いわつきじょう

岩槻城

埼玉県さいたま市

別名 : 岩付城、白鶴城、浮城
旧国名 : 武蔵

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織田晃司

岩槻城址公園 (2021/05/03 訪問)

岩槻城本丸は住宅地となって、岩槻城公園には岩槻城城門(黒門)、裏門、鍛冶曲輪、堀底、藪化した馬出が残る。

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肉球

空堀を散歩できます (2021/01/26 訪問)

お城巡りを一日中するわけもいかず仕事終わりに立ち寄りました。
本丸や二の丸などお城の中心部は住宅街になり見極めるのが難しくなっています。が
岩槻城趾公園には鍛治曲輪、新曲輪の土塁空堀が残り埋め戻されていますが障子堀が確認されています。
この他に黒門、裏門が移築され保存されています。
少し離れた場所には藩校遷喬館と時の鐘が現存しています。

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🏯城好きのメガネ

「岩槻城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★★★☆
岩槻城は、古河公方に対する抑えとして太田道真・道灌父子が築いたとされる。1522年、太田資頼が岩槻城を奪取し、岩槻太田氏の居城となる。太田資正(三楽斎)の代には居城を増改築し、反北条の拠点とした。1564年、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し、資正の追放したことにより岩槻城は後北条氏方となる。1585年、北条氏房が城主となった。小田原征伐では宿老の伊達房実以下2000の兵が籠城するが、浅野長政等に率る約2万の兵に攻められ、落城した。徳川家康の関東入り後、三河譜代の高力清長が岩槻城に入る。以後、青山、阿部、板倉など譜代大名が入れ替わる。江戸中期に、旗本から大名に上り詰めた大岡忠光が藩主となり幕末まで大岡氏が当地を治める。大岡忠光は言語不明瞭な9代将軍・徳川家重の言葉を唯一理解し寵愛を受けたとされる。戊辰戦争では新政府軍に服従した。現在、岩槻城城門及び裏門が移築現存している。

<アクセス>
東武鉄道野田線 岩槻駅 徒歩20分

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昌官忠

埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り① (2019/08/04 訪問)

「埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り」の1城目は岩槻城です。
自宅最寄り駅から岩槻駅に到着。そこから徒歩で「岩槻城址公園(岩槻城)」を目指します。
ナビでは西口からのルートで誘導されましたが、東口から諏訪神社経由の方が早いような気がします。(岩槻駅から徒歩20分くらいです)

岩槻城は1457年(長禄元年)に太田道真・道灌父子がはじめて築城したといわれていましたが、近年では、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説も有力で、築城者と築城年については定かではないようです。
元荒川を天然の外堀として利用した総曲輪(惣構え)の縄張りで、扇谷上杉氏と古河公方足利氏の領地の境目に築かれた最前線の城として活用されていました。
城は大改修されるも小田原の役で2万の軍勢に囲まれ降伏開城しました。江戸時代には高力清長が2万石で入り、以来、幕府要職に就く譜代大名が入封しました。

本丸・二の丸・三の丸等の城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから 構成されており、大きな沼に囲まれていたことから水に浮かぶように建っていたと言われています。
現在は岩槻城址公園として整備されており、黒門と裏門が移築されているほか、当時の土塁がいまでも残っています。

大部分が開発され沼も埋め立てられていますが、鍛冶曲輪・新曲輪のあたりが城址公園として残っており、高い土塁に囲まれた空堀の底を歩くことができます。
黒門、裏門も見応えあります。時の鐘を見るのを忘れました。攻城時間は60分くらいでした。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 成田正等
築城年 文明10年(1478)
主な改修者 北条氏
主な城主 成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏
廃城年 明治4年(1871)
遺構 門、曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4他
問い合わせ先 さいたま市教育委員会事務局生涯学習部文化財保護課
問い合わせ先電話番号 048-829-1723