三方を 海が囲んだ 玖島城
(さんぽうを うみがかこんだ くしまじょう)
あれこれ考え、やはり清正は外せなかったのですが、カズさんとだぶってしまうのであきらめました。この大村公園は、「さくらの名所100選」にも選ばれていて、堀沿いに咲く大村桜がとても綺麗でした。
大村と言えば日本初のキリシタン大名「大村純忠」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし玖島城の築城者である子の「大村喜前」は、キリスト教を嫌って、父とは全く正反対の人生を歩んだという事は、以外と知られていないようです。
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以下、興味ある方はお読みください
【大村喜前の人生】
喜前は19才で父に代わって秀吉の元へ参陣し、名護屋城や壱岐勝本城の築城に携わりながら、そこで築城技術を習得します。また朝鮮出兵では順天倭城での籠城戦で3倍の敵に勝てた経験から、三方を海に囲まれた地は守りやすく攻めにくいという事を学びます。そこで帰国後の1598年、新たに三方を海に囲まれた玖島城を築城して大城城より移り、城下町を発展させて行きました。
父の純忠の時代の大村は、教会が建ち南蛮貿易で栄えました。しかし秀吉よりバテレン追放令が出ると同時に純忠が死去し家督を継ぐと、いち早く棄教して宣教師を追放してキリスト教を禁じます。
そして1600年の九州の関ケ原では、順天倭城で籠城を共にした松浦鎮信や有馬晴信らを説得してキリシタン大名の小西行長を裏切り、加藤清正の東軍に付いて宇土城を攻めたため、家康からは所領を安堵されました。
その後1602年には加藤清正に指南を仰ぎ、その助言により大手口を城の南側に移して高石垣を備えた大手門を造り、大手門から二ノ丸や本丸へは連続桝形にして攻めにくい構造とします。また海からの攻撃に備えた板敷櫓を造り、周りに水堀を巡らせるなどして大改修し、さらに強固な縄張りにしていきました。特に板敷櫓の石垣は、熊本城を思わせるような見事な扇勾配の高石垣で、ここに最も清正の助言の跡を見る事ができます。
しかし築城中に家康から長崎を没収され、大村藩は貿易による利益を失い財政難に陥ります。ここで喜前は1607年、逆らう父純忠一門の家禄と利権を没収する(御一門払い=粛清)を行う事で藩政を立て直したようです。そして家康が発したキリシタン禁教令によりさらにキリシタン弾圧を行い、教会をことごとく破壊していきました。その結果1616年、弾圧を恨むキリシタンから毒殺され、48才で波乱の人生に幕を閉じたようです。
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