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しんちゃん

城主・石上兎角之助は二俣城の戦いで討死 (2024/06/29 訪問)

石上城は登福寺の東の尾根上に築かれています。最初は道が分からず難儀しましたが、登福寺の前の集会場の案内板のあるあたりから、道が続いています。澤が登福寺の背後の丘陵との間を流れ、天然の堀の役割をしています。
案内板に従って進んでいくと大頭龍神社のある広い扁平地に至り、城址はその背後になります。尾根を進んでいくと堀切があり、その先が二の曲輪(案内板)、そして虎口を経て本曲輪に至ります。本曲輪の周囲には土塁が残りますが、広さはそれほどでもありません。本曲輪の北側には堀切や竪堀があり、尾根はその先に続いているようです。
南北朝の時代より、存在していたとされ、徳山城の支城として南朝方に属していたようです。戦国時代には石上氏が城主を務め、今川氏から武田氏に従い、天正3年(1575)に城主・石上兎角之助は二俣城の守衛の任に付いている時に二俣城の戦いで討死し、石上城は廃城になったとされています。城址自体はそれほど広くは有りませんが、大頭龍神社や登福寺、その背後の丘陵までを守りに活用できれば、なかなかの規模になると思います。
この日は石上城を攻略した後は、奥池ヶ谷城を攻めました。二城とも静岡の城の中では外れの位置にあり、この日は大雨も来ていたことも有り移動には難儀しました。狭い県道(林道に近い)が通行止めになっていて迂回して大幅に時間をロスしています。

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ぎりょう

「北楯大堰」開削功労者の居城 (2024/09/01 訪問)

6月に庄内町清川に行った際、世界かんがい施設遺産に登録されている「北楯大堰」を知りました。最上義光の臣狩川城主北楯大学助利長が開削した農業用水で、工事は慶長17年(1612)に着工され、総延長10kmもの堰は現在も米どころ庄内平野の水田を潤しています。
戦いに明け暮れた戦国時代の終わりにこのような大規模な工事をと意外な気がしました。しかし戦国大名は築城や、城下町の設計、道路の整備、鉱山開発や治水などの土木工事を領国経営のために行っていたのだと思います。
所用で庄内を訪れることとなり、気になっていた狩川城を攻城しました。城跡は庄内町狩川にあり、現在は桜の名所楯山公園として住民に親しまれ、この日も本丸跡ではグランドゴルフ大会が開催されていました。
比高40mほどの丘陵北端に位置し、西側は切り立った崖、南北に長く広い本丸に、小ぶりの二ノ丸、三ノ丸が続く連郭式縄張り。本丸は公園化でかなり改変されているようですが、本丸南端の土塁や大規模な堀切、虎口跡など遺構を観ることができ、中世城館の面影も感じられました。
当時原野だった庄内平野も見渡すかぎり田んぼが続き、北楯大堰のありがたさを感じました。

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しんちゃん

「ゆで理論」 (2024/05/03 訪問)

キン肉マンネタ、アラフィフしか解らないかもしれません。置いてけぼりの方も多いと思いますが、ご容赦ください。
ゴジラやゴモラもよく城を壊しますが、現存天守は壊していないんですね。キングギドラの羽ばたきで、松本城の瓦が吹き飛んだぐらいだったと思います。ちゃんと手加減しているのが偉いですね。
その点「キン肉マン」は違います。国宝だろうが世界遺産だろうが、お構いなしです。姫路城が鉄筋コンクリートの名古屋城と合体して、空を飛んでいくのです。だって「ゆで」だから‥。我々「ファン」はこういう時に決まってこういうのです。
「ゆで」だから‥ これは通称「ゆで理論」と呼ばれていて、キン肉マンの世界では我々の通常の考えでは及びもしない出来事が普通に起きます。科学も物理法則も、全部すっとばしていくその論法は慣れてしまえば、強力な説得力に変わるのです。だって「ゆで」だから‥
私としては全国のキン肉マンファンにも城の良さを理解してもらえると嬉しいです。城好きにもキン肉マンのファンが増えるといいなと思っています。私は多感な少年時代にキン肉マンから多くのことを教わったと思います。「友情」「努力」「勝利」そして「相互理解」と「ゆで理論」。この「相互理解」はキン肉マンの世界でも一貫して続いているテーマです。やはり考え方や主義・主張が異なるもの同士が分かり合うのは難しいということでしょう。

岡津城は三嶋神社の周辺が城址とされています。岡津小学校のあたりが主郭と見られ、江戸時代には陣屋(代官所)が置かれ周辺は天領とされたようです。

空を見上げると合体した姫路・名古屋城が西に向かって飛んでいきます。どうやら今だに論争がさめやらぬ「かの地」に向かっているようです。

※「ゆで理論」の「ゆで」とはキン肉マンの作者である「ゆでたまご」先生の略称です。古くからキン肉マンに慣れ親しんできたファンたちから諦観と崇拝の意味あいを含めて「ゆで理論」と名付けられています。物語の合間にさりげなく入れることで絶大な威力を発揮しますが、あまりにも頻発すると読むほうもだんだん疲れてくるようです。

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ぴーかる

この城か前田城が前田利家生誕地 (2024/07/27 訪問)

【荒子城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>地下鉄東山線高畑駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾5城目。現地説明板によると荒子城の築城は天文年間(1532~1555年)に前田利昌によるとされています。その子の利久、同じく利家、利家の子の利長が相次いで居城しました。城は1重の堀で柵を廻らした砦程度の規模だったようです。天正3年に前田利家が越前府中に、同9年に利長が同地に移ったことから廃城になりました。
 現地は天満天神宮になっていて遺構は残っていませんが、城跡碑と説明板、前田利家生誕地の幟が沢山あってなかなか城跡地らしい雰囲気ある場所となっています。

<満足度>◆◇◇

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零汰

土塁・完:柴立城:鹿児島県南九州市 (2024/08/08 訪問)

北海道の陣屋跡のインパクトは大きく、方形館跡を地元でも見る事は出来ないかと考えていました。鹿児島市は平野部が少なく合併前の鹿児島市に限って平城は全滅、今のところ他の地域で残存率40%程度の方形館を漸く見れるだけです。早速城郭放浪記さんで調べてみた所それらしき城跡があっさりと見つかりました。あれだけの量の城跡を漠然と眺めていても記憶に残らないけれど、探す目的が決まっていると割と見付かるものらしいです。

南九州市でお馴染みのメジャー城と言えば知覧城、そこから南に直線距離1.7kmに柴立城はあります。体感で70m角程度の大きさで外周に土塁が廻っています。東西を当時の大手口~搦手口をトレースするように道路で分断されていて、北側の入口には土塁の折れがそのまま残っています。城と付いていますが館跡と考えて良いかと。結果から言いますと方形館では有りませんでした。何より空堀が見当たりません。ですが全体的に土塁の残存率も良くて気に入っています。到着した時に気が付いたのですが、樹木が土塁上に植えられて、根が表面に現れています。今のままでも倒れないかと感じました。先日の台風は大丈夫だったのでしょうか。

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チェブ

堀を走る。 (2024/08/12 訪問)

35℃の猛暑日の最後のお城攻めは「小野田城」です。
お城を見たいと言うより、1つでも『行った』をポチっとしたかったので寄った。が、正解です。

「小野田城」、築城時期や城主は不明なんだそうです。
「小野田城」跡の『光明寺』の駐車場を、お借りしました。
『光明寺』の反対側に階段があります。こちらが、やはり「小野田城」跡の『安房神社』のようです。
、、、虫の大軍に阻まれ退陣しました。
でも、ポチっ。

「小野田城」は、私の住む東京の端っこから一般道を使ってドライブすると、江戸城を見て、豊洲を通過し、ディズニーランドのシンデレラ城を横目に見て目的地のお城達に到着しました。
そして、お城跡のマンションや藪を眺め、虫の餌食になる1日。
人はもったいないと言いますが、楽しい1日には変わりありません。
それから、メジャーなお城の入場料が値上げする ニュースを見ました。
あこがれの国宝級のお城には、まだまだ行けそうもないので、体力と知識をつけて過ごそうと思いました。

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零汰

大分県豊後大野市城館跡 (2024/07/18 訪問)

城きちしんちゃんはタダものでは有りませんね。暴走とは違い城の魅力は限りが無いという事だと思いますよ。それにしてもキン肉マンと城の絡みは想像出来ませんでしたが。視点が変わると思ってもみない発見がありますね。私、特撮のゴジラとかウルトラマンも好みなのですが・・・・。

大分訪問の際に数か所の城館も同時に訪問しました。1か所だと物足りないので今回はその中から2か所選びました。

写真1~4:緒方三郎惟栄館
豊後大野市でお馴染みの岡城から東へ直線距離5.2kmに有ります。遺構は有りませんがこちらの城館は様々な資料に必ずと言って良い程出てくる城館です。調べてみると緒方三郎惟栄氏は平氏討伐に功が有り、その後九州へ退く義経を迎えに行く際に義経と同時に捕らえられた方だとか。敷地内には緒方神社があり、高さが7mを超える立派な石碑が有ります。

写真5~10:志賀氏館
岡城から北東に直線距離3.4kmに用作公園の南西に隣接した場所にあったようですが、はっきりしないそうです。案内板には馬場・的場跡と表示が有りますが一寸分かりません。写真は遺構か分かりませんが南西部分を撮ったものです。こちらの志賀氏の居城は志賀城・騎牟礼城・岡城と移り変わっていったようです。

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シャンシャン

コンパクトな城郭 (2024/09/03 訪問)

本丸と二の丸の石垣と水堀が残っており、一周10分くらいで回れるので散歩がてらにちょうどいい大きさ。
コンパクトな城郭ながら、珍しい巻き石垣や積み直しの石垣、広めの犬走りもあり見どころ多し。

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シャンシャン

徳川御三家の城 (2024/09/02 訪問)

復元天守ながら徳川御三家の城だけあって、連立式天守は堂々とした風格がある。
城郭を取り囲む石垣も、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎと多くの形式を見ることができる。
現存している岡口御門と追廻門も見どころの一つ。
復元された御橋廊下も斜めにかけられていて面白い。

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のぶのぶ君

おしゃれな石垣 (2024/08/20 訪問)

とても見晴らしの良いお城です
熊野川沿いの水の手郭には舟入があります。
大手虎口には亀甲積みを発見!
本丸にぐるっと残る多聞櫓の跡が楽しい🎵

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しんちゃん

キン肉マンと日本の城。 (2024/04/06 訪問)

キン肉マンはバイブルです。最近、投稿が暴走気味ですが「へのつっぱり」で行きますか。
私はバッファローマンが好きですね! 超人師弟コンビのロビンとウォーズマンも良いですが、戦国超人ネキリマンとムホンマンの「極悪師弟コンビ」も捨てがたいです(笑)。
キン肉マンは城と関係ないだろって? ふっ「キン肉マン」ほど城と関係の深いマンガ(アニメ)は無いんですよ。
キン肉マンはもともと、ウォーズマンの体の中やら、富士の樹海やらのオカシな場所で戦ってきましたが、「王位争奪編」あたりから日本の名城が戦いの舞台になっています! 熱いですね。
ただし‥ 準決勝では姫路城と名古屋城がムリクリ合体するという暴挙をやらかしてます。ゴジラでさえやらんことを‥だって、「ゆで」だから(笑)最高です! ちなみに内訳は以下
熊本城‥キン肉マンチームvsマリポーサチーム マリポーサも最近は貫禄が出てきて人気もだいぶ上がって来ています。スカイマンも スカウトしてあげて下さい。      

会津若松城‥フェニックスチームvsビッグボディチーム ビッグボディもレオパルドンも再登場してからは活躍の場を得ています。こういう気遣いは嬉しいですね。特にビッグボディの成長には目を見張ります。強いじゃないか!

姫路城‥キン肉マンチームvsゼブラチーム ゼブラは最近登場したマリキータマンやマリポーサと仲良くなりました。姫路城は‥えらいことになってます。

名古屋城‥ソルジャーチームvsフェニックスチーム 私は「超人血盟軍」のメンバーが好きなんですよ。ソルジャーの正体はキン肉マンの〇〇です。

大阪城‥キン肉マンチームvsフェニックスチーム ここでキン肉マンチームが勝利を収めたことで、物語は一度大円団を迎えます。

安土城‥長い年月を経て、超面白くなって帰ってきた「キン肉マン」 夜中のアニメでやってますが、「始祖」編が終了してから現れた新たなる刺客「オメガケンタウリの七槍角」の首魁「オメガマン・アリステラ」が因縁の相手であるキン肉マンスーパーフェニックスとここで戦います。

私は本宮先生の作品だと「赤龍王」が好きでした。項羽の最期はカッコ良かったですね。当然こんな作品がガ‥ 子供たちに受けるはずもなく、最後のほうは描き下ろしになっています。
‥場外乱闘もここまで来ましたか。 

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零汰

土塁:飫肥城:宮崎県日南市 (2024/08/14 訪問)

城きちしんちゃんはキン肉マンですか、私は硬派銀次郎押しです。まぁまぁ遠い昔の頃ですが。

飫肥城には15年前位から度々行ってました。当時の目当ては建物と城下町の食べ歩きでした。本格的に城訪問以降はこれが初めて。見方が変わると全く風景が違い空堀見ては「こんなんあったっけ?」土塁見ては「こんなんあったっけ?」の連続でした。

これまで短期でブームが繰り返し何度も起きていて、空堀ブームや畝堀ブーム起きる度に集中して見ています。来ていないのは竪堀ブーム位です。竪堀を現地で見つけるのがとても難しくブームが起きて来ません。北海道から帰って以降、陣屋跡が印象に残って何度目かの土塁ブームが来ていました。

こちらは陣屋跡で見たような整然とした美しい土塁と、旧本丸跡の自然に任せて形の崩れた土塁を2種類同時に楽しめます。それまで私の好みは崩れた土塁でしたが、陣屋跡以降に整然とした土塁にも心惹かれます。御殿の裏の土塁は後年の物でしょうが石の組み合わせた土塁も良い。今はどんな状態の土塁でも良く見えるのでしょう、ブームが去ると自分はどちらが好みに写るのかが楽しみです。

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のん

迫力の石垣 (2024/09/05 訪問)

岸和田城に行ったら、特急電車で40分で最寄りの和歌山市駅まで行ける!と知り、足を伸ばしました。

とにかく、石垣が無骨で大迫力!

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雑賀合戦 (2024/09/05 訪問)

 一向宗の弥勒寺が元々あり織田信長の紀州征伐の時には雑賀孫一がここに城を築いて激戦を繰り広げたと伝わっています。城址は秋葉山公園市民の丘として整備されています。

 JR和歌山駅よりバスに乗り秋葉山バス停下車。すぐ目の前が城址です。

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鈴木佐太夫 (2024/09/05 訪問)

 鈴木佐太夫によって築かれた城です。妙見堂がある北側に千畳敷と呼ばれる平坦地があり城を構えていたようです。妙見堂から北側へ歩いて行くと謎のコンクリートの塔がありました。後で調べてみると今は使われていない消防用の望楼でした。もう少し散策したかったのですが、蜘蛛の巣が多く断念しました。登城口である城跡山公園(津屋公園)に説明板があり、少し雑賀城のことが記されています。

 JR和歌山駅よりバスに乗り和歌浦バス停下車。目の前が城跡山公園です。ただ道路を横断する必要があり横断歩道は少しだけ離れています。

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POYO58

これも2年ぶり! (2024/07/07 訪問)

伊賀上野城を終えてJRで亀山城に行きました。亀山城は鎌倉時代に関実忠によって築かれました。その後は安土桃山時代まで関氏が城主となりましたが、豊臣秀吉の天下統一をきっかけに岡本良勝が入城し大改築。関ヶ原合戦後は松平家が城主となりました。江戸時代には堀尾吉晴が丹波亀山城と間違えてこの城の天守を解体してしまったということもあり、今は多聞櫓のみが残っています。なかなか遺構は残っていて、櫓や櫓台の高石垣は圧倒されます。しかし、近年の地震により、一部土塁に改変されています。
またガイドさんに聞くとどうやらここは関所が多く、多くの人々が江戸時代、このお城のそばを通っていたそうです。
今回は大手門跡やその他の櫓跡も少しみてみました。面影はあまりありませんが楽しかったです。
ただ三重櫓跡は時間の都合で行けず😭

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しんちゃん

バチ当たり師弟コンビ (2013/09/22 訪問)

戦国時代のバチ当たり者の代表格といえば織田信長公ですが、鎌倉時代から心の荒んでいる武士は理由も無く坊主や通行人を殺したりすることがあったようです。仏罰を怖れていては武士は務まらないという考えかもしれませんが、殺される方はたまったものではありません。
それに比べると、信長公はいささかやりすぎた感もありますが、相手は信者をけしかけて戦を挑んでくる殺人ボ〇ズの集団ですから、多少の正当性はあると思います。あくまで「しんちゃん」の考えです。
明智光秀も延暦寺の焼討ちで吹っ切れたのか、城郭に好んで転用石を用いているようにも見えます。わざわざ天守台に、これだけ多くの転用石を用いているのも光秀なりの覚悟の現れでしょうか? でもまだまだ甘い。石段に石仏を配置している信長公の方が上ですね。
光秀の方が信長公より年上のはずですが、「悪逆非道」にかけては信長の方が「師匠」に相応しいのではないでしょうか。
ちなみに、けなしているわけでは無いです、ほめてます。戦国時代に於いては「裏切り」「挟撃」「悪逆非道」は普通に行われています。信長公は道を外し続けてきた仏教を「本来」の姿に回帰させた功績もあると思っています(オイオイ‥)。

※転用石を使っている城は他にもたくさんあります。姫路城や大和郡山城、熊本城にも使われているようです。
※信長公も光秀公もロクな死に方をしていません。やはり何事もほどほどにってやつですよ

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しんちゃん

石段を 登りて踏みし 石仏を 慌てて拝み 賽銭を置く :安土城 (2013/07/24 訪問)

youさんに続いて私も安土城で一句作って見ました。風流や雅とは程遠いですが。
10年以上前、安土城の駐車場に車を停めた時に、オヤジがひょっこり出てきて駐車料金を請求された時は衝撃的でした。それまで石垣だけの城で駐車料金を請求されたことは無かったですね。まだ城めぐりをはじめたばかりの頃で石垣の城の本当の価値が良くわかっていなかったわけです。
その数倍衝撃的だったのが石仏を踏んづけた時ですね! ふつーに踏みましたね‥。あえて踏みやすい位置に配置してありました。さすが信長公、やってくれますね。なんか楽しんでいるようにも感じます。石垣の城は安土城以前にも存在していましたが、安土城はビジュアル的にも別格です。まさに近世城郭の先駆けですね。
賽銭は11円がいいでしょう、バチもタタリも11円(とおいえん)ってやつで。信長公に敬意を表して、あえて踏んづけてみるのもアリですぞ(私はもういいです)。

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零汰

石垣 (2024/07/19 訪問)

こちらの城跡は標高40m程度の場所に主郭を配置する南北120m程度、東西50m程の小規模な城館です。入ってまず立派な石垣に驚かせられます。しかしこちらの石垣は城跡裾に立つ有力庄屋が借景として築造されたものの可能性が高いらしいです。

二重堀切が城域南端でその内側に写真3のオレンジラベルのある曲輪が主郭となります(大分県の城跡主郭にはオレンジラベルの表示が多い)。もしかしたら後年の石積築造の関係で虎口周辺も改変しているような気がします。

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赤い城

高松の名のルーツ (2024/09/01 訪問)

JR屋島駅から徒歩で10分。
喜岡寺と永之谷公園あたりが城跡ですが遺構は残りません。
喜岡城の別名は高松城でこの周辺が高松の地名でした。
現在は古高松と呼ばれています。

お寺にお参り、隣の権現社を散策しようと思ったら人だかりが。
近所の皆さんでの清掃が行われるとのこと。
まだ暑い9月初日、お疲れ様です!

城主の高松氏は香西氏に属していましたが秀吉の四国攻めで宇喜多秀家に攻められ落城。
これが讃岐での最後の軍隊同士の戦となりました。

公園に降りて周辺を散策しましたがやはりロマン以外は見つかりませんでした。

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