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トク

【春の長崎天草を巡る⑨】(7)日野江城 (2025/04/01 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(7城目)は「日野江城」です。

島原駅前から加津佐行のバスに乗り50分、日野江城前(または北有馬)で下車し10分程歩くと、大手門があった登城口です(写真①)。

日野江城はキリシタン大名で有名な「有馬晴信」の居城です(写真②)。かつては安土城を模した大手階段がこの大手門から二ノ丸にかけてあったそうです(写真③④)。発掘調査ではその階段の上から金箔瓦が発見されました(写真⑤)。秀吉から許された者だけが使えるこの瓦、晴信への信頼が厚かった事が想像できます。

現在は城の遺構はわずかに石垣が残るのみですが、二ノ丸には菜の花、本丸には桜が咲いていました(写真⑥⑦⑧)。原城は日野江城の出城で、日野江城は戦には不向きなため、晴信は原城を築城し、万一の戦が起きた場合に備えていたようです。本丸からはその原城が見えました(写真⑨)。

晴信はポルトガル人のヴァリニャーノが口之津に漂着すると、領内での布教を許し自らもキリシタンとなります。沖田畷の戦いでは、島津家久の加勢により首の皮1枚で龍造寺隆信に勝利しますが、ここで領国を強くしなければと痛感したようです。口之津を貿易港として開港し、ポルトガルとの交易を盛んにし、富を得て国を強くして行きました。その後、秀吉の命で朝鮮へ出兵し、九州の関ケ原では子の直純が東軍に加わったため、所領が安堵されました。

しかし1614年岡本大八事件(汚職)の責を負うため晴信は自害させられてしまいます。子の直純は江戸で家康に仕えていた事から、改易は免れ延岡城へ転封となる事で許されました。そして1618年、代わって大和五条より松倉重政が入封し、日野江城は手狭なため新たに島原城の築城に専念します。つまり一国一城令の出た1615年からの3年間、誰も領主がいなかったのです。それゆえ原城は破却されず、その後の重政の時も忘れ去られたままだったのです。原城には戦うための、櫓や塀や門や石垣などがそっくりそのまま残ってしまいます。よって1637年の島原の乱では、そこに目をつけた一揆軍は、ここに立て籠る事ができたのです。

この後、また同じバスで5分程の原城前で降り、原城と国道を挟んだ反対側(徒歩10分)の所にある有馬キリシタン遺産記念館(写真⑩)へ行きました。ここは原城のスタンプ場所です。スタンプは原城事務所でも押せますが、是非ここに来て見学された方がいいと思います。日野江城と有馬氏の歴史、原城と島原の乱についての説明など、両方の城について分かりやすく解説されています。

次は、(8城目)その原城に続きます。
 

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり③ (2025/04/26 訪問)

若宮館からの転戦です。忠霊塔の建つ本丸迄、車道がついていて広い駐車場もあったので一気に山上に乗り付けましたが、説明板は麓の交差点付近にあるので、館岡山神社経由で麓迄下って、再び登るような動きとなってしまいました。林の中にも空堀や土塁が隠れていますが、樹木が伐採された本丸を取り巻く空堀は非常に見ごたえがありました。ただし、空堀にはピンクリボンのついた木の苗がたくさん植えられていたので、この空堀の景観は将来的には拝めなくなってしまうのかなとも思います。

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Tokyobay

伝馬町牢屋敷(吉田松陰終焉の地) (2025/04/19 訪問)

前日に『留魂録』を読んで訪問。伝馬町牢屋敷跡は1/4程度が十思公園として遺っている。知ってか知らずか近隣の親子が慰霊碑をグルグルまわりながら鬼ごっこをしているのは平和の証とはいえ複雑な気持ちになる。約10年ぶりの訪問だが、この度は詳細に位置確認。まず、吉田松陰が処刑された場所は小伝馬町4番出口付近で、ここには碑が建っている。また、公園内にも有名な吉田松陰の辞世の句碑があるが、ここは丁度松陰が幽閉されていた牢屋の位置に当たる。銅鐘が工事中で案内板が隠れて分かりにくいのだが牢屋の石垣も陳列されている。
尚、現在は温泉施設のある十思スクエア 別館入口にも牢屋石垣が用いられている(それもどうかと思うが・・・)。ちなみに、別館内には小伝馬町牢屋敷展示館があり、ミニチュア模型やちょっとした展示物、工事時に発掘された井戸(移設)見学もできて必見。牢屋跡の1/3程度は元々は小学校の敷地だったようだが、それらが現在も公共施設として活用されている。近代になってからも牢屋跡は嫌われて寺や学校になったのだろうが、21世紀にもなると、さすがにそういった負の歴史も風化しているのか、温泉や高層マンションが建っているのが印象的ではある。

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しんちゃん

しとどの窟・土肥椙山巌窟 (2024/12/29 訪問)

イオさん、近畿コンプリートのトリ、お見事&ナイスゴールです。もちろん、信じてましたよ。「QBK]というよりは、田尻城にイオさんが選ばれていたのだと思います。
私も中国地方の城で、幾つか断念した城があります。その時は、その城に選ばれていなかったと思うので、城に認めてもらうためにトライ&エラーを繰り返したいと思います。
みんなGW早くていいなあ。
しとどの窟(いわや)は土肥城に向かう前に訪問しました。治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は土肥実平の導きで椙山のこの岩屋へ隠れたと伝わります。箱根の峠道(椿ライン)の途中から道が続いていて、片道20分ほどでたどり着くことが出来ます。
椿台の付近には駐車場が有り、ここから土肥城に道が続いているようです。旧車の団体が集まっていて異様な雰囲気だったので、別ルートで攻めましたが、ここから攻略したほうが無難な気がします。
「源平盛衰記」には頼朝主従が岩屋に隠れていたところを梶原景時が見つけ、見逃したと記載がされています。

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イオ

総石垣の城? (2025/04/26 訪問)

南北朝期に玉置大宣が築いた城とされ、矢筈岳北西のピークに位置し、手取城の詰の城として機能したようです。

登城ルートは北の小谷峠から登るルートと南の鷲の川から矢筈岳を経由するルートがありますが、城郭放浪記さんによれば、矢筈岳ルートは車で林道を進めず歩きだと2時間近くかかるそうなので、小谷峠ルートで登城しました。小谷峠までは小谷林道が通じていて、以前に崩落して通行止めになっていた際に整備されたようで道幅もある綺麗な舗装道でした。ただ、整備が追いつかないのか、路面には落石がごろごろ、落ち葉も堆積し、何か所か通行に支障のない程度の土砂崩れの跡も見られました…。それでも特に問題なく小谷峠に到着。道幅の広くなったところに車を駐め、林道脇のお地蔵さんに手を合わせて(無事に戻って来られますように)登城開始。

登城口には案内表示はありませんが、小谷峠の写真①の位置から入って尾根伝いに進めば、ところどころに矢筈岳への案内表示もあり迷うことはないと思います。急斜面をほぼ真っ直ぐに登るので少々きつくはあるものの、トラロープも張られていておおむね歩きやすい道でした。そして登城口から登ること35分で北尾根の堀切に到達。堀切は二重に設けられていますが、内側は浅くなっていて意識していないと見落としてしまいそうです。

内側の堀切から5分ほど登って主郭へ。東西に細長い主郭には説明板が立てられているくらいです。結構な高所(標高750m)のはずですが、樹木が生い茂っていて眺望は全くききません。北側を除く主郭の周囲には二段の帯曲輪がめぐっていて、主郭や帯曲輪の切岸にはところどころ石垣が見られます。手持ちの本には「総石垣といっても過言ではなく」とありますが、崩落していたり土をかぶっていたり藪に沈んでいたりはするんだとしても、わかりやすい「総石垣」を期待していた身にはちょっと肩透かしでした。主郭部から西にのびる尾根には二重の堀切が、東側の矢筈岳へと続く尾根にも両端が竪堀となって落ちる堀切が設けられています。それぞれ堀の側面に石垣が施されている…にはいるんですが、これも言われてみれば、という程度。同じく紀州の国人の城である安宅勝山城の五重堀切のようなわかりやすい石垣を期待していた身には(以下同文)。とはいえ東尾根の堀切は両端に土塁を伴って深さも幅もあり、これはこれで見応えがありました。

関西最後の秘境(未投稿)城であり、矢筈岳ルートでは比高600m超・片道2時間弱とのことで大いに身構えて挑みましたが、小谷峠ルートなら比高約300m・片道約40分と普通の山城程度でした(見応えも普通でしたが)。ただ、帰りは来た道を戻るだけだからと余裕ですたすたと下るうちに違う尾根に迷い込み、15分ほど山中をさまよったりしましたので、普通の山城程度の注意は必要です(当たり前)。お地蔵さん、おかげさまで無事に戻れました。ありがとうございます。


…ということで、近畿二府四県の城びと登録城投稿コンプリートです(よね?) しんちゃんさんのアシストから、あさんが清水城、鶴ヶ城を突破して田尻城でゴール! となるはずが、まさかのアクシデント発生。ボールがゴール前で転がっているところに、たまたま一番近くに(住んで)いたのが私だったという、絵に描いたようなごっつあんゴールですが、県民の責務とかほざいた手前「QBK」とも言ってられないので、GW突入と同時に登城してまいりました。ごっつあんです!(笑)
 

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カズサン

鳥羽山城も同じく桜散策 (2025/04/09 訪問)

 遠州路桜と城探訪、鳥羽山城も同じく自宅から北に7,8km程で外せません、二俣城の次に訪ねました。鳥羽山城には二俣城よりは桜が多く植わっています、メインは大手門跡辺り、以前は大手道の突き当りに一本桜が有りましたが古木で朽ちかけて居り2月に訪ねた時には伐採されて居り、大手道突き当りの桜の景観が忘れられません残念です。西側の帯郭にも桜の大木が有ります。
 当日は東京の方ご夫妻が宿泊されレンタサイクルで桜の名所鳥羽山城をと訪ねて来られていました、桜をは?と尋ねられて困りましたが古木で桜の茂りが少なくなった感じがします。
 楓は新録で瑞々しく茂り始めました。

 駐車場:何時もの南下の駐車場利用
  

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T-Shionoya

本丸虎口がステキな野田城 (2025/03/09 訪問)

遺構が大きく改変されているとの認識で後回しにしてきた愛知県新城市の野田城を3月に訪問。

東三河を流れる豊川の中流域、その北側の段丘の殿田川と杉川に挟まれた比高約18mの舌状の丘に築かれた城。
伊那街道が通るポイントで、南西の三河湾や豊川平野と北東の遠江や信濃を結んだ地。

田峯菅沼氏出身の菅沼定則が1500年代初期に築いたとされる野田菅沼氏3代の居城。
1573年には武田の侵攻を受け、信玄を狙撃したことや武田金掘衆によるもぐら攻めのエピソードが伝わっており、1590年には従属していた徳川の関東移封に伴い廃城とのこと。

現在の城跡は西側が特に改変されているようだが、本丸の遺構は比較的クリアに残り、二の丸と三の丸にも周回見学路が設置されている市指定史跡。

訪問時は、本丸南西側の交差点に新設された駐車場に車を止め、三の丸からスタート。
三日月堀は古絵図とは異なる小さなもので、新設されたか堀の一部が残ったものでしょうか。
三の丸の方が二の丸より1段高く、その境で三の丸側を楕円形に削った遺構も謎。
本丸側は二の丸との境界部が最大の見どころで、立派な堀を渡る土橋には横矢が掛かる構造。
周囲の急峻な崖も印象的で、想像される守備力は事前の予想以上。

移築門が存在する法性寺も含めて滞在時間2時間越えの、私の城郭巡りの199城目でした。

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カズサン

二俣城跡には桜が少ない (2025/04/09 訪問)

 遠州路桜と城廻りで自宅から直線7,8km程の二俣城は外せないですよねと訪ねました、一番のメインは天守台横に在る大島桜ですが古木で痛み始め小振りとなり且つ白い花であまり目立ちません。しかし樹木は新芽で萌出居ます、北虎口北土塁上の欅は新芽が黄緑で美しい、二の丸境の欅の大木も同じく、本丸、天守台、二の丸、大手門石垣周り、南曲輪Ⅰの堀切とさらっと廻り散策して、桜に時期の探訪としました。

 駐車場:北の丸下の駐車場利用
 

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しんちゃん

駿河大森氏 (2024/12/29 訪問)

岩原城は、かつてこの地に勢力を誇った駿河大森氏の城であったとされています。本丸の西にある西物見台に道標が付いていて訪問することが出来ます。主郭、二郭、三郭は宅地になっていて城址の雰囲気は残っていません(写真もはばかられる)。城址の雰囲気を感じ取れるのは西物見郭と東北端の八幡宮郭のみのようです。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張りを参考にすると、西端に取水堰があり、ここへ上流2kmの矢佐芝川から沢水を引きこんでいたようです。

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しんちゃん

梶原助五郎 (2024/12/30 訪問)

旧馬込村は小田原北条氏の臣・梶原助五郎の所領であったようです。万福寺には梶原氏の五輪塔があり、これが助五郎の墓であると考えられています。馬込城は梶原氏とゆかりのある馬込八幡神社周辺に築かれていたとされ、高台の西側の末端に築かれていたようです。
周辺に遺構は残っていないようです。

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しんちゃん

夜襲 (2024/12/30 訪問)

「新修荒川区誌」によれば、石浜神社の神官(鏑木氏)が千葉氏の系譜にあたるとして、石浜の地に千葉氏が城(居館)を築いたとする記述があり、これが荒川区の石浜城の根拠になっているようです。また台東区の浅草観音堂の北「金龍山」が石浜城の跡地であるとする説もあるようです。
下総国の千葉総領家の千葉実胤・自胤兄弟は足利成氏や庶流の馬加康胤らに攻められ、武蔵国に逃れ、実胤は石浜城に拠ったとされています。所在地とされる石浜神社には遺構は残っていないようです。

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dougen

2014.11.29登城 (2014/11/29 訪問)

霞ヶ城から国道20号で諏訪大社上社前宮へ。前宮に隣接する小山が干沢城址となります。
城址は市の史跡に指定されており、案内板が設置されており、城址も整備されています。
遺構は郭跡や堀切の遺構が確認できます。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり② (2025/04/26 訪問)

横浦館からの転戦です。現地の説明板での名称は若宮館でした。強烈な藪漕ぎではないのですが、棘のある茨をかき分けるので神経を使います。途中から西側に杉林が現れ、下草のない帯郭が登城路として機能し、半島の先端の方までたどり着くことができました。最高所の主郭部分は藪がひどく踏み込んでいませんが、見どころである竪堀も確認できたので、これで宮城県の未投稿物件クリアのミッション、完了とさせていただきます。

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Tokyobay

インバウンドで盛り上がる人形町(元吉原) (2025/04/19 訪問)

十数年年前に来た時は閑散としていた小網神社だが、最近はインバウンドの名所らしく、参拝行列ができ警備員が整理する状態。そして、明治期に西郷隆盛邸があった場所へ。現在は日本橋小学校になっているが、なぜ人形町だったのかは不明。で、人形町と言えば元吉原だが現在は碑が残るのみ。存在していた期間は40年程度だったらしく、以外と短い。
それにしても人形町が外国人だらけだったのは驚き。以前水天宮界隈で仕事をしていて仕事帰りに人形町で飲む機会が多く、街並みというか店舗の入れ替わりもかなり激しいと感じたが、以前よく通った店が健在だったのでちょっと嬉しかった。

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空と城と散歩

弾丸安土城巡り (2025/04/24 訪問)

バイクの点検ついでに、安土城巡ってきました🏯
時間はあまりなかったのですが、しっかり天守跡まで登って楽しんできました☺️

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イタさん

碑だけの用土城跡・猪俣氏館跡 (2025/04/24 訪問)

1.用土城 埼玉県大里郡寄居町

寄居町の公式ページには、北条氏邦の義父である藤田康邦(用土新佐衛門)の隠居所として築城された城と伝えられ、発掘調査で薬研掘(やげんぼり)を確認しています。鎌倉街道上道(かみつみち)を押さえる要所に築かれましたが、現況は後世に建てた石碑や地名が残っているのみです、とある。
周囲より高台になるが、農業ふれあいセンター側の西がやや高く、東に向かって下がる傾斜地になり全く想像が出来ない。ぽつぽつと民家はあるが、ほぼ一帯は畑地になっている。

2.猪俣氏館跡 埼玉県児玉郡美里町

武蔵七党・猪俣党の代々の居住跡だが、碑の背後は美里町推しのブルーベリー畑になっている。碑があるのみで遺構は全く分からず。碑には保元、平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した、猪俣小平六範綱の名が刻まれている。

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田屋氏の城 (2025/04/26 訪問)

 浅井氏に仕えた海津衆の一人田屋氏の城と伝えられています。また賤ケ岳の戦いの時は丹羽長秀が改修した可能性が指摘されています。城跡は周囲を土塁で守られた五つの郭と縄張り図では捨て曲輪となっている郭で構成され、曲輪、土塁、竪堀、堀切、枡形虎口などが良好に残っています。竪堀は長く残っているものもあり、連続しているものもあり楽しませてくれました。石碑が建つ場所は櫓台と想定されています。
期待していた以上の城址でした。ぴーかるさんの「隠れた名城跡、百・続百名城に負けてない城跡」という投稿に賛同します。藪になりかけている所や伐採した木で見えにくくなっている所も一部にはありますが、登城路は整備されていて曲輪付近も雑草は歩行に支障を来すほどではなく遺構も明瞭に確認できるものが多い。気持ちよく散策できます。

「近江の山城を歩く70」を帰宅後見てみると「田屋城主体部から谷を挟んだ北東にある尾根は「馬かけ場」と呼ばれる緩斜面が続き、標高230mの地点にも城郭遺構が築かれている」と記載されていました。少し離れた場所にも遺構があったのですね。あいかわらずの予習不足です。

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さらら

郡上八幡城 (2025/04/26 訪問)

新緑が綺麗でした

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トク

【春の長崎天草を巡る⑧】(6)島原城 (2025/03/30 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(6城目)は「島原城」です。

白漆喰と桜のコントラストはとても綺麗でした。ちょうど桜祭りが行われていて、琴の演奏や茶会も行われていました。何やら女武者も見参!

今の島原城は具雑煮で有名な姫松屋の前から直接本丸へ車で入る道(駐車場)があるので、大部分の方(ほぼ99%の方)はそこから入り直接天守のある本丸へ行かれると思います。しかし当時はそのような道は無く、島原城は本丸から北へ二ノ丸、三ノ丸と続く連郭式の縄張りで、それらは一本の廊下橋でのみつながれていました。三ノ丸から進むと、この廊下橋があった場所や、深くて大きな堀、見事な高石垣や桝形門の迫力が堪能でき、連郭式の縄張りだった事がよく分かります。

そして、島原城は難攻不落の城でした。それを実証したのが島原の乱です。一揆軍は圧倒的に優勢だったにもかかわらず、この島原城を落とす事ができませんでした。それはなぜだったのでしょうか? 三ノ丸から本丸へ向かって歩くと、なるほどそれがよく分かります。そして堀底を歩きながら、ゆっくりと廊下橋跡を渡り、迫力ある高石垣や桝形虎口を見て、本丸への階段を登り、それから天守に入って島原の歴史を学び、最上階に登って普賢岳と有明海を眺めて爽快な気分になり、お腹を十分空かしてから具雑煮を食べに行くと(ああ美味しい)😊。

次は(7城目)日野江城へ向かいます。
 

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり① (2025/04/26 訪問)

金曜の夜19時過ぎに家を出発、佐久インターから上信越道に入ったところですぐに仮眠。その後も結構、頻繁に仮眠をとって石巻に到着しました。すき家にて朝食をとってまず向かったのが横浦館。県道で分断されているとのことですが、結構、遺構が残っているようにも見えました。この館のかなり上の方には、女川いのちの石碑が建っていました。ということは、この館は東日本大震災の津波で完全に水没したということになりますね。

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