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ダイエティシャン

茶臼山城(出雲国雲南市)3️⃣刀研ぎ池 (2025/05/01 訪問)

登城口から約50m南、【刀研池】②と呼ばれる水溜まりがあります。かつて武将がここで刀を研いでいたことから、呼ばれているそうです。今日も湧水が貯まっていました。

幼少時教えて貰った、自分にとっての幻の城跡を見つけることが出来て嬉しかったです。近年、地元の方と研究者の方のおかげです。感謝です。

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ダイエティシャン

茶臼山城(出雲国雲南市)3️⃣ (2025/05/01 訪問)

#石積みは、現代の炭焼き跡のようです。あの時代の小さな砦に石積みがあったかは疑問に思ってはいましたが。また、地元の研究者さんの本には石積みの記載もありませんでした。

石積み①の北側も更に郭②~⑥は続いています。帯郭でしょうか?思ったより立派な石積み⑦で驚きました。鉄塔⑧から市道挟んで向かいの水道施設⑨の丁度裏側に、砦跡の郭が広がっています。
登城口にも石積み(10)あり。

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ダイエティシャン

茶臼山城(出雲国雲南市)2️⃣ (2025/05/01 訪問)

東側に土塁②を見つけました。整備されている様子③。西側市道沿いの市の水道施設④が見えます。石積が崩れている様子⑤。東側に石積①を見つけました。この砦は水道施設の、丁度裏側(⑥)のなるようです。立派な石積み⑦崩れている所⑧⑨もあります。石積み上の郭(10)は、藪で確認不可能でした。

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ダイエティシャン

茶臼山城(出雲国雲南市三刀屋町作り石) (2025/05/01 訪問)

茶臼山城=茶臼山砦跡
幼少時、曾祖母が教えてくれた城跡(砦跡)
三刀屋城から西へ約15分、戸倉城(出雲国出雲市稗原)からは南へ約10分程。
石積み(写真①)鉄塔(②)から約100m南に登城口③④があります。まっすぐ進むが行き止まり⑥~⑧。引き返し⑨から北進。主郭?帯郭?平坦な所10に到着。

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まにまに

青紅葉もまた良し (2025/05/01 訪問)

想像してたよりも規模が大きくて驚いたし、建物もかなりあったみたいで妄想が広がる広がる。
発掘調査の結果に基づいて復元された建物がいくつかあるけど、山城ならきっとこの大きさぐらいなんだろうなというのがすごく理解できた。さすがに曲輪の面積が広くない山の上には御殿は作れないだろうしね。厨が再現された曲輪は結構珍しいんじゃないかな。戦国時代の国衆の城に生活が伺い知れる感じは面白かった。

麓からかなり急勾配の坂を上がってくるが、城の入口の手前に無料駐車場があるのでクルマで来るのがおすすめ。というか、そもそも地域的に山奥過ぎて公共交通機関は全く頼れない所。城内もかなり傾斜のある道を歩くのでしっかりした靴で。再現された建物の一部は入ることもできる。

曲輪を見て回ってた時に下に見える曲輪に行きたいのに道が分からず間違って出口に行きそうになり、一旦戻って道を探すと見えにくい位置に道が…。なんだかRPGゲームで『ダンジョン内で見えてる部屋に行く通路がどこなのか分からなくて探しまくる』気分でした(笑)

秋の紅葉で有名な香嵐渓のそばにあるだけあって、城内にもいたるところに紅葉が植えられていて、新緑が眩しい城攻めでした。

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しんちゃん

江戸 江戸~ (2024/12/30 訪問)

(ユーチューブを見て)元気ですか~!? い~ち に~ さんきんこうたい~! 江戸 江戸~!
なるほど~ これが「お侍ちゃん」か・・・朝田さんは「お侍ちゃん」が好きなんですね。
プロフィールを見ると、独特のヘアスタイルにしてから、結婚・出産・闘病生活といろいろあったみたいですね。これは、もう少し「お侍ちゃん」のことを理解する必要がありそうだ。イラストはちょっと待ってくださいな。

梶原氏館は来福寺から梶原神社にかけての台地状に築かれていたとされ、来福寺は梶原氏によって建てられたとされています。来福寺に梶原塚と言うものがあったとされ、梶原景時父子の伝承も残っているようです。小田原北条氏家臣に梶原日向守と梶原助五郎がいたとされ、日向守が新井宿に51貫文、助五郎が馬込に32貫60文の領地を得ていたことから(小田原衆所領役帳)、この助五郎と梶原親子の伝承が結びついたのかもしれません。

お城のイベントに「お城ちゃん」が来てくれると盛り上がりそうですね。むしろ「お城ちゃん」「しんちゃん」で侍コンビネタをやってみたい(妄想)。おいらが「お城ちゃん」の戦国時代のご先祖様役で、江戸の平和でだらけきった「お城ちゃん」に「喝」を入れに化けて出てくるんだけど、だんだんボロが出てきて、逆にツッこまれる内容です。
(桶狭間の合戦で)「そこに今川義元がおってな~」「それで、それで!」「怖いから、隠れて見てた」「ヘタレかい!」ペシッ
・・こんなかんじ
いち、じゅう、ひゃく、せんごく せんごく~♪ (戦国~♪) あづち~ ももやま~♪(楽しそう)
でも「しんちゃん」 ちょんまげはNGなので、妄想終了です。
そういえば 普段ちょんまげを結ってない「落ち武者スタイル」の「お侍ちゃん」が頭をさげると「馬出し」に似てませんか。

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甚右衛門

花が見頃の時期に来てみたい (2025/05/01 訪問)

広々とした市民公園で流石に桃や桜の 花は終わってたけど、その時期に来てみたい。

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小城小次郎

出るか?限定御城印 (2024/08/24 訪問)

大手北外堀と大手南外堀を発掘したら片方が箱堀で片方が薬研堀だったとか。訪れたのが年に1回「牧野城」の御城印が入手できる8/24で「だからこの日に来たんだよう」と仲間に現地で聞かされた。今年もあるかな。

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甚右衛門

初登城 (2025/04/20 訪問)

カタクリの花の見頃から1週間遅れで攻城しました。

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ぴーかる

観音寺城 (2025/03/01 訪問)

【観音寺城】
 滋賀県の城びと城跡が残すところ2城となり、ずっと気になっていた城跡でした。というのは前回の訪城が2012年の13年も前で、百名城スタンプも収集していなく、城郭の知識もぺーぺーの頃でした。当時は観音正寺裏参道山上駐車場に駐車して右手上方に見える伝布施淡路丸の石垣やら佐々木城跡の石垣が遺構かどうかも判別出来ない知識で、ただ観音正寺に行って、そこから尾根道を通って伝本丸跡に行って、8月なのに半袖軽装で蚊の大群に襲われ早々に切り上げたのを覚えています。伝本丸跡も今ほど整備されておらず、曲輪内部は今の2/3程は藪化して埋まっていたかなと記憶します。本丸から伸びる大石段はありました。
 石垣の残る名城跡の多い滋賀県で、百名城の観音寺城が殆ど巡れていないのは自己紹介の記述にも反しますし、語れない。城跡を観る目もだいぶ肥えてきましたし、滋賀県コンプリート目前の冬枯れの今しかないと思い立ち、1日1城の丸ごと観音寺城で攻めました。

 観音正寺表参道山上駐車場に行くと、冬場は閉鎖で裏参道山上駐車場に駐車しました。伝布施淡路丸⇒佐々木城跡内をじっくり散策し観音正寺にたどり着くのに駐車場からなんと2時間もかかりました。佐々木城跡は一旦山のピークにあたり、巨石が多く巨石と石垣が組み合わさった虎口遺構は圧巻です。奥の院は当時も磐座の役目もしていたように思いました。観音正寺で御城印と入山料を納めて、伝本丸跡に向かいます。13年前に比べて現在は本丸内部は雑木が伐採されていて、曲輪遺構がくっきり露わになっています。本丸内部を1周して北虎口と井戸跡、本丸北側の切岸と北下段の曲輪を観察、本丸北側法面は全面に石垣があったように見えましたが、ほぼ全部崩落して崩落石が沢山転がっていました。本丸から南に伸びる大石段を下って三の丸跡⇒伝平井丸、虎口正面の巨石を組んだ石垣は見事です。伝落合屋敷と曲輪壁に取り付いて曲輪石垣をじっくり観察⇒伝池田丸、曲輪南西部の方形石垣がとにかくすごい。⇒大石垣⇒無名曲輪⇒観音正寺西下段曲輪群、ここにも高石垣遺構が残ります。⇒埋門跡のある伝木村丸⇒山の中腹まで下って御屋形跡、ここも見事な高石垣が残ります。⇒戻り道がてら伝平井丸の最奥部を見落としていたので観察して終了。4時間程度の滞在時間を予定していたが結局6時間かかり、昼食も取らず夢中で山中を歩きました。Googleマップに記載されている遺構はほぼ全部巡れましたが、繖山山頂方向、裏参道山上駐車場~観音正寺までの道のりの曲輪群、伝目加田丸から南方向の曲輪群はもう足がヘロヘロになって巡れず、終了しました。
 大規模多数の曲輪群と曲輪石垣の遺構に圧倒されました。見応えでは自分の中で安土城跡を抜いてマイベストに入る滋賀県ナンバー1の城跡となりました。行って良かった大満足、やっぱり中世山城の大石垣は好きです。

<満足度>★★★★★(改訂)

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ヒロケン

五万石藤まつりと石垣めぐり (2025/04/30 訪問)

岡崎城公園は桜の名所としてこの地方では有名ですが、藤の花も有名です。4月18日から5月6日まで5万石藤まつりが開催されておりますが、ゴールデンウイーク後半は娘夫婦が孫を連れて帰省して来るため、4月30日に石垣めぐりを兼ね行って来ました。
・本丸天守台石垣は城内で最も古い石垣とされています。・自然石積みで自然石をそのまま積む技法。・埋見門石垣は10mを超す石垣です。持仏堂曲輪の石垣と本丸曲輪の腰巻石垣。・青海堀の石垣。・堀底道として利用され東隅櫓から矢を射ることが出来る。

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T-Shionoya

3重?の防御網を持つ小見城 (2025/04/29 訪問)

立山観光の一環で訪れた富山県富山市の小見城。

常願寺川の山間部、和田川との合流点に位置する比高約200mの論田山に築かれた城。
次回に投稿する中地山城の東約2kmにあり、その詰城か出城と推測されている。

小見城についての文献や伝承はなく、築城者や城主は不明だが、中地山城との位置関係や縄張から飛騨の江馬氏が越中に進出した際に築き、中地山城に在城したと推定される河上氏が管理したと考えられる模様。

現在は、特に改変も整備もなく残る土の城跡。

訪問時は、事前に安田城跡資料館で縄張図を入手し、水力発電所の上から城域へ。
西の2つの尾根の分岐点に設けられたスロープが、個人的に魅力的なシステム。そのスロープを目指すと両サイドの切岸上から横矢が掛かり、そこを突破すると曲輪3と曲輪6から横矢が掛かりそうな2重の防御網構造。更に実際に訪れると、この付近は少々藪化しており、これが第3の防御網。
曲輪3からは想像以上に土塁が明瞭で、高い部分は1m以上あるでしょうか?

コンパクトながら滞在時間は1時間半。
マイナーであることが勿体無いと感じた、私の城郭巡りの207城目でした。

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朝田 辰兵衛

お侍ちゃん…

「お侍ちゃん」は,サンミュージック所属のお笑い芸人です。「お侍ちゃん」でネット検索をかけると画像が表示されますョ。所属事務所を何度も変えているので,この機会に吉本興業に転籍してもらいましょう。お侍ちゃんも吉本興業も「ウィンウィン」になるのではないかと思います。

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カズサン

二度目の池田城4/4 (2025/04/26 訪問)

 二度目の池田城3/4の続です。

 本丸内部の遺構、復元遺構、天守風展望台・櫓風展望休憩舎の一階に池田城の解説パネルが展示されて居ましたので合わせて投稿させて頂きます。
 緑に包まれた池田城、城跡公園でした、丘陵先端に位置し見晴らしは抜群、住宅街、市街化された中によくも残ってくれたと、ありがたさを感じ感謝しか有りません。

 長々と投稿を見て頂きありがとうございます。
 
 帰りは坂道でしたから徒歩でタクシーで来た道を阪急池田駅へ、直線では0.6km程と城郭放浪記さんに出て居ましたがぶらぶら歩いて1km程は有ったかなと思いましたが。
 次は阪急蛍池駅近の麻田陣屋へ向かいます。
 

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カズサン

二度目の池田城3/4 (2025/04/26 訪問)

 二度目の池田城2/4の続です。

 天守風展望台・櫓風展望休憩舎に登り、展望階より下界を眺める、大袈裟ですが、池田城跡公園内、北側の池田の山々の新録が薫風と共に目に眩しく初夏の爽やかさを全身で感じる素晴らしい体感です、ほっこりくつろぐ景観でしたが、阪急宝塚線沿線未踏の城探訪では時間が有るかどうか?不安も有り、ゆっくりも出来ません。
 
 二度目の池田城4/4へ続く。
 

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カズサン

二度目の池田城2/4 (2025/04/26 訪問)

 二度目の池田城1/4の続です。

 天守風展望台・櫓風休憩舎の裏を廻って、西門へ、踊り場まで降りて西側の崖・切岸?を北側、南側眺めて、南門へ、虎口門辺りから北東面の天守風展望台を眺める、結構人は出て居り、親子ずれ、ご夫妻連れ、赤ちゃんを連れたお母さん、管理棟も有り、トイレも有る、自販機でお茶、ジュースも購入できる。
 住宅街の囲まれており、新緑眩しい時期で本日は好天気、絶好のお出かけ日和でした。

 二度目の池田城3/4へ続きます。
 

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カズサン

二度目の池田城1/4 (2025/04/26 訪問)

 阪急宝塚線沿線の未踏の城探訪、宝塚市の小浜御坊小浜城を終えて阪急売布神社駅から阪急池田駅へ、タクシー利用(@700)で東門城址公園入口下車。池田城へは平成23年2011年1月22日に宝塚の兄と初登城。
 駐車場は有りません、前回14年前には北門のエリアに駐車した。池田城跡公園入口の道東対面に有料駐車場が有る様です。

 今回は14年前に撮影した写真をDVDに記録させていたのですが再現不可と成り、東京のショップにもお願いしたが不可との事。写真記録のために2度目の登城と致しました。

 池田氏の築城で信長との抗争で配下となり、旧臣の荒木村重が入城支配し、拠点を伊丹(有岡城)に移し廃城と成った。

 池田城跡公園入口より登城、入口にはハナミズキが白い花を咲かせて奇麗、案内板、東の堀切に木橋が架かり、大手門なる東門より入る、木橋より南北に伸びる堀切を眺めて、北門へ、北門東より堀切を下より眺めて、本丸跡へ、桜は終り新緑が眩しい、北側より天守風2階展望台(パンフレットでは櫓風展望休憩舎と成って居ます)を眺める14年振りの対面です、14年経つと緑が深く濃く茂って来ました。

 二度目の池田城2/4へ続きます。
 

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トク

【春の長崎天草を巡る⑩】(8)原城 (2025/04/01 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(8城目)は「原城」です。

原城は、元々は「有馬晴信」が居城である日野江城で戦をするのは手狭で不向きなため、万一戦が起きた時のために築城したものです。今では普通に見れば有明海の海が綺麗に見えるとても穏やかな丘陵地です(写真④⑤)。 何も知らなければ、ゆっくりとハイキングなどをして楽しむにはとてもよい所かもしれません。この日もバルーンでの模擬天守が建ち、桜がとても綺麗に咲いて花見を楽しんでいる人もいました(写真⑥)。本当に何も知らなければ、とてもよい所だと思います。しかし実はこの場所で、1637年(寛永14年)「日本の歴史史上で最大の一揆」があった事を皆さんは御存知でしょうか?🤔

島原城を落とせなかった島原の一揆勢2万5千、富岡城を落とせなかった天草の一揆勢1万2千、両者合流し合わせて3万7千人となった一揆軍が「天草四郎」を総大将としてこの原城に立て籠もります。3代将軍「徳川家光」は、島原藩主の松倉勝家(重政の子)と唐津藩主の寺沢堅高(広高の子)が、過度の重税を課し納めない者はキリシタン弾圧を名目に拷問にかけ殺すという、前代未聞の悪政が乱の原因であった事に大激怒!!! 勝家には切腹も許さず斬首の刑を、堅高には蟄居自害させ、両家とも断絶改易とします。そして家光の命を受けた知恵伊豆と異名をとる老中「松平信綱」率いる総勢12万5千人の幕府軍が、現在の国道を挟んだ丘陵地に陣を張り対峙しました。つまりこれは、幕府の威信をかけての戦いだったわけです。

当時の原城は、まだ石垣や塀や櫓なども残っており、一揆軍の中には戦の経験豊富な小西行長や有馬晴信の元家臣がいました(写真⑦⑧)。一方の幕府軍は戦経験のない若い者が多く、初戦で大将の板倉重昌が討ち取られるなど、前半は一揆軍優勢で進みます。しかし2カ月3カ月と時が経つにつれ、やはりだんだんと食料や弾薬が不足して、数に勝る幕府軍が有利となってきました。幕府は投降を呼びかけますが、死を恐れぬキリシタン達は応じません。

そしてついに3カ月後、信綱は一揆軍の食料が尽きたと判断、幕府軍は総攻撃を開始します! 壮絶な戦いの末、内通者で絵師の「山田右衛門」(写真⑩)一人を除き、一揆軍は全員が皆殺しにされたと伝わっています。そしてその3万7千の遺体のほとんどは、今でもこの地中に埋められたまま残っているそうです。(写真⑨)の付近では発掘調査で大量の人骨が発見され、その時の発掘調査の様子が有馬キリシタン遺産記念館で再現されています。一揆軍と言えども半分は女子供です。徳川家光はこの機に、幕府に反抗するキリシタンを根絶やしにし、幕府の威信を示す事で徳川政権の安泰を計りたかったようです。

一揆軍の総大将であった天草四郎は、この時まだ若干17才くらいの少年であったと言われています。彼は戦を好まず、本当はここから見える故郷の大矢野島で、皆と一緒に平和に暮らしたかった、ただその思いだけだったのではないでしょうか? 天草四郎の像は、手を合わせて祈るように、その故郷大矢野島の方を向いていました。そしてその目には、うっすらと涙が浮かんでいるように、私には見えました(写真①)。

次は、島原から天草へ渡り、その四郎の故郷大矢野島へ行こうと思います。
 

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しんちゃん

QBK

えっ❓️ 急にボールが来た。朝田さん、こちら側に来られてましたか‥‥‥お構いもできず申し訳無いです。というか「お待ちちゃん」って誰ですか? 定恵院か早川殿の幼名❓️
ああ「お侍ちゃんか」‥‥お姫様キャラじゃないのね。
ちょっと「お侍ちゃん」の情報が不足してますので、いずれ投稿させていただきます。

QBKといえば、イオさん ナイスアシスト賞で「購買員」くれませんか? 合戦で負けちゃったので。「阿梅」ちゃんでも「大八」くんでもいいです(持ってますか?)。キッズチームを増やして「しんちゃん村」に「寺子屋」を作るのがささやかな夢です。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑥ (2025/04/26 訪問)

鷲ノ巣館からの転戦です。東側の県道からアプローチするとコンクリートが打ち付けられた断崖が目に飛び込んできます。その裏手の登城口の方はそこまで急峻ではありません。堀底道テイストの登城路を登っていくと山頂に八雲神社が鎮座しています。説明板によると別名・塩煮田城。ここで塩を作って将士にふるまったのだとか。山頂に毒草のマムシグサか生えていたので思わず撮影してしまいました。本日の攻城は此処迄。泊は石巻市内のルートインにとりました。

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