日本100名城 現存12天守

ひめじじょう

姫路城

兵庫県姫路市

別名 : 白鷺城
旧国名 : 播磨

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姫路城
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Himeji Castleやった (2025/10/13 訪問)

日本人観光客の顔を見たっけ?世界遺産やからしょうがないか?モンサンミッシェルに🇫🇷フランス人が少ないのと一緒やね、知らんけど😅
姫路城はもう何回も行ってるので、きょうは「100名城スタンプ」をもらって帰ってきました。なんと!さすが世界遺産、入場ゲートの手前にスタンプが置いてありました。世界遺産は太っ腹です。帰りはなぜか有名⁉︎「姫路駅そば」を食べました。大阪関西万博では3,850円やったけど、ここでは500円でした。でも、出汁が塩っぱくて、出汁文化に生きる大阪人としては、なんで人気なんかわかりません。

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トク

【宮本武蔵】(15)姫路城②(本多忠刻と武蔵) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(15)です。

姫路城西ノ丸に築かれた化粧櫓と百間廊下は、徳川家康からもらった化粧料(結納金)で、「本多忠刻(ただとき)」と「千姫」のために築かれたものである事は、皆さん御存じと思います。池田輝政亡き後、本多家が桑名から姫路に入りこれらが完成する1619年頃、武蔵は忠刻の父「本多忠政」から姫路城へ招かれます。そしてしばらく滞在し、嫡男の忠刻や家臣に剣術や兵法を教えてほしいと頼まれたようです。西ノ丸の庭園も、もしかして武蔵の意見が取り入れられた庭園なのかもしれませんね。ちょうど忠刻と千姫の間には勝姫や幸千代が生まれ、二人が幸せの絶頂であった頃ではないでしょうか。私はもしや、忠刻・千姫・武蔵の3人でこの庭園から天守を眺め、諸国でのいろいろなよもや話に、花が咲いていたのではないかなどと想像してしまいました。

忠政の娘(忠刻の妹)亀姫は、この時「船上城」に入った小笠原忠真に嫁いでおり、忠真が「明石城」を新たに築城することになったため、忠真は築城において義父の忠政に何かと相談していたようで、両家は良好な関係にあったようです。そして武蔵は、この築城を手伝う事になり、明石へ客分として入ります。

姫路を去る時、武蔵は最初の養子である三木之助を、本多忠刻の下で仕官させてほしいと頼みます。忠刻は受け入れ、小姓頭にしたそうです。しかしその8年後の1626年、忠刻は何と31才の若さで病死してしまいました。千姫はさぞかし嘆いた事でしょう。

この時、江戸屋敷にいた宮本三木之助は、知らせを受け姫路へ向かいますが、その途中で明石の武蔵の屋敷に立ち寄り、一晩酒を酌み交わしたそうです。何も語らず二人はほとんど無言だったとか。いったいどんな気持ちで酒を酌み交わしていたのでしょうか? 武蔵は三木之助の決意に気がついていたのではないでしょうか? そしてその翌日、姫路へ着いた三木之介は、忠刻を追って殉職(墓前で切腹)したそうです。

次は武蔵が町割りや作庭に手腕を発揮した(明石城)を訪れます。
 

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亀ヶ頭

姫路城に行ってきました! (2025/09/08 訪問)

姫路城に行ってきました!やっぱり現存する木造の城は迫力がありました!やっぱり違いますね!

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トク

【宮本武蔵】(8)姫路城①(妖怪退治と刑部姫) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(8)です。

勘当され生活に困ったたけぞう(武蔵)は、1598年16才の頃、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城へ行き、身分を隠して足軽(門番)のアルバイトをします。

当時の姫路城には、黒田官兵衛が普請し豊臣秀吉が築城した三重四階の天守がありました(写真⑤)。その石垣の一部は今でも残っています(写真②③④)。1587年黒田官兵衛は豊前中津へ国替えとなり、秀吉は大坂城を築城して移ると、代わって木下家定に姫路城が与えられます(写真⑥)。しかしこの時、家定はまだ大坂城で秀吉に仕えていたため、家定の三男延俊(後の日出城主)が城代を務めていました。この時に延俊と面識ができたようで、この15年後に武蔵は日出城(ひじじょう)を訪れているようです。

そして門番を始めてから数カ月後、城に妖怪が出るという奇妙なうわさが広まります。よって門番たちは誰も夜番をやりたがりません。でもたけぞう(武蔵)だけは平気で夜番を勤めたそうです。それが延俊の耳に入り、「彼はいったい何者か?」と調べられ、名高い新免流の武芸者である事がばれてしまいます。たけぞう(武蔵)は木下家の客分として取り立てられ、そして妖怪退治をしてくれぬかと頼まれます。わずか16才なのに・・・

たけぞう(武蔵)がある夜、灯ひとつで天守閣に登り、三階の階段に差し掛かった時、すさまじい炎と地震のような音と振動が!・・・ついに妖怪が現れました! ここでたけぞう(武蔵)は太刀に手をかけ斬りかかると妖怪は退散し静けさが戻ったとか。しかし四階に登るとまた同ように妖怪が現れます。しかしまた斬りかかるとまたも退散したようです。そして四階でまた現れるかもしれないと番をしますが現れず、明け方になるとウトウトと寝てしまいました。ふと目をさますと、そこに美しい「刑部姫(おさかべひめ)」が現れ、「あなたのおかげで妖怪は恐れをなして退散しました。褒美としてこの宝剣を与えましょう」、と白木に入った名刀「郷義弘」が残されていたそうです。

この後、関ケ原後の1602年に入った池田輝政は、姫路城を豪壮な天守に建て替えますが、刑部姫は刑部神社となって、天守最上階に守護神として今でも祀られています(写真⑨⑩)。そのおかげか、姫路城は400年の間に火事や落雷もなく、太平洋戦争時の空襲でも天守に爆弾は落ちませんでした。当時の米兵搭乗員の、「水堀が反射しB29のレーダーには湖か池に映ったので、そこに爆弾は落とさなかった」という証言が残されています。これも刑部姫の御加護でしょうか?

妖怪退治が終わり17才になったたけぞう(武蔵)は、父の無二斎が宇喜多から離反し、利神城攻めの時に知り合った黒田官兵衛を頼って中津へ行く事にしたため、自分も同行する事にしたようです。そして黒田配下の東軍として九州の関ケ原へ出陣します。

次は、その(中津城)を訪れ、たけぞうが負傷したという九州の関ケ原へ続きます。

【注】妖怪退治は後世(江戸期)の創作かもしれませんが、いちおうあったという事にさせて頂き話を進めました(笑)、すいません。
 

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概要

黒田重隆の居城を羽柴秀吉が改修し、関ヶ原合戦後に池田輝政がさらに大改修を行って連立式天守を完成。そして本多忠政が西の丸などを造築し、現在の姿になった。渡櫓で結ばれた4つの天守のうち、大天守は平成の大修理によって白漆喰が塗り替えられ、白鷺城と呼ばれた往時の美しさを甦らせた。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 正平元年〔南朝〕/貞和2年〔北朝〕(1346)
築城者 赤松貞範
主要城主 池田氏、本多氏、酒井氏
文化財史跡区分 世界遺産(姫路城)、国宝(大小天守・渡櫓等8棟)、国重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)、特別史跡(姫路城跡)
近年の主な復元・整備 黒田孝高、池田輝政
天守の現況・形態 型式不明[3重/1580年築/解体]、連立式望楼型[5重6階地下1階/1609築/現存]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、天守、櫓、門、塀、石垣、横堀(水堀)、土塁、庭園
住所 兵庫県姫路市本町68
問い合わせ先 姫路城管理事務所
問い合わせ先電話番号 079-285-1146