日本100名城 現存12天守

ひめじじょう

姫路城

兵庫県姫路市

別名 : 白鷺城
旧国名 : 播磨

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姫路城
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にのまる

【かるた】

るの門を
見逃すなかれ
姫路城

ー画像なし(泣)ー

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トク

㉙【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (姫路城天守から見えた輝政の野望) (2023/02/11 訪問)

(14人目)池田輝政「姫路城」の続きです。

家康から西国を牽制する城の築城を命じられたとはいえ、なぜ輝政はここまでの大天守を持つ大城郭を築いたのでしょうか? 城内を見学してもその手掛かりは見出せませんでした。そこで私は姫路城の天守最上階に立ち、築城開始1601年当時の輝政の気持ちになって空想してみました。西側を眺めた時(あれ😯?)ある事に気づきました! 池田輝政はある人物の生き方にとても似てませんか?

徳川家康は豊臣秀吉の妹を正室に迎え五大老筆頭となり力をつけ、その裏で不満を持つ諸将を味方につけ、そしてその間に壮大な渦格式の江戸城を築き、自分より年上である秀吉の死を待って天下取り(関ケ原)へ動きました。もしかして輝政も同じ事を考えていたのではないでしょうか?

(ここから先は私(トク)の空想の世界です)
自分は家康様よりまだ22才若い。そしてこの姫路より西国には、表向きは徳川に従ったとはいえ密かに不満を持つ大名(毛利輝元、黒田官兵衛、加藤清正、島津義久)らの総勢20万の軍勢がまだ無傷で残っている。家康の娘の督姫を正室に迎え縁者となりその下で手柄を立てここまで大きくなれた。そして同じく渦格式で壮大な姫路城を築き始める事もできた。もうすぐ家康様は死ぬであろう。これまで家康様には従ったが秀忠に従う気は全くない。これからは逆にこれら西国の諸将と手を組み、完成した姫路城の大天守から豊臣秀頼様を奉じて天下に号令をかけ、秀忠を討ち父兄の仇である徳川家を滅ぼす。そしてこの私が家康様に代わって天下人となり征夷大将軍に・・・(とは考えすぎでしょうか?)

しかし結局、1613年に輝政は家康より早くまだ50才の若さで突然この世を去ってしまいます(脳卒中とも)。輝政の野望はついに実現する事はありませんでした。清正に続き輝政の突然の死に、大坂方(豊臣秀頼)には衝撃が走ったようです。大坂の陣が始まる2年前の出来事でした。

これに気づいた徳川秀忠は、大坂の陣(豊臣滅亡)翌年の1616年に父の家康が亡くなると(享年75)、輝政の跡を継いだ池田光政がまだ幼く物言えぬのをいいことに、今度は姫路を召し上げ池田家を岡山と鳥取と洲本に分散、そして中心の姫路には楔(くさび)の役として重臣の本多忠政(四天王であった忠勝の子)を桑名より入れました。これは池田が豊臣や毛利に取って代わる存在にならぬよう姫路から忠政に監視させたものと思われます。その後、本多、松平、酒井氏などから城には装飾が施され、姫路城は戦う城から魅せる城へと変貌して行ったのではないでしょうか。

そう考えると私はこれまでの全ての疑問が解決しスッキリしました!
専門家の方々には大変失礼な内容ですいませんでした。

以上、トクの自分勝手な空想物語でした~😊

次は、(15人目)に続きます。

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トク

㉘【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (池田輝政と姫路城) (2023/02/11 訪問)

(14人目)「池田輝政」の続きです。
今度は、関ケ原後に築城した「姫路城」を訪れてきました。いつ見ても豪華絢爛! 姫路城を見たら誰もがお城を好きになってしまう不思議な魔力がありますよね! 現存のため嘆願してくれた中村重遠大佐や、B29の爆弾や火災から守ってくれた?刑部姫にも感謝です(笑)。もちろん現在維持管理されている方々にも。

私の好きな角度はここです。西の丸から見た天守です!(写真①)。また大天守を下の備前丸から見上げた姿も圧巻で好きです(写真②)。姫路城は美しさや大きさだけでなく、なかなか天守にたどり着けない入り組んだ門や狭間などの数々の戦の備えも、今まで訪れた方は誰もがすごいと感じられたのではないでしょうか(例えば写真④⑤など)。

黒田官兵衛時代の石垣も残っていました(写真③)。地元の官兵衛ファンとしてちょっと感動です。

(しかし待てよ🤔? ここでまた3つ目の疑問が?)
西国を牽制するために大きな城を築けと家康から命じられたとはいえ、いくら何でもこれちょっと大きすぎませんか? そしてこの備え、外観は華麗でも中味はまさにこれから大戦(おおいくさ)をするぞと言わんがばかりの城に見えませんか? これを見た徳川の人々はさぞかしびっくりし慌てた事でしょうね~(そこまでとは家康様は言ってないぞ!って)。

関ケ原後に、豊臣恩顧の大名で大天守と大城郭の両方を持つ壮大な城を築いたのは、加藤清正と池田輝政の二人だけです。清正がなぜそのような熊本城を築いたのかは、本丸御殿の「昭君之間」に答えが隠されていた事を以前お伝えしました。ならば輝政はなぜこのような壮大な姫路城を築城したのでしょうか?(皆さんはどうお考えでしょうか?)

【余談】姫路おでん
「姫路おでん」という看板をあちこちでよく目にしたので気になって食べてみました。生姜醤油につけて食べるのが特徴のようでおいしかったです。こんにゃくがお城の形でした(笑)😊(写真⑧)
 

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菱の門番所と2階櫓部の特別公開 (2023/02/23 訪問)

菱の門の門番所跡と初公開の2階の櫓部の特別公開に行って来ました。
以前、門番所と馬見所は公開されてましたが、櫓部については初公開です。
どうやって2階の櫓部に入ると思いますか?
菱の門を入って左側に行くと雁木があります。
雁木の階段を登って行くと、花頭窓の横に入り口があります。
これが正規の入り方ですが、雁木が危険なので新しい階段が付いていました。
中は、土造りの壁に火頭窓が二つがあり石落としが4つありました。
その後、にのまるさんが見落としたるの門跡に行きました。
どうして、皆さんるの門だけを見落とすのか検証してきました。
枡形のぬの門出ると、目の前に看板が見えます。
その看板には、右に行くと出口で西の丸に行くことが出来ますと示しています。
るの門跡への行き方は表示していません。
だから、右に行ってをの門跡とりの櫓跡を見て出口か西の丸の方へ行くのですね。
しかし、解ってしまえばなってことないのです。
天守閣に登らなければ、菱の門から右へ行って三国堀を通って進んでいくと、石垣をくりぬいた埋門のるの門の孔門にぶつかります。
そのるの門跡には、門の礎石が残っております。
敵が攻めてきたら、門を閉めて石垣を崩して埋めてしまうのですね。

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概要

黒田重隆の居城を羽柴秀吉が改修し、関ヶ原合戦後に池田輝政がさらに大改修を行って連立式天守を完成。そして本多忠政が西の丸などを造築し、現在の姿になった。渡櫓で結ばれた4つの天守のうち、大天守は平成の大修理によって白漆喰が塗り替えられ、白鷺城と呼ばれた往時の美しさを甦らせた。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 正平元年〔南朝〕/貞和2年〔北朝〕(1346)
築城者 赤松貞範
主要城主 池田氏、本多氏、酒井氏
文化財史跡区分 世界遺産(姫路城)、国宝(大小天守・渡櫓等8棟)、国重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)、特別史跡(姫路城跡)
近年の主な復元・整備 黒田孝高、池田輝政
天守の現況・形態 型式不明[3重/1580年築/解体]、連立式望楼型[5重6階地下1階/1609築/現存]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、天守、櫓、門、塀、石垣、横堀(水堀)、土塁、庭園
住所 兵庫県姫路市本町68
問い合わせ先 姫路城管理事務所
問い合わせ先電話番号 079-285-1146