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朝田 辰兵衛

通りすがりで立ち寄りました…🐾 (2025/04/12 訪問)

とても良く整備されておりますが,大手ルートは立入禁止でした。遠景で大手門跡を撮影しましたが,イマイチわからない画像となりました…<泣>。竪堀ワキを通るルートなので,イイ画像を期待したのですが残念です。
全体的に「土塁を見てよね~!」的な散策ルート整備に思えました。

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WEST

高遠城探訪 (2025/04/09 訪問)

桜で有名な高遠城を訪問しました。桜の満開日を予想して訪問しましたが、残念ながら城内の桜は五分咲でした。
駐車場はさくら祭りの期間でも無料の若宮駐車場を利用しました。ただ、城内まで約10分かかり、行きは上り坂となりますので注意が必要です。
最初に、建物の遺構がある三ノ丸の(伝)大手門、進徳館を見学しました。その後、公園内に入場しましたが、平日で開園時間すぐでしたが、大勢のお花見の観光客で賑わっていて人気の高さを感じました。特に撮影スポット桜雲橋の前は一段と人が集まっていました。今回の散策ルートは、二ノ丸から桜雲橋を渡って本丸へ、そして南曲輪から白兎橋を渡って法幢院曲輪と進みました。本丸からは雪を冠した中央アルプスを見ることができ、撮影スポットになっていました。また曲輪の間には幅が広く深い空堀があり、降りてその堀底を散策できます。
なお、公園南側の信州高遠美術館の近くの桜は、桜の開花が進んでおり、ほぼ満開で大変綺麗でした。
高遠城の南側をさらに降りると高遠ダムがあります。途中には歴史博物館、江島囲み屋敷もありますので、足を延ばすのも良いでしょう。

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トク

【春の長崎天草を巡る⑤】(5)平戸御館 (2025/03/27 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(5城目)は「平戸御館」です。

平戸城天守から北虎口門を下って海沿いを歩き、平戸桟橋から階段を登ると平戸御館です。ここにはかつて藩主松浦氏の館がありました。明治時代に入り私邸として建て替えられたものが払い下げられ、現在は「松浦史料博物館」となって、松浦氏の今に残る貴重な史料が展示されています(写真①~⑤)。

平戸桟橋の横には「オランダ商館」が再建されています(写真⑥⑦)。平戸は江戸初期には長崎と並ぶ日本一の貿易港でした。1600年オランダ船リーフデ号に乗り豊後臼杵に漂着したイギリス人の三浦按針(ウイリアムアダムス)は、家康の外交顧問兼通訳として250石を与えられ旗本となり、伊豆の伊東にて造船技術を教えます。それから1605年には平戸にイギリスの東インド会社の支店を開設し、オランダ船やイギリス船が来航するようになり、オランダ商館やイギリス商館を開設して、平戸を長崎と並ぶ日本の貿易の拠点としました。しかし家康死後の1616年、幕府は貿易を長崎の出島のみとし、相手もオランダのみとする事に一本化したため、按針は秀忠や老中たちと意見が合わずに行き場を失い、晩年はここ平戸のオランダ商館で過ごし、1620年平戸で亡くなったそうです(写真⑧按針終焉の地)。

商館の前からは平戸城がよく見えました。晩年の按針はどんな思いで、ここから平戸城を見上げていたのでしょうか?(写真⑨)

御館の下に足湯があったので浸かって歩き疲れを癒し(写真⑩)、桟橋から佐世保行のバスに乗りました。夜は佐世保駅前に連泊し、翌日は佐世保を観光しようと思います。
 

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WEST

新府城探訪 (2025/04/08 訪問)

武田勝頼が築城した新府城を訪問しました。登城の前に韮崎市民俗委資料館に立ち寄り、パンフレットを入手しました。城内の散策にとても役立ちますね。新府城には結構大きな駐車場が整備されており、自動車のアクセスがし易いです。
今回の登城ルートは北側から入り、東西の出構を見ましたが、その機能はまだ良く分かっていないとのこと。次に乾門を通って、井戸、二の丸を見て本丸に向かいました。本丸には桜が植えてあり、満開の桜を堪能しました。その後、西三の丸、東三の丸を経て大手口に。
大手口の大手丸馬出と三日月堀は、よく整備され見ごたえがありました。武田氏の城郭の特徴の一つですね。また、ここから遠くに富士山が見えますよ。
ところで、韮崎市民俗委資料館には、韮崎市内から出土した土偶、土器などが展示されています。土偶として「仮面土偶」、「中空土偶」を見ることができます。入場料は無料ですので、関心のある方にはお勧めします。

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イオ

北城(2/2) (2024/12/28 訪問)

(続き)

北城の大手口は北西側に設けられています。北西にのびる尾根上に曲輪を連ね、尾根の東側を削り込んで西の大手の丸とし、削り残しを竪土塁として大手口にあたる北虎口に繋げています。尾根上の曲輪群の北西端では堀切と南北に派生する竪堀により茶屋ノ屋敷と呼ばれる曲輪への通行を遮断していました。西の大手の丸のあちこちでは石垣の痕跡も見られます。

西の大手の丸から主郭部の西側に回り込むと、主郭部西面は幾条かの竪堀、南西面は畝状空堀群で守られています。灌木と藪で見づらくはあるものの、畝状空堀群はなかなか見応えがありました。また、西に派生する支尾根にも曲輪群が設けられ、先端部の両脇には竪堀も見られます。北城南端の馬池の南側をめぐる登城道は横堀と土橋で防御されていました。

馬池から畝状空堀群の上部に通された道をたどり、時ノ丸を経て主郭部へ。本丸から北西にのびる尾根に階段状に設けられた曲輪群には、それぞれ西辺や北辺に土塁がめぐらされていて、内側に石積が施された土塁も見られます。そして北城の締めくくりに本丸に到着。西辺に土塁がめぐるほかに目立った遺構はありませんが、なかなかの広さがありました。

さて、北城に続いては南城へ。歩いてもそう遠くないはずですが、せっかく南城近くにも駐車スペースがあるんだから、と車で南城に向かいます(続く)。

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todo94

日帰りに予定変更の三河攻城⑧ (2025/04/12 訪問)

高縄城からの転戦です。15年ぶりの再訪になります。巴江神社が本丸、その下の護国神社が三の丸になります。二の丸に建つ田原市博物館のメインコンテンツは渡辺崋山です。前回は城のみでしたので今回は周辺を散策し、渡辺崋山池ノ原幽居跡にまで脚を伸ばすことができました。

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赤い城

5重の堀切が素敵 (2025/04/20 訪問)

松山道に沿った道路沿い、墓地の前にスペースがあるのでここに車を置きます。
この墓地の東側から沢を登りました。
少し進むと左に折れ、登城路が続くはずですがピンクテープに気づかず直進、さらに沢を登りました。
途中で再びピンクリボンに合流します。
苔で滑りやすいので雨の日はNGですね。

縄張図を見ながら、迂回する登城路を進むか直登でショートカットか・・・
直登を選んでしまう浅はかさ。
途中竪堀っぽい地形も見られます。
悪戦苦闘の末ようやく主郭の西側にたどり着きました。

主郭に南側には土塁が付いていて結構な広さがありました。
まずは北側の段曲輪を降りてみます。
下段の凹型の曲輪からは三方に竪堀が落ちています。
西側の竪堀は横堀から繋がっていて二重に落ちます。

主郭に戻り南側の尾根から下山、こちらは5重の堀切が守っています。
伊予の城では珍しいとのこと。
城の詳細は不明ですが、土佐の勢力が関与したのではないかとされています。

【見どころ】
 ・主郭南側尾根の5重堀切
 ・北側曲輪から落ちる竪堀





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しんちゃん

とても楽しく訪問できる。 (2025/04/20 訪問)

篠の丸城は南北朝の時代に赤松貞範の長男・顕則によって築かれたとされ、応仁の乱以降は赤松氏の守護代宇野氏の長水城の支城となっていたようです。天正8年(1580)羽柴秀吉の中国攻めで長水城と共に落城した後は、黒田官兵衛の城となり、平時は代官が城代を務めたようです。
最上山公園まで整備された道が続いていて、車を複数台駐車できるスペースが有ります。比高はそれなりにありますが、非常に攻めやすい山城で、地元の人たちが散歩がてらに登って来ます。頂部に城址があり、主郭は展望台のある西の郭とする縄張りもありますが、どう見ても妙見さまがいる広い郭が主郭に見えます。主郭は虎口が南に付き、土塁が残っています。
最大の見どころは城址西側一帯に広がる、膨大な畝状竪堀群で、案内にそって、一段下側に降って行けば見ることが出来ます。この周辺の山城はひとしきり、リピート(再訪)になりますが、良い城址が多いので楽しく訪問できます。

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しんちゃん

紙屋門と土塀 (2025/04/20 訪問)

山崎城は元和元年(1615)姫路藩主・池田輝政と徳川家康の次女・督姫の子・池田輝澄によって築かれたとされています。山崎3万8千石の平城ですが、城は未完成のままで、延宝7年(1679)に入った本多氏によって陣屋という扱いになっています。
本多公園が本丸跡地とされ、陣屋門である紙屋門と左右の土塀が残っています。

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しんちゃん

宮本武蔵初決闘の場 (2025/04/20 訪問)

いえいえ・・「ゴジラ岩」の写真、楽しみにしております。私も以前・男鹿市を訪問した時は「なまはげ館」に行って、なまはげ達の実演を見て満足して帰ってきたので、たぶん城攻めをしていないと思います。「進入禁止」になっていたら、遠景しかしょうがないですよね。

利神城の投稿ですが、ガイドツアーの予約を入れていなかったので遠景のみになります。まあ入れないだろうと思ってはいますが、せっかく近くまで寄ったので偵察がてら来てみると、道中に「宮本武蔵初決闘の場」がありました。なんて贅沢な・・
武蔵13歳の時、「何人なりとも望みしだい手合せいたすべし。われこそ日下無双兵法者なり」と書かれた新当流の達人・有馬喜兵衛の高札を見て、金倉橋のたもとで勝負を挑んで、一刀のもとに倒したと伝わっています。

登城道の入り口には非常に分かりやすい看板がたっています。10年前に近くを通った時には、まだ登城禁止にはなっていなかったかな?逃した魚は大きいですが、この城には是非登ってみたいので、チャンスをつかんでまた来たいと思います。現状、行ってみたいのままですが、いずれまた。麓にある道の駅の近くには利神城廃城後に.築かれた平福陣屋の門が残っています。

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カズサン

天方新城内堀は桜の絨毯 (2025/04/11 訪問)

 50年振りの2度目の登城から4年振り近くのアクティ森グラウンドゴルフ場でのプレーの後登城しました、桜は終わって居ましたが主郭をグルーと廻ってる内堀・横堀の底は桜の絨毯、まだまだ名残の桜状態でした。
 駐車場:専用駐車場1と2有り、トイレ有

 駐車場は外堀と二の曲輪に在り二の曲輪の外に外堀・横堀が廻ってる、ここの天方城は天方新城称し、天方本城と区別してる、案内板は駐車場の南隅に二面ある、東側の主郭虎口出入口より入る、高土塁と内堀・横堀の底は桜の花びらで埋まっており桜の絨毯状態、水が有れば花筏?主郭には桜が周囲にに植わっていますが花は散り少し寂しい、主郭中心は黒松の大木が重なり鬱蒼と中心に天方城趾碑が立っている、主郭西外斜面に展望台が在り眺めは最高、新東名が良く見え、磐田台地平たく良く見えて北の先端のくびれに社山城が見て取れる。
 桜は散って居ましたがミツバツツジ、ドウダンツツジは咲の盛りでした。
 
 天方城へは太田川の天森橋を東に渡り約2.5km程、要所要所に案内指示板がある「天方城・城ヶ平公園」に道則表示されている、約2.1km程手前から農道(周囲茶畑)で細く曲がりくねって登って行く、地元車優先・茶農家優先です、コンクリート道ですが、がたがたで離合困難、若干広い所で待ち譲り合ってすれ違う、終点が駐車場です。
 先客はアベック1組、邪魔をしない様に探訪散策。今回は昇り降り対向車なくスムーズに走行。

 【天方城主・三代の墓】天森橋から太田川約2.5km程上流に蔵雲院が在り、天方城主・三代の墓があります。
 蔵雲院:静岡県周智郡森町大鳥居540、門前に駐車場有り、県道399号線脇に「天方城主・三代の墓」の黄色看板が出ています。

 【天方本城】天森橋から北に約2.5km程の元天方小学校の裏手に天方本城址が有ります。
 「天方本城址案内板」が麓の元天方小学校グラウンド、天方幼稚園の南前に有ります。

 両方ともまだ訪ねて居ませんが機会をみて訪ねたいと思っています。

 桜の時期、太田川は流域約2~3キロ程桜が堤防に植わって居て素晴らしい景観です。
   

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ぴーかる

富山城 (2025/02/22 訪問)

【富山城】
<駐車場他>駐車場はなし。法照寺の奥バリケード前<34.667557,133.892063>に停めれます。
<交通手段>車

<見所>巨石・堀切・石積み・眺望
<感想>日帰り相生牡蠣買い旅3城目。富山城は885年に富山重興がここに築城したことに始まります。1467年に松田元隆の攻城を受けて城は落城、富山氏は滅亡します。その後松田氏⇒宇喜多忠家・詮家が城主となり関ヶ原後に廃城となったようです。
 南麓から登城しました。見晴台から分かれ道がありますので、左方向に進みます。めのと岩を通り過ぎ、しばらく歩いて登りきると城跡の空堀兼堀切に出ます。手前が虎口構造になっていた感じがします。空堀を渡り切岸を登ると広い曲輪に着きます。その曲輪の奥にも広い曲輪があり、曲輪は大きく2局構造となっています。着いた曲輪はGoogleの富山城を位置して、奥の曲輪は城びとのポイントを指していますので、どっちが主郭かどっちともとれる2局構造です。着いた曲輪は整備されていて眺望が抜群です。曲輪内部に巨石群が2箇所あります。奥の曲輪との間には両端が崖の土橋を渡ります。奥の曲輪の北端帯曲輪に石垣遺構が少し残っています。この石垣の感じから堀切や虎口跡にある石積みっぽい石は石垣跡ではないかと思いました。両曲輪の曲輪壁は概ね巨石があって直角の切岸となっていて圧巻です。直角壁が高さがあり(5mくらい)、下に降りる道があれば下から見上げて、もっとすごい岩壁が堪能できたと思います。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

本丸背後の堀切は圧巻です。 (2025/04/20 訪問)

☂本降りになるまで1時間くらい小雨が続く予報だったので,ホテルを早めにチェックアウトして攻城しました。
二の丸~三の丸間の空堀も良いですが,本丸背後の堀切は圧巻です。整備が行き届いていて,とても気持ちよく散策ができました。
馬場跡に到着したら雨が本降りとなったので,ここで越後に帰還することとしました。
結果して,大曲のホテルに宿泊しておきながら,払田柵を散策しないで帰るという…。
ま,人の価値観はそれぞれということで。

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WEST

要害山城探訪 (2025/04/08 訪問)

要害山城を訪問しました。このお城は武田信玄の親である武田信虎が築城しました。登城の前に甲府駅前の藤村記念館でパンフレットと縄張図を頂きました。登城ルートと遺構確認の参考となります。
登城口近くに数台駐車できる駐車場がありますので、自動車によるアクセスが便利です。
登城口からは本曲輪まで登りに25分、下りに20分程度でした。登城路は特に迷うことなく進むことができましたが、ただ登城路に倒木がありますので、注意が必要です。
登りは曲輪、竪堀、土塁、それに石垣の遺構を見ながら、本曲輪まで行きます。途中にある不動曲輪からは甲府市内が望めます。山城の醍醐味ですね。
本曲輪から奥に進むと大きな堀切を見ることができます。なかなか見ごたえがありますよ。

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WEST

躑躅ヶ崎館(武田氏館)探訪 (2025/04/08 訪問)

躑躅ヶ崎館(武田氏館)を訪問しました。甲府城から自動車で向かいましたが、途中の武田通り(県道31号)沿いの桜が満開で、本当に綺麗でした。この季節のお城訪問の大きな楽しみの一つですね。
本丸内は武田神社が鎮座しており、この日は参拝客で賑わっていました。この館跡は平城で散策するには最適です。遺構である水堀、土塁の遺構を見ることができます。
ところで、この館を築城した武田信虎公の像が、甲府駅北側の広場にありますので立ち寄ってみると良いですよ。

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WEST

甲府城探訪 (2025/04/08 訪問)

甲府城を訪問しました。2019年6月以来の2度目の訪問となります。目的は、前回見落とした山手御門の見学です。甲府駅北側に整備されたもので、アクセスには近接した甲府市歴史公園駐車場を利用しました。
初めて見る山手御門は堂々としており風格を感じました。この櫓門内部は無料で見学ができます。ここには展望スペースがあり、線路越しに稲荷櫓、さらに遠くには富士山を見ることができます。
その後、本丸、稲荷櫓等のある線路南側のお城内を散策しましたが、改めて、この城の石垣の素晴らしさを実感できました。丁度、桜が綺麗な時期であり、桜とお城にて素晴らしさも倍増でした。

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駿府城

企画展「明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」を開催します!

江戸幕府が幕を閉じ、日本が大きく変わった明治維新。その激動の時代、徳川家は静岡へと移り、新たな歩みを始めました。本展では、静岡の地に根を下ろした徳川家と旧幕臣たちの知られざる物語に迫ります。彼らは何を思い、どのように新しい時代を生き抜いたのか。静岡藩の成立や、静岡での生活ぶりを展示品とともに紹介します。

企画展「明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」
◆会期:4月26日(土)~6月8日(日)9:00~18:00(展示室入場は閉館30分前まで)
◆会場:静岡市歴史博物館 3階企画展示室 ※基本展示もあわせてご覧いただけます。
◆休館日:月曜日(国民の祝日・休日の場合は開館、翌平日休館)※4月28日(月)は臨時開館
◆観覧料:一般1,000円、高校生・大学生・静岡居住70歳以上700円、小中学生250円、静岡市居住・通学の小中学生、未就学児 無料
※20人以上で団体料金
※「一般」以外の方は身分証明書等をお持ちください。
※障害者手帳をお持ちの方とその介助者1人無料。(要提示)

静岡市歴史博物館では、その他にも学芸員によるトークや工作体験など申込不要・無料でご参加いただけるイベントを実施しています。詳細は静岡市歴史博物館公式HP(https://scmh.jp)をご覧ください。

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しんちゃん

風のたより            ピュ〜

あらあら‥‥近くまで来られていましたか。道理で家のパソコンのモニターが倒れるわけです。
お茶菓子でもてなしたいところですが、自宅は非公開なので、ご勘弁ください。実は高縄城はニッポン城めぐりでも自宅から一番近いのですが、ご隠居の方が城主をして居られるので、私は永遠に城主になれません。
あと‥鋸崎台場の例のポイントですが、なんとなく◯◯◯の工作員がうろついていそうで、ちょっぴり怖いですね(うふふ)。
いざとなったら逃げの一手ですよ。私も虎口で新鮮な熊のうん◯を見かけたら、日を改めて再訪するようにします。
基本的には、マイナー城以外では、そんなに熊の痕跡は無いので多くの方に山城を楽しんで欲しいです。

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トク

【春の長崎天草を巡る④】(4)平戸城 (2025/03/27 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(4城目)は「平戸城」です。

前日は佐世保に宿泊し、翌朝の「松浦鉄道」(写真⑨)に乗りのんびり走る事1時間20分、日本最西端の駅「たびら平戸口」(写真⑩)に到着です。そして駅前からバスに乗り真赤な平戸大橋を渡って平戸島に入りました。平戸城は島にあるんですよ! 皆さん御存知でしたか?

私は猶興館高校前で下車し、大手門から入りました。大手門前に駐車場はないので、車の方は標識に従って右折し、直接亀岡神社の駐車場に入って、天守だけを見て帰ると思います(ちょっともったいない)。大手門からは二ノ丸大手門との連続する立派な石垣が残る桝形虎口があり、これを突破すると広い二ノ丸に出て正面に亀岡神社が見えてきます。二ノ丸を突き進み、神社で健康と金運(🤔?)を祈願してから、その先の本丸にそびえる天守を攻める気持ちで進みます。すると右に懐柔櫓と見奏櫓、左に乾櫓と狸櫓と北虎口門が海からの攻撃に備えるようにして天守を守っているのが分かります。このように大手門から攻めると、山鹿流の縄張りが分かりますので、私はオススメです。

平戸城は二度建てられました。いずれも二人の松浦鎮信が建てています。天守に入るとシアターでその二人の鎮信が語ってくれます(写真④)。

一人目の鎮信は、ポルトガルとの交易をしていたせいか、1599年に(写真④)のような西洋風の天守を建てたようです。しかし勝本城築城や朝鮮出兵などで活躍し豊臣恩顧の大名だった鎮信は、関ケ原では自らは東軍に付くも嫡男は西軍に付くなどしたため、徳川家康からは疑われていたようです。1613年に天守は火災で焼失しますが、自ら天守に火を放ったという説があります。大坂の陣の1年前になり、家康から「我と秀頼どちらに付くのか?」と問い詰められ、忠節を示すため自ら火を放ってしまったのかもしれないと、私は想像してしまいました。

それから100年後の1707年、二人目の鎮信は老中になったのをきっかけに、異国船監視を理由に築城が許可されます。鎮信は山鹿素行と交流があり、それで山鹿流の縄張りで設計されたようです。しかし明治の廃城令で取り壊されたので、現在は模擬天守が立っています。

平戸城の魅力は、やはりこの天守からの絶景ですね! いや~とても爽快な眺めです。桜もとても綺麗でした(写真①⑧)。眼下には、東は見奏櫓や懐柔櫓や遠くは平戸大橋まで(写真⑤⑥)、西には平戸桟橋や、藩主が暮した平戸御館、三浦按針が晩年を過ごしたオランダ商館が見えました(写真⑦)。

次は、北虎口門から平戸桟橋の方へ下って行き、(5城目)その平戸御館とオランダ商館を見学しようと思います。
 

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イオ

北城(1/2) (2024/12/28 訪問)

戦国前期に十市氏が築いた城で、龍王山頂部に位置する南城と北西下方の広大な北城からなり、まず南城が築かれ、後に広い屋敷地を確保するために北城が築かれたと考えられるようです。松永久秀が大和国に侵攻すると降って松永方の城として大和国統治の拠点となりましたが、信貴山城の戦いで松永氏が滅亡すると龍王山城も破却され廃城となりました。

北城、南城ともに直下まで舗装道が通じているので、天理ダム側から対向困難な道を進み(幸い対向車には遭遇せず)、北城登城口手前の駐車場(東屋あり)から登城開始。北城本丸への登城口には城跡碑と説明板が立てられています。登城道を進むと、左右の太鼓ノ丸と辰己ノ櫓から二重に喰違い状に突き出た土塁が南虎口を構成していて、二重の土塁の間にはすり鉢状の池があり、池を回り込む間、左右と正面の三方の曲輪から集中砲火を受ける厳重な備えになっています。本丸南下の腰曲輪と太鼓ノ丸との間の堀切から太鼓ノ丸に上ってみましたが、東辺や西辺の一部に土塁がうっすらと遺るくらいでした。本丸南下の腰曲輪にも東辺から西辺にかけて土塁が見られます。

本丸には最後に行くことにして、本丸と辰巳ノ櫓間の堀切から辰巳ノ櫓へ。辰巳ノ櫓東下の腰曲輪からは竪堀が落ちていますが、藪でよく見えません。堀切まで戻って、今度は本丸下の帯曲輪を東から北へ。本丸の切岸がなかなかの高さと角度で続いています。帯曲輪の北下には大手口からの城道が東西に通っていて、竪堀伝いに下りて行くと東側の城道沿いに土塁が設けられています。説明板によれば、土塁の下は北東尾根を断ち切る掘割(堀切)になっているとのこと。土塁から城道を東に進んだ先の曲輪は笹藪に覆われていたので引き返して、土塁東端の竪堀から堀切へと下りて行きます。堀底に下り立ってみると、かなりの深さがあり大堀切と呼ばれるのも納得です。堀底には苔むした石材が散乱していて、説明板にあった土塁の石垣(あるいは石塁)でしょうか。大堀切の西下には水場があったようで、馬ひやし場という名が伝わっています。馬ひやし場の北には谷沿いに区画された屋敷地が広がっていて、周囲を土塁で囲み北端には竪堀が設けられていました。屋敷地西側の一段高い位置には五人衆郭と呼ばれる曲輪があり、北端には塹壕状の石積みの溝が、その下には竪堀群が敵の侵攻に備えています。

(続く)
 

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