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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:三瀬砦 (2025/06/04 訪問)

三瀬谷駅から徒歩20分ちょっとで、三瀬砦案内板/進入口(34.401268、136.426326)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に三瀬左京によって築かれ、元和年間(1615年~1624年)に廃城になったとと云われています。
三瀬左京は北畠具教の家臣ですが、1576年(天正4年)三瀬館の北畠具教を殺害した時の一人長野左京進と同一人物ではないかとの説もあるようです。
近くの慶雲寺は三瀬氏の菩提寺で、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将・三瀬左京祐の木造が安置されているそうです。

砦の周囲は高土塁によって囲まれ、内部には古井戸もあります。
現在は八幡社が祀られています。東側虎口に城址碑と案内板があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三瀬館へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:八柱神社(津村バス停横) (2025/06/04 訪問)

津村バス停で乗換時間が少しあったので、バス停横の八柱神社を見学しました。
一の鳥居と道にはみ出る御神木の楠。この木の伐採を避けるため、バイパスができたといわれています。大きい御神木の楠(写真撮り忘れました)。
御本殿横に建つ祠ですが、噂でこの祠の写真を撮ると鳥居が歪んで見えると聞き、試しに撮影して見ました。確かに何となく微妙に歪んで見える?かな。

伊勢市駅で電車の待ち時間に伊勢うどんを食しました。(自分には出汁がちょっと甘すぎます)
攻城時間は10分くらいでした。次の観光先=三瀬砦を目指す為、津村バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、三瀬谷駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:一之瀬城(西の城) (2025/06/04 訪問)

一之瀬城には、一之瀬城(東の城)と一之瀬城(西の城)があるので別々に投稿します。
一之瀬城(東の城)から徒歩5分くらいで、西の城登り口(34.351117、136.586461)に着きました。

一之瀬城(西の城)は青木山城とも呼ばれています。一之瀬城(東の城)の支城と考えられています。
登り口から入ると向井将監屋敷(脇出殿屋敷)があり、いくつかの堀切を挟んで、主郭に辿り着きます。
主郭西側に四重堀切があり、そこから一旦下り、さらに登った先に二条の堀切があります。(標識は空堀となっています)
小さいながら堀切の連続は圧巻でした。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三瀬砦を目指す為、脇出バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、三瀬谷駅に向かいました。
当初の予定では、脇出バス停からバスで津村バス停に向かい、そこでバスを乗り継ぎ五ヶ所バス停に到着。そこから五ヶ所城を攻城する予定でした。
しかし、津村バス停で痛恨のミス。五ヶ所バス停に向かう方向と逆の場所に立っていた為、目の前でバスが通り過ぎてしまいました。
ショックのあまり暫し茫然。しかたなく、予定を変更し、バスで伊勢市駅に向かい、そこから電車で三瀬谷駅に向かうことにしました。
五ヶ所城攻城のリベンジはちょっと難しいかもです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:一之瀬城(東の城) (2025/06/04 訪問)

一之瀬城には、一之瀬城(東の城)と一之瀬城(西の城)があるので別々に投稿します。
一之瀬公民館バス停から徒歩2~3分くらいで、一之瀬神社参道入口(34.351135、136.589876)に着きました。

南北朝期、愛洲氏の城で、1337年(延元2年)愛洲太郎左衛門は後醍醐天皇の皇子、宗良親王をお迎えし北朝と戦ったとされ、城は愛洲氏の支城として続きます。
愛州氏は宝徳年間(1449年~1552年)頃には五ヶ所城へ居城を移しています。
1575年(天正3年)北畠信雄が田丸城へ入城するにともない、田丸具忠は田丸城を出て一時、一ノ瀬城に入ったとされます。

一之瀬神社参道入口に駐車場とトイレがあります。城内を散策するルートが設定されており見学し易く整備されています。
城跡は一ノ瀬神社となっていて、本殿背後の高台が主郭のようです。主郭を挟んで本殿反対側の北側下に堀と土塁があります。
登り口に地元作成の資料があり、堀切や土塁を見学しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(西の城)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:おかげ横丁 (2025/06/04 訪問)

「おかげ横丁」を覗いてみましたが、朝早い為、多くのお店は開いていません。
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(東の城)を目指す為、神宮会館前バス停からバスを乗り継ぎ、一之瀬公民館バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:皇大神宮(伊勢神宮 内宮) (2025/06/04 訪問)

ホテルから15分くらい歩いてJR伊勢市駅に着き、コインロッカーに荷物を預けました。
その後、伊勢市駅前からバスに乗り、内宮前バス停に着きました。ちなみに、本日は三重バスの利用が多いので、バス車内で「みちくさきっぷワイド」を購入しました。
内宮前バス停から徒歩2~3分で、宇治橋鳥居前(34.458969、136.722907)に着きました。

「伊勢神宮を参拝するなら外宮から」というのが昔からの習わしです。
内宮だけ、または外宮の一方だけの参拝は「片参り」と言われて、縁起が良くないという話もあります。
本日の朝早く、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)には参拝済なので、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)参拝で両宮参拝となります。
コースは内宮60分コース(宇治橋~参集殿:9ヶ所)で巡りました。
重々しく力強い、新鮮な空気が漂うパワースポットでした。
観光時間は60分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(東の城)を目指す前に、「おかげ横丁」を覗いてみました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:豊受大神宮(伊勢神宮 外宮) (2025/06/04 訪問)

前日の風邪も早めに飲んだ薬(攻城遠征時はいつも常備しています)とたっぷりとった睡眠で、なんとか持ち直しました。
宿泊先のホテルの朝食前に、朝5時からあいているようなので、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)を観光しました。
ホテルから徒歩15分くらいで、豊受大神宮入口(34.489170、136.704379)に着きました。

「伊勢神宮を参拝するなら外宮から」というのが昔からの習わしです。
内宮だけ、または外宮の一方だけの参拝は「片参り」と言われて、縁起が良くないという話もあります。
さすがに罰はあたらないと思いますが、せっかくお参りに行ったのに、縁を結べないのは勿体ないので、まずは外宮を参拝しました。
コースは外宮60分コース(火除橋~度会国御神社・大津神社:18ヶ所)で巡りました。

火除橋から先は「左側通行」となります。
なぜ左側通行なのかというと、伊勢神宮の公式サイトでは参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと考えられています。
重々しく力強い、新鮮な空気が漂うパワースポットでした。
観光時間は65分くらいでした。次の攻城先=皇大神宮(伊勢神宮 内宮)を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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天守無しがアツい

民家の裏 (2025/06/29 訪問)

大雄山線岩原駅から徒歩10分
御城印は大雄山駅の改札口にて1枚300円で発売

民家の駐車スペースに矢印の標識
それに従って歩き…草を突っ切って進むと城跡想定図並びに墓石に辿り着ける

けれどそのショートカットを知らない私は…わざわざ周囲をぐるっと反時計回りに歩く形で…遠回りしてしまった🚶

城跡想定図を見て…そこから自分なりに学び…墓石に手を合わせて合掌🙏しかし虫が払っても払っても飛び回ってくるので…あまり長居はできなかった😅☀️

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しんちゃん

星に願いを (2025/06/29 訪問)

今日は七夕みたいです。星に願いを奏でましょう。明日はきっといいことがありますよ。

富長城は日本海に面した微高の丘陵地の上に築かれていました。元弘年間に名和氏に協力した荒松氏によって築かれたと伝わり、戦国時代には西伯の土豪・福頼佐右衛門尉が在城したと伝わっています。
富長神社一帯が城址とされ、社殿の背後に土塁を備え、北西は櫓台の跡とされています。東側には堀切があり橋がかかっています。主郭の西側にも堀があったと思うのですが、今は埋まっているようです。

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じゅんじん

高崎が夜! (2025/02/11 訪問)

ここは2度目も夜でした。
象がいます。

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じゅんじん

川沿い (2025/02/11 訪問)

住宅地の片隅の公園に城址碑がありました。

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じゅんじん

山名発祥の地? (2025/02/11 訪問)

本丸にはご子孫筆の城址碑がありました。近くの山名八幡宮には山名氏の碑があります。

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にのまる

壮観! (2025/04/24 訪問)

おもろまち駅前からバス2本で行きました。1本目のバスが渋滞で30分近く遅れ、コザでの乗り継ぎがダメかと思いましたが、2本目も遅れてきたのでセーフでした。
5日間の滞在中、モノレールよりバス移動の方が多く、あたふたする場面も何度かありましたがそれも良い経験でした。

勝連城跡前でバスを降りてはじめにあまわりパークへ。新しくて気持ちいい!まだ整備中でさらに大きな施設になるようです。
続100名城93個目のスタンプを押していざ登城。

なのですが、見上げる石垣の迫力にドキドキが止まりません。。。
早く行きたい気持ちとずっとここで見上げていたい気持ちがせめぎ合い、落ち着け自分……という感じでした。

発掘された遺構により証しされる史実と語り継がれてきた伝承からイメージされるのはこれまでに体験したことのない世界観。まだ見ぬ世界がこの世には溢れていて、時間をかけてそれらひとつひとつと出会っていく楽しさをしみじみと思いました。

それぞれの郭の特徴や役割、貴重な水源である「カー」や祈りの場などからグスクのイメージも大分掴めてきました。
そして素晴らしい景観も存分に楽しみました。行けてよかったです。


朝田さんへ。
勝山城、やっぱり怖いです😱
すごいーーー。
ちなみにその日、私は今年2度目の新潟にいました。
弥彦線と越後線完乗して弥彦山山頂の奥宮まで行って、夕ご飯はCoCoLo新潟の燕三条ラーメン潤さんで中華そばをいただきました。おいしかったです!

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しんちゃん

弁慶坂から本丸へ (2025/01/03 訪問)

千石城は県道242号線の東の丘陵上に築かれていて、三の丸が駐車場になっています。三の丸から南に二の丸、本丸と続き周囲に曲輪などが残っています。今回は南の県道沿いから「弁慶坂」を登って行って本丸からアクセスしています。
弁慶坂を登って行くと周辺に曲輪などが見られるため、駐車場から訪問するより多めに城址の雰囲気を楽しむことができます。

遠藤盛遠(文覚上人)もしくは、その後裔によって築かれたとされ、天正16年(1588)には遠藤高康が千石館の主であったとされています。
同年の中新田合戦では伊達の軍勢が千石館を基地として参集し、天正18年の大崎一揆の平定に際して、伊達政宗が入城しており、遠藤氏は伊達氏に従い大崎氏と対抗していたと見られ、千石館はその拠点であったようです。
遠藤氏が領地替えになった後も、江戸期を通して使用されますが、館主である茂庭良元が慶安4年(1651)に上野館に隠居し、子の定元も上野館に移り、千石館には三の丸に家臣が一名置かれるのみとなりました。

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朝田 辰兵衛

松平元康の兵糧入れ… (2025/03/22 訪問)

桶狭間古戦場に来たらここは外せないということで,やって来ました。それまで比較的臆病だった松平元康が,大高城の兵糧入れをキメたことで,精神的に自立していくターニングポイントとなった場所だと思っております。

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しんちゃん

港を押える城だったのか? (2025/01/02 訪問)

遠藤館は太平洋フェリー仙台港乗り場の北側に築かれていたようです。情報の少ない城で、例によって城びとの位置情報が合っているのか不安になりますが、ここは城びと編集部さんを信じましょう。信じてますよ、本当に・・・
位置的に海運の押えとなる重要な城だったと思いますが、現状何もないです。激ショボです。
逆に投稿をすること自体、恥ずかしくなってくるぐらいです。でもしますよ、チョコ城にも五分の魂です。
それにしても暑いですな。

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しんちゃん

激ショボ (2025/01/02 訪問)

今泉城は南北朝時代に築かれたとされる平城です。戦国時代にも使用され、伊達政宗の家臣・須田玄蕃が入ったと見られます。
八坂神社の周辺が城址とされますが、宅地化が進み遺構らしきものは見当たりません。
それにしても、暑いですな。

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シャンシャン

江戸情緒が残る街 (2025/07/04 訪問)

広島県福山市の鞆の浦へ。
鞆城があった場所は、現在歴史民俗資料館が建っており、石垣が一部復元されている。
城跡自体はそんなに大したことないけど、鞆の街は江戸時代からの建物や細い路地など古い町並みが残っており、歩いていて楽しい。
福山城の長屋門が残っていたり、重要文化財の安国寺、龍馬の隠れ部屋など歴史好きには見どころが多い。
また、瀬戸内海の景色を一望できるスポットもあり心が洗われる。歩ける距離に多くの見どころがあって、好きな街の一つになった(^^)

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昌官忠

(東海&関西)遠征20日目:虎城山城 (2025/06/03 訪問)

古座駅に着きましたが、朝からの強雨と汗で体温が下がり、風邪をひいたようです。
持参している薬を飲み、しばらくの間、古座駅で様子を見ました。薬を飲んだとはいえ速攻で効くわけもありません。
今回の遠征はあと5日間ある為、大事をとって古座駅で撤退することにしました。
当初の計画では、古座駅➡稲荷山城(城びと未登録 和歌山県串本町)➡虎城山城➡小山城(城びと未登録 和歌山県串本町)➡小山屋敷(城びと未登録 和歌山県那串本町)を巡る予定でした。

1581年(天正9年)高川原貞盛によって築かれたと云われています。
青原寺は貞盛の子家盛が慶長年間(1596-1615)に開基した高川原氏の菩提寺です。
高川原氏は伊勢国司北畠具教に仕え、その後織田信長の家臣滝川一益に従いましたが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで家盛が西軍に属したため、改易となり城も廃城となりました。
しかし、家盛の子孫が城跡に代々住居を構えていたそうです。

方向音痴の自分が、虎城山城方面の写真をとりましたが、後で調べたらもっと南西方向でした。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストになりました。
本日の宿泊先に行く為、新宮駅に戻り荷物をコインロッカーより取り出し後、新宮駅から電車で伊勢市駅に向かいました。
歩行歩数=12242歩、歩行距離=8.6Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征20日目:下里城 (2025/06/03 訪問)

下里駅から徒歩10分くらいで、山に向かう道付近(33.585619、135.918575)に着きました。

1462年(寛正3年)土井佐渡守によって築かれたと云われています。
その後も下里城には土井氏が居住していましたが、1572年(天正9年)新宮城の堀内氏善は、「土井の城」を攻撃して蹴散らしたそうです。
この「土井の城」が下里城であった可能性が高いと考えられています。

土井氏の菩提寺である竜蔵寺が南側にあり、下里駅に戻る途中で寄ってみました。
墓地には五輪の塔が4基祀られていましたが、土井氏の墓なのかは不明です。
眺望の写真を撮りましたが、雨の為、レンズが曇ってしまい投稿できません。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=虎城山城を目指す為、下里駅から電車で古座駅に向かいました。

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