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POYO58

写真撮りにくいNo.2 (2025/01/02 訪問)

朝田さん、コメントありがとうございます。やはり皆様にもそのようなお困りごとがあるようですね。大平砦は特に撮影が大変そうです。なんなら小学校の前なので不信感に思われそうですね‥

淀城ですが、前回の投稿の続きとなっています。
本丸探訪後、水堀沿いを歩いてみようと思ったら、柵やら店やら駐車場やらで塞がれてしまい、なかなか辿り着けませんでした。カズさんの投稿を見ると駅のホームから撮っていらしゃったようですが、その写真がたぶんベストフォトスポットだと思います。ちなみに僕はその後駅へ戻らなかったので撮れませんでした…

淀城の今残る水堀は半分以上が埋め尽くされてしまったのでなかなか貴重なものだと思います。多聞櫓台も結構綺麗に見えました。
また北西の隅櫓台石垣の上には標柱が立っていました。石垣は荒々しい野面積みでしょうか?

でもやっぱり写真が撮りにくいのでもしよかったら水堀越しに写真が撮れるところを設けて欲しいのと、もしすでにあるのならば、その案内板などを設けて欲しかったです。淀城の水堀越しの写真は皆様の投稿も見ながら、楽しみたいと思います…

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イオ

越前若狭お城フェス (2024/10/14 訪問)

(続き)

福井城は6年ぶりの再訪です。この日は福井城、中央公園、ザ・グランユアーズフクイの3会場で越前若狭お城フェスが開催されていました。まずは福井神社から内堀越しに艮櫓台、巽櫓台、坤櫓台を眺めつつ本丸外周を一周。この日はお城フェスのイベントとして内堀遊覧のEボートが出ていました。

御廊下橋から山里口御門を抜けて本丸へ。本丸の西辺には(北辺にも)雁木が長く続いています。天守台へと上って行くと、お城フェスのイベントとして福の井の覆いが開けられていて水汲み体験をすることができました(お湯がまだ湧いてなかったので県産茶のふるまいは受けられませんでした)。天守台の周囲を回りつつ、西側の中央公園を見渡すとお城フェスの模擬門やテントがいくつも立てられていました。

お城フェスの中央公園会場をざっと見て回ると、ザ・グランユアーズフクイ会場へ。福井県内を中心に、北陸や岐阜、滋賀など近隣のお城のブースが出展していて、中でも福井県内の城は城びと未登録の城もいくつかあるなど地元ならではの出展でした。お昼前には福井を発たなければならなかったので、じっくり見て回る時間は取れませんでしたが、いつか訪れる日のためにパンフレットはたくさんもらってきました。

以上で福井遠征完了ですが、前夜にはご当地グルメのソースカツ丼を食べました。一乗谷から福井に入り、ホテルから徒歩圏内のヨーロッパ軒総本店へ。福井でのソースカツ丼発祥の店だけあって30分ほど並んで入店しましたが、薄めのカツに特製ソースが絡んで待っただけの甲斐がある美味しさでした。
 

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いたち

高石垣は想像以上に高かった (2025/01/05 訪問)

1月5日に攻城しました。大手門には門松が飾ってありお正月気分を味わって、少し得した気分でした。訪問者も殆ど居なくて、ゆっくり散策できました。天守は小さいながらも、柱な梁に時代を感じられ、木造建築を堪能しました。

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todo94

元日の攻城④ (2024/01/01 訪問)

竜ヶ谷城からの転戦です。昼食を済ませてから、長栄寺へと向かいました。長栄寺山門脇に標柱が建っており、その横の坂を上っていくと寺の背後の林の中に木の板の表示がありました。思っていた以上に空堀をはっきりと視認することができました。

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T-Shionoya

大草城 信長時代最後の織田家の城 (2024/12/09 訪問)

国土地理院の識別標高図で堀と土塁が確認でき、興味のあった愛知県知多市の大草城。

伊勢湾の東岸、矢田川の北の比高10m程度の段丘の縁に築かれた城。
矢田川河口部の大野湊は水軍基地でもあり、伊勢湾海上交通の拠点の1つであったとのこと。

大野城からの移転にあたり1581年に信長の弟の織田長益(後の有楽斎)が築城を開始。しかし翌年の本能寺の変により工事が中断された未完の城。
それでも長益は館を築き1586年まで住んでいたとのこと。

現在、三の丸は宅地化されているものの、本丸と二の丸は堀と土塁が明瞭に残り小さな模擬天守が立つ大草公園。
また航空写真を確認すると、少なくとも1980年代までは三の丸北側の堀と土塁の痕跡が残っていたようである。

個人的には東側の入城口から水堀を北に進み巨大な土橋から徐々に南へ向かうルートがお勧め。
樹木が多いが、残る土塁は高く厚みがあり強固な印象。
模擬天守1階の小さな展示場で大草城の学習ができ、今は廻縁に出ることも可能。
展示資料(尾張藩作成の古城絵図)によれば、三の丸北東部に枡形虎口を装備していたとのこと。

また三の丸の堀について調べていたところ、気になる場所があり本日急遽再訪問。予想以上の高さの盛土は土塁の跡でしょうか。
石垣は存在しないものの"織田"のブランド力を感じた気がする、私の城郭巡りの189城目でした。

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朝田 辰兵衛

不審者に疑われてるであろう場面… (2024/12/24 訪問)

POYO58さんへ…
不審者に疑われてるであろう場面はいくらでもあります。ケースバイケースですが,サクッと撮影してウロウロしないで立ち去るっていうのが,市街地では一般的なのかな…?
ムダに他人の足を止めてしまうので。
公園系は,朝方とか夕方のほうがシャッターチャンスが多いです。うまくいかないこともありましたが…。ま,そんなことも思い出として心のアルバムに収めてください。人間的に懐の深い器を形成するための絶好のチャンスととらえて。
私有地であれば,「目的を伝えて挨拶すること」が必須だと思います。私有地でなくとも,ボランティアで整備に携わっておられる方もいますので,こちらを注視しておられる方がいましたら「目的を伝えて挨拶すること」を心がけてください。
最近の投稿では…
todo94さんの「斎藤氏館」,私の「岡崎城」「畑谷城」なんかは参考になると思います。

大平砦ですが,ここは奥沢小学校となります。
最初から,サクッと撮影してウロウロしないで立ち去ると決めて乗り込んでいます。他の方の投稿を参考に,自分で撮影ポイントを決めて秒で立ち去るという感覚です。

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城とマスク

新春南総里見八犬伝の旅 (2025/01/02 訪問)

滝田城の後はアジフライ定食を食べて館山城に移動しました。南総里見八犬伝の資料などを見学しお城周辺を散歩して来ました。八犬伝の映画を観たばかりだったので凄く楽しめた旅でした。

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城とマスク

南総里見八犬伝 (2025/01/02 訪問)

去年映画の八犬伝を観たので行って来ました。駐車場から徒歩20分ぐらいの所に伏姫と八房のブロンズ像がありました。
山道を沢山歩いたので館山に移動してアジフライ定食を食べに行きました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城

【まえがき】
<駐車場他>三井のリパーク北白川東小倉町終日550円に駐車しました。近いのは登城口の日本パブテスト病院、土日祝は終日700円。北白川児童公園に公衆トイレあり。
<交通手段>車

<思い立ったらすぐ行きたい>
現在8代将軍足利義政からの足利将軍のお勉強(大したものではありません)をしていて、城びとの登録城の京都市東山の山城を攻めようと色々と調べていると、どうも将軍山城はとんでもない大規模城郭(各々別々の城や東山新城とは別城との説もあるが)だと知って、これは丸1日くらいかかる予定で攻略(結局、日を分けて丸2日かかった)をしました。先日行った中尾城・東山霊山城を先に攻略し、今回将軍山城は12/8と翌週の12/15に完全攻略をいたしました。ご興味のある方は是非お付き合い下さい。

<これからの投稿の説明>
将軍山城は城郭放浪記さんのサイトを見て「京都府中世城館跡調査報告書」を知り、それを確認しました。城跡は山脈に広く分布・点在していて報告書では城域1~4までに曲輪群を区分けしています。私もこの縄張り図を基に城跡巡りを実施して、区画ごとに全13回程に分けて投稿をしたいと思います。自分でもどれくらいになるか分からないくらい大作になるかと思います。投稿順は下記の城域の攻略(行った)した順番、または行きやすい順に行います。
城域1:主郭ゾーンの曲輪群で主要部と東・南・西に尾根曲輪群がありますので4つのゾーンに分けて投稿します。
城域2:4つの曲輪群に分けられ[2-1][2-2][2-3][2-4]曲輪群の区画分けをしています。
城域3:曲輪群が1区画あります。
城域4:3つの曲輪群に分けられ[4-1][4-2][4-3]曲輪群の区画分けをしています。

<お城の歴史>
将軍山城は北白川城とも呼ばれ、1520年に管領の細川高国が築城しました。高国は足利将軍の家督争いの中で当時は事実上京都を押さえたトップの権力者となり、翌年の1521年に亀王丸(足利義晴)を擁立し新将軍にした人物です。その後足利義晴が1546年11月に細川晴元と対立する中で「将軍山城を改修し入城」、1550年には義晴は今度は三好長慶との対立のなかで2月に中尾城を築城、4月に「北白川にも城塞を築く」とあります。足利義輝の代では1558年、朽木から入京する際に将軍山城に入り、北白川の戦いでは将軍山城は三好軍と争奪戦を繰り広げます。1570年には明智光秀が浅井、朝倉軍・延暦寺を牽制するために入城したとあります。

<将軍山城と将軍足利義晴・義藤(義輝)父子の私的意見> 
 将軍山城(北白川城)は足利義晴・義藤父子の代に最も関わりが深く、細川晴元や三好長慶との争いでこの城に入城して戦い敗れると城を焼いて比叡山と尾根続きになっているため比叡山から近江坂本へ避難(六角氏の庇護があるため)して、坂本ではちょっとヤバイと更に北の堅田や朽木に避難する。勢力が盛り返してきたり、京都の支配者の権勢が減退してきたら坂本から将軍山城を改修入城して入京を試みるパターンが多いです。三好長慶も将軍を弑逆できるはずはないので、将軍山城・中尾城・霊山城のある東山は完全制圧するのではなく、将軍が近江へ出たり入ったり出来るルートとしてわざと緩めにしていたかと感じます。
 足利義晴は生誕から死去するまでほとんど京都に入れなかった将軍ですが、京都では慈照寺(銀閣寺)を拠点に将軍山城を改修、晩年には病を押して中尾城を築城し念願の入京を果たして将軍親政を行いたいと志した人物でもあります。最後は近江の穴太で死去(自刃したとも)しますが、足利義輝が足利将軍の中では最も人気がある?(ゲームか何かで?)感じますが、私は足利義晴の壮絶な人生に感じ入りました。足利義輝は満10歳で将軍職を引き継ぎ父の義晴と共に少年時代を近江や東山での避難生活を過ごして、父義晴の意志や薫陶をよく受けていた(砕けた言い方だとコミュニケーションが多かった)と思います。足利義輝が三好長慶と和睦後に入京し権勢を上昇させ将軍親政を短い間だけでしたが果たせたのも義晴の教えがあったのかもしれないと思ったからです。

<写真>
写真なしでは寂しいので今回は登山口の大山祇神社と聖護院宮墓地を載せました。

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楓景斎泰山

月城三昧 2024撮影分

お城の背後から登ってくる月を超望遠レンズで数キロ離れた位置からぶち抜く。

季節、気象、場所、いろんな条件をクリアしないと撮れない神技テクの月城撮影の醍醐味をコラージュでまとめました。

すべて合成ナシの1発撮り。
すべて泰山の撮影です。

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TNK

2024年大晦日 (2024/12/31 訪問)

帰省したついでに、昔住んでいた近所の城趾へ行きました。
昔は中原街道などを見張れるように見渡せたようですが、今は住宅地と、向こう側の縄文時代の遺跡群のある丘が見渡せます。

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POYO58

徳川の京都盆地の防御 (2025/01/05 訪問)

京都JR竹田駅から楠葉台場へ行ったあと、橋本駅から淀駅に戻って、淀城に行ってきました。
淀城は伏見城の廃城後、徳川秀忠が家臣の松平定綱に築かせ、定綱の美濃国への移封後に永井尚政が改修し、その後は稲葉氏がこの地を納めました。江戸幕府の名によって築かれたこの淀城は大阪枚方方面からの京都への敵の襲来を防御するためのお城だったようです。
淀城はもともと淀川沿いに築かれ、伏見城の石垣、二条城の天守が利用されたかなり大きなお城だったようですが、今は埋め尽くされてしまっています。
東南隅に天守が築かれ、天守の周りを天守曲輪が囲み、その下には高石垣が築かれています。天守台から西へとかつて多聞櫓が存在し、多聞櫓台石垣沿いには今も淀川から引かれた水堀が存在します。
天守曲輪へと現存する石段を登っていくと天守の入り口が見えますが、門がしまっていて中には入れないようです。
また隅櫓台の上には岩がいくつか散乱しており、中には刻印の書かれた岩がありました。刻印を書いた人は前田利家、加藤清正、毛利輝元だそうです。
国史跡にも100名城にもなっていませんが、歴史上重要なお城でもあり、見応えの合えるお城だと思いました。

評価★★★★☆

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じゅんじん

蕗の門 (2024/11/03 訪問)

夕方に行き現存門の蕗の門を見ました。

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じゅんじん

陣屋跡 (2024/11/19 訪問)

地元の方々が整備されています。住宅街の一角に城趾碑と広場があります。隣の家から説明が貼られていました。神社には城門が残っており堀端には櫓があります。

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しんちゃん

熊野神社 (2025/01/07 訪問)

佐比内館は熊野神社の境内になっています。郭は二段で、神社の背後が主郭と思われます。
ちなみにこの城も一番槍になりますね。城主は河村氏とされ詳細は不明です。

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赤い城

久しぶりの再訪 (2024/12/08 訪問)

頭崎城で費やすはずの時間が空いてしまったので最寄りの松嶽城へ行くことにしました。
4年半ぶりの再訪です。

竹林寺を目指し細い山道を登っていきます。第二駐車場の先をさらに登ると駐車場があります。
ここから先は徒歩、竹林寺へ下っていきます。
少し歩くと仁王門、ここから少しだけ下ると説明板があり、ここが登城口です。
登城といってもここから登りません。

梵字岩や登城路から下に落ちる竪堀、土塁や横堀を見ながら進みます。
土橋を渡ると本丸、ここは登ります。

本丸はやや藪、二の丸、三の丸と三段の郭が連なります。
本丸と二の丸の間に石積が残る井戸もあります。
ここまでは前回も見学していたので再確認できました。
一旦下りて南曲輪方面に。
南曲輪と三の丸の間は堀切状の動線でしょうか。
三の丸方面を見上げると石積が確認できます。
やはり切岸を登ってしまいました。

南北朝時代の古い城のようですが遺構も良好で歩きやすい城でした。
夏は藪かも・・・

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todo94

元日の攻城③ (2025/01/01 訪問)

斎藤氏館からの転戦です。ゴルフ場の中に取り残された雷電神社が竜ヶ谷城です。結構、城の遺構が残っていてうれしい不意打ちとなりました。おそらく雷電神社には地上げの圧力が相当あったはずで、ゴルフ場の中の離れ小島にはなってしまいましたが、雷電神社が地上げに屈しなかったおかげで、こういう形ではありますが、城の遺構が残されたのだと思うと、雷電神社には感謝あるのみです。因みに途中の看板に早朝及びゴルフ場営業終了後の立ち入りは不法侵入扱いとなる警告が記されていました。おそらく、元日はゴルフ場の営業はしていないはずなので不法侵入にあたってしまうのでしょうか。でも、雷電神社に初詣に行きたい人だっているはずですよね。

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イオ

城下めぐり (2024/10/14 訪問)

(続き)

北の庄城址公園は福井城の西三ノ丸南側の曲輪にあたり、発掘調査で出土した堀跡と石垣が展示され、日向門の礎石が位置標示されています。

JR福井駅西口の道路の向こう側には、吉野川を改修した最大幅100mに及ぶ百間堀が築かれていました。現在はビルが建ち並んでいて堀の痕跡も窺えませんが、百間堀の石垣石を用いたモニュメント(説明板)が設けられています。

北陸銀行・福井支店の前には発掘調査で出土した笏谷石の石垣石が展示されています。柴田期北ノ庄城のものか福井城かは不明のようですが、打込接ぎで刻印もあるので福井城の石垣なんじゃないでしょうか。また、福井市役所の前にも西二ノ丸石垣の石材が展示されています。

中央公園はかつての西二ノ丸と西三ノ丸に設けられており、西二ノ丸の堀が掘割広場として立体表示され、笏谷石の石列で堀幅が平面表示されています。また、西三ノ丸の堀は堀水景として往時の様子を感じさせる姿で半立体表示されていました。その他、西三ノ丸にあった御座所(藩主の住居)も平面表示されています。中央公園に北接する福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祭神とし、松平春嶽公像が立てられていました。

さて、城下をひとめぐりしたので、本丸に向かいます(続く)。
 

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しんちゃん

江戸期に築かれた城。 (2025/01/04 訪問)

現地の案内板によると野手崎城は小梁川氏の居城で東西300m、南北250mの規模を持つとされています。
築城は江戸期になされ、寛永22年(1644)に工事が始まり、元禄元年(1690)に完成し、幕末まで居城したようです。
高所に本丸が置かれ、小梁川館とも称されているようです。
中腹に高屋敷館があり、二の丸とも考えられています。
下段にも郭が複数配され、民家になっている場所もあります。今回はなんとか本丸まで到達できました。
山城とされてはいますが、比高はそれほどでもないです。とは言え、積雪の状態で普段とは勝手が異なるので本丸周辺で良しとしました。

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とってぃ

雪景色でした。 (2025/01/04 訪問)

年始でもあり雪でもあったため、そんなに人も多すぎず散策できました。

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