赤穂城本丸には天守台・庭園があり、御殿や建造物等をコンクリートの上に間仕切などで再現してあります。暗渠などの排水路の跡もありました。天守台も城の規模に合わせた立派なもので、天守は築かれなかったものの、十万石の城に匹敵する天守台だと思います。
本丸門は門を二ヵ所備えた枡形を良く再現してあります。二の丸庭園の入口に設けられた門は大石内蔵助良雄の大叔父に当たる、大石頼母良重の屋敷門で、良重は藩主浅野長直の信頼を得て二の丸に屋敷を構えていたそうです。
兵学者・儒学者として有名な山鹿素行は浅野長直の千石で召し抱えられ、承応2年(1653)には赤穂城の二の丸虎口の縄張りを一部変更して、家中に兵法を指南しています。
その後、素行は幕府の忌諱に触れることとなり、寛文6年(1666)~延宝3年(1675)まで赤穂に流されることになり、大石頼母の屋敷の一角に蟄居することとなりました。ここで「武家事紀」などの書物を完成し、後の関ヶ原の陣地図などで、神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」に大きな影響を与えることになりました(私はそう思っています)。個人的には少し、胡散臭い所がある人のようにも見えますが・・。
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