城びとでは高越山城となっていますが、グーグルマップ及び現地の案内板や説明板、城址碑などはすべて高越城となっています。急坂登はなく、困難なく攻城できる城でした。各郭がとてもきれいに整備されていますし、山頂の一の郭には鮮やかな幟が翻っていて、眺望も素晴らしく、心地よいひと時を過ごすことができました。竪堀、堀切などの遺構も残っていました。最後に往路では見つけられなかった路傍の城址碑を拝んで高越城攻めを終えました。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2026/06/12 07:19
ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城②の2 登城口から一の郭を含めた各郭をめぐる (2026/05/09 訪問)
城びとでは高越山城となっていますが、グーグルマップ及び現地の案内板や説明板、城址碑などはすべて高越城となっています。急坂登はなく、困難なく攻城できる城でした。各郭がとてもきれいに整備されていますし、山頂の一の郭には鮮やかな幟が翻っていて、眺望も素晴らしく、心地よいひと時を過ごすことができました。竪堀、堀切などの遺構も残っていました。最後に往路では見つけられなかった路傍の城址碑を拝んで高越城攻めを終えました。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/06/11 22:24
2026/06/11 22:18
2026/06/11 22:18
高くないけど長いのだろう (2025/08/10 訪問)
かつては島だったともいう標高40mちょっとの小山は高くない割に結構歩いた気分になる。要するに高くないけど長いのだろう。香西氏家臣の渡辺氏が海上監視のためにこの城に詰めていたそうだ。お城からは勝賀城も良く見える。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2026/06/11 22:11
2026/06/11 22:04
2026/06/11 20:18
2026/06/11 16:32
多分人生初の1人旅 (2025/05/31 訪問)
明石市立天文科学館と明石城を目的に明石市に行きました。
私の初の1人での旅行です。
宿泊するのはちょっとお金も大変だし、部活もあるので日帰りで行きました。
私はお城とかに行くととにかく一度ぐるっと一周回ってから天守閣跡に行き、また場内をぐるっと回るタイプです。
もちろん友達は行こうといえばついてきてくれると思いますが、やはり城好きでないと少しこちらが遠慮してしまいます。
ちょうどその日は屋台などが出ており私は田舎出身だったので、街の屋台はこんなにおしゃれなんだと感じました。
たくさんの明石焼を食べました。おいしかったです。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2026/06/11 16:02
城址は国済寺で裏手に土塁残存 (2026/05/30 訪問)
神流川合戦激震地に在る金窪城を終えて、群馬県埼玉県国道17号線沿いの未踏の城廻り四城目深谷市の庁鼻和城(コバナワジョウ)を目指す、進行道中には本庄城、岡部陣屋、深谷城を探訪した折の懐かしい市街地が甦って来る。
駐車場:国済寺山門東横の参拝駐車場を利用。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
国道17号沿いで立派なお寺です、重文の黒門を潜り、立派な楼門である重文三門を潜り、本堂を参拝、まだ新しい様な本堂、本堂西横に建て替えた折りの古い本堂鬼瓦が飾ってある、上杉の紋が大きくアップされている、上杉憲英公墓所も有り参拝、その裏手に廻ると皆さんが写真投稿されている土塁が竹林に覆われて残って居る結構大きい。
以前から名前は認知していた庁鼻和城ですが、国道17号線を何回も行き来して居りながら今回初の登城です。
歴史は庁鼻和城址と国済寺深谷新八景立看板と国済寺案内板を並列に写した案内板をご覧ください。
次に中条氏館へ向かいます。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/06/11 12:06
2026/06/11 11:27
2026/06/11 08:08
向牧戸城(岐阜県高山市荘川町牧戸) (2025/11/16 訪問)
向牧戸城(城びと未登録)は、室町中期に内ヶ島為氏が荘川と御手洗川の合流点に白川郷攻略の拠点として築いた城で、白川郷を攻略して帰雲城を築くと、向牧戸城は家臣の川尻氏信を城主として郡上方面や高山方面からの侵攻に備える出城としました。金森長近の飛騨攻めでは最初の戦場となり、一度は金森軍を撃退しましたが、郡上の遠藤氏が加わった金森軍の再攻撃により落城。川尻氏は長近に仕え、向牧戸城は廃城となったようです。
登城口前の駐車スペースから登城開始。登城口には向牧戸城址の説明板や標柱が立てられています。登り始めてすぐに主郭と南の出曲輪を隔てる堀切に到達。出曲輪は藪に覆われていましたが、主郭側は「荘川であいの森」として整備され、主郭南下の腰曲輪(城門広場)には代々城主を務めた川尻家の墓が移設されています。主郭には模擬望楼が建てられていますが、立ち入れる状態ではありませんでした。そして主郭から帯曲輪を抜けて北側の曲輪(未整備)を確認して、向牧戸城をひとめぐり。
現状では10分あればひとめぐりできる小さな城ですが、南側を除く三方を川に囲まれ(南側は堀切)、かつては金森長近が苦戦するほどの堅城だったんだろうな、と感じた向牧戸城でした。雪に閉ざされて撤退を余儀なくされたニッポン城めぐりのツアーから約1年。ようやくリベンジを果たすことができました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2026/06/11 06:53
愛媛の端っこ (2026/05/24 訪問)
宇和島まで来たのでさらに足を伸ばし未投稿物件をひとつクリアすることにしました。
久良の集落から天儀鼻方面への県道がありますがこれが厳しい😨
細くて離合スペースはほとんど無く、カーブ多くガードレール無し、下は崖と。
なんとか対向車なく説明板前の駐車スペースまでたどり着きました。
道がついていて少し入っていくと土塁が残っています。
幕末に高野長英が築いた砲台跡です。
10発中9発が標的近くに命中したという優れた砲台だったそうです。
下に降りていくと海岸に出ました。
漁船が行っていました。
右手に進むと石垣が施されています。
砲台の番人などが暮らしていた屋敷跡だそうです。
引き返し、墓石があるところから奥に進んでいくとここにも石垣がありました。
屋敷も結構な広さがあったようです。
苦労して来た甲斐はあったかな。
ここからまた先ほどの道を戻るのですが幸い対向車はありませんでした、ほっ。
久良湾は戦闘機の紫電改が見つかった場所で、引揚げられ近くに展示されています(行ってません)。
この後は途中で40番札所の自在寺に立ち寄り宇和島に戻りました。
目的はもちろん名物の鯛めし、生の鯛をタレに浸けご飯にのせるというもの。
元は船上で火を使えない漁師が食べていたものだそうです。
美味しかった😍
【見どころ】
・砲台跡
・屋敷跡の石垣
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/06/11 05:35
ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城②の1 早雲の里荏原駅から登城口まで (2026/05/09 訪問)
笠岡城からの転戦です。福山から福塩線で神辺にアクセス。井原鉄道完乗を狙いました。高越城の最寄り駅は早雲の里荏原駅。伊勢新九郎(北条早雲)が此処の城主の子だったことは、すでに読了している富樫倫太郎著の「北条早雲」にしっかりと記されているというのに現地に赴くまで気づかないという体たらくでした。大河ドラマ押しの活動も展開されているようですし、荏原公民館にミツウロコの北条氏家紋があるなど、北条早雲一色の里でした。駅からかなり歩きますが、丁寧に道しるべが設置されており、徒歩と車に分けての表示も親切設計だと思います。全く迷うことなく、登城口にたどり着くことができました。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/06/11 05:31
北九州空港の近く。 (2026/05/29 訪問)
諸々の用事を済ませに実家に滞在中、隙を見て出かけてきました。
駅から登城口までは約2km。
「松山城登城口」に停車するコミュニティバス(ゆめシャトル)がありますが時間が合わなかったため徒歩で向かいました。
登城口で作業をしていらした方にご挨拶したところ「ゆっくりー」と見送ってくださいました。
登城路は案内板、杖、階段、ロープと至れり尽くせりです。苅田町作成のPDF版ハイキングマップで土塁、石段、虎口、主郭などを確認しながら、15分ほどで山頂に到着しました。立入禁止区域も多かったですが、大切な遺構の保全と登山者の安全のため。守る会の方々に感謝です。
久しぶりの山梨県外の🏯でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2026/06/10 21:37
何でまたわざわざ弱い城へと越してきたのか (2025/08/10 訪問)
香西氏がここに本拠を移した天正5年は播磨三木城攻めの前年で、土佐の長宗我部氏が阿波への侵攻を始めた頃にあたる。世の中が大きく動き出した時代に香西氏は今までより小さくて防備も弱いお城へと移転している。なんでだろう。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2026/06/10 19:48
2026/06/10 16:27
石碑には金窪館と刻まれている (2026/05/30 訪問)
信玄が本陣を張ったと言われてる木部城を後に国道17号線沿い群馬県埼玉県未踏の城廻り三城目の金窪城へ、北北東約8kmの進行、ナビに金窪城駐車場を合わせたのですが、グーグルマップとナビの地図精度の差なのか、道が狭くぐるっと回って御陣場川を渡って黛神社川沿いに駐めて神社隣の方にお聞きしてたら、次の橋を渡って直ぐに公園の駐車場が在ると聞き、砂利駐車場に到着。
駐車場:埼玉県児玉郡上里町1626-4他金窪城址公園東約70mジャリ駐車場、(36°16'05"N 139°08'23"E h=60m)収容10台は軽い。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
駐車場より集落の道を西に約70m、コンクリート塀の金窪城址公園入口がある、入口の南に一段高い基壇上に石碑、案内板が設置されている、土塁跡なのか石碑の東民家敷地に土塁の痕跡あり、立派な石板碑には史蹟金窪館趾と刻まれている昭和13年建立、手前の石柱碑には史蹟金窪館とよく読める、南に面した説明板は金窪城跡と有り周辺地図と写真、解説文がある、東に面して地に落ちた金窪城跡説明板、同じく東に面し神流川合戦古戦場址の解説板がある。
歴史は
烏川と神流川の合流する東洪積地で微高地に築城されている、もう少し東に行くと利根川に合流、金窪城は一辺約200m方形の平城、武蔵国の最北端に当たって上野国との国境の城として重要な位置を占めていた。
治承年間(1177~80)に加治家季が築城、元弘年間(1331~33)に新田義貞の武将畑時能や長浜六郎左衛門が居城、大永の頃(1521~27)斉藤実盛の子孫摂津守盛光が居城していましたが、天正10年(1582)定利の時、神流川合戦で織田信長の家臣滝川一益に攻められて落城。
その後徳川家康関東入封によって武田信玄の甥である川窪信俊の所領となり陣屋が置かれたが元禄11年(1689)に川窪氏が丹波へ転封となり廃城と成る。
関東での大合戦と言われている神流川合戦が金窪城を巻き込んで大激戦地に成っていたのですね、本能寺の変で事変急を告げて滝川一益と北条氏との対決が変の有った6月2日から16日経った6月18日19日に合戦が行われて滝川一益は敗戦、尾張へ逃げ帰る事に、山崎の合戦は終わって居り、清須会議にも間に合わず。一益は北条氏とうまく調整がつかなかったのでしょうか?(解説板抜粋し加筆)
グーグルマップを見ると金窪城址公園を御陣場川を北端にして方形200mで囲むと集落が入り集落の道筋が方形に見えたりしますので城域だった様に感じられます。
次に庁鼻和城(コバナワ)、国済寺へ向かいます。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2026/06/10 12:52
「鉈一丁で何千騎にても防ぎ申す」ので、七尾山→鉈尾山城 (2026/05/30 訪問)
城びと先人(イオさん、とある煩悩の登城目録さん)の投稿を見て、小倉山城から、鉈尾山城(城びと未登録)に行って参りました。
またもやチャートの急峻な山です。登城道から、巨岩やシマシマチャートが迎えてくれます。南北の尾根に郭が並んでおり、東西はとても急峻です。南端の虎口に石垣が良好に残っています。主郭東側などにも石垣の痕跡が見られます。
運動公園東の毛鹿洞池脇からの大手道と運動公園北の弓道場脇からの搦手道があります。後者は、体育館建て替え工事(?)の塀に阻まれてますが、毛鹿洞池から山に入ってしまえば、林道を含め、いくつかの道が交差しているので、どちらからもアプローチできます。大手道は、ふれあいの散歩道と名付けられて、整備されています。誰にも会わず、触れあえんかったけど。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。