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トク

元寇防塁へようこそ! (2024/09/07 訪問)

モトさん、赤い城さん、また過去に元寇防塁をお訪ね下さった城人の皆々様、御訪問いただきありがとうございます。実はここ(生の松原・姪浜・愛宕)地区一帯は、私が仕事でよくウロウロしているまあ庭みたいな場所です(笑)。なので地元ボランティアガイドになったつもりで、ここでおせっかいながらも元寇に関するエピソードを御紹介させて頂きます。

元寇防塁は、執権「北条時宗」が、1度目(1274年文永の役)の反省から、2度目(1281年弘安の役)の元の襲来に備え九州の各御家人に命じて築かせたもので、福岡市内の各所に今も点々と残っています。中でも最も状態がいいのは、復元保存されている「生の松原」(いきのまつばら)です(写真①②③)。ここは有名な「蒙古襲来絵詞」という40mもの長々と膨大な絵巻物を作った、あの熊本県宇城市松橋(まつばせ)の御家人「竹崎季長」(たけざきすえなが)が築いた防塁で、この絵詞(えことば)が残っているがゆえに、現代の我々は元寇の様子を詳しく知る事ができるのです。

では熊本の田舎の貧乏御家人であった季長が、なぜ巨額の投資(借金)をしてまでこのような膨大な絵巻物を作ったのか、皆さんは御存知でしょうか🤔?

最も有名な絵は、この季長が馬が血を流しながらも勇ましく先陣を務め斬り込んで行く姿を描いている(写真⑧)の絵です。これは学校の教科書にも載っているので誰もが見た事がある絵だと思います。これは文永の役で最も激戦とされた「鳥飼の戦い」(福岡市城南区)を描いたもので、彼がここで勝利したため、上陸した元軍は船に逃げ帰り、その後天候の不良や食料不足や疫病などがあったため元に帰って行ったと言われています。この絵の舞台とされる鳥飼の「埴安神社」(写真⑨)や「塩屋橋」(写真⑩)や「祖原公園」(写真⑥⑦)にも行ってきました。このあたりが激戦地だったようです。この(写真⑧)の絵は、松の木がある事から(写真⑨)の埴安神社での戦いの様子を描いた物だと伝わっています。つまりこの絵詞は、命がけで戦ったにもかかわらず、鎌倉幕府から何の恩賞も無かったので、業を煮やした季長は自分の活躍をアピールし、鎌倉幕府から恩賞をもらうために作ったのではないかと言われています。では本当にこれで恩賞にありつけたのでしょうか🤔?

文永の役後、彼はこの絵詞(上巻)を携え、またも借金をしてまではるばる松橋から鎌倉まで何カ月もかけて行きました。着くと服はもうボロボロで、「田舎の貧乏御家人が何を言うか!ワハハ」と活躍した武将だとは誰からも信用されず、笑い者にされ相手にもされなかったようです。しかし粘り強く通い続け、1年後にやっとの思いで恩賞奉行(安達泰盛)に目通りがかない、そこで盛泰は季長の事を唯一信じて上奏しますがかなわず、彼にはせめてと松橋の地頭職を与えました。地頭職とは今の松橋町長のようなもので、彼としては当然時宗からお褒めの言葉があり、幕府の要職にここ鎌倉で取り立ててくれるだろうと淡い夢を描いてはるばる鎌倉まで行ったのでしょうが・・・(ああ~何と惨めな季長)😩・・・日本を救ったヒーローであるにも関わらず、認められないまま松橋に戻ります。

次は居城(竹崎城)にて弘安の役からどうなったのかの話へ続きます。
 

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ヒロケン

総石垣造りの山城 (2024/08/12 訪問)

佐敷城は標高87.3mの花岡山に築かれた総石垣造りの山城です。規模は南北200m、東西100m程の規模で本丸、二の丸、三の丸を階段状に配置した梯郭式構造で、加藤清正公の領地となった1588年~1592年にかけて薩摩国境を守る「境目の城」として、また、熊本城の重要な支城の一つとして飛び領地に築かれ、加藤清正公の家臣、加藤重次公が城代として派遣されています。
この城は、一国一城令で加藤氏が破城していますが、加藤氏の改易後、新しく肥後藩主となった細川氏は加藤氏が行った破城が不十分として再度石垣を取り除いたと幕府に報告しており、二度破城が行われた珍しい城跡です。

1993年~2001年にかけて発掘調査が行われ、1997年から石垣が復元されています。復元された佐敷城はこじんまりとしていて、大きくないものの総石垣造りの姿は素晴らしく、大手門から二の丸東門の枡形虎口は見応えがあります。また、車で山頂付近まで行くことが出来、駐車場から徒歩5分程で搦手門まで行くことが出来ます。

皆さん方の投稿を見て、「行ってみたいお城」NO1のお城でしたが、今回初めて登城することが出来、達成感につつまれており来年、鹿児島県を訪問する際には、是非もう一度行ってみたいと考えています。

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赤い城

住宅地の中にひっそりと (2024/09/01 訪問)

志度駅から徒歩5分、近くに駐車場はありません。
志度寺の駐車場から徒歩で登城しました。
安富盛長が雨滝城の支城として築いた城で中津城、中洲城とも呼ばれています。

周辺は住宅地となっていて遺構はありません。
宅地の中に地蔵尊・不動尊・五輪の塔があり、説明板も設置されていました。
北側と西側に堀があったとのことですが痕跡はわかりませんでした。

志度は平賀源内の生誕地でもあります。
近くに平賀源内の記念館がありますが開館前で入れず。
駐車場を使わせていただいた志度寺を参拝することに。

志度寺は四国八十八か所の86番札所です。
お遍路さんの姿もちらほら。
このお寺には生駒親正の供養塔もあります。
讃岐のお殿様なのでしっかり拝んでおきました。

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にのまる

いまの姿を。 (2024/08/06 訪問)

三原から広島までの移動は新幹線に特定特急料金が適用されるため990円の課金で在来線利用よりも1時間ほど移動時間を短縮できました。
午後2時過ぎに広島駅に到着し、新幹線口2番乗り場から観光ループバス「めいぷる~ぷ」のレモンルートで広島城(護国神社前)へ。
久しぶりの訪問で、記憶をたどるというよりも初訪問のような感覚でした。

裏御門から入り本丸下段の広島大本営跡を歩きます。
やがて見えてきた五層の天守。近いうちに見られなくなるであろうこの眺め。訪問前は「今のうちに見ておかないと……」という気持ちもありましたが、いざ目の前にすると、今までお疲れさまでした、という気持ちの方が先立ちます。戦後、広島の人たちの活力となった二代目天守とこの三代目天守。当時、コンクリート天守は燃えないから安心だという声があったと聞いたことがあります。充分にその役目を果たしたのだから最後まで安全に持ちこたえてほしい、美しい姿のままであってほしいと願わずにはいられませんでした。

すぐそばに初代天守の礎石が展示されています。戦の時代は終わってもお城の歴史は連綿と続きます。形を変え、役割を変えても、いつでも行ける場所として在り続けてくれたら、と思いました。

本丸では荒々しい石垣も数多く見ることができました。人の気配もなく静まり返った空間はそこだけ時が止まったかのようで畏れさえ感じます。

二の丸と繋がる中門で折れや鏡石に心躍らせていると、赤く変色し大きくひびの入った石が目の前に迫ってきました。被爆の痕跡です。いつか戦争体験を語る人がいなくなってもこの石が語り続けてくれるだろうと思いました。

二の丸は在りし日の姿が復元されています。平櫓・多聞櫓・太鼓櫓の壮観さ、表御門の重厚さ。薀蓄抜きで眺めていたくもなる光景でした。

8月6日に広島観光を楽しんでいいのだろうかという思いをもっての訪問でしたが、他の観光地同様たくさんの外国人観光客の方々がいらして、町なかにはにぎやかな日常がありました。

早朝岡山からスタートした“山陽本線お城すごろく”は6城まわってここで終了です。
が、この日のイベントはもう一つ残っており……。
広島城天守同様、来年には乗れなくなってしまう500系新幹線の1号車最前列への乗車です。かつてはのぞみの花形だった500系も今は山陽新幹線のこだまとしてのみ運用されています。500系がくる時刻は予め調べてあったので広島駅までのんびり歩いて戻り、駅のドトールで充電させてもらいながら時間をつぶして待ち、無事目的を果たしました。地元駅到着後、いちばん最後に乗ったのは真っ黄色の115系でした。

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しんちゃん

石段に 嵌められ踏まれ 四百年~ (お城川柳) (2013/07/24 訪問)

四百年~ といえば往年のキン肉マン(アニメ版)の「牛丼ソング」を思い出す方も多いのではないでしょうか(?)。この「牛丼ソング」、アニメでは毎回のように流れてきて、実に賑やかだったのですが原作(漫画版)では単行本の2巻に「吉野屋」のバージョンで一回出てきたきりです。「吉野屋」バージョンですと、歌詞のくくりが「牛丼ひとすじ 80年~」になっています。あれから40年あまり経過しているので、今なら120年~になりますが、やはり「400年」の方がインパクトはありますね。

「安土城」の「石仏」の投稿です。安土城の石段にはいくつか石仏がはめ込まれているのですが、その中に一つ非常に踏みやすい場所にある石仏が有ります。無心に石段を登っていると踏んでしまう可能性があり、何か「踏んだな」と思った際には、そーっと足の力を抜いて欲しいです。もちろん「お賽銭」も忘れずに。
400年も石段で踏まれていると、どのような心境になるのでしょうか。普通の人なら信長への「怒り」で頭の中がいっぱいになると思いますが、「石仏」様ならきっと登城者の無作為の「おいた」はお許しくださると思います。個人的には、こちらの(よく踏まれる)「石仏」様は安土城のマスコット的な存在だと思っています。
いつまでも「そこで」安土城と登城者の安全を見守っていただけたらと思っています。

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しんちゃん

諏訪原城 ほか (2024/06/22 訪問)

「しんちゃん」に戻っていますよ(期間限定です)。紛らわしくてすみません。
諏訪原城の投稿ではカレーで話がそれましたが、食べれる「城」もあるんですよ。熊本城は「食えます」
城内の建物の壁には「かんぴょう」が塗り込められており、畳には芋茎(ずいき)を使っていたようです。さすがは清正公! ぜひ「熊本城」スープを飲んでみたい。芋茎なんてどこで売っているんでしょう。他にも食べられるお城はないでしょうか?
また話がそれた。諏訪原城と言えば「馬出」のイメージが強いですが、本丸の周囲の「内堀」二の曲輪の周囲の「外堀」も見事です。徳川方に改修を受けているのですが徳川方にもかなり「城造り」に精通している人物がいるようです。
古宮城、岩略寺城、諏訪原城などは、いわば時間稼ぎのために改修を受けているのですが、個人的には古宮城の主郭の中に土塁を設けて郭数を増やしたのは武田か徳川か気になる所です。防御力は増しますが、最後まで死力を尽くして抵抗せよ、というような「圧」を感じます。馬場美濃守ではないような気がしますね。
「もののふ」であれば戦いの中で「死ぬ」覚悟は当然持ち合わせていると思いますが、だからこそ「生」への執着も尚強いものだと思います。他人に「死」を強要されるのなど「まっぴら御免」だと思いますね。

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ぴーかる

小田井城 (2024/07/27 訪問)

【小田井城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>地下鉄舞鶴線庄内緑地駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾ラスト7城目。小田井城の築城は応永年間(1394~1428年)に織田大和守家当主の織田敏定によって築城されたとされます。敏定が清洲城に本拠地を移すと、弟とされる織田常寛が城主となり織田藤左衛門家という庶流になります。織田信長の弾正忠家が台頭してきた時の城主織田信直は織田信秀の娘婿だったので一門として重んじられていました。1584年頃の城主織田忠辰の時小牧長久手の戦いで秀吉に城を追われたようです。
 現在城跡公園にある石碑は移したもので、本丸跡はJRの線路を越えたもう少し西にあるようです。本丸跡も宅地と交差点になっていて遺構はないようです。
 地下鉄の庄内緑地駅から徒歩25分、庄内緑地公園の横を通り、暑い中とぼとぼと歩きたどり着きました。次はJR枇杷島駅まで徒歩22分で合計1時間も歩き(寒かったらマラソンパワーで走っても平気なのだが‥‥)ダウン。予定ラストの隣駅の下津城を残して今回は終了しました。濃尾平野コンプリートまで下津城と竜泉寺城のみとなりました。三重県のちょこ城か愛知県の東の方の城攻めと合わせて制覇したいと思います。今回の旅は地下鉄乗り放題が大いに役に立ちました。気候が良ければ1回の来訪で、もっと沢山回れそうですよ。お勧めです。
 気候変動の影響でいくらちょこ城巡りとはいえ、屋外での行動は過酷すぎるので城巡り8月はお休みしてました。とは言っても9月今週末には予定を入れてますが‥。
 日帰りで行けるちょこ城がだいぶ制覇してしまったので、来年の夏からどこに行こうかと模索中です。山城は攻略に時間がかかるので尽きないのにね。

<満足度>◆◇◇

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鶉野飛行場 (2024/06/17 訪問)

カズサンさんの河口湖自動車博物館·飛行館、城キチしんちゃんさんの浜松広報館·エアパークの投稿に触発され、鶉野飛行場、Soraかさい鶉野ミュージアムを紹介します。
 姫路海軍航空隊·川西航空機鶉野工場跡で、1200mの滑走路がほぼ当時のまま遺っている他、対空機銃座、巨大防空壕も整備、展示されています。ミュージアムには、紫電改と九七式艦上攻撃機の実物大模型や紫電改のコックピットが展示されています。また、開隊から終戦までの3年間が紹介されています。コックピットの計器は目盛や針に蛍光塗料が塗られていて、夜間に敵機に見つからないように、紫外線ライトを当てて見ていたところなども忠実に再現されています。
 川西航空機姫路製作所で作られた部材を鶉野工場に運び、組み立てました。滑走路から各地に戦闘機を飛び立たせ、また、操縦士訓練も行われたと。日本の最後の切り札とされた紫電改を500機余り組み立てたとありました。海から引き揚げた本物の紫電改が展示してある、愛媛県愛南町紫電改展示館のHPを見ると、紫電改の製造機数は、約400機とあったので、全ての紫電改が、鶉野で作られたということですね。
 今回、鶉野飛行場へは3回目の訪問でした。以前は、現ミュージアム建物の南側の防災倉庫が展示館でした。ボランティアの方々が、努力され、いくぶんかの紆余曲折もありつつのSora鶉野ミュージアム開館と推察します。大勢の訪問者が続くことを願います。

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駿府城

感謝状贈呈式が行われました!

7月30日(火曜日)、デジタル技術を用いて駿府城天守を再現する駿府城公園野外展示事業に寄附をいただいた、アイワホールディングス会長の藤井嗣也さん、弁護士の小野森男さん、公認会計士の山田博久さんに感謝状が贈られました。

駿府城天守を再現してほしいという思いや今後の駿府城天守の展望について市長と対談されました。寄附をいただいた3名の皆さまありがとうございました。

現在、静岡市では、高精細なVR映像を用いた「ありし日の駿府城天守」再現や見学施設整備に加え、駿府城という文化遺産を未来に受け継ぐため、家康公が築いた天守台の保存修復などに取り組んでいます。寄附は企業や個人からの寄附も可能です。
寄附の特典や寄附の方法については【寄附の募集】デジタル技術で「ありし日の駿府城天守」を再現しよう(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s013131.html)をご覧ください。

「ありし日の駿府城天守」を再現し、静岡市の歴史の魅力を身近に体感できるツールとして、学びや観光などに活用していきます。皆さまご支援のほどよろしくお願いします。

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にのまる

広い!まだまだ…… (2024/08/06 訪問)

山陽本線Red Wingで福山から6駅30分、三原へと移動しました。やはり広島には赤が似合います。
前回は1時間に1本のこだまに合わせての滞在で、駅直結の天主台に行き、線路下の石垣を少し見て、歴史館でスタンプを押したら時間切れ。再訪の機会を伺っていました。
今回も最初に天主台へ。広々して快適。その上停車中のレールスターは間近に見られていいこと尽くしです。

観光協会に寄ってから船入櫓跡へ向かいました。櫓台跡を見て石垣の外側へまわります。船入りの形状を留める石垣とその礎となる岩礁がここが海城であったことを証ししています。

三原城研究会の方々による案内板や資料ポスト、安全第一の注意書きなどを要所要所で見かけました。なかでも、船入跡から中門跡へ向かう道の途中の『注目!この付近に三原城二之丸の石垣(下部)が埋まっています』の案内には見えない遺構の存在に気づかされ、城ロマンに浸ってしまいました。

なかなか着かない中門跡。通り過ぎてしまったかと不安になりかけていたところに『←230m 船入櫓跡石垣・本丸中門跡→260m』の表示板があり、城域の広さを実感しました。
臨海一番櫓跡と本丸中門跡は駅前のサン・シープラザを囲むようにあり、あたかも現役の守りかの様相を呈していました。

駅に戻って線路下の探検です。只々楽しい!
目の前の摩訶不思議な光景に、自分が見ているのは現在なのか過去なのかわからなくなるほどです。床面にさりげなく嵌め込まれた昔の石もおそらく当時の石垣のラインを示していると思われ、まるで散りばめられたお宝を探しているかのようでした。

天主台北東面にまわり、再び線路下の石垣沿いを通って鍛冶曲輪跡と少し離れたところにある刎跡へ。どの石垣がそれなのかわからずパンフレットを引っ張り出して探すことになりましたが、城絵図にもしっかりと描かれている三角形の石垣を現地で確認することができてよかったです。

2時間ほどかけて見てまわりましたが、城域の隅々までは行ききれませんでした。それでも三原城が駅ナカなのではなくて三原駅が城ナカだということを充分に感じとれました。

新幹線が貫通してしまった残念なお城と言われることもある三原城ですが、鉄道なくしてはお城に行くことができませんしそれ以前に生活そのものが成り立ちません。
今回の見学でのいちばんの気づきは、三原城は世界に誇る日本の鉄道と400年の時を経て見事に融合した奇跡のお城、日本のインフラを縁の下で(物理的に)支えているスゴイお城だということです。


ということを心に刻み、新幹線で広島へ向かいます。
乗車したのは一日一往復のみ走行のハローキティ新幹線\(^o^)/
1号車(500系の鼻先部分)のHELLO! PLAZAで限定グッズをおみやげに購入し、2号車のKAWAII! ROOM(自由席)で広島まで約30分の夢空間を満喫しました💗

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しんちゃん

不破関 関ヶ原町松尾 (2024/04/14 訪問)

岐阜県不破郡関ケ原町は関ヶ原の合戦以前から血生臭い出来事が度々起きています。672年(天武天皇元年)天智天皇の皇子・大友皇子に対し叔父の大海人皇子が挙兵し、大友皇子を自害に追い込み天武天皇として即位しました。大友皇子は明治維新後に弘文天皇として認められているので、日本の歴史上唯一、天皇が自害にまで追い込まれた戦とされています。
大友皇子の自害した「自害峰の三本杉」のある丘陵地は東海道新幹線や名神高速道路にブチ抜かれています。関ヶ原の陣跡があるとされてもいますが、なかなか容赦ないです。
不破関は壬申の乱の後に、東海道の「鈴鹿関」、北陸道の「愛発関」と共に整備され、古代三関の一つとされています。不破関の敷地の一角には不破関資料館が開設されており、近くの展望所からは中山道や「壬申の乱」ゆかりの地を眺めることができます。

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しんちゃん

島津義弘陣 関ヶ原町関ヶ原 (2024/03/30 訪問)

関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡は小池神明神社周辺とされ、石碑と案内板が設置されています。案内板には北国街道を押えるため、ここ小池村に陣を構えたと記載が有ります。
陣跡には「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑が有ります。なんでも鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原踏破隊は昭和35年から夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津隊の退路を踏破しているそうです。一部電車なども利用しているそうですが‥さすがに今ではもうやっていないだろうと思いましたが令和元年まで60回も続いていたようです。令和2年にはコロナで中止になったそうですが、おそらく今頃はもう再開しているのかもしれません。
なんとも「ディープ」な郷土の英雄への愛情ですね。一生の思い出になると思います。

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しんちゃん

小谷城 (2014/05/17 訪問)

「赤尾屋敷」天正元年(1573)9月1日、最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ヶ丸)に帰ることが出来ずやむなく重臣・赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。(案内板より)赤尾屋敷は本丸の東側を取り巻く腰曲輪の下にあり、三段構造を取っているようです。重臣の屋敷とはいえ本丸を守護する重要な曲輪の一つです。
「大広間」本丸の前に広がる、広大な曲輪で別名「千畳敷」と呼ばれるようです。長さ約85m、幅約35mあり奥には本丸の石垣が往時の面影をある程度、残しています。
掲載した写真には別の時期に撮影したものも幾つか含まれています。

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朝田 辰兵衛

バーターです…💐 (2024/08/11 訪問)

苅野丸山城からの転戦です。塚原駅から向かい,岩原駅に戻ってきました。塚原駅と岩原駅は200mぐらいしか離れてなく,お互いに見通せます。あまり得した気分にはなれませんので,ご承知おきください。
民家奥の西物見曲輪から八幡神社に向かう道路は空堀跡だったそうです。すっかり雰囲気は消えておりますが…。
八幡神社境内では,昼から酒盛りをしていました。地域の恒例行事なのかな…?
サッサと撮るだけ撮って退散しました。からまれても面倒なので…<笑>。

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HKISD

城井谷城散策 (2024/09/08 訪問)

岩の間を通って落城するのめちゃくちゃ大変でした。

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HKISD

御所ヶ谷神籠石散策 (2024/09/08 訪問)

中門、西門の石垣が素晴らしすぎて、昔の人の偉大さに感心させられました。

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HKISD

馬ヶ岳城散策 (2024/09/08 訪問)

展望台には官兵衛の岩がありその後二ノ丸迄、結構な坂で途中、休憩しました。そして本丸へ。
素晴らしい景色をありがとうございます。
又、官兵衛の移住した所なのでジーンときました。

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T-Shionoya

川越城訪問 (2006/05/05 訪問)

過去の城郭巡りの振り返り第24弾は、埼玉県川越市の川越城。

入間川の南、武蔵野台地の北端の縁に築かれた城。

1457年に古河公方に対抗するため太田道真・道灌父子が築いたと伝わる、その主君扇谷上杉氏の居城。
1537年、北条氏綱により攻め落とされ、1576年には北条家臣の大道寺政繁が改修。
家康の関東移封後は酒井重忠などの酒井氏、近代城郭に整備した松平信綱からの大河内松平氏3代、秋元氏4代、結城松平氏7代などが城主となり幕末を迎えました。

現在は本丸付近が初雁公園となり、土塁と希少な本丸御殿の一部が残る城。
しかし城域の多くは学校や博物館、住宅地で、要所に標柱が立てられているものの城感は薄い状態。

最初の訪問時は、秋元氏の時代に先祖がこの周辺にいたのかと考えた以外、あまり記憶になし。
ところが改めて縄張図を見ると魅力的な城郭で、大手門と中曲輪の南門に丸馬出を備え、他の虎口には喰違虎口を採用。最終関門の本丸北門は甘い平虎口だが、東側にその目隠しなのか横矢を掛ける目的なのか本丸からの突出部を設置していた模様。
そんな構造を少しでも感じることができないかと2年前に再訪問すると、初雁公園は城址公園としての整備が進行中とのこと。
要塞らしい虎口の復元を期待したい川越城です。

※写真1~6,9,10は2022年9月の撮影

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まつたく

岡城址 (2024/09/08 訪問)

入場料は300円。入口のところにしか自販機がないので、全て歩く(1時間以上かかります)つもりなら、飲み物をしっかりと持って行ってください。夏場に行くのはオススメしません。
滝廉太郎像が二の丸にあります。

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しんちゃん

「馬出」はカレー味 ♪ (2024/09/08 訪問)

普段は「城びと」ある時は「キン肉マンびと」、そして今回突然に「カレーびと」になりました。
マジメに諏訪原城の投稿をしている時に「馬出」の形状を見て、突然「カレーの神」の啓示を受け、今回の投稿と相成りました次第です。そもそも諏訪原城の馬出は空堀なので、カレーは関係ないのですが、それだとビジュアル的に寂しいので、なにとぞご容赦願います。
諏訪原城には広大な「外堀」と「内堀」があり、他にも複数の「馬出」があります。特に規模の大きいのは「二の曲輪大手馬出」と「二の曲輪東内馬出」で前者は訪問してすぐに遭遇し絶大なインパクトを残します。
後者は二の曲輪の北側に配され、土橋でニの曲輪と繋がっていて、全容が把握しやすく諏訪原城のシンボルとも言える存在です。他にも「二の曲輪東内馬出」と「二の曲輪南馬出」も訪問しており、後者は規模こそ大きくはないものの、きれいな扇形の堀を残しています。
「カレーと城」繋がりですと他にも「坂本城:華麗なる水城」の坂本城カレー、「長浜城:カレーは飲み物ですか?」の滋賀‥琵琶湖カレーが好評発売中です(売ってない!)。

最期にあえて一言、「馬出は食べ物です(ポカッ!)」

※1 訪問日は脳内で馬出カレーを訪問した日付になっております。諏訪原城訪問日ではありません。
※2 「馬出カレー」には生身の武田兵は付属しておりません。

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