九十九坊を通って尾根にたどり着くとなだらかな扁平地のような場所が栗原山へ続いている。兵を潜ませるには格好の場所だ・・と考えてしまう 悪いクセだが。
尾根にたどり着いて南に進んですぐの場所に栗原城跡がある。城址と言ってもコノ字状の土塁が付いている簡素なものだが、ここで土塁を見れるのは嬉しい。象鼻山も気になるが、まずは栗原山のピークを目指す。けっこう歩くが、道中に扁平地が多数あるので全く退屈しない。人工的なものかどうかはさておいて、これだけの数があれば多数の兵を駐屯できるだろう。
しかし石田三成が大垣城に籠城して南宮山に籠った毛利が後詰を行うという作戦であったのなら、南宮山よりは長宗我部陣のほうが大垣をよく俯瞰できるのではないだろうか・・と思ったりもした。
神谷道一氏の関ヶ原合戦図志の挿絵だと南宮山北尾根から象鼻山まで吉川・毛利の陣が南北にに連なっているように見える。だが、この南宮山の絵はなんとも怪しいなあ。形状だけ見ると栗原山と象鼻山を除いた南宮山の形状に似ているが、毛利秀元の陣の近くに「南宮山1353尺」の文字の記載がある。
南宮山山頂を毛利秀元陣とするなら栗原山周辺には宍戸就宗(おそらく毛利家家臣)なる人物が配されていることになる。
逆にこの絵が南宮山のみを表しているのなら宍戸就宗は南宮山山頂に配され、毛利秀元は北尾根の扁平地の辺りに位置することになる。この位地の方が関ヶ原を俯瞰できるので個人的にはその方がしっくりくる。神谷氏の推測だと吉川広家も南宮山に登って秀元の頭を押さえていることになる。
小池絵千花さんの論文には吉家広家が南宮山に登っていたと考えられる記述がありました「吉川家文書之二」
広家は(南宮山は)高山で関ヶ原は良く見えなかったとしらばっくれていますが、実際は良く見えていたと思います。
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