志筑城は恋瀬川の南の台地の鼻先に築かれていました。平安時代末から鎌倉時代にかけての武将・下河辺政義は地頭職に任じられ常陸南部を治めていました。子孫は益戸姓を名乗り志筑城に拠ったとされています。益戸氏は南北朝時代には小田氏配下として南朝に味方しますが、小田治久が高師冬の謀略に陥り降伏したことにより廃城になりました。
慶長6年(1601)徳川家康の命により本堂茂親が志筑に移封され、陣屋が築かれ明治まで続きました。その後、明治26年から平成23年まで小学校が有りましたが、移転してサラ地になってしましました。幸いにも土塁の一部が残っています。
城址には新選組に誅殺された元新選組参謀・伊東甲子太郎の顕彰碑があります。甲子太郎は交代寄合本堂家家臣・鈴木忠明の長男として生を受けたためその縁ででしょう。しかし、どうするのか このサラ地・・
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