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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)

 「障子堀 オンパレードの 山中城」(しょうじほり おんぱれーどの やまなかじょう)

 箱根越えの伊豆山中城は北条流の畝堀障子堀が曲輪間に張めぐされて畝堀の展示会場の様相を見せています、西櫓、西の丸周囲の障子堀・畝堀は圧巻です、岱崎出丸北側下の横堀には畝が入り横に長い畝堀でこれも見所の一つ、北の丸と二の丸・本丸間にも畝堀が施されている様ですが草が茂り畝の確認は難しい。
 西櫓辺りからは天気が良ければ秀峰富士山を見る事が出来て素晴らしい景観に触れる事が出来ます。
 

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しんちゃん

五箇山・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

相倉合掌造り集落は住人もけっこういて、安心感があります。菅沼は少し怖かったですね、人を一人も見ませんでしたので。
お昼のお勧めは「五箇山そば」です。山のごちそうと言えば「そば」だけど、五箇山そばには栃の実が入っています。
山菜も大きくて良い。国土の大半を山林で囲まれている我が国は、人が山に入って成り立っていると思います。もちろん登山や登城もその一環だと思います。人が適切に山に入って管理して初めて国の安全や生業が維持されるのだと思います。

五箇山そばの山菜も地元の方が山に入って取ってきているんだろうか。この先も熊に襲われず無事に家に帰ってきて欲しいですね。
見渡すと里山の原風景が広がっていて、心がなごみました。

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しんちゃん

五箇山・加賀藩流刑小屋・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

寛文7年(1667)加賀藩の流刑地として罪人が五箇山へ送られて来ました。明治維新までの200年間に約150人の罪人が送られてきています。流刑小屋にもいくつか種類があって、集落の中に限って歩ける平小屋、一歩も外へ出られないお縮小屋、小屋の中にさらに狭い檻がある禁錮などが有るようです。写真の小屋はお縮小屋にあたります。
この辺の川の渡しは「篭の渡し」なので一人では逃げることができないようです。
この後、相倉の集落に向かいました。ここは住人がけっこういて、人の気配があります。2013年に訪問した時に、玄関に「おばあちゃんが招き入れても、入らないでください」という貼紙がある家がありました。売店で五箇山そばを食べながら、あのおばあちゃんがどうなったか聞いたら施設に入ったと言ってました。狭い村なので何でも筒抜けなようです。

「五箇山そば」はおおぶりの山菜が入っていて、高野豆腐に栃餅が入っています。この栃の実が重要だと思います。縄文時代からドングリのようにアクを抜いて食べられ、山間部では重要な食糧だったようです。
この栃の実を食べるのは日本だけのようで、古来からの知恵が詰まっています。太古から日本人は山に入り、マタギが熊を獲ったりして生態系の一部を担っていたと思います。完全放置の自然が、本来の自然などと誰が決めたのか?

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2011/06/04 訪問)

 「濠と土塁 睡蓮浮かぶ 安田城」(ほりとつち すいれんうかぶ やすだじょう)

 14年前の6月4日富山城を訪ねて掛かりの方に安田城を紹介され安田城跡資料館に駐車利用、見学後、発掘調査し復元された安田城跡を探訪見学しました。時は6月濠の睡蓮は花開き濠に彩りを添えていました。

 安田城は秀吉の佐々成政征伐戦で秀吉が白鳥城本陣とし前田氏の家臣岡島一吉が支城とし築き布陣したと言われている。中世の平城が田圃の中から発掘調査の上、国指定史跡として保存整備されている。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2025/05/15 訪問)

 ①「東西に 登り石垣 洲本城」(とうざいに のぼりいしがき すもとしろ)

 ②「模擬天守 星霜百世 洲本城」(もぎてんしゅ せいそうももせ すもとしろ)

 今年5月15日に家内の希望の大塚国際美術館と祖谷つり橋観光に付き合いの帰り淡路洲本城に久しぶりに寄り、以前見て居なかった東側の登り石垣を東の丸高石垣下より樹木伐採もされてよく確認する事が出来ました。

 又今年は昭和100年となります、昭和3年に御大典の記念に天守台跡に竜宮城の様な模擬天守が建てられて97年と成って居ます、端折って100年百世として詠んでみました。

 三熊山山上の総石垣の洲本城は何時訪ねても石垣にうっとりと時間の経つのも忘れてしまいそうです、又下の城の石垣、濠も必見で淡路文化史料館には洲本城の展示、資料、情報が有り見学は見逃せません。
 

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todo94

夏のチャシめぐり⑤【城びと未登録】ピリカタイチャシ(北海道稚内市) (2025/08/11 訪問)

樺太記念館を見学しても、まだ時間がたっぷりあったので、8日に続いて再度、宗谷岬に向かいました。その途中、まずは宗谷公園に立ち寄って、間宮林蔵顕彰碑や旧藩士の墓、津軽・会津・秋田藩陣屋之跡碑などをチェックして回りました。そして宗谷公園にほど近い宗谷中学校にはピリカタイチャシの説明板が建っていました。チャシ内に踏み込むことはできませんでしたが、チャシらしい外観は確認することができました。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)

「壱岐対馬 最短出征 名古屋城(いきつしま さいたんしゅっせい なごやじょう)」

壱岐島・対馬と経由して、ほぼ直線ルートで朝鮮半島に到達しています。なんとも・・戦争の時は最短で出かけて行って、平和な時代には迂回して長崎に来てる。まあ直でやりとりするよりはワンクッション入れた方がお互いに良いのかもしれない。
名護屋城の破却は「島原の乱」の後と考えられています。ここは比較的一揆の場所に近いので、破城は念入りに行われたと思います。
まあ、豊臣秀吉の陣城でもあったし、朝鮮への配慮もあったのかも。

1630年代の島原藩では幕府の役人を巻き込んでフィリピンのマニラ侵攻を計画する動きが有りましたが、「島原の乱」勃発により計画は完全に頓挫し日本は鎖国に入っています。一揆軍はスペインの援軍を期待していた向きもあるようなので「島原の乱」は日本のフィリピン侵攻を妨げたいマニラ総督府の工作も関わっている可能性もあるのではないでしょうか?
だとしたら、彼らの思惑どうりに行き過ぎて少し面白くない。

赤色立体地図は国土地理院地図以上に地形がわかりすぎて少し危険です。「有事」の際には某国が工〇船で大量に侵攻してきて、山中を拠点にしながら都市部に〇スや細〇で攻撃を仕掛けることも可能なわけです。普通の人にはただの「赤くて気持ち悪い地図」だけど、見る人が見れば、どこをどう通れば目的地に行けるかすぐに解ってしまいますね。
国も環境省も熊を野放しのままだし、この国は国民の命を守る気が、全然無いように感じます。城址の形状を見るのには便利なんですけどね。

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鵜森神社 (2025/08/14 訪問)

 久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。近鉄四日市駅より徒歩5分くらいの場所にある鵜森神社付近が城址です。以前は遺構はないと投稿してしまい、後で皆さんの投稿を見て土塁が残っていることを知りました。今回は土塁、堀跡を確認しました。昔から予習不足はかわりません。

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赤堀城(三重県 四日市市) (2025/08/14 訪問)

 三重県四日市市にある赤堀城跡に行ってきました。城びとには未登録の城址です。城跡には石碑がありますが、遺構はありません。上野国赤堀庄に住んでいた田原氏が応永年間(1394~1428)に景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。赤堀三家として知られています。


 近鉄四日市駅から徒歩約15分の場所に石碑があります。四日市市内の松本街道と堀木日永線が交わる交差点近くの道路の隅にあります。

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菰野町立菰野小学校 (2025/08/14 訪問)

 久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。菰野藩一万二千石の大名ひじかた氏の居城跡です。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城壕に堀の一部などが残っています。以前来た時は堀跡などを観ていなかったので、近くまで来たので再訪しました。菰野城跡の碑が建っているのは藩邸の庭園があった所です。菰野町のHPを見ると「また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られる。」とありました。隅櫓後は説明板がありますが、石積の遺構はよくわかりません。

 近鉄湯の山線「中菰野駅」から徒歩5分くらいの場所にあります。

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小城小次郎

横山党と八幡八雲神社 (2025/01/05 訪問)

ここが確かに横山党館である物証はないが八幡八雲神社は横山党の祖である小野氏が10世紀に建立したもので、境内には大江広元が和田合戦の後に小野氏の霊を鎮めるために建立した横山神社も残る。ここで間違いないのだろう。

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見性寺と力尾城 (2025/08/14 訪問)

 三重県菰野町にあるひじかた氏の菩提寺見性寺とその裏山にある力尾城(城びと 未登録)に行って来ました。ひじかた氏関連ということでここで投稿します。

見性寺
 臨済宗、妙心寺派に属し、菰野藩主ひじかた家の菩提寺です。境内にはひじかた家歴代藩主の墓などがあります。「八重姫について」という説明板がありました。八重姫は織田信雄の娘(織田信長の孫)で初代菰野藩主ひじかた雄氏の妻となった人です。雄氏が江戸や戦場に出ることが多く、藩主不在となる間菰野藩の政務を取り仕切りました。病弱であった2代目藩主雄高の藩政を支え、雄高が亡くなった後は14歳で藩主になった雄豊を支えたと伝わっています。菰野町では「八重姫伝」というマンガを制作しています。

力尾城
 見性寺の裏の山が力尾城です。遊歩道が整備されていて容易に散策することができました。土塁や曲輪跡と思われる削平地があります。ただどこまでが遺構なのかはわかりません。それらしき場所を撮影しましたが、自信はありません。1583年織田信雄の家臣であったひじかた雄久によって築かれた城と伝わっています。一時期、ひじかた氏はこの地を離れますが、雄久の子雄氏が1600年徳川家康より菰野12000石を与えられると2代目雄高はここから北東の滝川代官所跡に菰野城(菰野陣屋)を建て居城とします。それまではここが菰野城と言われていました。

 近鉄湯の山線「菰野駅」から徒歩5分くらいで見性寺に行くことができます。菰野城跡からは約15分です。

 皆さんが苦労されているように「ひじかた」が漢字で投稿できません。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2020/11/14 訪問)

「鷲の門 緑色片岩 徳島城(わしのもん りょくしょくへんがん とくしまじょう)」

まだシンプルなのが出てないよな…ということで,いっちゃいます。赤い城さんの阿波おどり系イイですね…。今回は,阿波おどりで決まりかも…。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2025/03/10 訪問)

「本丸だけ 土塁が分厚い 安田城(ほんまるだけ どるいがぶあつい やすだじょう)」

何となく想像はしていたけど、赤い地図で改めてみてみると何かシュールだ。資料館のパネルの写真を見直すと基底部が約14mで高さが約2mの盛土と書いてあるので、それほど間違ってはいないようだ。土塁と言いながら、上は郭のように兵が駐屯できたのかも知れない。
簡易的な多聞櫓みたいなもので囲っていたのかな?
簡素な構造だけど、攻撃の為の城だとしたら、これで良いのだろうか。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2013/05/02 訪問)

 「高虎の 出世作なり 赤木城」(たかとらの しゅっせさくなり あかきじょう)

 12年前の5月連休に、ポツンと未踏に成って居る赤木城を初探訪、伊勢までは高速道で便利ですが、後は国道42号線(ゴロが悪い)を踏破して鬼ヶ城、獅子巖、丸山千枚田と景勝地を渡りながら、登城前には熊野市役所に寄り赤木城に関する資料、情報を入手して、よく整備されてる赤木城、同駐車場へ到着、山中の赤木城は新緑に囲まれて五月の空の元素晴らしい景観の中でした、規模は小さいが天空の城にふさわしい。
 整備中に修復もされたのでしょうが本丸、虎口、東の郭、西の郭と石垣が良く残って居る、よく整備されていました。桜の咲く時期が写真撮影にはベストでしょう!

 藤堂高虎は主人を5人も変えたと云われて居ますが、豊臣秀長に仕えて頭角を現し、秀長大和紀伊百万石支配の中、紀州一揆軍の鎮圧支配のために赤木城を築城し高虎最初の築城と言われている。
 

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2010/04/25 訪問)

 「熊野川 望む石垣 新宮城」(くまのがわ のぞむいしがき しんぐうじょう)

 15年前の4月下旬思い切って、浜松からは時間的に遠く高速は伊勢まで後は地道国道42号線(ゴロが悪い)を熊野を越えて三重県と和歌山県県境を流れる熊野川沿いに有る新宮城を初登城。前後には獅子巖、熊野速玉大社を見学参拝しました。
 車は本丸と鐘の丸下の狭い駐車エリアを利用。

 熊野川に隣接した独立小山山頂に石垣郭が構えている、本丸、少し石垣が崩落してる天守台、出丸、鐘の丸、松の丸の石垣城塁が良く残って居り、熊野川沿いには水の手曲輪石垣が構えて船着き場と成って居た。
 本丸から熊野川方向へ突出た出丸からの熊野川を望む景観は絶景でした。

 関ケ原後浅野氏が紀州全域領有と成り、新宮に支城を築く、紀州が徳川紀州藩の領有に成ると新宮城は付家老の水野氏が入り明治まで継承した。
 

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mrkm880144

近いうち又行く

想います

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2013/12/25 訪問)

「馬洗岩 はっきり見える 苗木城(うまあらいいわ はっきりみえる なえぎじょう)」
衛星の写真からでもはっきり見えますが、赤い地図でも馬洗岩は出丸の様な存在感を放っています。あと、思ったより城域が広そうですね。けっこう歴史の長い城なので、使われなくなった郭とかありそうだ。

「一万石 大名の意地 苗木城」
苗木城を近世城郭に改造したのは、おそらく河尻秀長だと思いますが、この地域は鎌倉時代から遠山氏の土地で、江戸時代も遠山氏が1万500石で城主に返り咲いています。無城主格の身上だと思うのですが、要衝の地に有るから特別にOKなのか?
直接関係は無いですが享保17年(1732)賀茂郡の四ヶ村500石を幕府に没収され1万石ポッキリになりました。しかも土地がしょぼかったので下野村の土地と交換させられています。何をやった? 遠山家??
正直これだと1万石切っているんじゃないでしょうか? 何か悪さをやらかして、今度やったら大名から格下げだよと脅しをかけられているようにも見えますね。
豆大名でも大名は大名。なんか豆大豆と似てますな。

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コウマくん

晴れの国の雨の中 (2025/07/14 訪問)

大雨だったので岡山駅からタクシーで登城。雨のおかげか観光客も少なめでゆっくり見学で来ました。
不明門から上り本段から見る黒塗りの天守閣は圧巻です。天守閣から金箔瓦越しに見下ろす岡山後楽園も見事です。更に旭川沿いから見る不等辺五角形の天守閣は迫力満点でした。流石は金烏城。雨だけどとても楽しめました。

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しんちゃん

依田信蕃 (2013/12/25 訪問)

小諸城は慶長年間(1596~1615)仙石氏によって近世城郭に改修されました。長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城が築かれ、天文23年(1554)に武田信玄の命により、鍋蓋城を取り込んで大城郭が築かれたとされています。この時の縄張を担当したのが山本勘介だという伝承もあるようです。
本丸・二の丸・三の丸が真っ直ぐ並ぶ、基本的な縄張りは、この時代に出来ていたようです。主要部が城下町より標高の低い珍しい城で、本丸・二の丸周辺が小諸城址懐古園として整備され、有料で公開されています。

本能寺の変の後、滝川一益が伊勢にトンズラすると小諸城は北条氏の手に落ちますが、依田信蕃が春日の穴小屋(春日城・三澤小屋の説も)に籠って北条軍の補給路を断ったため、北条勢は徳川と和議を結んで関東に退いていきました。信蕃が岩尾城攻めで戦死すると、家康は信蕃の子・康国に松平姓を名乗らせ、遺領を与えて小諸城主としました。小田原攻めの際に康国は石倉城攻めで戦死し、弟康勝が家督を継いで家康と一緒に関東に移り、上野藤岡城3万石を賜りました。
なんとなく所領が減っているような気がしますが、気のせいでしょうか。

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