春の長崎天草を巡る旅、(7城目)は「日野江城」です。
島原駅前から加津佐行のバスに乗り50分、日野江城前(または北有馬)で下車し10分程歩くと、大手門があった登城口です(写真①)。
日野江城はキリシタン大名で有名な「有馬晴信」の居城です(写真②)。かつては安土城を模した大手階段がこの大手門から二ノ丸にかけてあったそうです(写真③④)。発掘調査ではその階段の上から金箔瓦が発見されました(写真⑤)。秀吉から許された者だけが使えるこの瓦、晴信への信頼が厚かった事が想像できます。
現在は城の遺構はわずかに石垣が残るのみですが、二ノ丸には菜の花、本丸には桜が咲いていました(写真⑥⑦⑧)。原城は日野江城の出城で、日野江城は戦には不向きなため、晴信は原城を築城し、万一の戦が起きた場合に備えていたようです。本丸からはその原城が見えました(写真⑨)。
晴信はポルトガル人のヴァリニャーノが口之津に漂着すると、領内での布教を許し自らもキリシタンとなります。沖田畷の戦いでは、島津家久の加勢により首の皮1枚で龍造寺隆信に勝利しますが、ここで領国を強くしなければと痛感したようです。口之津を貿易港として開港し、ポルトガルとの交易を盛んにし、富を得て国を強くして行きました。その後、秀吉の命で朝鮮へ出兵し、九州の関ケ原では子の直純が東軍に加わったため、所領が安堵されました。
しかし1614年岡本大八事件(汚職)の責を負うため晴信は自害させられてしまいます。子の直純は江戸で家康に仕えていた事から、改易は免れ延岡城へ転封となる事で許されました。そして1618年、代わって大和五条より松倉重政が入封し、日野江城は手狭なため新たに島原城の築城に専念します。つまり一国一城令の出た1615年からの3年間、誰も領主がいなかったのです。それゆえ原城は破却されず、その後の重政の時も忘れ去られたままだったのです。原城には戦うための、櫓や塀や門や石垣などがそっくりそのまま残ってしまいます。よって1637年の島原の乱では、そこに目をつけた一揆軍は、ここに立て籠る事ができたのです。
この後、また同じバスで5分程の原城前で降り、原城と国道を挟んだ反対側(徒歩10分)の所にある有馬キリシタン遺産記念館(写真⑩)へ行きました。ここは原城のスタンプ場所です。スタンプは原城事務所でも押せますが、是非ここに来て見学された方がいいと思います。日野江城と有馬氏の歴史、原城と島原の乱についての説明など、両方の城について分かりやすく解説されています。
次は、(8城目)その原城に続きます。
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