代~10代続いたとされ、足利氏の支流として斯波66郷を支配し「斯波御所」と呼ばれますが、室町時代後期には三戸南部氏との対立が激しくなり、九戸政実の弟弥五郎を入婿に入れるなどして、平静を保ちましたが、やがて家臣の離反が相次ぎ天正16年の石清水右京の訪叛を機に南部信直の攻撃を受け、斯波詮直は大崎氏の下へ逃亡し、戦国大名高水寺斯波氏は消滅しました。

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しんちゃん

土沢城 伊達氏に備えた藩境の城 (2025/01/04 訪問)

土沢城は岩手県花巻市東和町土沢にあります。土沢駅の北東、土沢の街を見下ろす高台に築かれていました。慶長5年(1600)南部氏と伊達氏が境界で対立していた時に伊達領の浮牛城に対抗して築かれたと城郭大系には記載があります。
また現地の案内板には慶長17年(1612)に伊達氏との藩境警備のために盛岡藩の野田内匠頭直盛が縄張りを行い、江刺隆直が入ったと記載されています。
現在は城址公園として整備されていて、訪問しやすい城址です。主な郭として、主郭である御本館、中館、西館、東館があります。
大手橋跡から登って行くと、大手道の脇に桜丸があり、大手門跡を経て主郭である御本館に到着します。南に下がった所に東館跡があり、御本館から北上して行くと、段差を越えたところに中館、西館があります。御本館から西館までの主要部の東側から北側を経て西側まで堀が巡らされているようです。

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