豊後森駅の観光協会で電動サイクルを借りました。三の丸駐車場まで自転車で行けます。そこから徒歩20分で本丸です。
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2025/06/29 23:43
駅からレンタサイクルで行けました (2025/06/28 訪問)
豊後森駅の観光協会で電動サイクルを借りました。三の丸駐車場まで自転車で行けます。そこから徒歩20分で本丸です。
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2025/06/29 23:38
地図を見て改めて広さを知った。 (2025/06/29 訪問)
とても広い。
100名城スタンプの場所でパンフレットもらえるのでその地図を見ながら周るのがいいと思います。
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2025/06/29 23:32
4泊5日でグスク巡りへ。 (2025/04/21 訪問)
安芸郡山城で100名城96個目のスタンプを押し、残すは沖縄(3城)と根室半島チャシ跡群のみとなりました。
沖縄へ行くのは約20年ぶりです。
飛行機に乗るのも久しぶりでしたが、予約も搭乗手続きも何もかもスマホひとつで完結してびっくりでした。
グスクめぐりは当初はレンタカーかツアーで行くしかないかと思っていましたが、100名城・続100名城であれば路線バスで行けることがわかりました。一安心です。
また、移動時間のロスを減らすためにホテルを移動することも考えましたが、その度に荷物をまとめてC/I ,C/Oするのも大変なので、東横インおもろまち駅前に4連泊しました。
初日。
那覇空港に着いたのが午後3時すぎ。
時間をかけて見学したい首里城はこの日と翌日に分けて行くことにしました。
初日は守礼門→歓会門→久慶門と進むルート。再建中の正殿を見学し継世門より退出しました。
何もかも初めてで驚くことばかりです。
同時に“名前だけは聞いたことがある”ものも実際に見ることができてとても充実した見学、学習になりました。以前TVで見た正殿修復の弁柄色の平成の復元との違いの見本を見られたのがとてもよかったです。
2日目は今帰仁城から戻ってから、玉陵と再度首里城内へ行き、城壁沿いの道を歩きました。玉陵奉円館と合わせ、今まで知らなかった歴史・時代に触れ、新しく知る喜びを肌で感じることができました。
まだ明るかったので金城町石畳道、金城の大アカギを見がてら周辺をお散歩しました。
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2025/06/29 20:51
丸根砦展望台 (2025/04/12 訪問)
大高城や鷲津砦とのセットで最後に訪れた愛知県名古屋市の丸根砦。
大高城の東約800m。大高城とは大高川で分断された標高30m少々の丘陵の、南へ伸びた尾根の先端に築かれた砦。
大高城から東へ伸びる大高道を監視するポジション。
織田信秀(信長の父)の死後、今川方に奪われた大高城を奪還するため信長が築いた砦の1つで、佐久間盛重が布陣したが、松平元康(徳川家康)の攻撃により桶狭間の決戦の朝に絶滅したとのこと。
現在は、大高城や鷲津砦と共に国の史跡となり、緑地保全地区として管理されている砦跡。
実際に訪れると、鷲津砦同様に丘の登り坂が非常に急峻。
その名の通りの丸い敷地に、1~2段の腰曲輪状の平場が部分的に存在。
頂上部は木々に覆われているものの、堀跡のような遊歩道は東から西の大高城まで眺望がきき、展望台のように感じられた私の城郭巡りの204城目でした。
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2025/06/29 12:42
倉庫とトレーラーの頭 (2025/06/28 訪問)
6月だっていうのに、33度。
このところ、土日はずっと天気が悪いし、家族の行事やら所用で、なかなか遠出できませんでした。
やっと、出かけられると思ったら、33度。
でも、「堅倉砦」のある茨城県は30度予報。(実際はもっとありましたが。)いろんな言い訳を作って出陣しました。
江戸 重通さんが築いた「堅倉砦」は現在、大きな倉庫になってます。
説明板の向こうに倉庫。説明板の下に長く土塁(?)。車を説明板の横に駐車していると、トレーラーの頭部分やトラックが走り過ぎます。道路ですが、倉庫会社の敷地みたいな雰囲気で、すぐに退陣しました。
ぐるっと周り転戦しました。
あの、たった1つの説明板だけなのに、倉庫が立派な砦に見えてくる「堅倉砦」攻めでした。
、、、いや、見えてこない。
説明板が、ありがたかった「堅倉砦」でした。
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2025/06/29 11:58
山陽山陰スタンプいただき旅ラスト (2025/03/26 訪問)
現地案内板の見どころの番号を頼りに見てまわりました。
中の門跡の石垣が坂の上から見ても近づいて見てもすごく雰囲気があり、ドキドキしました。
本丸からは日本遺産外ノ浦の港が望め、また幕末の戦いを見届けた三重櫓を脳内再建するなどお城らしさを存分に楽しみました。
最後に麓の町なかにある大手門跡の碑へ。この場所に冠木門があったそうです。後背の城山が当時をイメージさせてくれました。
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2025/06/29 11:41
長年モヤモヤしていたがやっと行けた。 (2025/06/27 訪問)
国道141号を通るたび、行かねばと思い続けそうやく攻城。
万全を期して南牧村役場で道を尋ね、安心して登城口まで行き路駐。
多少草が伸びてはいたが、城の道標通りに進めば30分程度で主郭に到着出来る。
木が伐採されているので八ヶ岳が良く見えた。
意外と狭い主郭部だが、登城路の反対側に一番の見所の大堀切が良く残っている。
堀切を越えてそこから尾根伝いに50m程度が城域か、途中二条ほど浅い堀切があるが
説明板に記載されていた土塁までは確認出来ず。
麓の住民の方に何もないよと言われていたが、いやいや堀切だけでも行った価値アリかな。
果たして若き晴信が初陣を飾った城がここであるかは史実不明ではあるが
ここを駆け上がったのだと思って攻城するとロマンがある。
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2025/06/29 11:12
2025/06/29 10:15
鬼ノ城 (2025/06/08 訪問)
日本の城とはまた違って独特の素晴らしさを感じることができます。
版築土塁の維持がとても大変なのだそうです。
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2025/06/29 10:12
備中松山城 (2025/06/08 訪問)
しっかり登って山城を体感できる城。
石垣も天守も城主も最高です!
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2025/06/29 10:08
津山城 (2025/06/07 訪問)
石垣好きにはたまらない城。
歩くのもさほどきつくないです。
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2025/06/29 10:04
備中高松城 (2025/06/07 訪問)
遺構はほとんどないですが、水攻めされた立地を想像できる城。
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2025/06/29 10:01
岡山城 (2025/06/07 訪問)
天守が独特な不等辺五角形を見ることができます。とにかく黒くてかっこいい!
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2025/06/29 09:53
墨俣城 (2025/05/03 訪問)
観光地になっているため気軽に行けます。
展示もわかりやすかったです。
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2025/06/29 09:50
宇利城 (2025/05/05 訪問)
手軽に登れます。途中行けないかなぁと思う道もあります。
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2025/06/29 08:08
御土居めぐり(紫竹~府立医大附属図書館) (2025/03/08 訪問)
(続き)
交通公園から紫竹御土居に向かう道中は微妙に入り組んでいますが、自転車を走らせていると御土居のラインに沿った町割りであることを感じます。
紫竹御土居(京都市北区紫竹上堀川町、紫竹上長目町・国史跡)
御土居の北東角にあたり、若狭川を堀代わりとする北辺の土塁と、賀茂川を堀代わりとする北東辺の土塁が遺っています。北辺の土塁は堀川通で分断されながらも、堀川通の西側まで続いています。生垣や柵に囲まれていて中には入れませんが、堀川通の西側にも遺されているのはありがたいことです。
石井神社(京都市北区小山元町)
御土居跡に建つ神社ということで、明瞭な遺構があるわけではないとしても、境内や社殿が一段高いところにあるとか境内の築山が御土居の名残だとか、何かしら痕跡があるのかと思いきや、しっかり削平されていて何の痕跡も見られませんでした。純粋に「跡地」なんですね…。
天寧寺(京都市北区寺町鞍馬口下ル天寧寺門前町)
御土居沿いに設けられた寺町北部の寺院で、山門越しに仰ぐ比叡山は「額縁門」として知られます。宗和流茶道の祖・金森宗和の墓所があるとのことで金龍紀行の一環として訪れましたが(宗和は金森可重の子)、宗和の墓所は見付けられず、代わりに明智光秀公報恩塔を発見。天正年間に会津から京に移転した際に光秀の尽力があったようです。金龍のつもりが麒麟がくる紀行になってしまいました(笑)
阿弥陀寺(京都市上京区鶴山町)
本満寺(京都市上京区鶴山町)
阿弥陀寺には織田信長の本廟、本満寺には山中鹿之助の墓所がある上に、墓地後背が御土居のラインとのことですが、すでに16時を過ぎ、蘆山寺の閉門時間が迫っているためやむなくスルーして次へ。
蘆山寺御土居(京都市上京区北之辺町・国史跡)
蘆山寺境内の墓地の奥に国史跡指定の御土居が遺っている…はずですが、あれ? 閉門は16時半じゃなかったっけ??(16時です) この日はいろいろと寺社をめぐっていますので、ほかの拝観時間と勘違いしていたようです…。境内の奥ということは、蘆山寺には入れなくても外から御土居だけでも見られるかも、と東側に回り込んでみましたが、たぶんこれがそうなんだろうけど…という藪が金網フェンス越しに見られただけでした。
府立医大附属図書館の復元御土居(京都市上京区梶井町)
河原町通沿いの府立医大附属図書館前に土塁が復元されています。蘆山寺御土居から南に続く御土居のライン上です。蘆山寺御土居の東側に回り込もうと河原町通に入ったところで綺麗に植栽された土塁(らしきもの)が視界に入ったので、もしやこれが蘆山寺御土居!? とちょっと驚きました。
…ということで、せめて国史跡の9か所は全部めぐりたいと思っていましたが、ひとつだけ残してしまいました。でも、金森宗和の墓所を見付けられなかった天寧寺に、スルーした阿弥陀寺や本満寺、せっかく行くなら蘆山寺の源氏庭もゆっくり見たいし、御土居の痕跡がある渉成園にも行きたい…と考えると、かえってひとつ残っているほうが良いのかもしれませんね。今度は6年も間を開けずに再訪したいものです。
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2025/06/29 05:28
(東海&関西)遠征15日目:中野城 (2025/05/29 訪問)
東松江駅から徒歩で20分くらいで、標柱説明板前(34.256104、135.140153)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、室町時代に雑賀衆の支城として、雑賀党によって築かれたと云われておいます。
1577年(天正5年)の織田信長による雑賀攻め(第一次紀州征伐)では織田勢を迎え撃つための前線基地となりましたが落城し、織田信忠がここに本陣を構えました。
中野城は弥勒寺山城に本陣を構える雑賀党に対する織田方の陣として利用されたようです。
小学校とその南にあるスーパーオークワの間にある民家の前に標柱と説明板が設置されています。
この民家の土台となっている石垣が城の遺構と伝えられ、その前にある土の部分(黒いシートがひいてありました)がかつて、堀であったようです。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、東松江駅から電車で和歌山駅に向かい、コインロッカーから荷物を取り出した後、電車で御坊駅に向かいました。
ちなみに和歌山駅での電車の待ち時間に和歌山ラーメン(中華そば)をいただきました。
歩行歩数=26253歩、歩行距離=18.4Kmです。
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2025/06/29 05:24
(東海&関西)遠征15日目:淡輪城 (2025/05/29 訪問)
淡輪駅から徒歩5分で、説明板前(34.331936、135.175314)に着きました。
その後、西林寺鳥居前(34.332126、135.175718)に向かいました。
元久年間(1204年~1206年)頃、この地の地頭となった佐藤忠信の子小治郎重治が居住し、淡輪氏を名乗り淡輪城を築いたようです。
1333年(元弘3年)淡輪正円は足利尊氏に従い、室町期は和泉半国守護の細川氏に従ったようです。
戦国期に入り、天正初期には織田信長に従い、水軍を率いて1576年(天正4年)木津川の戦いで毛利氏の水軍と交戦しました。その後の雑賀攻めにも参加しました。
1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が横死した後は豊臣秀吉に従い、淡輪良重(徹斎)の娘「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督(ここ)の局と呼ばれました。
しかし、1595年(文禄4年)秀次事件で秀次が切腹に連座して、小督(ここ)の局は三条河原で斬首され、淡輪氏は改易となりました。
また、徹斎の次男六郎兵衛重政は1615年(慶長20年)4月29日、大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙(ばん)団右衛門と共に討死したそうです。
説明板がありません。付近を5分くらい捜しましたが見つかりません。
先人のみなさんの投稿写真を確認しましたが、2年前のぴーかるさんの投稿で写っていた建物がありません。
1年前のしんちゃんさんの投稿では建物は無くなっていました。回りの風景は同じなのですが・・・。
説明板は確認できませんでしたが、土塁らしきものは確認しました。
淡輪城は西林寺の南側一帯に築かれていたようですが、西林寺には何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中野城を目指す為、淡輪駅から電車で東松江駅に向かいました。
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2025/06/29 05:19
(東海&関西)遠征15日目:長藪城 (2025/05/29 訪問)
城山台センターバス停から徒歩15分くらいで、給水塔付近(34.353094、135.614845)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に牲川(贄川)筑後守義春によって築かれたと云われています。
牲川義春によって城が築かれると、義則、義次とつづいて畿内に勢力を伸ばした織田信長に臣従しています。
しかし牲川義清の代の1585年(天正13年)に豊臣秀吉の紀州征伐で攻められ落城しました。
ピンクのテープを頼りに行動しましたが少し迷いそうになりました。
堀切、竪堀などの遺構を確認することができました。
雨がポツリと降りだし、電車の時間の都合上、西城の攻城は断念しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=淡輪城を目指す為、林間田園都市駅まで35分くらい歩き、林間田園都市駅から電車を乗り継ぎ、淡輪駅に向かいました。
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2025/06/29 05:12
(東海&関西)遠征15日目:九度山真田ミュージアム(和歌山県九度山町) (2025/05/29 訪問)
高野口駅から徒歩30分くらいで、九度山真田ミュージアム(34.291650、135.559601)に着きました。
その後、善名称院(真田庵)(34.290495、135.559621)➡真田古墳(34.290767、135.561366)の順番で巡りました。
真田昌幸&黒田官兵衛推しの自分としては、真田昌幸が亡くなった九度山を訪問するのが今回遠征の目的の一つでした。
ちなみに、もう一つの目的は、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地の黒田城訪問です。(5/26(月)に訪問済)
九度山真田ミュージアムでは、「九度山・真田三代の物語」を見学しました。
善名称院(真田庵)では、本堂/大安上人御廟/真田宝物資料館等の見学、真田昌幸公の墓にお参りをしました。ちなみに、入口に六文銭のお賽銭箱がありました。
真田の抜け穴(真田古墳)、「この穴の向こうは大坂城に続き、真田幸村は監視の目をかすめて抜け穴を使って戦場へ出向いた」という荒唐無稽な抜け穴伝説があったことから、真田古墳と命名されたそうです。
観光時間は60分くらいでした。次の攻城先=長藪城を目指す為、九度山駅から電車➡バスを乗り継ぎ、城山台センターバス停に向かいました。
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