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コウマくん

晴れの国の雨の中 (2025/07/14 訪問)

大雨だったので岡山駅からタクシーで登城。雨のおかげか観光客も少なめでゆっくり見学で来ました。
不明門から上り本段から見る黒塗りの天守閣は圧巻です。天守閣から金箔瓦越しに見下ろす岡山後楽園も見事です。更に旭川沿いから見る不等辺五角形の天守閣は迫力満点でした。流石は金烏城。雨だけどとても楽しめました。

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しんちゃん

依田信蕃 (2013/12/25 訪問)

小諸城は慶長年間(1596~1615)仙石氏によって近世城郭に改修されました。長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城が築かれ、天文23年(1554)に武田信玄の命により、鍋蓋城を取り込んで大城郭が築かれたとされています。この時の縄張を担当したのが山本勘介だという伝承もあるようです。
本丸・二の丸・三の丸が真っ直ぐ並ぶ、基本的な縄張りは、この時代に出来ていたようです。主要部が城下町より標高の低い珍しい城で、本丸・二の丸周辺が小諸城址懐古園として整備され、有料で公開されています。

本能寺の変の後、滝川一益が伊勢にトンズラすると小諸城は北条氏の手に落ちますが、依田信蕃が春日の穴小屋(春日城・三澤小屋の説も)に籠って北条軍の補給路を断ったため、北条勢は徳川と和議を結んで関東に退いていきました。信蕃が岩尾城攻めで戦死すると、家康は信蕃の子・康国に松平姓を名乗らせ、遺領を与えて小諸城主としました。小田原攻めの際に康国は石倉城攻めで戦死し、弟康勝が家督を継いで家康と一緒に関東に移り、上野藤岡城3万石を賜りました。
なんとなく所領が減っているような気がしますが、気のせいでしょうか。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】

 ①「青石で 護る黒門 徳島城」(あおいしで まもるくろもん とくしまじょう)

 平成29年(2017年)9月26日登城、岡豊城の特別期間限定天守風二層櫓「櫓」を見学探訪の帰りに徳島にも1泊して徳島城、徳島の未踏の城探訪をしました。
 徳島城には阿波緑色片岩を利用した石垣で有名です、大手門に当たる黒門枡形、下乗橋、左手の太鼓櫓台、右手の月見櫓台と濠辺りの三木郭外枡形よりの景観に緑色片岩の青石が特徴です、更に雨に濡れた青石は見事な事でしょう。
 写真は1番から4番まで。

 ②「弓櫓 元天守成り 徳島城」(ゆみやぐら もとてんしゅなり とくしまじょう)

 令和7年(2025年)5月14日登城、家内の希望で大塚国際美術館、祖谷かずら橋観光で徳島に2泊、前日の夕方、翌日の早朝に登城、本丸まで登り、石塁石垣櫓台を観察見学しました。幕末頃明治の初めまでは東二の丸に天守閣が残って居たそうです、蜂須賀氏が徳島城を築いた初期には本丸西側の現在の弓櫓跡に天守閣が建っていたそうです、櫓台の大きさからすると5階建ての大天守が想像されそうです?、現搦手側の櫓台石垣には鏡石の様な大きな石が据えられて、さもそうであろうと思われます。
 写真は5番から8番まで。

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しんちゃん

古河公方と最前線で対峙した城 (2015/11/30 訪問)

葛西城の創建ははっきりしませんが、関東管領山内上杉氏の目代・武蔵国守護代大石氏の一族によって築かれたとされています。足利幕府・関東管領と敵対する古河公方・足利成氏(持氏の子)を牽制しており、成氏に追われた千葉胤直が葛西城に逃れた際には、城主の大石石見守がこれを保護しています。
天文7年(1538)に北条氏に攻められ北条氏の城となりますが、徳川家康の関東移封の後は葛西氏は徳川家に使え、城跡は葛西離館・葛西御殿として改修が施されました。江戸時代には家康・秀忠・家光の三代に渡って鷹狩の際の宿泊用施設として利用されたとのことです。
城址は葛西城址公園として整備されています。

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しんちゃん

惣構北端・岸の砦跡 (2014/07/22 訪問)

岸の砦跡は有岡城惣構の北端に位地し、織田信長の有岡城攻めの際には荒木村重の重臣・渡辺勘大夫が守っていました。城址は現在は猪名野神社の境内になっており、周囲との高低差から惣構の雰囲気を感じ取ることが出来ます。境内には土塁が残っています。

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しんちゃん

主郭部 (2014/07/22 訪問)

有岡城は元々は伊丹氏の城であったとされています。天正2年(1574)荒木村重が伊丹氏を破って入り大改修を行い、主郭部や町屋・侍町を土塁や石垣で囲った惣構の城として完成しました。
その後、荒木村重の謀反により織田信長の大軍に囲まれ10ヶ月のう攻防戦の末に落城しました。かつての主郭部は古城山と呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが明治以降開発が進み、土塁や石垣、礎石建物跡(展示名まんま)などが残っています。

かつて黒田官兵衛が村重の説得に向かい土牢に閉じ込められたという伝承が有りますが、土牢の件に関しては真偽は定かではないようです。

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2019/11/03 訪問)

臥牛山 全てが 備中松山城
(がぎゅうざん すべてが びっちゅうまつやまじょう)

雲海に浮かぶ天空の城も、岩盤と一体化した石垣も、山城唯一の現存天守も、猫城主も見どころですが、赤色立体地図かるたとしては、天守が建つ小松山だけでなく、大松山、天神の丸、前山をも含めた臥牛山全てが備中松山城であることを詠んでみました。

それにしても…さんじゅーろーのイラストって「仕事猫」の方だったんですか。ならもういっそサンダル履きで「登城準備ヨシ!」とかやってくれたらいいのに(笑) 実際、夏場なんかはさんじゅーろー目当ての観光気分でサンダル履きで登城する人がいそうですしね。

サンダルで 登城はキケン 備中松山城

ChatGPTで「仕事猫 登城はサンダルやヒールでヨシ!」で画像生成してみましたが…う〜ん、仕事猫というものがわかってないなぁ。いや、仕事猫そのものが生成できてしまうのも問題でしょうけど。
 

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todo94

夏のチャシめぐり④ (2025/08/11 訪問)

この日は稚内から100km以上離れている城びと登録物件のオフイチャシをターゲットに定めました。ここに向かう間、北の遺跡案内の地図にあるチャシをいくつも経由してみたのですが、一つも見つけ出すことができませんでした。肝腎のオフイチャシも濡れそぼった巨大な蕗や熊笹に阻まれてグーグルマップのポイント地点にはたどり着けずじまいでした。私の投稿は不発弾みたいなものですが、零汰さんは郭にたどり着けているようですのでひきあげました。それにしても100km以上運転してこの成果では悲しくなってしまいます。とりあえず、零汰さんも投稿されている近くにあった松浦武四郎踏査地の標柱と説明板、投稿しておきます。

この後、気を取り直して稚内副港市場まで戻って、よくばり海鮮丼をいただき、少しは気が晴れました。稚内副港市場に併設されている無料の樺太記念館では、レプリカとはいえ、北緯50度の国境標石も拝むことができました。ゴールデンカムイ関連物件と云って良いでしょう。

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コウマくん

桃太郎伝説を辿って (2025/07/13 訪問)

吉備津彦神社と吉備津神社に参拝してから鬼ノ城を目指しました。さすが国指定史跡!鬼城山に入ると道がめっちゃ狭い。レンタカー軽自動車で大正解でした。駐車場から登城開始。坂を登り、展望デッキからの西門の一帯の眺望は素晴らしいです。古代の人のパワーを感じられます。西門をくぐって鬼ノ城をぐるりと歩くと、荒々しい遺跡と瀬戸の絶景から古代のパワーが感じられました。

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コウマくん

桃太郎伝説の合間 (2025/07/13 訪問)

桃太郎伝説を辿って吉備津彦神社、吉備津神社からの鬼ノ城を目指す合間に登城しました。

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コウマくん

早川駅からハイキング (2025/08/13 訪問)

早川駅から真夏に登城しました。
駅から海を背に石垣山目指してハイキング。新金線をくぐると石垣山城への案内表示が見えはじめます。2キロ少しひたすら登ると石垣山城の駐車に到着。お盆なので鎧塚ファームは休みでした。ソフトクリーム食べたかった。石垣山城の荒々しく崩れかかった石垣にときめかせながらさらに登城すると物見台に到着。曇ってましたが眼下に相模湾と小田原城が!素晴らしい景観です。晴れた日にもう一度行きたいですね。

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しんちゃん

長谷川秀一 (2016/08/14 訪問)

東郷槇山城は朝倉氏三代氏景の次男・正景によって築かれたとされています。朝倉氏が一乗谷に本拠を移してからは、その支城としての役割を担ったようです。朝倉氏が滅亡してから時を経て、天正12年(1584)長谷川秀一が城主となりました。
長谷川秀一は本能寺の変の後の「神君伊賀越え」でも段取りや案内役を買って出るなど重要な役割りを果たしているようです。

山頂部には城台(天守閣跡?)があり、下段に二の丸、千畳敷などの曲輪があり、土塁や堀切なども残っています。フリーの赤色立体地図ではこのあたりは範疇外になるようです。訪問していなかった北西の連続郭群を見て見たかったのですが、少し残念。
まだまだ赤色立体化されていない場所も多いです。一番見たいのが関ヶ原の周辺なのですが、諸所の事情が有って難しいのかもしれない。
国土地理院の地形図だけでは判断が難しい所も、赤色立体地図だと一目瞭然です。
見えすぎて困るぐらいではないでしょうか。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2017/09/24 訪問)

 ①「一時の 櫓出現 岡豊城」(いっときの やぐらしゅつげん おこうじょう)

 ②「四国制覇 元親の夢 岡豊城」(しこくせいは もとちかのゆめ おこうじょう)

  8年前の平成29年9月、期間限定(平成29年4月1日~平成31年2月28日)で岡豊城詰に天守風二層櫓が建てられて是非にも見たいと、京都への用事に合わせて周防、しまなみ海道沿いの海賊の城、伊予、土佐、阿波4泊5日を企画し9月24日岡豊城詰に建ってる限定建物「櫓」を見学しました、また係りの方にいろいろと話を聞かせて頂きました、合わせて県立民俗資料館も見学資料入手、岡豊城登城口に建つ「長宗我部元親飛翔之像」も拝見、凛々しい若き日の元親像、土佐の統一、四国制覇も一時で秀吉に下るも、元親夢の跡岡豊城、整備されて良く残って居ります。
 
 

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2025/03/28 訪問)

「熊野川と 海運の抑え 新宮城(くまのがわと かいうんのおさえ しんぐうじょう)」
「炭売って もうかりまっか? 新宮城」

ぼちぼちでんな・・って、実はウハウハだったようです。紀州の木材は江戸城をはじめ、良材として多くの建築物に使われ、備長炭は江戸や諸藩の生活に欠かせませんでした。陪臣とはいえ3万5千石の扶持を与えられ、炭や鯨油での売り上げを加えると中堅大名クラスのお金持ちだったのではなかろうか? 紀州藩の取分がどのくらいだったのか、気になる所です。

水の手には大量の備長炭を貯蓄できたようで、海から見ると「備長炭出荷城」のように見えたかも・・ゼニや 世の中ゼニや!

「陪臣の 意地を見せたる 新宮城(ばいしんの いじをみせたる しんぐうじょう)」

新宮藩9代藩主 水野忠央は紀州徳川家の陪臣と言う立場でありながら、同じ御三家の附家老と連帯して幕府に対して待遇改善を要求したり、将軍の側室として妹を大奥に送り込んだりと、かなり精力的に活動しています。また後の大老・井伊直弼と協力して紀州徳川家の徳川慶福(後の家茂)を第14代将軍に就かせています。井伊直弼が殺害された後は、勢いを失い新宮城に幽閉されました。

※一部画像は日本Q地図さんのデータを使用させていただいています。


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小城小次郎

大石氏とその被官たちが集住していたのだろうか (2025/01/05 訪問)

古くは横山党由木氏、戦国時代は大石氏が居館を構えたところとされる。周囲には松木屋敷等の屋敷伝承地が点在しており大石氏の被官たちが緩く集住していたのだろう。居館跡の永林寺も大石氏所縁の寺で想像以上に立派なお寺だ。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2019/01/25 訪問)

「街道と 多摩川おさえる 滝山城(かいどうと たまがわおさえる たきやまじょう)」

滝山街道と多摩川をおさえた立地に着目しました。陸運と水運の両方をおさえ,武蔵野への侵入を阻む位置づけにあった城だと思います。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

織豊期 そのまま残る 赤木城
(しょくほうき そのままのこる あかぎじょう)

未訪です。
コンパクトながらも江戸時代の改修は無く織豊期の姿が残る城だそうです。
なかなか貴重、行きたい城の一つです。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

高天神城 武田と徳川 奪い合う
(たかてんじんじょう たけだととくがわ うばいあう)

元は今川氏の城でしたが桶狭間後徳川の支配下に。
信玄の死後、勝頼がこの城を落とすも家康が奪い返す。
7年に渡り戦いが繰り返されました。
激戦の城ですが見どころ満載の城でもあります。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2019/06/10 訪問)

 「絶景の 隆景築く 新高山城」(ぜっけいの たかかげきずく にいたかやまじょう)

 令和と改元されて1ヶ月目広島県東部地区の未踏の城探訪と出掛けました、鏡山城、隆景に謂れの有る、木村城、新高山城、高山城、竹原、三原城で三原泊の前後4泊5日で広島岡山京都大坂を廻る。
 新高山城へは先ず本郷生活学習センターに寄って資料と学習してからの登城、沼田川の両岸に起立する新高山城、高山城に圧倒される、登城口に駐車場と簡易トイレある。
 登城路を先ず匡真寺跡へ登り、中の丸と本丸の間の虎口から本丸へ詰の丸よりの眺めが絶景圧巻、対岸の高山城の山塊が良く見える、毛利元就の三男隆景は小早川家の養子へ、木村城から高山城へ移り、新高山城を天文21年(1552年)築いたと云われてる。
 

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

那須の城 堀底巡る 烏山城
(なすのしろ ほりそこめぐる からすやまじょう)

那須氏が築いた城で関東では珍しい石垣が残る城として知られていますがやはり見どころは郭の間をめぐる堀底道かと。
この辺りは佐竹氏や宇都宮氏との争いも多かったので見応えある遺構が残る城も多いです。

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