すえもりじょう

末森城

愛知県名古屋市

別名 : 末盛城
旧国名 : 尾張

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本丸空堀の南東部
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T-Shionoya

街中に残る土の末森城 (2024/12/15 訪問)

昨年12月中旬に訪れた愛知県名古屋市の末森城。

那古野城や古渡城から東へ約5km、比高20mほどの尾張丘陵の縁に築かれた城。

1548年に織田信秀(信長の父)が築城し、古渡城から移転。北の守山城と共に尾張の防衛ラインを担ったとのこと。
間もなくして信秀が亡くなると、信長の弟信行が引き継ぐが、1558年に信行が亡くなると共に廃城。
しかし末森村古城図に丸馬出が描かれているため、小牧長久手の戦いの際に織田信雄方が改修したと推測されています。

現在はほぼ全域が城山八幡宮の敷地となり、二ノ丸跡には近代建築の昭和塾堂、本丸跡は駐車場、本丸北側の曲輪には本殿が建つ。

訪問して最も印象深かったのは、丘陵の中腹部に築かれた本丸南から東に掛けての空堀だが、本殿西側の土橋を構成する空堀も巨大。更に金網に遮られるが、本殿が建つ曲輪の周りの空堀も確認可能。
本丸跡の稲荷社部分は西へ小さく膨らんでおり、二ノ丸と本丸を繋いだ通路に横矢を掛けているでしょうか。
そして神門付近で丸馬出の位置を想像するなどしていると、滞在時間は約2時間。

城としての整備状況はやや粗いものの、逆に土の遺構の武骨さを感じた、私の城郭巡りの191城目でした。

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城山八幡宮 (2024/08/17 訪問)

 久しぶりの末森城です。近くへ来たので立ち寄りました。城山八幡宮が跡地です。織田信秀が築き、死後は信長の弟、信勝(信行)が城主となりました。信勝が謀反を起こして殺された後は廃城となりますが、小牧長久手の戦いにおいて織田信雄が使用したと伝わっています。空堀が広範囲に残っています。南側の空堀は容易に観ることも散策することもできますが、他は藪になっている所も多く、また北側はフェンスに囲まれていて近づけません。それでも街中にこれだけの遺構があることに感謝です。
 地下鉄本山駅から徒歩10分くらいです。

 昼飯に末森城とは少し離れていますが、伏見にあるスパゲティハウスチャオ 錦通伏見交差点店さんで名古屋飯のひとつである「あんかけスパ」(ミラカン)をいただきました。

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ぴーかる

末森城 (2024/05/25 訪問)

【末森城】
<駐車場他>城山八幡宮参拝者駐車場10台分程あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾ラスト11城目。末森城は1548年に織田信秀が築城しました。信秀は古渡城から居城をここに移します。1552年に信秀が死去後に信長の全弟である信行(信勝)に城が譲られます。御存じの通り信行は2度目の謀反で清洲城で信長に誅殺されるのでその時城は廃城となったようです。
 本丸跡の城山八幡宮に8台程度の駐車場があります。本丸東面にある空堀は初夏で鬱蒼としていたので入り込めず。御城印を買いたかったのですが、16:30までの社務所が16:25に目の前ブラインドをぴしゃりと降ろされて買えません、何とも冷たい(あくまで個人の感想です)神社でした。駐車も30分以内でしたので早々に立ち去りました。これにてこの旅終了、濃尾平野制覇にはあと2回程訪問が必要です。418㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

織田信秀、織田信勝(信行)ゆかりの城 (2024/04/06 訪問)

末森城は天文17年(1548)織田信秀によって築かれました。天文21年(1552)に信秀が死去すると信長の同母弟・信勝(信行)が城主となりました。信勝は信長に反旗を翻し、一度は許されますが永禄元年(1558)に再び謀反を企てたとされ清洲城で殺されます。
末森城は標高43mの岡地に築かれており、現在では本丸は城山八幡宮の境内になり、二の丸は駐車場になっています。一見普通の神社に見えますが本丸から東に降りていくと見事な空堀が残っており神社への橋が土橋の代わりにかかっています。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 織田信秀
築城年 天文17年(1548)
主な城主 織田氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県名古屋市千種区城山町2(城山八幡宮)
問い合わせ先 名古屋市千種区役所区民生活部まちづくり推進室まちづくり推進係
問い合わせ先電話番号 052-753-1821