宮本武蔵の続き(15)です。
姫路城西ノ丸に築かれた化粧櫓と百間廊下は、徳川家康からもらった化粧料(結納金)で、「本多忠刻(ただとき)」と「千姫」のために築かれたものである事は、皆さん御存じと思います。池田輝政亡き後、本多家が桑名から姫路に入りこれらが完成する1619年頃、武蔵は忠刻の父「本多忠政」から姫路城へ招かれます。そしてしばらく滞在し、嫡男の忠刻や家臣に剣術や兵法を教えてほしいと頼まれたようです。西ノ丸の庭園も、もしかして武蔵の意見が取り入れられた庭園なのかもしれませんね。ちょうど忠刻と千姫の間には勝姫や幸千代が生まれ、二人が幸せの絶頂であった頃ではないでしょうか。私はもしや、忠刻・千姫・武蔵の3人でこの庭園から天守を眺め、諸国でのいろいろなよもや話に、花が咲いていたのではないかなどと想像してしまいました。
忠政の娘(忠刻の妹)亀姫は、この時「船上城」に入った小笠原忠真に嫁いでおり、忠真が「明石城」を新たに築城することになったため、忠真は築城において義父の忠政に何かと相談していたようで、両家は良好な関係にあったようです。そして武蔵は、この築城を手伝う事になり、明石へ客分として入ります。
姫路を去る時、武蔵は最初の養子である三木之助を、本多忠刻の下で仕官させてほしいと頼みます。忠刻は受け入れ、小姓頭にしたそうです。しかしその8年後の1626年、忠刻は何と31才の若さで病死してしまいました。千姫はさぞかし嘆いた事でしょう。
この時、江戸屋敷にいた宮本三木之助は、知らせを受け姫路へ向かいますが、その途中で明石の武蔵の屋敷に立ち寄り、一晩酒を酌み交わしたそうです。何も語らず二人はほとんど無言だったとか。いったいどんな気持ちで酒を酌み交わしていたのでしょうか? 武蔵は三木之助の決意に気がついていたのではないでしょうか? そしてその翌日、姫路へ着いた三木之介は、忠刻を追って殉職(墓前で切腹)したそうです。
次は武蔵が町割りや作庭に手腕を発揮した(明石城)を訪れます。
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