永禄6年(1563)3月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城が上杉謙信に攻められ、助三郎は自害し、騎西城は落城しました。天正2年(1574)にも上杉謙信によって騎西・菖蒲・岩槻などの北武蔵の諸城が落城させられています。
徳川家康の関東移封後の天正18年(1590)松平康重が2万石で入り、江戸時代にも使用されますが寛永9年(1632)に大久保忠職が美濃国加納に転封となると廃城になったようです。
現在、天守を模した郷土史料展示室がありますが、ここはかつては外堀であったようです。かつての本丸は田畑となっていて、かつての面影は有りません。二の丸は住宅地になっています。本丸の南東が馬屋曲輪と天神曲輪の跡になり、ここに土塁跡がありますが、写真を撮り損ねています。しまったにゃあ。
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