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ぴーかる

田屋城

 とある煩悩の登城目録さん、滋賀県の田屋城の魅力、ご賛同いただきありがとうございます。私は登城当日に現地に到着したら雨で30分程車で待機して小降りになって登城したのをよく覚えています。登山途中で雨はやんで良かったのですが、とあるさん程のいい眺望は望めませんでした。
 城びと滋賀県が残すところ細川城と打下城の2城となり、昨日に打下城は、とあるさんが登城投稿されているので参考にさせていただきます。田屋城、滋賀県のマイベストに入ること間違いなしで、私の城跡を見る目も間違いは無かったようでよかったです。

 遅くなりましたが、写真全滅だった件でのイオさんの「転スラ」での返しありがとうございます。魔王リムルなんてとんでもないことで、謙遜なしでまだまだゴブ太くらいなもんです(笑)。

 私も少し思いを語らせてもらうと、城びとの「お城を知って、巡って、つながるサイト」をありがたく感じております。このサイトを通じて「こういう城跡があるんだなと知って」「実際に行ってみた」「いい城跡の感想を共感できる=つながる」でいいかなと思っております。特に最後の部分、城跡の感想を共感したり賛同を頂いた時は嬉しく、頑張って文書を考えて投稿して良かったと思っております。単純ですかね。

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カズサン

早朝チョイ寄り (2025/04/26 訪問)

 郷里の中学校卒関西地区喜寿の祝い集まりの翌日、JR伊丹駅近くのホテルに泊まりましたので前日コンビニ仕入れの食糧で朝飯を済ませ、6時半JR伊丹駅前の有岡城をチョイ寄り探訪、5時過ぎには日の出ですから散策、早朝体操、通勤で人は出て居ります。
 伊丹有岡城は近くに兄が在住して居ましたので何拾回と無く伊丹駅を利用して居ましたので乗下車の度に探訪したり視認したりと思い入れのある城跡です。
 
 有岡城と言うと城主荒木村重が思い起こされます、現在は主郭部一部が城址公園として整備されています、東前面はJR伊丹駅、JR、道路、住宅地、商業地として開発市街化されてる中でよく一部でも残ったものだと感心したり、ありがたく思ったりします。
 先人の努力が史跡公園を歩いて居ましたら「懐古園なる石碑」が北端にあり、解説板によると明治期に所有者の武内氏が城跡が滅していくのを嘆き修復して永く後世に伝えたいと願い、武内氏、未亡人、御子息に引き継ぎ現在の城址公園に繋がった様です。(懐古園碑文の概要パネルによる)

 惣構を有した広大な城郭だった様です、1、2年前にイオさんが主郭部、惣構、各砦を数編に分けて詳細を投稿されていますのでご確認ください。

 この後はJR福知山線宝塚線中山寺駅下車してタクシー利用で小浜御坊毫攝寺の小浜城へ向かいました。(先に投稿済み)

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しんちゃん

優しくホッてね「不発弾」 (2024/12/30 訪問)

todo94さん、鷲ノ巣館の「不発弾回収」&「情報」ありがとうございます。まさか公式の地雷を踏んでいたとは・・
「不発弾」をホッている時は少し楽しいですが、自分が埋めた「不発弾」をホられると、お尻がちょっと痛かったりします。いやあ、ユカイ ユカイ ダイヤモンドユカ・・・じゃない!
城びと編集部さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どゆこと?
比定地が複数あったのか、それとも単に「お墓」を間違えただけなのか? 基本的に複数のサイトから情報を集めて「城攻め」をしていますが、「城びと」の位置情報のみだけで「城攻め」をする場合もあります。調べてみると幾つか「鷲ノ巣館」の情報が出てくるので、今回は私の下調べが甘かったようです。「一番槍」はtodo94さんで、私は初投稿だけいただいておきます(消さないの?)。

大平砦ですが奥沢小学校が城址になっています。「城郭大系」には記載が無い城址で、吉良氏重臣の奥沢城主・大平氏の城(出城)であったとする説があるようです。遺構も無く、ただ写真をとってポチるくらいの意味しかなさそう、もっと情報が欲しいです。

北海道の「不発弾」を見つけた手前、自分で回収したいけど当面北海道に行く予定はないです(数年先かな)。このまま放置になるのかな? 
とりあえず今日はヤキトリにヤキ目をつけてヤケ酒としゃれ込みますか!

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いんげん丸虫

県指定史跡 (2025/04/27 訪問)

東京から600km。車で8時間走り
到着しました。気温15度くらいで丁度
桜が満開でした。
城跡は2つの曲輪を2重堀切で遮断し、
横堀、畝状竪堀が多数配されてます。
南東の畝状竪堀群にはトゲのある植物が
多く大変でしたが、山城ファンには堪ら
ない城郭です。

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コウマくん

信長の凄さを実感 (2025/04/19 訪問)

安土駅前の安土城郭資料館を見学し、100名城スタンプを押してからレンタカーで安土城へ。天主に向う大手道で石材だけで荒々しく雄大で信長の凄さを実感。石垣や、屋敷跡も見事で、急勾配の石段でしたが飽きることなく天主台に登城。偉大な歴史に触れられる素晴らしい城跡でした

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑤ (2025/04/26 訪問)

石巻城から、サンファン館、月浦の支倉常長像を経ての転戦です。ここ、要注意です。城びとのマップのポイントはしんちゃんさんが投稿されている石巻霊園についていますが、グーグルマップは別の墓地についています。テニスコートになっている旧稲井中学校に城址碑と説明板があるようですが、今回はチェックできませんでした。それでも、墓地が本丸のようですので、この物件の不発弾化は回避できたかと思います。墓地の後背には土塁、郭、空堀などの遺構が確認できました。

折角ですので、現在のサンファンバウティスタと10年前のサンファンバウティスタ、月浦の支倉常長像も投稿しておきます。

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しんちゃん

岩瀬山城 保土原館 (2024/09/15 訪問)

岩瀬山城は元は二階堂氏の城でしたが、蒲生氏、上杉氏の時代になり、会津を守る支城となりました。本丸の南西に位置する保土原館は元は二階堂氏の庶流・保土原氏の館でした。天正10年(1582)に宗家当主・二階堂行親が若くして死去すると(天正13年の説もあり)前の当主の未亡人・大乗院(阿南姫)が須賀川城の城主となり、生家である伊達氏と争うも天正17年(1589)10月に家臣・保土原行藤、浜尾宗泰らの裏切りも有って須賀川城は落城し、大乗院は甥の岩城常隆を頼って磐城へ逃れて行ったようです。
主家を裏切った保土原行藤は保土原館の主で、後に伊達氏の家臣に加わり329石の食い扶持を得ています。保土原館の麓には城址碑が立ち、小高い丘の上に館が築かれていたとされ、現在は須賀川市立博物館が立っています。
上杉氏の時代には岩瀬山城に準じる形で、会津の防衛の一端を担っていたのではと考えます。

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HKISD

山口城散策 (2025/04/27 訪問)

長州藩の歴史の城跡、りっぱな門と堀、現在は県庁となっています。
とても入りやすく良い所です。

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HKISD

津和野城散策 (2025/04/27 訪問)

リフトで上がった。これも急で見応えあった。
リフト降りてから出丸へ見晴らしが圧巻その後、本丸を目指して歩くが石垣が見事で素晴らしい。
頂上から見渡す津和野城下は素晴らしいかった。
帰りはリフトを使わず遊歩道で帰った。キチンと整備されていてとても歩きやすかった。

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織田信澄 (2025/04/29 訪問)

 久しぶりの大溝城です。近くまで来たので寄ってきました。高島郡を手に入れた織田信長が甥の織田信澄に命じて築城させた城で、縄張りは明智光秀が行ったようです。天守台が残っています。
 JR近江高島駅から徒歩約5分の駅近物件です。

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しんちゃん

青モミジ (2025/04/27 訪問)

「青モミジ 綺羅り輝く 八幡城」 おおっ俳句になってる(?)せっかく古今伝授の里に行ったので一句。
オカンは和歌文学館より、こちらの方に行きたかったようです。結局「城」に来るのね。青モミジが綺麗ですね、個人的には紅葉の時期より好きかもしれません。近年、紅葉はバラつきが有りますが、青モミジは容赦なく、わさわさでキラキラです(表現力・・)。
郡上八幡城は大垣城を模していると思いますが、本家より雰囲気があります。山の上にこんな木造の城を持ってくるなんて少しズルいですが、いかにも近世の山城って感じがします。作家の司馬遼太郎さんも著書「街道をゆく」の中で粉雪の舞う郡上八幡城を訪れた時の感動を記しています。どうやら、郡上八幡城はどの季節に訪れても違った感動を与えてくれるみたいです。

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しんちゃん

古今伝授の里 東氏居館 (2025/04/27 訪問)

篠脇城の麓に東氏居館跡があり庭園が再現されています。郡上東氏九代目の東常縁は武将であり、名の通った歌人であったことから、館跡の近くに古今伝授の里フィールドミュージアムが設置されており、館跡もふくめて周辺一帯が一つの博物館になっています。「和歌文学館」や「交流館」など和歌に関わる建造物が複数あり、フレンチのレストランも有ることから和歌好きであれば、一日楽しめると思います。この日は城攻めはお休みの予定でしたが、短歌をやっている母へのサービスで結局、城の近くまで来ています。
わざわざ連れてきたものの、当人はあまり感慨がわいてこない様子。早々にへばってしまって、文学館と庭園を少し歩いただけでグロッキー状態です。しょうがないので、しばらく休んで、メインの郡上八幡城へ向かいました。
応仁の乱のころ、東常縁は旧知の斎藤妙椿とは敵味方にわかれることになってしまいました。ちなみに東氏は東軍・・解りやすいですね。有るとき、常縁が関東に下向している隙に妙椿に篠脇城を奪われてしまいます。
これを嘆いた常縁の詠んだ歌「あるが内に かかる世をしも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」という歌が妙椿の耳に届くと、さすがに後ろめたかったのか、自分に歌を詠んで送れば所領を返すと常縁に伝えてきました。
常縁が十首の和歌を送ると、妙椿は本当に所領を返してくれました。ギラギラしたエピソードの多い戦国時代と比べると信じられないくらい牧歌的な話です。常頼の十首の歌の詳細は省きますが、「嘆く」「憂き」「思いやる」「頼む」などの泣き落とし的なワードが多いです。ほんとに全部こんな感じで、良い歌だとは思いますが、妙椿さんも少し、心が疲れたのかなと思います(根負け?)。常縁さんはどちらかというと、せちがらい武士稼業より、歌を詠んでいる方が幸せだった気がします。

城めぐりの人の詠んだ俳句からインスパイアを受け、私も一句作って見ました。
「春の日に 白バイ潜む ハイウェイ 旅に浮かれる 心沈みし」 私は捕まっていませんが、先に行った車が捕まっているのを見ました。私も昔、GWに福島で捕まりましたね・・絶対やると思っていました。なんのこっちゃですわ。

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林員清 (2025/04/29 訪問)

 永禄年間に土豪の林与(與)次左衛門員清が築城したといわれています。ただ普請に伴う土木量は一土豪による構築とは考え難く、織田氏あるいは浅井・朝倉による構築が想定されているようです。城は主に南ブロックと北ブロックに分かれ南側の曲輪が主郭とされています。曲輪、土塁、土橋、畝状竪堀などが残っていました。土塁は北側の曲輪の方が高さもあり見応えがあります。所々に遺構の標識がありました。概ね散策しやすい城址です。
下山して気が付きましたが、説明板を見ていません。それなりに散策しましたが、見逃したのでしょうか。あるいは撤去されたのでしょうか。

 JR近江高島駅から徒歩約5分の場所にある日吉神社の鳥居前左側に打下城の案内標識があります。その先にポールがあり右折します。そこにも案内標識はありましたが、地面近くにあり草に隠れていました。ネットの評判より藪ではなかったのですが、少し行くと前方を倒木が道を塞いでいました。このまま荒れているのか思いましたが、そこを越えれば倒木はあるものの大したことはありません。少し迂回して倒木の下を潜り、後は道なりに川沿いを上流に向け登りって行くと迷うことなく城址に行くことができます。要所に小さな案内板があり、道が正しいか否か不安になることもありません。ただ道は細く歩きにくい所もありました。途中で右手に見える砂防ダムは圧巻です。

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まさお

沖縄城巡りツアー5城目 首里城 (2025/04/18 訪問)

今日が最終日です。早朝から強雨が降っています。琉球石灰岩の階段を考えると
雨による足場の悪さが気がかりです。
ところが首里城に到着すると、何と青空が広がり始めました。ラッキーです。
守礼門から歓会門・瑞泉門・漏刻門を抜け、広福門で入場券を購入し奉神門から
復元工事エリアに行き、3階から順次見学しました。2026年完成予定とのことです。
その後、数十段階段を登り「東のアザナ」に登りました。那覇市街地は元より昨日まで
訪問した各城郭跡の位置が見渡せるようなすばらしい眺望でした。
帰路は淑順門から首里杜館を通り、「玉陵」を詣でました。

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まさお

沖縄城巡り 名護城 (2025/04/16 訪問)

今帰仁村 古宇利島から座喜味城に向うドライブの途中で「名護城公園」の
標識を見つけ、公園内の道路を走行しましたが、「名護城跡」に辿りつく
ことができずあきらめました。
写真がないので古宇利オーシャンタワーから見た「古宇利大橋」の写真を添付します。

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まさお

沖縄城巡りツアー4城目 中城城 (2025/04/17 訪問)

読谷村のホテルから約1時間のドライブで中城城跡に到着した。
ここは昨日訪問した座喜味城の護佐丸が移った先で、勝連城の阿麻和利と戦い滅びてしまった場所とのことでした。
勝連城とは海を挟んだ対岸の丘陵の尾根沿いに六つの郭からなる琉球石灰岩の優美な城壁のが連なっていた。
かつてペリー提督もこの地を訪れ、城壁の建築技術を絶賛していたことです。
この後、東海岸沿いに斎場御嶽に向う。

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にのまる

上陸できました。 (2025/02/11 訪問)

明石海峡大橋を渡って淡路島(洲本城)へ行った翌日、今度はしまなみ海道を通って大島(能島城)へ向かいました。

「洲本城と同じ瀬戸内海に浮かぶ島。もしかしたら行けるかも?」と能島上陸ツアーのサイトを開いたのが2日前の夜。心の準備も下調べも何もしていなかったのですが、開催決定かつ空席ありの便がちょうどあったので、これは躊躇している場合ではないと、HP上で仮予約→翌日に予約確定のメールを受け取りました。

福山駅前の東横インに前泊。(空いていて助かりました🙏)
翌朝09:00発の今治桟橋行きの高速バスに乗り10:05に大島BSで下車、10:44発の友浦行きの路線バスに乗り換えます。
【離島の高速道路上で高速バスを降りて路線バスに乗り継ぐ】
初めての経験でなかなか緊張するミッションでしたが、いざかの地に降り立つと穏やかで温かい空気に包まれ、ひとりベンチでバスを待つ時間を幸せに感じるほどでした。それでもやっぱり坂道を上ってお迎えに来てくれる路線バスの姿が見えてくると嬉しくて!

村上海賊ミュージアム(旧村上水軍博物館)で続100名城スタンプを押しました。これまでは城址見学を終えてから押していましたが、最近は忘れたら大変(忘れそうな気がする)なので、現地に着いたらすぐに押すようにしています。

集合場所の「能島水軍」には個人参加者のほかに団体さんもいらして大賑わいでした。参加費を支払い救命胴衣や防寒カッパなどを装着していよいよ船に乗り込みます。

ガイドさんのお話を聞きながら約15分で能島に到着。いくつもの条件が揃って叶った上陸に只々感謝で、第一歩を踏み入れた時の感動は忘れられません。

予備知識として持っていたのは何年か前に読んだ和田竜さんの「村上海賊の娘」と検定の勉強で記憶した「岩礁ピット」だけでしたが、ガイドさんのとてもわかりやすくて興味深いお話に引き込まれながら城内を見学しました。

整えられたそれぞれの郭、出土した生活用品などから伺い知ることのできるいにしえの人々の日々の営み。そこには歴史として語り継がれる大きな出来事ばかりではなく現代人と同じように泣いたり笑ったりの日常があったんだろうなとしみじみ思いました。

帰りの便では最後部に座らせていただき、軌跡や波しぶきに酔いしれ、潮流体験もできました。
港に帰還後、帰りのバスまでの時間にミュージアム内を見学して終了としました。

台風被害からの復旧も桜の木の伐採もご苦労があったことと思います。
城址を目指して全国津々浦々めぐり続ける城びとを迎え入れてくれる海賊の島。お城との出会いも一期一会だなと改めて思うこの頃です。

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まさお

沖縄城巡りツアー3城目 勝連城 (2025/04/16 訪問)

座間味城から勝連半島の勝連城跡へドライブ。渋滞で約1時間で勝連城あまわりパークに到着。
常設展示室で予習の後、城跡へ移動しました。
勝連城は立地が勝連半島の海岸沿いの標高約100mの丘の上に、5の曲輪で構成されていました。
入口からカートで四の曲輪まで送ってくれました。その後、三の曲輪・二の曲輪そして一の曲輪と続いています。
城壁は沖縄の他城同様の琉球石灰岩ですが、座喜味城とは違う鋭角的な石積み方法のようです。
一の曲輪から見通しは素晴らしい光景でした。

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まさお

沖縄城巡りツアー2城目 座喜味城 (2025/04/16 訪問)

今帰仁村の古宇利島から名護市・恩納村を通って読谷村の座喜味城にドライブ。
駐車場に隣接していたユンタンザミュージアムは定休日でした。残念。
名将護佐丸が築城した城でとの事です。そんなに城の規模は大きくないですが、城壁や城門の石積みがすごく精巧な感じでした。
城壁のカーブが本土の城と違いゆるやかですごく美しい感じでした。城壁の上からは周囲の街並みを見ることができました。

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天守無しがアツい

佐白山 (2025/04/13 訪問)

大石邸跡や大黒石を通り過ぎて…やがて駐車場に着きました。舗装されてる箇所…車で行き来できる場所はここまで🚘ここから先は歩きのみの…舗装されてない道のみ🚶‍♂️

大手門を抜けて…木々の枝に葉だらけの道をひたすら歩き……雰囲気的に何か出そうな階段😅でも近道できそうだから我慢…して登り…本丸まで辿り着きました⛰️

本丸の様子(1枚目)…その標高は180mほど…確かに、井筒屋からここまで坂を上り続ける感じで歩いてきたから…それくらいの場所になってもおかしくはない気がします

雨がパラパラ降る悪天候☔️のせいか…日曜日にも関わらず、ここにいるのは私だけでした。続日本100名城に選ばれるほどの場所なので、もし天気に恵まれていたら…もっと人は多かったのではないでしょうか?

井筒屋の店員は「今日は雨なので足場が悪いから登りづらいかも…」的な事を口にしていました。けれど私は遠くからここまで来ている。チャンスは(現時点では)他にない

「スタンプと御城印だけもらってサヨナラなんてしたくない!」「現地を納得行くまで巡ってこその御城印、100名城スタンプ!」「今やらずにいつやる?」「たとえ頂上まで行けなくても…行けるところまで…この足で行きたい🤩」という考えがあって…ここまで私は来たのです

本丸の中に小高い丘(佐白山)があり…その手前に、(2枚目の)「笠間城について」という案内板がありました。ここ笠間城は…鎌倉時代に笠間領主の笠間時朝によって…16年もの歳月をかけて造られた山城だそうです

天然の地形を巧みに利用した…守るに易く攻めるに難しな…堅固な山城。しかし現在はわずかな痕跡のみが昔を偲ぶ

階段を上がって…佐白山のてっぺんに。そこには「笠間城八幡台櫓跡」と彫られた石碑(3枚目)がありました。この反対側には屋根付きの休憩所(ボロいけど長椅子あり)もあり…ここで本丸到着および笠間城制覇の余韻に浸りながら数分を過ごしました。石碑に手を当てて「ここまで来れた事に感謝いたします🙏」と呟いたりもしたな

空腹と尿意に我慢できなくなったのもあり撤退…帰りは遊歩道経由で…(行きとは異なる、大黒石を通らないコースで)麓まで🚶‍♂️治功神社という小さな神社がそこにあったので、軽くお詣りもしました

笠間城下屋敷跡(4枚目)…つまりこの辺りに江戸時代…笠間藩主の屋敷があったそうです。それから(行きに左手に見えたけど笠間城優先のためにスルーした)正福寺に寄り、御朱印を求めました

「笠間城に先ほど行ってきたので、それ関連のありますか?」と尋ねたら、百鬼夜行と文字の書かれたバージョン(5枚目)のを渡してくれたので、それを授与

職員が語るには…(そこから1kmほど離れた場所に)真浄寺という寺があり、そこに佐白山から移築した八幡台櫓の建物があるそうです。我慢すれば行けたかも…ですが、まず昼飯食べたい&雨のためチャリ移動しづらい…理由により飲食店探しを優先したから…ここは行きませんでした

さらに…笠間駅に戻って帰路についてから…(井筒屋で店員からもらった)笠間城の地図を読んでみると…なんと本丸のさらに奥に…天守跡があるじゃあーりませんか…「えっ、さらに先があったの?😅」みたいな…寝耳に水でした

その天守跡(天守曲輪)に石垣(東日本大地震により部分的に崩れた)そして佐志能神社というのがあるそう。つまり今回の笠間城巡り…全体の半分以上は巡れたけど…天守と八幡台櫓の移築場所は未訪問となってしまった

けれど…本丸までは辿り着けた…だいたい巡れたからいいよね☺️「御城印を買い100名城スタンプを押下し、実地見学もした」と見做せる範囲の事はできたと思うから…

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