田原城は文明12年ごろに戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築きました。戸田氏飛躍の城で、慶長6年から戸田尊次が1万石で入り、寛文4年には三宅康勝が1万2千石で入り三宅氏の居城として明治まで続いています。
この城も1万石の城ですが、近世城郭としての特徴をしっかり備えています。1万石の豆大名でも城を持てるというのは海防上の理由かな。
田原半島の尾根上には烽火台がずらりと並び、のろしリレーで外国船の襲来を通達できるようになっています。
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2025/09/08 19:30
1万石の近世城郭 (2025/09/07 訪問)
田原城は文明12年ごろに戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築きました。戸田氏飛躍の城で、慶長6年から戸田尊次が1万石で入り、寛文4年には三宅康勝が1万2千石で入り三宅氏の居城として明治まで続いています。
この城も1万石の城ですが、近世城郭としての特徴をしっかり備えています。1万石の豆大名でも城を持てるというのは海防上の理由かな。
田原半島の尾根上には烽火台がずらりと並び、のろしリレーで外国船の襲来を通達できるようになっています。
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2025/09/08 19:18
2025/09/08 10:43
【宮本武蔵】(6)竹山城(武蔵が少年期を過ごした地) (2025/06/04 訪問)
宮本武蔵の続き(6)です。
たけぞう(武蔵)が少年期を過ごした竹山城(岡山県美作市)を訪れました。ここは生誕の地の候補(美作説)にもなっていますが、私は高砂説で話を続けさせていただきます。高砂で生まれ3才でこの地へ養子に出されたたけぞう(武蔵)は、養父となった竹山城家老で新免流の剣者「平田無二(新免無二斎)」の元で剣術の稽古に励みます。
岡山から智頭急行を乗継ぎ「宮本武蔵駅」で降りました。何だかすごい駅名です😱!(写真①)。降りた瞬間に身震いがしてしまいました(笑)。駅から北を眺めると標高430mの竹山が見えました(写真②)。あの山頂に竹山城があったようです。城主は赤松氏の流れをくむ新免氏とされ、祖父の平田将監と父の無二は宇喜多秀家から3,600石を与えられた当時の城主「新免貞重」に仕えていました。平田家は代々新免家剣術指南役であり、将軍足利義昭にも剣の手ほどきをした事もある名門ので、新免の名を名乗る事が平田家には許されていたようです。竹山城にも登ってみたかったのですが時間がなく、ぴーかるさんの投稿を拝見すると、山頂には何もないようなので今回登城はパスし、城下の武蔵ゆかりの地を巡る事にしました(写真⑩)。
駅から南へ20分程歩いたところに、美作説の生家とされる家がありました(写真④⑤)。そこには二刀流で構える若き武蔵の銅像もありました(写真⑥)。おそらくここで3才から13才までの10年間を過ごしたと思われます。そしてこの銅像の場所には今でも道場がありました(写真⑦)。ここで父の無二から想像を絶する過酷な猛稽古を受けていたようです。また家の横には讃甘神社があり(写真⑧⑨)、幼いたけぞう(武蔵)は、ここで又八・お通と知り合い仲良く遊んでいたようです(写真③)。
ある日、讃甘神社のお祭りで、宮司の太鼓のバチさばきを見たたけぞう(武蔵)は、その時二刀流を思いつきます😯。元々新免家は十手術の使い手、左手に持つ十手を剣に置き換えた発想だったのかもしれません。
次は、たけぞう(武蔵)初決闘の地、平福(利神城)を訪れます。
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2025/09/08 07:04
沙弥城山城 香川県坂出市 (2025/07/21 訪問)
城びと未登録城です。
瀬戸大橋記念公園の駐車場を利用しました。
沙弥島は現在は陸続きになっていますが元は島でした。
海水浴場からナカンダ浜方面に進み、途中で左折し登ると城址です。
主郭と帯曲輪から成っていて石垣が残っています。
城としては小規模なものだったようです。
せっかくなのでさらに尾根道を進んでみました。
先端の長崎鼻からの瀬戸内海の眺望は見どころです。
オソゴエ浜には柿本人麻呂の歌碑があり、ナカンダ浜と合わせ瀬戸大橋を望む絶景が楽しめます。
【見どころ】
・主郭部の石垣
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2025/09/07 18:19
ダブル忠次親父 (2025/08/09 訪問)
ちょっと西尾城に行ってきました。久しぶりに来たら屏風折れ土塁がツートンになってる。とがってる所だけ草を刈ってあるのかな?
冬場になると同じ色になるのだろうか? 微妙だ・・
ところで本多康俊って誰だっけ? どうやら酒井忠次の次男らしい。母は松平広忠(家康の父)の妹なので、何と徳川家康の従兄弟になるらしい。なにげに広忠も存在感薄いよな。
康俊は天正8年(1580)に本多忠次の養子となり、関ヶ原の合戦で武功を挙げ三河西尾に2万石の所領を与えられたそうな。出自と功績の割に扱いが悪いような気がする・・気のせいだろうか?
大坂夏の陣では首級を105取って近江膳所に3万石で移封になったそうな。家康、どケチじゃん。
しかし実の父と義理の父が同じ名前とは・・どういういきさつなのか? ちょっと忠次お父さん?
酒井忠次・本多忠次「おうよ?」 やっぱり同時に返事が来た
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2025/09/07 18:18
鬼の架け橋…👹 (2025/06/30 訪問)
鬼の架け橋に興味が湧いたので,猛暑の中でしたが行っちゃいました。JR柏原駅から登城口まで,徒歩約75分。登城口から本丸まで,徒歩約60分。2Lの水分は,下山完了とともになくなりました。さらに,JR柏原駅に向かう途中のコンビニで1L購入。
午前中勝負で向かったのですが,福知山線の乗換ロスで昼ちょい前からの登城。福知山線はこんなに不便だったかな…?
この日は数10㎞先の豊岡市が全国最高気温を記録しました…。
この季節の選択は間違いでした。本丸周辺の石垣も草木の繁茂でイイ画像が撮れず。さらに,黒井城も周辺草木の繁茂に隠れてました…<泣>。
なお,登城道の中腹にある園林寺跡は出丸説があるようです。
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2025/09/07 17:33
2025/09/07 17:30
2025/09/07 17:28
2025/09/07 17:26
2025/09/07 17:23
2025/09/07 16:02
逆に思い出に残るかも? (2025/08/11 訪問)
道路の脇っちょ、民家の入口に「中居城」の標柱が立て掛けてありました。
横には説明板がありますが、色褪せていて説明文や縄張り図は消滅してます。
車を路駐して写真を写し、『行った』をポチッ。退陣。
他の方の投稿や、城びと以外のサイトを覗くと、「中居城」の標柱が刺さっていたり、倒れていたり。
と、1時間弱ほど、「中居城」の標柱がどこに刺さっていたかと、ネットの中をパトロールしてしまいました。
そろそろ、お役所の方々、直してくれないかな?
遺構は見学しなかったけど、標柱が気になって仕方ない「中居城」攻めでした。
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2025/09/07 15:52
【赤色立体地図かるた】 (2025/09/06 訪問)
先駆けの 近世城郭 安土城(さきがけの きんせじょうかく あづちじょう)
織田信長公の権威を示す天守は史上初めての五重六階・地下一階、不等辺七角形の絢爛豪華な天主で、安土山山頂に築かれました。望楼型の天守で金・黒・朱・群青で彩られた高層建築は人々を驚かせたことでしょう。
ただ、現在天主とされる天守閣の姿は天守台の構造と『信長公記』の内容から詳細に検討された姿で、本当の姿は分っていません。
安土城考古博物館のシアターで上映された映像では、4種類の姿が映し出されており、現在は2つくらいに絞られているそうです。
大手道 他に類無き 安土城(おおてみち ほかにるいなき あづちじょう)
安土城で現在、大手道と呼ばれている登城路は、幅約9mで両側に石敷きの側溝を備え、南麓から直線的に180m延びておりおり、さらに道の両側に大規模な建物が整然と並んでいたとされています。
ですが、この「伝大手道」と呼ばれる登城路は『信長公記』によると大手道とは記されておらず、通常百々橋口(旧摠見寺)から家臣等は主郭部へ至るルートが使われていたそうです。(こちらが大手道?)安土城考古博物館のシアターで上映されている映像では、帝をお迎えしたときに使用する道と紹介されておりました。また、安土城考古博物館の学芸員さんの説明では、大手道、伝羽柴秀吉公、伝前田利家公、伝徳川家康公など家臣団が居住していたとされるの屋敷跡の名称は、江戸時代に入ってからのもので当時の実態を表していないとの事です。そうですよね、いくら畿内を掌握していたとしても、敵に攻められやすい幅広の直線通路は、城造りの常識からするとかけ離れていますよね。
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2025/09/07 15:31
【赤色立体地図かるた】
「砂丘には 行っていないけど 鳥取城」
(さきゅうには いっていないけど とっとりじょう)
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2025/09/07 15:24
【赤色立体地図かるた】
「舟入、炭納屋 賑わい浮かぶ 新宮城」
(ふないりすみなや にぎわいうかぶ しんぐうじょう)
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2025/09/07 12:34
2025/09/07 12:25
苗木城 (2019/03/09 訪問)
苗木城には時々訪問してます。今でこそ人気の城址ですが、このころは知名度も低く閑散としています。詫び寂び感があって良いですな。
資料館には風吹門の一部が再現されています。ちょうど風吹門あとの写真と重ね合わせてみると往時の姿が蘇って来ますね。
風吹門は城下から三の丸の出入り口にあたり、大手門として機能していました。二階は「飼葉蔵」として使われていたようです。馬のエサをしまっておいたということでしょうか?
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2025/09/07 12:04
中山道・西行伝説 (2019/03/09 訪問)
中山道には西行の伝説が残っています。大井宿から御嵩宿までの間は30kmほどありますが、石畳に入ってほどなく西行にゆかりのある場所がありました。西行は平安時代の歌人で、元は佐藤義清という名で、院を警護する北面の武士を務め妻子も有りましたが、僧となり諸国を行脚し数々の歌を詠みました。
西行の最期については、複数の伝承地があるようですが、中山道にも西行の墓と伝えられる五輪塔があります。西行は文治2年(1186)に陸奥で藤原秀衡と面会し、その後鎌倉で源頼朝と面会し、和歌や武術について話をしたようです。
弓馬について西行は、出家前は藤原秀郷以来の家伝もあったが、すべて忘れてしまったと答えたようです。和歌については花や月を見て感動すると自然に三十一文字が浮かんでくると答えています。持ってる人という奴ですね。
その際に頼朝から銀の猫を拝領したそうですが、御所の前で遊ぶ子供にあげてしまったそうです。身分や家族すら捨てて家をでた西行に宝物は意味を持たないということですか。不思議な人ですね。
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2025/09/07 11:24
尾高城 米子市 (2025/06/29 訪問)
尾高城の写真が残っていたので無印で投稿。勤労総合福祉センター建設の予定地だったのだけど、幾度かの調査により、さまざまな出土品が出てきたり本丸と二の丸に石垣が見つかったりして国の史跡になりました。
全ての城跡を保存していくことは不可能ですが、歴史的に貴重な遺構が調査・保存されていく過程に立ち会えたことは僥倖だったと思います。これでしばらく立入はできなくなり、遺構も埋め戻されていくのかな??
アディオス グラッチェ 尾高城
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2025/09/07 10:40
景福寺 後藤又兵衛墓所 鳥取市新品治町 (2025/06/28 訪問)
後藤又兵衛基次は豊臣方の武将として大阪夏の陣・小松山の合戦にて討死しました。基次夫人は遺髪を持って、二歳の子為勝を連れ岡山の実家に戻りました。寛永9年に岡山城主池田光仲公が因伯二州(鳥取県)に転封となり、城代家老・荒尾氏菩提寺の景福寺も鳥取に移転しました。後藤一族も鳥取に移り、後藤家は当寺を菩提所とし、又兵衛の遺髪が納められ墓が立てられました。
他にも後藤家9代までの墓があるようです。
境内には挽臼のエピソードで知られる剣豪・羽生郷右衛門の墓や島原の乱で討死した佐分利九之丞の墓が有ります。島原の乱の際には鳥取藩から88名が出陣し、九之丞は寛永15年2月27日に戦死しました。享年61歳だったとのこと。古戦場原城跡の本丸付近にも九之丞の墓標があるようです。
この投稿での基次夫人は後妻にあたり三浦四兵衛の娘にあたるようです。基次には他にも多くの子がいましたが基則(次男?)は父に連座する形で切腹を命じられ、五男の基芳は加藤嘉明の庇護下に置かれ、のちに近衛信尋の侍医になったようです。
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