武田勝頼本陣の麓の医王寺は永正11年(1514)に寺院として成立しました。三河の高僧・克補契嶽(こくほかいぎょく)に開山を依頼しましたが、初めにこの地に菴を構えたのは琴室契音とされています。創建は戦国時代になるので、ひょっとしたら医王寺は長篠城の詰城か支城の役割も考えられていたのかもしれません。
勝頼の三河侵攻の理由として「信長が本願寺を攻めたので、本願寺の後援をすること」が目的だったとする説がある。言い換えれば、火事場ドロ的なアレで鬼の居ぬ間に三河侵攻の拠点を確保したかったようにも見える。
でも信長からすると「カモがネギしょってきやがったぜ」状態だ。織田・徳川連合軍が来てからの勝頼は完全にダボハゼ状態で、あの武田軍の猛将たちを次々と無駄死にさせてしまっている。もったいないなあ・・もしあと7千人の増援が見込めたら、家康の首くらい取れただろうか? 妄想が止まらなくなるので、これくらいにしておこう。
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