宮本武蔵の続き(4)です。
小次郎の豊前説が残る「岩石城」を訪れました。
岩石城は添田町にある標高454mの頂上にありました。JR添田駅からまず見上げます(写真①)。駅から徒歩2時間ほどで山頂本丸まで登れるようですが、この日は1時間程登ったところで気温が30°を超えバテてきたので、山頂本丸まで無理して登るのは断念し、途中の展望台(標高200m付近)で折り返して下山しました(写真②③)。途中には模擬天守がありました(写真④)。またその下にある添田ジョイは温泉施設のようです(写真⑤)。
岩石城は、1158年に平清盛の家臣の大庭景観が築いたのが始まりとされ、戦国期には大友氏との争奪戦の末に大内氏が支配しますが、大友氏が奪い返し、さらに島津配下の秋月種実が奪って秋月氏の出城となります(本城は古処山城)。しかし豊臣秀吉の九州征伐で種実は敗北、豊前中津に入った黒田官兵衛の支配下となりました。登山口には豊臣との戦いで討ち死にした、種実の家臣の墓がありました(写真⑥)。
この山は、元々は英彦山(ひこさん)の山伏の修験場であったようで、この頃から添田の土豪の佐々木雅楽介(うたのすけ)の一族が住み着くようになり、その一族(流派)は山の名前から「岩流」と呼ばれていたようです。いかにも修験場というような気味の悪い岩もあり、ぞっとする雰囲気でした(写真⑦⑧)。
1587年豊前国に黒田官兵衛が入ると、城井城の宇都宮鎮房は、豊前は渡さぬと反旗を翻したため、鎮房は黒田長政に謀殺されてしまいます。雅楽介は種実や鎮房に従っていましたが、敗れた後は岩石山に籠り、その後もなかなか官兵衛には従わなかったようです。
関ケ原後の1602年には代わって豊前に入国した細川忠興の所領となりますが、この頃になると、雅楽介に代わり小次郎が一族の棟梁的存在になっていたようです。1609年小倉城が完成した後も、忠興はなかなか従わない岩流の一族には手を焼き、そこで何とか従わせるため、小次郎の腕前を高く評価しているので、小倉城の剣術師南役にならないかと誘いをかけ、一族を取り込もうとします。
この豊前説は、吉川氏の小説が発表された昭和10年頃にはまだ存在していなく、ここ最近になってこの地域の歴史背景や英彦山高田家文書の発見から、新たに浮上し始めた説のようです。さらに何とこれを機に、添田町役場には小次郎の銅像が昨年建立されました(写真⑨⑩)。添田町はこれで何か町おこしをしたいようです。添田町の像は岩国市の像とはかなりイメージが違っていました。若くてイケメンではなく、中年でたくましい感じの像でした。いったいどっちが本当の小次郎なのでしょうか🤔? 小次郎論争、これからもますます面白くなりそうですね!😱~。
次は、武蔵の生誕地とされる、播磨「高砂」に続きます。
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