6月5日に訪問したのですが1849年のこの日焼失したことを知り感慨深かったです
福山という丘に立っていたため福山城と呼ばれていました
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2025/09/14 15:16
2025/08/15 22:48
【赤色立体地図かるた】 (2017/05/04 訪問)
「城郭に お台場付けた 松前城(じょうかくに おだいばつけた まつまえじょう)」
逆説で
「お台場に お城が付いてる? 松前城(おだいばに おしろがついてる まつまえじょう)」
松前城は新しい城で、完成は安政元年(1855)になります。津軽海峡を通過する異国船を監視するのが目的と見られ、幕命で福山館を拡張する方針で築城がされています。海岸には16砲台、33門が置かれ、松前城の三の丸にも7門の大砲が設置されていました。
近世と近代が混じりあったような城で、三の丸には石垣ではなく土塁が据えられていたと思いますが、城郭の主要部は石垣で築かれ、三重の層塔型の天守が置かれています。
砲撃戦だと・・・
天守は本丸を狙う時の的になると思う・・
石垣は砲撃が直撃すると、破片で周囲の兵士を傷つけてしまう・・
いろいろ思う所はありますが、五稜郭よりはだいぶマシか・・
歳三さんたちが松前城を攻めた時は、幕府軍艦・蟠竜丸が津軽藩の旗を掲げて松前湾に侵入し、松前城に砲撃を加えるも、松前城側は海岸の砲台と三の丸の砲台で反撃をし、蟠竜丸は沖に逃れたそうです。ひょっとしてこれは日本初の軍艦と城郭の砲撃戦ではなかろうか・・
五稜郭はかなり正確な五芒星(ペンタグラム)の形状をしているので、稜角の位置が三箇所わかれば、全体の正確な形状と位置が把握できると思います。砲撃戦が進化したこの時代に、これは無いな・・と思います。
着弾計測の技術も進化していると思うし、名人だったら思ったところに砲弾を降らして来そうだし、相手の好きな所へ砲弾を落とせるのってヤバいと思う。しかも石垣で囲まれているし、砲台に大砲が乗っかっていないし・・
正直 歳三さん達も「ハズレだ・・」と思ったかもしれません。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2025/08/10 18:26
2025/08/08 19:17
【赤色立体地図かるた】 (2003/05/02 訪問)
「蝦夷さくら 北のまもりの 松前城」(えぞさくら きたのまもりの まつまえじょう)
50代半ば家内と5年毎の特別休暇を利用して長年の思いを叶えた北海道松前城初探訪、次期は桜の頃染井吉野桜を始め百種以上の桜が桜園で咲き誇って居ました、昭和24年に焼失した天守は復元されて、本丸御門と対に構えて見所、砲台跡、土塀、門も復元されていました。青森弘前城、北海道五稜郭、松前城と羽田から飛行機移動とレンタカー移動を合わせて桜の時期に探訪しました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
江戸幕府が松前氏に築城を命じ、日本式城郭として安政元年(1854)に完成。海防のため城の内外に37基の大砲が備えられていた。日本式に造られた最後のものだった国宝の三重天守は昭和24年(1949)に焼失し、その後外観復元された。本丸脇の櫓門「本丸御門」は築城時から現存し、国の重要文化財に指定されている。
城地種類 | 平山城 |
---|---|
築城年代 | 慶長11年(1606)(福山館) |
築城者 | 松前崇広(福山館) |
主要城主 | 松前(蠣崎)氏 |
文化財史跡区分 | 国史跡(松前氏城跡)、国重要文化財(本丸御門)、道有形文化財(御殿玄関) |
天守の現況・形態 | 独立式層塔型[3重3階/1849年築/焼失(火災)]、独立式層塔型[3重3階/1960年再/RC造外観復元] |
主な関連施設 | 外観復元天守、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁、横堀 |
住所 | 北海道松前郡松前町字松城144 |
---|---|
問い合わせ先 | 松前町役場 |
問い合わせ先電話番号 | 0139-42-2275 |