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しんちゃん

海に突き出た断崖の丘陵上に築かれている (2025/05/09 訪問)

堂崎城は南北朝時代から室町時代にかけ、この地に勢力を広げた天草氏の一族・長島氏によって築かれたとされています。天文23年(1554)長島但馬守鎮真の時代に相良氏に追われ、薩州島津氏を頼って出水に逃れ、その後堂崎城には天草越前守が入りました。
永禄8年(1565)堂崎城は野田の島津常陸真美忠兼の攻撃を受け、天草の志岐・栖本氏も島津に加勢したため堅城の堂崎城もついに落城し、天草越前守も切腹して果てました。堂崎城を落とした忠兼も、3ヶ月後の7月8日に出水の島津義徒らによって謀殺され、翌年野田・長島で悪疫が大流行したため、人々は忠兼の祟りとして怖れ、汐見と堂崎城址に若宮神社を建立し、命日に踊り(お八日踊り)を奉納するようになったそうです。
かつての堂崎城は4の区画に分けられ、麓の城川内川の外側が「本馬場」内側・城内側が「内馬場」海に突き出た丘陵上の東側が「御城内」西の丘陵先端側が「本丸」で若宮神社が祭られていて南に土塁が残っています。本丸西側、丘陵先端にも区画があり、その先は海に通じていますが覗き込んでいません。

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駿府城

発掘調査現場でダンス!?ストリートシアターフェス「ストレンジシード静岡2025」開催!

5月3日(土)から5日(月・祝)にかけて、駿府城公園でストリートシアターフェス「ストレンジシード静岡2025」が開催されました。今年で10周年を迎えた本フェスは、普通の演劇祭とは異なり、静岡の街そのものが劇場となる、他に類を見ない体験型フェスティバルです。
そして中でも注目なのは、駿府城天守台発掘調査現場を舞台に上演された「グルーヴィ・グレイヴ」です。駿府城跡天守台発掘調査現場を舞台にしたダンス作品は、今回が初の試みとなりました。
「グルーヴィ・グレイヴ」は、神戸を拠点に国内外で活躍するダンサー・中間アヤカ氏、舞踏家・今貂子氏、俳優・山田航大氏、そしてアンサンブルダンサーたちが共に創り上げた新作ダンス作品です。
3日間にわたり多くの方にご来場いただき、観客からは「まるで時空を旅するようだった」「日常と非日常が交差する、不思議な感覚を味わえた」などの声もあり、大盛況のうちに幕を閉じました。
イベントは終了しましたが、駿府城跡天守台発掘調査は今なお、歴史の息吹を感じることができる特別な場所です。ぜひ当時のままに迫る壮大な天守台をその目でご覧いただき、静岡の歴史にふれてみてください。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんクイズ…

赤い城さん,todo94さん,しんちゃんさん,祝辞ありがとうございました。
赤い城さんクイズですが…
「矢羽放った戦の舞台と言われています♪」とあり,
文末の音符マークが最大のヒントだと思いました。
サザンの「古の風吹く杜」の歌詞。
撮っている場所は,由比ヶ浜。対象物は,稲村ヶ崎でいかがでしょうか…?
もうちょっと上の方と,ピークから下ったあたりまで見えれば確証に至ることができましたが…。
このへんの画像を撮っていないので,残念です…。

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トク

【春の長崎天草を巡る⑮】長崎観光(1/4)稲佐山 (2025/04/03 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、長崎観光編(1/4)です。長崎市内観光を4回に分けてお伝えさせていただきます。お城に関係ない話が続きますがすいません。

富岡港から高速船に乗り45分、長崎に渡り茂木港に到着です。茂木港には船と接続するバスが待っていて、そのバスが長崎駅経由の[5]稲佐山公園行だったので、このまま長崎駅をスルーしてまず稲佐山に登り、長崎市街を一望する事にました。

ここはロープーウェイもあるようですが、私は終点の稲佐山公園で降り(写真⑩)、そこから山頂までスロープカーに乗るルートで行きました(写真①)。降りたバス停の前には猿や鹿の小動物園がありました(無料)。ちょうど生まれて間もない猿の赤ちゃんもいて、お母さんにべったり😊とてもほほえましかったです(写真②③)。スロープカーなるものには初めて乗りましたが、これはとても面白い乗り物です! 雄大な景色を眺めながら1本のレールで急斜面を登るのでスリル満点でした(笑)(写真④)。

そして頂上からの眺めは最高でした! 東の眼下には長崎駅と長崎スタジアム、北東には平和公園、南東には長崎港とグラバー園、その先にはかすかに先ほどまでいた天草(富岡)が見えました。また西の海の先には五島があります。とても爽快な気分になれる場所でした(写真⑤⑥⑦⑧⑨)。

夜は100万ドルの夜景がここから見えるそうですが、富岡城ですでに歩き疲れていたので夜まで待てず、30分間この景色を座って眺めた後、今夜予約したホテルのある長崎駅前にまたバスで戻りました。

長崎駅に着くと、以前は西の果ての終着駅という暗くて寂しいイメージの駅でしたが、今は西九州新幹線開業にともない、とても広く美しく生まれ変わっていたのには驚きました。高層ホテルやショッピングモールも直結し、貨物跡地にはジャパネットが運営する長崎スタジアムシティ(J2ヴァンフォーレ長崎のホ-ムスタジアムとショッピングモール)に生まれ変わり、とても賑わっていました。

長崎観光(2/4)へ続きます。
 

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イオ

椿尾下城(1/2) (2025/01/05 訪問)

椿尾下城(奈良市北椿尾町・城びと未登録)は、室町期に大乗院衆徒の椿尾氏が築いたとされ、当初は古市氏に従っていましたが、後に筒井氏に従うようになり、松永氏との抗争の中で改修されて椿尾上城の支城として機能したようです。

激ヤブ城として(悪)名高い椿尾下城ですが、遺構自体は見応えがあるようなので上城の前に挑戦してみました。南西側から登って行くルートがしんちゃんさんから案内されていますが、この日は北東側からのルートを選択。登城口(34.63443074145962, 135.87241355004616)近くの広くなった道路脇に路駐して、擁壁の切れ目から登って行き、立木付近の笹藪のわずかな隙間にあたりをつけて突入! 笹藪を突破したところが北東端の堀切でした。堀切にも笹が茂っていますが、真冬でもありこの程度なら問題ありません。堀切は西側に竪堀となって落ち、竪堀を越えて尾根の西面を南西に進んだ先にも竪堀が落ちています。竪堀の堀底を上って行くと主郭部北側の堀切に到達。なかなかの幅と深さで北東尾根を遮断していました。

堀切をよじ登ったところが主郭北下の腰曲輪で、主郭との間に土塁が設けられています。土塁を回り込んで主郭に足を踏み入れると…噂に違わぬ激ヤブ状態! それでも主郭の南東下に堀切があるはず、と笹藪に突入して下りられそうなところを探すも見当たらず、探し回る中で主郭南裾の藪の中に何やら石積みらしきものを発見しました。古墳の石室跡?? 結局、南東尾根の堀切は見付けられず、いったん諦めて南西下の帯曲輪をたどって主郭西側に回り込むと、堀底道のように分岐した横堀がめぐっていました。

主郭部に続いては支尾根をめぐります(続く)。
 

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑰ (2025/04/27 訪問)

朝田辰兵衛さん、神奈川コンプリートおめでとうございます。遠方への遠征に力点を置いている私にとって、関東地方のコンプリートは非常にハードルが高くなっています。古希を迎える前に達成できるかどうか、かなり怪しい状態です。

さて、4月27日の攻城も終焉が見えてきました。千石城はコスモス園(松山御本丸公園)という広大な公園として整備されています。駐車場のキャパシティも非常に大きいです。公園としての整備が加えられすぎているようにも感じますが、堀切など、城の遺構も楽しむことはできました。

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赤い城

おめでとうクイズ

朝田さん、神奈川コンプリートおめでとうございます😊
浦賀城の堀切はこの時期藪なのは仕方ないですね。
天気も良かったとのこと、眺望も楽しまれたことと思います。

さてクイズですが城ではありません(神奈川県です)。
矢羽放った戦の舞台と言われています♪

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しんちゃん

朝田さん神奈川県コンプリートおめでとうございます   西南戦争の際には官軍が陣を敷き敗北。 (2025/05/08 訪問)

朝田さん 神奈川県コンプリートおめでとうございます。
西原城は現在、城山公園となっており、舗装された車道が上まで続いています。公園として整備されているため、堀切などの遺構が解りづらくなっている所はあります。二の丸と思しき場所の一角に土塁が残り、城主の図師氏の宝塔や五輪塔が並んでいます。ちなみに左の三基が図師氏のもので、右の立派な三基は元町長が近くの墓地から藪に埋まっていたのを移転して来たものらしいです。どうやら百引地方を治めていた鶴田家の祖先の墓のようです。二の丸の東に有る大きな曲輪が本丸と思われます。
車だと非常に訪問がしやすい城址で、未訪の城として残っていたのも、あまり人が訪れない場所にあるからだと思われます。

西原城主・図師氏が二十代・434年もの間、居城とし高山の本城の支城として機能し、北朝方の島津氏に備えていたようです。図師氏は当地で南朝方として活躍しましたが、後に島津氏に従ったようです。ちなみに東方200にあるAマート輝北店の駐車場には図師氏の居館があったようです。
西南戦争の際には官軍がここに陣を敷いたようですが、薩軍に攻められ大敗を喫したとされています。

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しんちゃん

島津総州家の城 (2025/05/08 訪問)

平山城は諏訪運動公園や川辺小学校となっており、山城としての遺構はあまり見当たりません。とりあえず一番雰囲気を感じ取れそうな東側の丘陵に行ってみます。北側と南に郭のような広場があって南の広い場所が主郭のようです。残念ながら郭にはチェーンが張ってあるので中に入ることは出来ませんが外側から撮影できます。郭からの眺望は望めませんが、東側の遊歩道を歩いていくと展望台があるので周囲を良く見渡すことが出来ました。下品な落書きが多いですね、広い駐車場を含めて地元の族やヤンキーの溜り場になっているのでしょうか。私は地元の人と良く話をしますが、相手は選びます。とりあえず訪問時間に注意ですね。
この遊歩道の東の川沿いの方が、ものすごいコンクリの絶壁になっています。落ちたら間違いなく即死ですが、フェンスらしいものは見あたら無かったような気がします。とりあえず、あまり茂みの中をうろつかない方が良さそうです。
案内板によると別名、川辺城・川辺本城とも呼ばれる大規模な中世山城で本城・花見城・天神城・新城の四の郭に分かれているようです。明徳4年(1393)に島津総州家の伊久が居城とし、川辺の中心的な城であったようです。その後、松尾城(野崎)との間で島津一族の大きな合戦が二度起こり、町内各地に戦死者を弔う供養塔が残っているとの事です。

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朝田 辰兵衛

ここを最後にすべきかな,と思ったので… (2025/04/27 訪問)

歴史的な場所でもあるし,赤い城さんから出題されたこともある浦賀城。「ここを神奈川県の最後にすべきかな…」と,ある段階から考えていました。天候も良くないといけないだろう…と考えていましたが,当初の予定で問題ありませんでした。雨男のハズなのに…。

これにて,神奈川県城びと登録城コンプリートとなりました。
自分へのごほうびは,横須賀美術館。

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しんちゃん

謎の加栗山遺跡 (2025/05/08 訪問)

川上城は川上氏の城とされますが詳細は不明です。ちょうど城址のポイントに個人宅が有るので、近づける所まで近づいてみました。ネットが引き千切られたように散らばっているので、そこを境界にしてストップします。ネット向こうの藪の中に土塁のようなものが見えました。
せり出した台地上に個人宅と庭が有るようですが、それだけでは城址の雰囲気は感じ取れません。
とりあえず、家の人がいないか尋ねてみると、その家のお母さんが畑作業をしていました。何度か声をかけると、ようやく気づいてくれました。お話を伺うと、川上城のことは解らないけど昔、背後の丘陵に加栗山という山城があって、バイパス工事の際に調査が行われて土器(かわらけ)などの出土品が出てきたそうです。川上城となんとなく関わりがありそうだけど、それ以上のことは解らないので、
北側の高架の上から削られた加栗山を眺めて雰囲気を感じました。黎明館のHPには加栗山遺跡の頁があって、それによると川上町の標高約170mの舌状台地の上にあり、旧石器・縄文・中世山城の三時期の遺跡とのこと。HPは縄文時代の出土品の紹介が主で、山城に関しての記述はあまりありません。本城が上にあって、麓にも居館等を築いていたということでしょうか?

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ぴーかる

平戸城 (2025/03/20 訪問)

【百名城76城目】
<駐車場他>平戸城無料駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>枡形虎口・石垣
<感想>2泊3日西九州旅1城目。先に昼食、重文の幸橋・英国商館碑・オランダ船錨⇒駐車場側から狸櫓・北虎口門⇒本丸門⇒天守見学⇒見奏櫓⇒懐柔櫓⇒亀岡神社⇒二の丸・二の丸御門跡⇒一ノ大手門跡⇒戻って、地蔵坂櫓の順に見学しました。北虎口門を通り狸櫓上方の土塀石垣に石積みの狭間が珍しかった。一ノ大手門や二の丸大手門のダイナミックな石垣遺構は迫力があり見応えがありました。現存建造物の北虎口櫓門と狸櫓に入れないのが残念ですが、それでも再建建造物が数棟建てられ、また石垣の枡形虎口がよく残っているいい城跡でした。1泊31万円以上する懐柔櫓にはさすがに泊まれませんわな。
 1日目は平戸城のみで終えました。平戸瀬戸市場に行って、夕刻、宿泊が伊万里だったので伊万里焼の大川内山に行き散策しました。2日目の観光・グルメとまとめて別投稿いたします。

<満足度>★★★☆☆
<グルメ>平戸城周辺のグルメで出てきたのがトルコライスだったので幸橋東側にあるレストランベイリーフに行きました。カツライスにデミグラスソースがかけてあるものでした。初めて食べたトルコライス、想像内の味でしたがとんかつ好きなので美味しかった。

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にのまる

日本の歴史公園100選【諫早公園】 (2025/03/01 訪問)

公園入口の『諫早公園物語』や園内の案内板でお城の歴史や見学ポイントを学びながら歩きました。遺構だと思い込んで違っていたら悲しいので、現地の案内はとてもありがたいです。
城びとみなさんご記録の眼鏡橋もしっかりとカメラに収めました。

この日訪れた玖島城と諫早城は長崎から佐賀へ向かう経路上の〈お城をさがす〉を見ていて“ぜひ行ってみたい!”と心が動いたお城です。
こんなふうな城址公園が生活圏にあるといいなぁと思いました。

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イオ

東殿と西殿 (2025/01/05 訪問)

室町期に大乗院衆徒の窪城氏が築いたとされ、戦国期には古市氏と筒井氏、筒井氏と松永氏の抗争の舞台となりました。本家居館の東殿と分家(窪城西家)居館の西殿が並列し、その南側の窪城一族の屋敷や百姓屋敷を環濠で囲んだ惣構的な縄張だったようです。

駐車場はないようなので、県道の道幅が広くなったところに路駐して登城開始。八坂神社(牛頭天王社)の境内が東殿にあたり、後背に土塁が聳えています。社殿の北西部から奥に進むと、南北に落ちる竪堀が東殿と西殿を区画し、竪堀の向こうには西殿の土塁が北東隅から南と西に続いています。西殿北辺の土塁の北側は深さのある堀切となっていますが、竹と倒竹の立体迷路状態でとても進入できないので、土塁に登って土塁上を西へ。土塁南下の西殿は住宅地になっていて民家が建ち並んでいるのが竹藪越しに見えます。新年早々に裏山の竹藪から倒竹をバキバキ踏み砕く音が聞こえてくるのは不審だよな…と考えて、ほどほどで引き返して東殿の裏手へ。

東殿は南辺を除く三方を土塁で囲み、北側には北尾根を断ち切る堀切が綺麗に遺っています。堀切は東端で南に折れて道路となっていますが、道路脇には東殿東辺の土塁が見られます。道路を下って県道を西へ。県道からも東殿と西殿間の竪堀を見ることができました。竪堀を過ぎたところから山手に入る小道があり、その先には西殿東辺の土塁南端が櫓台状になっていて、亥丸大神と白水明神が祀られていました。

東殿と西殿に遺構が残るのみながら堀切や竪堀は深く幅広く、お手軽に見られる割にはなかなか見応えがありました。
 

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑯ (2025/04/27 訪問)

彫堂七館からの転戦です。現地での表示は西館で周辺の多くの施設には不動堂の名がついています。鶴頭の名称は公園に使われていました。成瀬川に面している小さな城ですのでサクッと巡ってしまいましたが、実は近くの皎善寺に移築城門(裏門)が残っていたのですね。夕刻となっていて城めぐりにスパートをかけていたので仕方ありません。いつか訪れることができますように。

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赤い城

宇多須城 石川県金沢市 (2025/04/28 訪問)

GWの北陸旅、初日は金沢に宿をとりました。
朝は例によって朝駆けで近場の城を廻ります。
まずは近場の宇多須城、城びと未登録です。

金沢市街地の東側にある卯辰山に城跡があります。
卯辰山公園眺望の丘に車を置き少し登って行きます。
途中右下に降りる道があり、頭上には赤い橋がかかっています。
堀切のようにも見えますが果たして?

右手に進むと神社があり、この辺りが主郭部のようです。
残念ながら遺構は無さそうです。
城の詳細は不明ですが南北朝時代に築かれたようです。
金沢城を見渡せる位置にあるため江戸時代には庶民の立ち入りが禁止されていたそうです。


【見どころ】
 ・麓にある菖蒲園は開花時には綺麗そう

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T-Shionoya

独特のフォルムを持つ中地山城 (2025/04/29 訪問)

小見城に続き立山観光の一環で訪れた富山県富山市の中地山城。

常願寺川山間部南岸の、小口川と和田川に挟まれた小さな盆地状地形を成す丘の北西部に築かれた城。
江馬氏本拠の飛騨高原郷(現在の岐阜県神岡)から北へ直線距離で約30km。城の西麓を通る"うれ往来"で結ばれていた地。

1570年頃までに江馬輝盛が築城し、定かではないが重臣の河上氏を配置。
1578年に上杉謙信が亡くなると、織田方の攻撃を受け落城したとのこと。

現在は、電力会社施設跡などの改変が見られるが、概ねの形状を残す土の城跡。

説明板が設置されているものの、実際に訪れるとC郭から先は割と未整備に近い状態。
立派な内堀はエリアでつくりが異なり、C郭付近は拡幅されたのでしょうか。
C郭から直接A郭へ急坂を登ると、途中で3つの開口部が存在。そこは左の開口部が通路で正面2つが狭間という枡形虎口のように見え、非常に興味深い構造。
枡形の裏には巨岩があり、A郭に上がると物見台のような高い円錐状の遺構が特徴的。

滞在時間は約1時間半。
随所に独特のフォルムが見られた、私の城郭巡りの208城目でした。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑮ (2025/04/27 訪問)

高清水城からの転戦です。蜂谷森公園として整備されています。七館とはいうものの、一つの城として郭が連なっているというのが実情のようです。

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トク

【春の長崎天草を巡る⑭】(11)富岡城 (2025/04/03 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(11城目)は「富岡城」です。

富岡に宿泊した翌朝、まず富岡港から富岡城を見上げました。いい感じのアングルです(写真⑨)。そしてここからあの上に見える本丸まで登ります(徒歩で30分:車でも登れます)。

富岡城の築城者は唐津藩主「寺沢広高」です。豊臣政権下で小西行長の領地であった天草は、関ケ原後には唐津藩の領地となり、1621年には家老の「三宅藤兵衛」が城代として入ります。

実はこの三宅藤兵衛という男、明智光秀の孫にあたる人物です。燃え落ちる坂本城から明智秀満の家臣「三宅六郎太夫」から助け出され、京都で匿われた後、成長してからは密かに叔母ガラシャの庇護を受けます。しかしガラシャは関ケ原の直前、石田三成の兵に屋敷を囲まれたため自害。その後の籐兵衛は、唐津藩士の「天野源右衛門(安田国継)」に誘われ、寺沢広高に仕官します。そしてそこで才能を開花し、唐津藩筆頭家老にまで登り詰め、富岡城の城代となりました。実はこの安田国継という男は、明智秀満の元家臣で槍の名手。本能寺の変ではあの織田信長に傷を負わせた男だとされています!

しかしその後の藤兵衛は、広高の子で唐津藩を継いだ「寺沢堅高」の悪き命令に逆らえず、飢饉で米も取れぬ天草の農民に過度の重税を課し、払えぬ者にはキリシタン弾圧を名目に、泣く泣く拷問を行います。1637年これに反発した農民たちが蜂起し天草一揆が勃発! 藤兵衛は天草四郎率いる一揆勢と本渡で戦い、前回写真⑥の広瀬という場所で何と討ち死にしてしまいました。現在のその場所には、籐兵衛の墓が建てられています(写真⑦⑧)。そして籐兵衛死後も、3人の息子らが何とか富岡城を守り抜き、ここで細川忠利の軍勢が迫って来たため、天草四郎は大矢野へ戻れず挟み撃ちとなり、そこで海を渡り原城へ逃げ、島原の一揆勢と合流したようです。

熊本藩主の細川忠利は、この時自ら大軍を率いて藤兵衛を助けようと出陣しました。しかし時すでに遅く、籐兵衛は討ち死にした後でした。忠利の母は明智光秀の娘ガラシャ(玉)です。籐兵衛はガラシャの姉である岸と明智秀満(左馬之助)との間の子です。つまりこの二人は従弟同士、明智光秀の孫同士という事になります。二人はガラシャの下で幼い頃から兄弟のような親交があり、富岡と熊本の間でも何度か手紙のやりとりがなされていたようです。藤兵衛は、幼い頃から体の弱かった6才年下の忠利の事を心配し、熊本城の堀には蓮根畑があった事を思い出し、滋養強壮として辛子蓮根を考案し送ったとか。今では熊本名物になっています。

乱の後の富岡城には「山崎家治」が入り、富岡藩を立藩し荒廃した富岡城を幕府の援助で修築し、見事な石垣を築きました(写真②)。しかし3年後に家治は丸亀城へ転封となり、そこであの有名な高石垣を築きます。さすが名人家治の石垣です。

家治の後は天領となり、「鈴木重成」が代官として入ります。ここで重成は寺沢広高が定めた4万2千石か過分であり、これが天草の乱を引き起こすきっかけとなった事を幕府へ訴えます。しかし幕府からは却下されたため、領民のため切腹をもって再度訴えました。その死に免じ2万1千石へ半減されたそうです。また兄の正三は、領民がキリスト教から仏教へ改宗できるよう尽力しました。つまりこの二人の努力により、今の天草はあるのです。

現在の富岡城には、高麗門と櫓が復元されています(写真①)。山崎家治が築いた石垣も美しく残っています(写真②)。三宅藤兵衛時代の石垣は戦乱と一国一城令で破却されましたが、一部に家治の石垣とともに見る事ができます(写真⑤)。乱の時の焼け跡も残っていました(写真⑥)。

本丸から見た有明海と東シナ海の景色はとても美しく、私はしばらくこの景色に見とれてしまいました(写真③④)。藤兵衛もどんな気持ちで、ここからこの海を眺め、迫り来る一揆軍を迎え撃とうとしていたのでしょうか?

原城総攻撃では、細川軍は先陣を切って本丸へ突入し、そして天草四郎の首を討ち取ったとされています。つまり忠利は、藤兵衛の仇を何としてでも取りたかった、そして取る事ができたのでした。ちなみに藤兵衛の3人の息子は、そのまま細川軍に合流し、原城総攻撃でも活躍しました。その功績で、寺沢家改易後は細川家に無事仕官でき、代々幕末まで家老などの要職を務めたそうです。

つまり明智光秀の血は、この熊本の「細川家・三宅家」の中で代々受け継がれ、流れ続けていったのです。私はこの事に感動してしまいました。富岡城は訪れるには不便な場所ですが、明智光秀ファンなら是非1度は訪れ、三宅藤兵衛という明智光秀の血を引く男がここにいた事を知ってほしいと思います。

午後の便で、富岡港から長崎行の高速船「KIZUNA」(写真⑩)に乗り、長崎市(茂木港)へ渡りました。次は長崎市内を観光しようと思います。
 

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ヒロケン

陣城と言うなかれ (2025/05/01 訪問)

田上山城は、山頂の主郭を中心にY字型の尾根上に西側、南東側、北側の郭で構成されています。主郭は不等辺四角形で四方を土塁で囲まれており、虎口は北側と西側に配しています。北側の虎口には北郭に通ずる土橋が掛かり北郭の先には、角馬出が配されています。その角馬出の先には北外曲輪があり、その北外曲輪の最北端にはL字型の土塁があり虎口を設けています。
本郭の西虎口の先には西郭があり、主郭の西を防御する郭で北国街道を眼下に見渡せ、西郭の最西端の土塁には横矢枡形が設けれています。主郭の南には南曲輪があり四方を土塁で囲んで横矢折れも確認できます。

田上山城は賤ケ岳の合戦の折、羽柴秀長公が城を築き1万5千の兵を率い布陣した陣城と言われていますが、規模も大きく構造も立派でまさしく城と言っても過言ではないと思います。(私見)

意富布良(おほふら)神社駐車場に車を止め、神社境内の脇から田上山に登る道があり登城しました。登城路・城内は良く整備され、草木生い茂る5月とはいえ、難なく散策できました。
この城の見所は、秀長公が陣を敷いた城とはいえ、合戦をした記録もなく、すぐに陣を払っている為、遺構が良好に残り土塁、土橋、郭、堀切がはっきり分かる所だと思います。

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