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堀周辺散歩 (2024/09/21 訪問)

 本丸堀は埋め立てられていましたが、発掘調査により一部を見ることができます。二の丸堀はよく残っています。三の丸堀は東側と南側の一部が埋め立てられていますが、全体の四分の三が現存し石垣も観ることができます。久しぶりに外堀の散歩道を散策しました。県庁所在地にあってこれだけ堀と石垣が残っているのはありがたいことです。外堀の散歩道を歩いていると当時の城の大きさが実感できます。

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御門めぐりなど (2024/09/21 訪問)

 城内、城周辺を散策していると各地に門の跡の説明板があり石垣がある程度残っています。二の丸御門は塞がれていて約70m東側に出入口が設けられています。

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徳川家康 (2024/09/21 訪問)

 今年も駿府城へ行って来ました。
縄張りは三重の堀を備えた輪郭式の典型的な城で、外側から三の丸、二の丸、本丸となっていました。二の丸の東御門、巽櫓、坤櫓が復元され雰囲気を醸し出しています。以前に見学したことがあったので、前回登城時はスルーしましたが、今回は久しぶりに櫓内など見学しました。本丸と二の丸をつなぐ二の丸水路は興味深い構造です。天守台発掘調査の現場は天正期と慶長期の石垣に表示がありわかりやすくなっています。

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しんちゃん

玩駄無選手権・横浜 動くガンダム (2023/05/07 訪問)

横浜・山下埠頭の「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」の動くガンダムは2024年3月31日に最終日を迎えました。元々は2020年12月19日から22年3月31日までの期間限定で公開がされる予定だったのですが、コロナ禍もあり2年間の延長がされたようです。おかげで私も関東に城めぐりに行った際に拝観することが出来ました。サイズはほぼ原寸大で、通常TVなどで目にするガンダムとは細部の詳細が異なります。
とはいえガンダムは様々なバリエーションが存在し、アムロの乗っていたガンダムであるRX-78-2でも何十というバージョンがあるようです。プラモデルだと決定版と言える PG(パーフェクトグレード)UNLEASHEDはネットだと4万円近い値が付いていたりします。とはいえ定価でも3万はするのでお金持ちかよっぽどのマニア用のアイテムと言えるでしょう。
最近だとRG(リアルグレード)のVer.2.0 が発売されておりネットでは8千円~1万円で取引がされています。私はあるルートを通じて定価で購入しております。
動くガンダムは動きは少々緩慢で完全に自立出来ているわけではありませんが、目の前で動いているのを見るとやはり感動します。大阪万博で動かない状態で展示されるという話があるようで、アムロばりに「こいつ‥動かないぞ‥!」などと言わずに見守ってあげたいと思います。実際に大阪万博に行くかどうかは、すごく微妙な所ではありますが‥。

実はガンダムは戦国時代と密接な関わりが有ります。SD戦国伝シリーズは30年以上前から展開されており、関連する商品は300を超えるのではないでしょうか。私も押入れをさばくれば、かなりの数のSDガンダムが出てくると思います。
一番人気は何と言っても武者頑駄無で、モデルはRX-78-2ガンダムです。MG(マスターグレード)でもリアルタイプが商品化されています。

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しんちゃん

頑駄無選手権・福岡 ららぽーと (2022/12/31 訪問)

勝手にガンダム選手権・九州代表・福岡県ららぽーとのニューガンダムの原寸大立像です。ニューガンダムは通常は背中にフィン・ファンネルという放熱板のような形状をした遠隔攻撃兵器を6基搭載しているのですが、このニューガンダムは代わりにロングレンジ・フィン・ファンネルという大型の武装を背中にしょいこんだ形で直立しています。ニューガンダムは歴代のガンダムの中でも特に大型で、この立像も頭頂高20.5m、最高部で24.8mとかなりの大きさを誇っています。重量はなんと80tもあるそうです。
実際のニューガンダムは頭頂高22mで全備重量が63tなので、設定より1.5m小さく、重量は17t重いわけです。実際にこの大きさで金属製のロボットがあったら数百トンは行くはずですが、モビルスーツは全体的に軽量に設定がなされているようです。
このニューガンダムも横浜の動くガンダム程ではないにしろ、右肩と首が動くようで、一時間間隔でパフォーマンスが行われているようです。お城とガンダムの関連付けはなかなかハードルが高いですが、どこかで伏線の回収を行いたいと考えております。
ちなみに風車に変形するガンダムはいます。Gガンダムに出演していたネーデルガンダムです。
私はGガンダムだとマンダラガンダムとマーメイドガンダムが好きですね。

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とばつびしゃもん

諏訪頼重最期の城 (2024/05/05 訪問)

国道20号から四賀の交差点を山側に曲がり、右手に大きな桑原城の立看板があるところが普門寺口登城口。そこに数台駐車可能なスペースがあり、ここから登城開始。
登城道は整備されていて緩やかな登りが続く。10分ほどで分岐点へ到達。右手に折れ東曲輪を通って本丸へ向かう途中、空堀や誰のものかわからない首塚が見られる。20分で本丸へ到達。
本丸東側にはわずかに残る土塁が確認できる。本丸西側の二の丸からは諏訪湖がきれいに望める。

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しんちゃん

小鹿館 今川家家督継承に執念を燃やした小鹿範満の末路 (2022/01/01 訪問)

静岡市駿河区小鹿にある小鹿館は今川氏の支流・小鹿氏の館跡です。小鹿氏の始まりは今川範政の子・小五郎範頼とされ、小鹿館は駿河の街並みを一望でき、街道の押えとして駿府の今川本家を守る役目を与えられていたと思います。
文明8年(1476)今川家当主義忠が横地士郎兵衛と勝間田修理亮を討伐した帰途に一揆により落命し、今川家中に跡目争いが勃発します。小鹿範満は義忠の子、竜王丸(氏親)の陣代として府中(駿河)館に入りますが、氏親が今川家八代目を継承しても家督を返さず、長享元年(1487)伊勢新九郎盛時率いる竜王丸派の軍勢に府中館を攻撃され壮絶な市街戦となりますが、敗れ自害して果てたそうです。
また今川氏親の母・北川殿(今川義忠室)は盛時の姉にあたるようです。

小鹿館は竜雲寺から伊勢神明宮の一帯に築かれていたとされ、竜雲寺境内には土塁状のものが若干残っているそうです。

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歴史案内活動のご案内【9月23日(月祝)10:00~12:00】 (2024/09/23 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

9月もいつの間にか半ばを過ぎましたが、
夏の名残というには厳しい猛暑日になったりする中で、
シルバーウイークと言えるかどうかですが、三連休が続きますね。
連休の楽しみになるようにと、
武田神社では当隊による歴史案内活動を行います。

日時:9月23日(土)10:00頃~12:00頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

今回のガイドも前回14日に続いて局長・大塚與左衛門が行います。
前回も多くの方のご案内をできたことから、
今回も新たな方、もちろんリピーターのご来訪も楽しみにしています。
(E)

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小城小次郎

本堂の裏に天守が見える (2024/08/02 訪問)

織田信長と争って信長に謀殺された織田信行(信勝)が何かに備えて龍泉寺境内に構えたとされるお城。何に備えてどんな普請をしたのかは信行に聞いてみないとわからなさそう。本堂の裏に模擬天守が見える風景はかなり独創的。

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トク

宗像大社大宮司の居城 (2024/09/15 訪問)

片脇城は宗像大社の大宮司「宗像(むなかた)氏」の居城とされています。神社の宮司がなぜ城を持っているのだろうか?🤔と思って調べたら、この宗像氏は宮司でもありますが、この地方を古くから治めていた領主でもあり、宗像水軍という水軍まで持っていた戦国武将でもあったようです。その宗像水軍は、古くは壇ノ浦の戦いでは平家側についていたという記録もあります。そして最も有名なのは「宗像氏貞」です。前回お伝えした「門司城の戦い」の時は毛利側に付きましたが、毛利が撤退すると今度は大友側に寝返ります。しかし島津氏が北上すると今度は島津に寝返り、大友方の立花山城を攻めたようです。しかしその後に島津が豊臣秀吉に敗れると、氏貞は秀吉から宮司以外は全て奪われて宗像氏は取り潰され、ここで武将としての宗像氏の名前は歴史上から消えてしまいます。

JR鹿児島本線「東郷駅」からバスで10分「宗像大社前」で下車しました。せっかくなので先に宗像大社にお参りしました(写真⑥)。ここは日本神話にも登場する皇室に大変ゆかりのある神社です。今では航海の安全を守る神としても有名です。門にはその天皇家のゆかりを示す菊の紋章がありました(写真⑦)。

宗像大社から南に歩いて10分、宗像氏の菩提寺とされる「興聖禅寺」があり、その背後の山が「片脇城」とされています(写真①)。お寺の横の道(写真②)を5分程登った中腹に、歴代宗像大宮司の墓所がありました(写真③)。この墓所の左には秋葉社(出城)がありました。私の調べでは山の頂上が片脇城で削平された曲輪があるはずなので、そこを見たいと思い行ける道を探すと右側に道があったので(写真④)、ここかな?と思って入ってみましたが、竹藪だらけで倒竹があまりにも多く前へ進めません(写真⑤)。蚊の大群にも囲まれてきたのでとりあえず引き返し、墓所を清掃されている方がいたので聞いてみると、

「こん先は道らし道はなかけん竹藪だらけじゃごて慣れんもん(者)は無理せん方がよか」

なるほど~🤔(私はよく理解できました)。それを聞いたら無理して行くのはあっさりとあきらめました(笑)。

そこで目標を変え、ここから戻ってバスで30分、福間経由で津屋崎橋まで行き、そこから30分程歩いた丘の上に「東郷神社」という所があるので行ってみました(写真⑧)。ここには日露戦争で日本海海戦の英雄「東郷平八郎」が祀られている場所で、その記念碑がありました(写真⑨)。ドラマ(坂の上の雲)でも中盤から登場します(渡哲也さんかっこいいです)。

丘の上からは日本海が一望できました。とても気持ちのいい眺めでした(写真⑩)。あの水平線の左から右へ北上するバルチック艦隊を、右前方の神が宿る島と言われる沖ノ島にいた宗像大社の宮司が発見し「敵艦見ゆ」と通報します。そして砲身が指す先の海で、日本海海戦は行われたようです。
 

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赤い城

詫間城 香川県三豊市 (2024/09/04 訪問)

住宅地の中にあります。
近くの交差点には「城下」の地名、その背後が城跡です。
石段を登ると畑がありその奥は藪、私有地でもありそうなのでここで断念しました。

道路から見上げると削平されているようにも見えましたがなんとも。

詫間氏が城主を務めた後には山地氏が入城、その後香川氏が入り三野、豊田、多度の三郡を領しました。

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しんちゃん

赤べこ軍団 (2024/09/19 訪問)

会津若松に行ってきました。3日くらいいたけど、結構朝晩は涼しくて、車中泊もさほど苦にはなりませんでした。朝は東海や関東より5度くらい涼しいと思いますが、陽が照っている日中は軽く30度を越えます。でも小雨が降っている日は涼しいので、やはり温暖化の影響が有ると思います。本来だったら日中でももっと涼しいはずです。
福島県はどこにいっても「赤べこ」が目につきます。民芸品にしてもマスコット的なものでも「赤べこ」ばっかりなんですね。だから、福島にいると、やたら「赤べこ」が欲しくなります。一種のトランス状態のようなものだと理解した上で買いまくって来ました。「赤べこ」は民芸品としてだけではなく、マスコットとしても驚異的な進化を遂げています。もともとは牛なんだけど、豚のようにもイノシシのようにも見えます。ちょっとズルいですね。
「赤べこ」の体の両側に付いている「眼」のような模様は天然痘などの「痘」を意味しているようです。体の赤色は「魔除け」の意味合いもあるらしく、子供に送る風習もあったようです。福島県の猪苗代町は有名な細菌学者の野口英世の出身地であり「野口英世記念館」にも寄らせていただきました。「赤べこ」と野口英世氏には、そんな繋がりもあるようです。
まだまだコロナ禍は続いており、最近有名になった「アマビエ」に並んで「赤べこ」も今の時代に相応しいキャラクターだと思います。
ちなみにこれらの情報は後で知ったもので、購入する際には、本能のままに買いあさっています。

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源義朝終焉の地を訪ねて (2024/09/19 訪問)

 愛知県知多郡美浜町野間に源頼朝の父である源義朝の終焉の地があります。
 1159年(平治元年)12月27日、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は東国へ向かう途中に尾張国野間に立ち寄ります。長田忠致、景致父子を頼りますが、裏切られ入浴中に殺されました。
 頼朝の時代となり長田父子は鎌倉に参上して謝罪します。頼朝は身命を惜しまず抜群の軍功をあげるならば、罪を許した上、美濃・尾張を宛て行うと告げ、長田父子はその後数度の合戦に大いなる軍功をあげました。天下を平定した頼朝は、義朝の墓前において、約束の通り「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を磔にしたと伝わります。
そんな義朝ゆかりの地を散策してきました。

 時代は違いますが、近くには羽柴秀吉に敗れた織田信孝が自害した安養院(今回は行っていません)があります。墓は源義朝の墓の側にありました。
夏の海水浴シーズン以外は、あまり観光客は来ないところだとおもいますが、歴史的には興味深い場所です。

 それぞれの地は名鉄野間駅より徒歩15分以内で行けます。

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POYO58

主郭が二つあるお城 (2024/08/25 訪問)

実はこれも2年ぶりなのですが、4連続の2年ぶりタイトルはウザいと思うのでやめておきます。
高天神城はもともと今川氏の家臣、福島氏が築きました。福島氏滅亡後は今川家臣、小笠原氏が支配しました。しかし、織田信長により今川義元が打たれると、小笠原長忠は徳川家康に味方し、のちに武田信玄の2万5千兵をたった2000人で撃退します。ただその後の武田勝頼による攻勢で小笠原氏は倒れ、高天神城は勝頼の手に渡りますが、後に徳川家康の兵糧攻めにより落城します。

2年前行った時は本丸探訪に留まってしまいましたが、今回は西の丸、二の丸も探訪。
本丸には枡形虎口が設けられ、土塁も残っています。昭和時代にもともと模擬天守が建っていたそうで、その天守台も残っていました。その行方はというと、第二次世界大戦で標的になることを避け、取り壊されたそうですが、詳しいことはわかっていません。
二の丸には大きな堀切とそれを跨いで長ーい横堀があります。どちらもなかなか大きいもので多分これが1番見どころ。
西の丸には大きな堀切があります。眺めも最高でした。
三の丸には土塁があちこちにあります。ちかくに着到櫓台があり、綺麗に土塁が高々と残っていました。
最後は追手門跡を通って帰りました。
さすが世界最強の城
評価★★★★☆

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義良親王 (2024/09/19 訪問)

 1338年南朝の義良親王(後村上天皇)が東国へ向かう途中、遠州灘で暴風雨に遭い、篠島に漂着しました。島の東に在った寺「妙見斎」に館を造り、滞在された場所ということです。山の上ということ以外、城跡らしい雰囲気はありません。

 名鉄河和駅から徒歩約5分の場所にある河和港から名鉄海上観光船の定期高速船に乗ると約30分で篠島港へ着きます。港から徒歩15~20分くらいで城址とされる城山水神天狗へ行くことができます。登城口から細い民家の脇の道を通りますが、迷うことなく行くことができました。

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天守無しがアツい

住宅地になりすぎて城の遺構が… (2024/09/16 訪問)

(参考URL)https://www.house.jp/areainfo/tsurumi/tsurumi-teraojyoshi-w110-20220228/

JR鶴見駅からバスで20分くらいの場所に殿山というバス停があります🚏 そこから坂道を少し登ると…寺尾城址の案内板(1枚目)があります

ここの案内板が今回見た中で一番詳しく紹介されているのですが…私から見れば逆に分かりづらい案内にも思えてきます。特に右下の地図が…現在地以外、どこを指してるのかがよく分からない…

住宅街の道をひたすら歩きました…矢印の標識も無いため、切り札として地図アプリを活用。「寺尾城址」というキーワードを入力すると…ちゃんとルートが出てきたので坂道を上がる形で向かい…とうとうゴール

しかしそこは…なんと民家の前🏠 寺尾城址の石碑と案内板(2枚目)だけがそこにあると…イメージと違ったというのは正直否めませんでした😅

「寺尾城は領主諏訪三河守五代(約一四〇年間)にわたりこの地にあった。後北条氏に属し、貫高は二百貫文(およそ二千石)で、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに居城していた」

「永禄十二年(一五六九)、武田信玄が小田原城を攻めた際に、廃城になったと思われる。数百年を経た今日、その遺構(空堀・土塁跡)の一部が殿山公園などに現存している。」

と案内板には書かれてました…とりあえず…家の中がなるべく写らないように、石碑と案内板を撮影。それから地図アプリを頼りに殿山公園へと向かいました

石碑の場所から坂を下って…徒歩数分の場所にその公園(殿山公園)はありました。親子がサッカーボールで遊んでる中を通らせてもらい、階段を上った先に(3枚目の)案内板がありました。それも読んでみたら…

廃城後、空堀はしばらく放置されており、江戸時代には宝永の大噴火による火山灰が積もった跡が見られた。学術調査により、武蔵国を扱う歴史書に寺尾城として記され伝承されている、戦国時代の城郭の存在の証拠となるものが発見された…という具合に書かれてました

この案内板…平成6年…つまり30年も前に設置されたものだからか、文字や画像がだいぶ薄くなっており、かなり読みづらかった…そして右下の画像に断層…というか土壁のようなものが見えたので、少し階段を降りて来た道を戻る形でそれらしきものを確認することにしました

思い当たるのが…殿山公園の…階段左手にある土の部分(4枚目)。「案内板にあった空堀や土塁跡ってここのことだろうか?」と思いながら眺めてみました…

けれど…そこは至る所草木に覆われていて…それらしき面影を見つけることはできませんでした😅🌱🌲 横浜市内の他の城跡(小机城や茅ヶ崎城)は公園として整備されており、土塁なり空堀なりを素人の眼からもしっかりと見てとる事ができるのですが…

ここは上記のように草木に覆われてそれが伺えない…それ以前にここは家が立ち並びすぎて…開発されすぎて、城の遺構が乏しい。平成6年の調査ではそれらしきものがあったとしても、それから時が流れてこのようになってしまったのか?🏠🏠🏠🏠🏠

おそらくここの住民は…寺尾城の存在自体さえ知らない。もしくは名前くらい…戦国時代あたりにこの辺りに城があった事はギリ知っていても、詳しくは知らない…方が大多数なのではないでしょうか?

案内板を見る限り、この城の廃城は1569年で、しかも割と簡素な説明…「廃城になったと思われる」…よく分かんないけど城は滅んだ的な表現に聞こえるため、研究者でさえよく分からないみたいですね。専門家でその有様なら、城跡に住んでいるだけの一般人は…尚更ですよね

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赤い城

仁尾浦を見下ろす (2024/09/08 訪問)

城跡には覚城院というお寺が建っています。
お寺の駐車場を利用し、石段を登っていきます。
石段の途中に石碑があるのみで遺構は残りません。
ただ、お寺への入口が枡形虎口っぽくなっていました。
名残なのかはわかりませんがなんとなく城跡を感じさせます。

覚城院本堂を参拝し、少し散策してみました。
隣接する大権現は少し高い位置にあり、鐘楼は国の重要文化財に指定されています。
さらに背後の高くなっているところを登ると墓地となっていました。
ここからは仁尾浦が見渡せ、瀬戸内の往来を監視できたのではないでしょうか。

築城の詳細は不明ですが戦国時代には細川頼弘が城主でしたがここも長宗我部軍に攻められて落城しました。

ちなみにこの近くには讃岐の隠れた名物である「たこ判」なるものが。
たこ焼きと大判焼きの間のようなもの。
以外とボリュームありました。

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朝田 辰兵衛

道路もバスナカもキャパオーバーで… (2024/08/11 訪問)

小田原駅東口から箱根登山バスで,湯坂路入口を目指しました。バスはぎゅうぎゅう詰めで,箱根湯本駅からは道路も大渋滞という悲劇に見舞われました。外国人観光客が多かったので,単純に平日にシフトしても状況はあまり変わらないかと思います。
にのまるさん,赤い城さん,しんちゃんさんのように,一歩踏み込んだ散策に興味があったのですが,バス移動ですっかり疲れ果ててしまいました。
復路も同様に混んでいるだろうと想像すると,落ち着いて散策もできず…<泣>。

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トク

九州鉄道記念館(門司城の帰りにちょっと寄り道) (2024/09/16 訪問)

門司城からの帰りに、門司港駅前にある「九州鉄道記念館」という所に、ちょっと寄り道してきました。祝日という事もあり子供連れがとても多かったです。懐かしい列車が野外展示されていて、ゲートをくぐるやいなや、いきなりテンションが上がってしまいました(写真④)。

蒸気機関車や、新1000円札の顔である「北里柴三郎」生誕の地(熊本県小国町)をかつて走っていたという列車もありました(写真⑤⑥)。という事は、柴三郎ももしかしてこの列車に乗っていたのでしょうか? 

昔の特急「にちりん」(写真⑦)の展示もありました。これとても懐かしいです。私が20~30代の頃は、博多-大分間の日豊本線でこれ何十回も乗りました。他にも、寝台特急「さくら」(写真⑧)なども展示されていました。今はその「さくら」の名前は新幹線に引き継がれています。

記念館の館内には、昔の切符や制服やプレートや各部品、タブレットもありました(写真⑨)。さあこの「タブレット」とはいったい何に使われていたでしょうか?(わかるかな🤔?)。シアターでは九州内を走る列車が紹介されると、巨大なジオラマの中にあるその列車の模型が動き出すなど、とてもよくできていて、もう目が釘づけになる展示もありました。

また運転手になった気分になれる運転シミュレータがありました(写真⑩)。これ実におもしろいです。私が運転したらスペースワールド駅のホームをオーバーランしてしまいました(くやしいな~!)。列車のブレーキ操作って意外と難しいですね。よしもう1回挑戦と夢中になっていたら、「おじさん早く代わってよ!」と順番待ちの子供たちから怒られてしまいました(😩~)。

入場料わずか300円で結構楽しめます。門司城を訪れた際は駅前にあるので、ぜひ立ち寄られる事をオススメします。
 

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todo94

佐久島からの帰路の攻城③ (2024/09/15 訪問)

緒川城では移築城門を見逃すという失態を演じてしまいましたが、ここ、重原陣屋では願行寺の移築門、十応寺(廃寺)の移築玄関をしっかりとチェックすることができました。駐車場所が確保できるのか不安でしたが、浄福寺にも願行寺にも数台はとめられる駐車場があり、ほっとしました。

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