前年時間切れで探訪できなかった石岡城を終えて時間も有り、城びとで近く探し、西に約4km程の志筑城と定めて初登城しました。
国道6号線を南に進行し恋瀬川を渡って西に進攻し、志筑城の西虎口坂道を登り、志筑城跡旧志筑小学校跡の校門より進入。車は元グラウンドと思われるエリアに駐車する。
校門の石柱横に志筑城の案内解説板がある、反対側には立派な忠魂碑、通って来た道が1郭南の土塁、堀跡の道の様、案内板を読むと平成23年に移転して更地に成った。旧小学校の庭園と中心に楠木の大木が残って居る、根元には小さな志筑城址碑が在り、少し離れて伊東甲子太郎の碑文の刻まれた顕彰碑、伊東甲子太郎顕彰碑柱と解説板が楠木に覆われて立っている。
伊東甲子太郎の名を見て幕末新選組の参謀伊東甲子太郎がなぜ此処に、本堂家家臣鈴木忠明の長男と記されている、水戸、江戸で学び伊東精一道場で北辰一刀流を極める、新選組に参謀として使える。映画ドラマでは新選組を離れて暗殺されましたが、ここの地が出身地だったのかと、歴史ドラマが甦りました。
志筑城は案内解説板によると。
志筑城は恋瀬川を望む半島状に台地上に位置してる。平安期末から鎌倉初期に下河辺政義にて築かれた、源頼朝から地頭職に任じられ、常陸南部を治める、政義以降その子孫は益戸氏を名乗り代々志筑城を治めた。南北朝時代の城主は国行で、小田氏の旗下で南朝方に属していた、北朝方の高師冬佐竹氏大掾氏に小田氏が負けると、志筑城益戸国行も開城し落ち延び廃城に成った様です。
時は流れて、関ケ原後佐竹氏水戸から秋田へ国替えにて、出羽国仙北郡(秋田県仙北郡美郷町)本堂城主本堂茂親が常陸志筑地域(8500石)へ国替え慶長6年(1601年)、正保2年(1642年)から明治の廃藩置県まで本堂氏の陣屋が置かれた。
グーグルマップ航空写真を見ると妻瀬川流域は干拓田圃整理が整い霞ヶ浦まで繋がっている、余湖図コレクションの情報では霞ヶ浦が昔は志筑城付近まで広がっていた、南側の池は堀であり、かっては川が城の周囲を流れていたととありますが、航空写真を見るとその様にも見向けられます。
又志筑城校門から南へ500m程で県道138号線に合流しますが、その突き当りに志筑城移築陣屋門が在ります、走行中におや?民家の門にしては立派!と目視したのですが写真撮らず。
歴史800年を重ねる志筑城、関ケ原後の国替え、幕末の擾乱が織りなしてる志筑城探訪でした。
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