荒隈城は宍道湖の北東の丘陵に築かれていました。尼子十旗の一つ白鹿城を攻略するために毛利元就によって築城され、白鹿城の落城後も重要な拠点として機能しています。
現在、主郭は太陽光発電所となっていて、立ち入ることは出来ません。天倫寺の周辺に城址の雰囲気が残り、墓所からは宍道湖を良く見ることができます。裏山を少し覗いてみると、大きな堀切の様な物がありますが、遺構かどうかは不明。グーグルマップで改めてみると、墓所がソーラーの近くまで寄っているようです。そこまではいけたのだろうか?
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2025/07/03 22:41
白鹿城の戦い (2025/06/28 訪問)
荒隈城は宍道湖の北東の丘陵に築かれていました。尼子十旗の一つ白鹿城を攻略するために毛利元就によって築城され、白鹿城の落城後も重要な拠点として機能しています。
現在、主郭は太陽光発電所となっていて、立ち入ることは出来ません。天倫寺の周辺に城址の雰囲気が残り、墓所からは宍道湖を良く見ることができます。裏山を少し覗いてみると、大きな堀切の様な物がありますが、遺構かどうかは不明。グーグルマップで改めてみると、墓所がソーラーの近くまで寄っているようです。そこまではいけたのだろうか?
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2025/07/03 21:52
鳥羽山城 (2025/05/04 訪問)
【鳥羽山城】
<駐車場他>鳥羽山公園駐車場数十台分あり。
<交通手段>二俣城に駐車し徒歩
<見所>主郭虎口跡・主郭を取り巻く石垣・石段
<感想>日帰り今シーズン山城ラスト旅2城目。第41・42回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された鳥羽山城に行ってきました。二俣城を先に行き、両城は一城別郭ともいわれているので、その繋がりを確認するため二俣城の南端から徒歩で行きましたが、城の間は現代の河川敷の土塁となっていました。城跡は山の中腹まで道路が通っていて、城跡の山頂公園にいたる遊歩道は数カ所ありますが、道路脇から石垣が残された曲輪の遺構があちこちに見られます。城郭の構造は山頂の主郭を広く削平して山の形状に沿って放射状に帯曲輪や広い腰曲輪を設けています。広い主郭内部は見応えがあり、周囲は石垣で取り巻いています。主郭内部には石垣の虎口跡・推定の庭園跡・石組暗渠の遺構が残されています。石垣は角のある石と丸い天竜川の河原石の2種類を使用しています。丸石は石垣の間詰めにも利用されていて、主郭を取り巻く石垣は長く遺構が残され見応えがありました。特集記事で後世に改変された部分も多いとあったので、見定めて散策すると良いかもしれません。
<満足度>◆◆◆
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2025/07/03 19:25
✈で福岡空港に飛び,北Qバックの途中下車で…🚉 (2025/06/26 訪問)
雨男が晴天に恵まれると「猛暑」になるというジンクスは健在でした。結果して,訪問地がその日の全国最高気温を記録するという…。しっかり暑さ対策をし,「雨よりいいじゃネエか」と自分自身に言い聞かせました。
今回,岡山から高速バスがうまいこと取れれば松江に行けるかな…と期待していましたが,無理でした…<泣>。そもそも,岡山を宿泊地にしなかったのが敗因だったと思います。
EXPOで新しい展開があったようで,遠征中に驚いていました。
昨年は北Qバックの途中下車で「若松城」。今年は「黒崎城」をチョイス。ちょろちょろとトクさんの庭をかすめております。
おおっ,勝尾城のヤギ,まだ元気でしたか!
レポートありがとうございますm(__)m
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2025/07/03 16:24
2025/07/03 15:24
大井城 鷹撃谷城 大井宿(岐阜県恵那市) (2025/07/03 訪問)
中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町である大井宿(岐阜県恵那市)。その地に大井城はありました。城びとには未登録の城址です。大井宿本陣近くの恵那市立大井小学校が跡地です。遺構はなく校内にはかってこの地に城があったことが書かれている説明板があるようですが、校内に入る勇気はありません。内城稲荷神社の説明板にこの地に豪族の居館か砦があったとの記載がありました。土岐持益は美濃大井の地に原秀行を送り、大井地域の守備を命じ大井城を築き、名を大井遠江守秀行と改めたと伝わりますが、確証はないようです。戦国時代にはこの地を治めた岩村遠山氏の遠山十八支城のひとつとなっています。
大井城址とされる小学校の北、中央線を越えたところに鷹撃谷(たかちがや)城址(城びとには未登録)があります。空堀が一部残っています。ネットで見るとこちらに大井城の標柱が立っているとの情報がありましたが、見当たりません。雑草が多く隠れてしまっているのでしょうか。もしくは城郭放浪記さんのHPにても見当たらないと記載されていたので、撤去されたのでしょうか。
大井宿は美濃17宿の中で最も繁栄した宿場町で、全国でも「9番目に賑わった」という記録が残っています。敵の侵入を防ぐ「桝形」が6か所も残る特徴的な構造は、中山道の宿場町の中でも大井宿だけと伝わります。大井宿本陣の北側にあったとされる長屋門が残っていますが、岩村城の門が廃城の際に移築されたという説もあるようです。他にも見どころがあり、コンパクトですがそれなりに楽しめました。
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2025/07/03 14:18
浦添ようどれ (2025/04/23 訪問)
座喜味城からバス2本を乗り継ぎ浦添城へ。
はじめに浦添グスク・ようどれ館で映像や資料を見て学習しました。
発掘された14世紀頃の瓦などの他に、日本軍の陣地として使われた戦時中の銃剣や焼け焦げた食糧なども展示されていました。
昭和初期、沖縄戦で壊滅した当時、そして平成の発掘から復元までと順を追って写真を見ていると、多くの試練や困難の先に現在があることを改めて強く感じました。
実物大で再現された西室内部は厳かな雰囲気を纏っており、体感できたことに感謝でした。
外に出て、ようどれに向かいます。
こちらにも写真と解説があり、辿ってきた歴史を現地で見ながら想像できてよかったです。
それにしても大きい。そして美しいです。
固い石を積み上げて表現される強さとしなやかさ。石積みの無限の可能性のようなものを感じました。
続いてグスクへ向かいます。
朝から降り続く雨はやみそうにありませんが、このしっとり感もなかなかいいものです。浦添城は沖縄戦後の採石によりほとんど城壁が残っていないそうですが、僅かに残る城壁や敷石を探しながら、また御嶽や沖縄戦の遺構なども見ながら歩きました。
そしてせっかくここまで来たのだからとワカリジーまで行きました。ワカリジーは為朝岩とも(後世になってから)呼ばれているそうで、為朝伝説にまた出会えたなぁとしみじみ思いました。
ここからの下りが若干不安でしたが壕跡など見ながら下りきるとモノレールの浦添前田駅前で、タイムマシーンで現代に戻ってきたような感覚でした。
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2025/07/03 10:37
【筑紫広門】(1)勝尾城(1/3:葛籠城) (2025/05/15 訪問)
今回は、戦国時代に筑紫平野一円を治めた武将「筑紫広門」という人物の、関ケ原までの波乱の人生を、6回シリーズで追って行きたいと思います。またよろしくお願いします。
JR鳥栖駅から1番のバスに乗り、東橋(あずまばし)で下車しました。東橋バス停にはパンフレットと地図がご自由にどうぞと置いてあったので、これは大変助かりました(写真③)。さあここから広門の居城「勝尾城」を目指します。
橋を渡り、ここからの川沿いが城下町で、だんだんと細くなり谷に入って行きます。まるで一乗谷のような感じです。この川沿い(四阿屋)に商人町があり、その先(城戸から先)は家臣が住む武家屋敷だったようです。
歩き始めて5分、四阿屋神社の河川敷公園にきれいな公衆トイレがありました。筑紫氏館にも小さなトイレはありましたが汚かったので、特に女性の方はここを利用されて行かれた方がいいと思います(写真⑨⑩)。ここには広い駐車場もありました。
四阿屋からふと左を見ると「葛籠城」がありました。勝尾城の出城のようです。登城口まで行きましたが、予想外に規模も大きく、土塁や空堀などの遺構もありそうです。葛籠城の前に立つと城山(勝尾城)が見えてきました(写真①)。ここから麓の筑紫氏館を通り、あの山頂の勝尾城までを目指します(標高498m、比高約350m)。だんだんと気合が入ってきました😠。しかし、あまり寄り道をすると時間も体力もなくなってくるので、葛籠城はあきらめ先へ進もうと思います(写真④⑤)。
さらに10分程歩くと城戸がありました。筑紫氏と島津氏との戦いでは、このあたりで最大の激戦があったようです。広門の子である「筑紫春門」(一説には弟とも)が奮戦し、最後は一騎打ちで勝負を決しようではないかと島津軍を挑発します。これに応じたのは、「川上左京亮(忠堅)」という男です。彼は何と😯・・・沖田畷の戦いであの龍造寺隆信を討ち取った男だとされています! しかし両者は相討ちとなり共倒れとなったようです。春門が槍を刺したと言われる岩や二人の供養塔がありました(写真⑥⑦)。
城戸を抜けると、辰兵衛さんのお友達に出会いました(写真⑧)。元気そうでしたよ!(笑)。そして東橋から歩く事30分、筑紫氏館(筑紫神社)に到着です。ここにも駐車場はありますが、四阿屋から先は道がとても狭いので車の方は注意されて下さい。
次は、筑紫氏館(筑紫神社)へ続きます。
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2025/07/03 08:02
城以外に見どころ多し (2025/03/23 訪問)
南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いたとも、畠山氏が高屋城の支城として築いたとも云われますが、詳細は不明です。河内・大和国境に位置するだけに、戦国期にも赤沢朝経が入城したり、木沢長政により改修されたり、松永久秀が本陣としたりと活用されたようです。
二上山万葉の森駐車場から登城開始。多くの人で賑わうハイキングコースを登ること約25分で雌岳に到達。雌岳の山頂からは360度の眺望が広がり、日時計が設置されるなど広場として整備されていて明瞭な城郭遺構は見られませんが、東裾に数段の腰曲輪らしき削平地がありました。
雌岳から馬の背と呼ばれる鞍部まで下りて、10分ほど登ると雄岳山頂部の本丸に至ります。本丸は東西に細長く、東側に葛木二上神社が鎮座しています。本丸東下の二の丸には宮内庁が管理する大津皇子の墓所がありますが、柵で囲まれ立入禁止です。二の丸から北東にのびる尾根沿いには五段の小曲輪群が連なっていました。二の丸の南下には三段の帯曲輪が東西に広がり、帯曲輪の裾には石垣も見られました。本丸と二の丸の北下にも帯曲輪が設けられています。本丸から北西にのびる尾根沿いにも六段の曲輪群が展開していて、本丸西端の尾根の付け根には堀切と土塁が遺っています。北西尾根の曲輪群は藪化しているところが多いですが、突端の曲輪は休憩所・展望所として整備されていて、大阪方向の眺望が開けていました。
比高400m超を登っても見られる城郭遺構は数えるほどながら、登城道はよく整備されている上に、道中に石窟寺院があったり高松塚古墳をはじめ多くの古墳に用いられた石切場があったり、眺望も素晴らしく、城以外の見どころも多くあって、これはこれで退屈することなく登城できました。
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2025/07/03 06:36
(東海&関西)遠征18日目:木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)
獅子巌展望台(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩15分くらいで、津波避難路入口(34.8899814、136.1018843)に着きました。
そこから、民家の間の細い路地を行き石段を登ると途中に社があり、左に登ると城跡に着きます。
史実は不明のようです。
中央に大岩に階段を付けた社跡があり、西に櫓台状の高まりがありました。
東に一段下がって石垣のある郭があり、東端から鬼ヶ城方面を望むことができます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=世界遺産(鬼ヶ城)へ徒歩で向かいました。
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2025/07/03 06:02
(東海&関西)遠征18日目:花の窟神社&獅子巌展望台 (2025/06/01 訪問)
口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分くらいで、花の窟神社に着き、その後、獅子巌展望台(33.883893、136.097758)に向かいました。
1935年(昭和10年)に、近くの「鬼ヶ城」が国の天然記念物に指定されました。
その後、1958年(昭和33年)6月、「鬼ケ城」に、獅子巌が追加されました。
それで登録名称は「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」(くまののおにがじょう つけたり ししいわ)となり、名勝が追加指定されています。
さらに、2004年(平成16年)7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成している熊野参詣道「伊勢路」の一部として「熊野の鬼ヶ城附獅子巖」が、世界遺産となりました。
獅子の頭に似た形をした岩で、太平洋に向かって咆哮しています。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。
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2025/07/03 05:42
(東海&関西)遠征18日目:口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)
有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分ちょっとで、海岸寺の裏に残る土塁(33.879444、136.089484)に着きました。
その後、天理教入口付近(33.878446、136.088553)に向かいました。
1599年(慶長4年)堀内安房守氏善によって築城がはじめられましたが、翌1600年(慶長5年)関ヶ原合戦によって完成を見ることはなく、氏善は西軍に属して改易となりました。
口有馬城は海岸寺付近にあったそうです。
辺りは宅地化していて明確な遺構は残ってなく、当時の遺構といわれる土塁と石垣?が海岸寺に残っていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の観光先=花の窟神社&獅子巌展望台に徒歩で向かいました。
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2025/07/03 05:30
(東海&関西)遠征18日目:有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)
鈴木孫一終焉の地(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分ちょっとで、津ノ森遺跡説明板前(33.877036、136.079611)に着きました。
そこから、有馬本城跡付近(33.880025、136.080393)➡安楽寺入口(33.880832、136.080280)➡産田神社の順番で巡りました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代頃に有馬氏によって築かれたと云われています。
有馬氏は熊野別当家の出といい、榎本氏がこの地に来て産田神社の神官となり有馬氏を名乗ったと云われています。
南北朝時代には当初南朝方であったが、後に北朝方に転じ1382年(永徳2年)北山合戦で兄弟三人とも討死したそうです。
応永年間(1394年〜1428年)頃の有馬和泉守忠永の頃には東は九鬼・行野、西は阿田和までを領しました。
その子有馬和泉守忠親に嫡子なく、甥の河内守忠吉を養子として跡を継がせ忠親は鬼ヶ城に隠居しましたが、後に実子が生まれ忠親は忠吉を自刃させます。
このことが親族の怒りを招き北山郷の者と協議して忠親の鬼ヶ城を攻め、忠親は防ぐことができず自刃しました。
その後、忠親の実子孫三郎が家督を継いだが、孫三郎に子がなく、新宮の堀内出羽守氏重の二男楠若を養子に迎え忠勝と名乗りました。
しかし、1574年(天正2年)堀内父子が病没したため、忠勝は堀内家の家督も継ぎ、名を堀内安房守氏善と名乗ったそうです。
安楽寺の南側に広がる畑とそのすぐ隣の宅地一帯が城跡です。
何にしても一面畑で何も分からないので、有馬氏が庇護していたという安楽寺へ行って見ました。
産田神社の東方にある安楽寺は1444年(文安元年)有馬忠永が大内教弘の頃の周防から海雲を招き創建しました。
安楽寺には堀内安房守の墓、説明板がありました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。
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2025/07/03 05:17
(東海&関西)遠征18日目:鈴木孫一終焉の地(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)
宿泊先のホテルの新宮駅から電車で有井駅に着きました。
有井駅から徒歩5分ちょっとで、鈴木孫一終焉の地(33.873358、136.086766)に着きました。
戦国時代、紀州雑賀に、日本最強を誇った傭兵集団、雑賀衆がありました。
雑賀衆は「雑賀を制する者全国を制す」といわれるほどに高い戦闘能力を誇った鉄砲集団であり、織田信長最大の敵として食い下がりました。
その雑賀衆の頭目が雑賀孫一(孫市とも)であり、その墓だとされるものが熊野市有馬町にあります。
雑賀孫一の生涯は謎に包まれていますが、関ヶ原で西軍に付き、その敗戦後、この地に逃れ、ひっそりと隠れ棲み、生涯を終えたとここでは伝えられています。
雑賀孫一は鈴木姓であり、熊野は鈴木姓発祥の地。また雑賀孫一の家紋は八咫烏紋。八咫烏は熊野の神使です。
「信長の野望」ゲームでの雑賀孫一は確か知略値、武勇地ともに高かった。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。
ちなみに新宮駅から三重方面のJRはICカードは使えません。現金のみの精算になります。
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2025/07/03 05:14
2025/07/02 23:21
道がわかりにくく直登。主郭下の三段の郭 (2025/06/30 訪問)
石見城は国指定史跡(ひいては世界遺産)に指定された城館の一つで、温泉氏の城と考えられています。とはいえ国の史跡に相応しい調査や整備がされているとは言いづらく、詳細不明の謎の城のままです。
城郭放浪記さんやダイエティシャンさんの記事を見て、石垣のある民家跡から入るんだなと認識していましたが、結局良く解らず力技で直登することになりました。登城道は城址南側に付いているのですが、案内板すら無い有り様です。
道沿いに進むと民家跡の石垣が見えてきますが、奥手の石垣の木の近くにピンクリボンが付いています。これを登城時は見過ごしていたんですね。下山する時はピンクリボンを辿って行くと降りることが出来ました。これと逆の手順で登れば良いわけで、木に結んであるリボンを頼りに登って行けば自然と城址にたどり着くはずです。比高は130Mほどありますが、緩い斜面を登れば直登はそれほど難しくは無いでしょう。
城址東側の扁平地に取りついた後は、西の主郭に向かって進んで行きます。
ちょっと記憶が薄れかかっていますが、主郭の北側に回り込んでから、主要部に入って行きます。主要部は四段構造になっていて、主郭の東に二段の腰郭があり、三段目の郭は広く手前に深い堀切があります。主郭直下にも堀切があり、主要部から東に行った先にも堀切が有りました。
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2025/07/02 22:17
初登城(💢 ) (2025/06/30 訪問)
矢滝城は標高634M、比高430Mの矢滝城山の頂部に築かれています。石見銀山の支配権をめぐる拠点の一つとされ、享禄元年(1528)には築かれていたと見られます。
城址に至る道は広くは無いが、一応県道ではあるので十分5ナンバーの車でたどり着きます。時期的に育ちまくった雑草がバシバシ当たりますが、道中草刈りもやっていたので改善されるかな?
トンネルの東出口の付近に案内のパネルがあり、南側に登城道が付いています。ちょっと心配になるけど、トンネルの上を迂回して北側の城址に向かっていくので問題なし。登城道の近くではスマホの地形図が圏外でしたが、登っているうちに、改善しました。ただし、人工衛星「みちびき」に対応してないアプリは使用できるか解りません。
道は良く整備されていて比高の高さをそれほど感じずに気持ちよく登れる。ただ、主郭、二郭(南郭)とも酷い藪で、特に二郭は侵入する気にならない。特にこの時期は激ヤブに好んで入る人はいないだろう・・藪の怪人を除いては。
山中に熊のエサになるようなものは無く、特に熊の気配は無かった。とはいえ、島根県は特に熊が多いので、常に気を付ける必要はあるが。主郭周辺からの眺望はなかなかのものだった。藪をかきわけながらにはなるのだが。
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2025/07/02 22:15
行田市郷土博物館 (2025/07/01 訪問)
秩父鉄道 行田市駅から徒歩15分
忍城…その中心的建物である行田市郷土博物館を見学
入口で御城印(来場記念)と御城印帳を購入
前者は200円、後者は1500円
100名城スタンプを押す
試し押ししてからスタンプ帳に押したものの…城番号が見えずちょっと失敗した感あり😔
展示室では撮影NGのものが多く…今回は数を絞っての撮影
小田原平定(1590年)における…忍城を水攻めした際に秀吉軍が北条側に送った手紙…女子供年寄りは逃がしていいから早く降伏するように…という内容の手紙が展示されていた
忍城には侍・足軽など3000人が立て籠もり…石田三成を大将とする大規模な水攻めがおこなわれたが…籠城を続けて…何と本拠地の小田原城が落ちるまで降伏しなかったという…その徹底抗戦ぶりが凄まじい😳
まるで天下の覇者になれる可能性を一日でも長く残すんだ…みたいな
落城後は徳川家康の関東転封に伴い、(家康の四男)当時13歳の忠吉が城主となる。しかし彼は1607年に28歳の若さで病死…それから老中・阿部忠秋…奥平松平氏…と色々城主が代わって明治維新を迎えて…廃城となり城のほとんどは取り壊された
展示室には忠吉の肖像画も展示されていた…というか家康の息子の早死に多くないか?信康…秀康…そして忠吉
家康が長生きしたというのもあるけど…親父より早く逝ってるし…👼👼👼
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2025/07/02 21:37
堀・土塁・郭などの遺構が多い (2025/05/29 訪問)
せっかく島根県でお城EXPOをやっているので、高尾城を再訪することにしました。前回は北東の道から攻城を試みたのですが、よく吼える犬のいる家のオヤジにこの山は私有地なので入っちゃダメだと言われたので、素直に引き下がったのですが、実際には城福寺から登城できるみたいです。
どうやら私が訪問する数日前にぴーかるさんが既に訪問していたようでした。正式な攻略者が現れたので、前回投稿した出城の投稿は無印(フリー)の方に回したので、興味のある方は「高尾城」で検索してみて下さい。
暑い中、あちこちの城を回って来たので、少し記憶が薄れかかっています、なんとか思い出して見ると、主郭自体はそれほど広くはありませんが、西側と北東の尾根にスロープが伸びていて、その箇所は登りやすくなっています。
西側の尾根先には急な堀切がかかっていて、ここを滑り降りる時にストックを一本、折ってしまいました。
北東の遺構は尾根を削って北側に郭を複数設けて有り、尾根自体は郭群の南側に土塁のようにそびえたち、長い土橋(もしくはスロープ)となって主郭方向から続いています。なかなか面白い縄張りの造り方をしていると思いました。本来、大手はこちらの側に付いていたのでは?と考えると・・少しだけ、あのオヤジがうらめしいですな。
ぴーかるさんの投稿にある通り南側の尾根の堀切の遺構は見事です。城福寺の南のコンクリートの階段を登ると竪堀が二本見えてきます。ここから先は、直接遺構に取りつくことになります。
尾根に二重の堀切がかかっていて尾根の両側に竪堀となって続いています。尾根上を主郭に向かって進んで行くと、土塁を備えた郭が有って、その先に二重の堀がかかっていて、竪堀となって下に続いています。実は堀切がもう一本あって、東側へ三本の竪堀が降りて行き、その先で合流して一本の竪堀となって下に続いています。この遺構を見た時に、この城はマニアックなやつだと確信しました。
藪に覆われており、少し怪しいのですが堀の中に畝のような物も有りました。下田城にあるような奴だと思います。
南側は搦め手だと思うのですが、コンクリの階段を登り切った先の東側に土塁を備えた郭があって、なかなかの広さを持っていました。思ったより多くの郭があり、堀や土塁・郭を多く備えた山城だと思います。一度、赤色立体とやらで見てみたいですね。
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2025/07/02 08:02
楠木正儀の十七支城 (2025/03/23 訪問)
南北朝期に在地土豪の平岩茂直が楠木正成の挙兵に応じて築き、後醍醐天皇を迎えようとしたと伝わります。その後、楠木正儀の十七支城のひとつとして改修されるも、北朝方の畠山国清らの猛攻により落城しました。現在見られる遺構は戦国期に改修されたもので、畠山氏の内紛において活用されたと考えられます。
駐車場はないので、府道沿いの邪魔にならなさそうなところに路駐して登城開始。乗合タクシー停留所脇の案内表示に従って峠道を進むと此山頂平石城址の石碑があり、その少し手前から山中に入って約5分でハイキングコースの分岐(案内表示あり)に至ります。分岐から尾根道を少し行くと平石城です。
平石城は単郭の山城で、分岐からの北西尾根を堀切で遮断しています。堀切を越えて階段を上った主郭は北西から北東に折れるL字型をしていて、中央部に平岩氏の墓所と城跡碑、説明板があります。主郭の周囲には横堀状の帯曲輪がめぐっていて、北東と南東の支尾根の付け根では浅い堀切となっています。そのまま主郭の周囲をひとめぐりすると、ところどころに主郭の切岸と帯曲輪が見られました。
周囲をひとめぐりしても所要15分程度の小さな城ですので、何かのついでにどうぞ。
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2025/07/02 06:51
焼け跡痛々しい (2025/06/22 訪問)
今年の3月に大規模な山火事が発生したエリアにあります。
周辺からも黒くなった山が見え、火災の恐ろしさを認識しながらの登城です。
世田薬師の裏手からハイキングコースがついていて歩きやすくなっています。
しばらく登ると大きな石仏が!
聞くところによると麓にお住まいの方が一人で彫られたものだとか。
テレビでも取り上げられたことがあるそうです。
そして凄いのは背後まで焼け跡があるのに石仏は無傷であること。
神仏のパワーなのでしょうか。
さらに登ると世田薬師の奥の院。
ここも背後まで焼け跡があります。
世田山城の曲輪のひとつなのでしょうか。
山頂が主郭で虎口から入ります。
眺望も良く達成感、ただ案内板は黒く煤けていました。
石のベンチには小枝で「世田山フッカツ!」と。
元の姿に戻るには時間がかかりそうですが手軽なハイキングコースとして賑わって欲しいです。
北に下りると浅い堀切があります。
この尾根を先に進むと笠松山に繋がっています。
南側は巨石が守り、ここからの眺望は気持ちよかったです。
高所恐怖症の方は厳しいかもですね。
古代、伊予の国府は今治に置かれ、伊予の中心地でした。
南北朝時代に細川氏に攻められた際にはここで籠城しました。
それにしてもこの日は暑く、低山でもハードに感じました。
夏の山城、水や塩タブレットなど万全の備えが必要ですね。
【見どころ】
・北側の堀切
・南側の眺望
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