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国立東京博物館の特別展参戦前の攻城 (2025/06/08 訪問)

国立東京博物館の特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」をどうしても見たくて、6月7日、14日、15日と所用が入っている中、唯一、自由が利く6月8日にトーハクに行くことにしました。前泊して朝駆けしたのは練馬城址公園。トーハクの開館は9:30なので余裕です。早朝ということでハリポタ城の門扉は閉ざされていました。としまえん思い出コーナーのあるエントランス広場から石神井川に沿って花のふれあいゾーンまで足を伸ばしました。早朝にもかかわらず、ジョギングに勤しむ人をはじめとして多くの人々が城址公園に繰り出していました。グーグルマップの練馬城跡のポイントの近くに建つ「としまえん古城の塔」は城址公園の整備完了時には撤去されてしまうようですので、記念に写真を撮っておきました。ここから上野へは都営大江戸線を利用しました。西新宿五丁目駅で下車して太田南畝の水鉢を拝見。さらに牛込柳町で下車して大河ドラマ「べらぼう」の紀行で紹介された浄栄寺の甘露門も拝んでいきました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀城 (2025/05/28 訪問)

和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩10分弱で、津屋公園入口(34.191331、135.171900)に着きました。
そこから、城跡山公園へ向かいました。

築城年代は定かではないようですが、雑賀孫一(鈴木重秀)の父、鈴木佐大夫重意によって築かれた城のようです。
佐大夫は雑賀党の頭目を務め、本願寺顕如に与して織田信長と石山合戦で戦いました。
その後、1585年(天正13年)に豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻、いわゆる「紀州征伐」で落城しました。
1585年(天正13年)に和歌山城が築城される頃に廃城となったと思われます。

現在城址は「城跡山公園(津屋公園)」として整備されていますが、当時の遺構は残っていません。
丘陵の南端には妙見堂が祀られています。
バスが遅れていた為、一本前のバスに乗れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=日方城を目指す為、和歌浦バス停からバスで日方バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩45分くらい(ちょっと道に迷い時間がかかった)で、和歌浦天満宮駐車場(34.190893、135.164572)に着きました。

901年(延喜元年)御祭神 菅原道真公が大宰府に左遷させられる途中、風波を避けてこの和歌浦の地に立ち寄られました。
その後、橘直幹が康保年中(964年~968年)に和歌浦を訪れ、道真公を追慕し神籬をたてたのが始まりです(関南天満宮伝記より)。
現在の建物は、1604年(慶長9年)に当時の浅野幸長紀州藩主により造営され1606年(慶長11年)に完成しました。
社殿は紀州出身の掘内(へいのうち)吉政・政信親子により作られ、政信はその後、茨城県の鹿島神宮・東照宮の元和造営に関わり1632年(寛永9年)に全国の大工の頂点である、江戸幕府の初代作事方大棟梁に任命されました。

予定時間をオーバしている為、麓から天満宮を見上げて撤退しました。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=雑賀城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

雑賀崎台場から徒歩5分くらいで、番所庭園駐車場入口(34.190886、135.140984)に着きました。

紀州藩が沖を通る異国船等を監視するために遠見番所をここに設けたのが始まりで、鷹の巣山に移転したことから「元番所」と呼ばれています。
台場は1854年(嘉永7年)頃に和歌山藩によって築かれ、三浦長門守の持ち場とされました。

現在は番所庭園(ばんどこていえん)として観光スポットの1つとして、そして美しい景勝地として整備、保存されています。
入場料600円でした。
台場跡の様子を確認するのも現地の案内板に絵図が載せてありますので非常にわかりやすいです。
今は台場の雰囲気こそありませんが、西にせり出した地形を活かしたものであったことはよくわかりました。現在でも土塁が確認できる。
北に隣接している雑賀崎台場もよく見えます。
攻城時間は20分くらいでした。次の観光先=和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀崎台場 (2025/05/28 訪問)

雑賀崎遊園バス停から徒歩5分ちょっとで、雑賀崎台場入口(34.191863、135.141969)に着きました。

1853年(嘉永6年)6月のペリー来航は、和歌山藩にも影響を与えていました。
和歌山藩では1854年(安政元年)頃から海防警備のための台場整備計画が始まり、友ヶ島や和歌山の加太から海南一帯に台場を築造する計画がたてられました。
しかし、雑賀崎台場は資料には登場せず、カゴバとして狼煙や番所の印が付けられているにすぎなかったそうです。

岬の先端でやや小高くなったところに土塁と石垣の遺構が残っていました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:弥勒寺山城 (2025/05/28 訪問)

JR和歌山駅バス停からバスで秋葉山バス停に着きました。そこから徒歩5分弱で、秋葉山プール入口付近(34.199323、135.170724)に着きました。
この付近で駐輪した後、階段を登り、徒歩で歴史と風土の丘(34.199243、135.173096)に向かいました。

1577年(天正5年)雑賀孫一によって築かれました。
弥勒寺山城は「雑賀合戦」の舞台となった城で、孫市が織田軍を迎え撃つために山全体を城塞化しましたが、信長は6万の大軍で攻め寄せ、最終的に降伏しました。
その後、1585年(天正13年)には羽柴秀吉による「紀州攻め」がおこなわれましたが、このときの史料には現れないため「雑賀合戦」の時点で廃城となったようです。

現在城址は「秋葉山公園」として整備されています。
明確な遺構や城跡碑はありませんが、秋葉山古戦場跡(雑賀合戦)の説明板などがあります。
山頂の展望台からは和歌山城が見えることを期待するも木が邪魔をして見えませんでした。。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=雑賀崎台場を目指す為、秋葉山バス停からバスで雑賀崎遊園バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和佐山城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
千旦駅から徒歩20分くらいで、高積神社参道入口(34.234126、135.254390)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、延文年間(1356年〜1361年)に紀伊国守護の畠山尾張守義深によって築かれたと云われています。

道を間違え分岐点を反対に曲がってしまい、気が付いたら、神社についていました。後で調べたら、高積神社上ノ宮でした。
方向音痴の自分には登城口からの案内標識がほしいです。
分岐点まで戻り、このまま攻城すると電車の時間に間に合わない為、途中で断念しました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=弥勒寺山城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べる為、千旦駅から電車で和歌山駅に戻りました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:秋月城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょっと走って、耕月寺入口付近(34.2299032、135.204850)着きました。
その後、秋月城跡付近(34.229896、135.204170)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)紀俊連によって築かれたと云われています。
その背景には雑賀党の勢力拡大があり、日前神宮と國懸神宮の社領を守るために土豪の飯垣周防守に守らせたそうです。
秋月城は太田城を居城とする太田党の支城でしたが、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めで落城し、そのまま廃城となりました。

城跡周辺、及び耕月寺周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。
耕月寺は朝早い為、閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=和佐山城を攻城する為、和歌山駅から電車で千旦駅に向かいました。

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天守無しがアツい

福井県立郷土歴史博物館 (2025/06/23 訪問)

福井城の本丸から少し歩いた場所にある博物館
撮影禁止の展示が多かったため…撮影OKの場所のみ撮影&添付

受付で福井城の特別御城印を買う…北庄城・西光寺・福井城すべての御城印を揃えると…(おまけとしてもらえる左下に該当するピースと合わせて)一つの絵となる

館内には古代から現代までの福井県の歴史が紹介されてる
古墳時代の棺…越前(福井県)で戦死した新田義貞…江戸時代あたりの九十九橋…福井城の復元ジオラマ

福井藩が生んだ…若くして花開き散った秀才…橋本左内
明治における福井の偉人
福井空襲(火災から逃れるために避難民は、城の水堀に飛び込んだが、そこは焼夷弾の熱により高温と化しており…多くの人々がそこで亡くなった🔥)
戦後間もなくの福井大地震…天守跡の石垣が崩れて…今でもそれは残ってる

それとは別枠に…北庄城を拠点として越前を治めていた柴田勝家およびその妻お市…関ヶ原の戦い以降に統治者となり、福井城を築いた結城秀康…の紹介コーナーもある

来館したのは18:10あたり…閉館時間ギリギリの18:59まで…眺めるだけ展示を眺めた

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しんちゃん

登城ルートより 険しい堀を越えて山城に向かう (2025/05/05 訪問)

こんなマイナーな城、他に誰も来ないだろうと思っていたら、ニッポン城めぐりの口コミで1件ありました。伊東48城の一つとされ、城主は米良氏とされています。せっかくなので、登城ルートを含めてもう少し詳しく。
城址は坪谷小学校の裏山から取りつくことが出来ます。昌福寺の西の脇道から城址に登りましたが、小学校の中からの方が楽に取りつくことが出来ます。裏山に墓地がある関係からか、休日でも学校の門は解放されていましたが、平日は了承を取る必要があると思います。この解放感は都市部の学校では、少し考えられないですね。
墓地の裏手を登って行くと、小さな城址碑のある広い扁平地があります。ここが最初の郭ですね。この先に堀切が連続していて、尾根を登って行くと主郭と見られる山頂に到達します。連続する堀切の最初の方にかなり険しい堀切が有ります。
山城に慣れた人であれば、雨天でも無い場合、先に進めると思います。8つ目か9つ目の堀切が竪堀となって尾根に随走して上に向かって伸びていました。

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天守無しがアツい

西の丸三重櫓 (2025/06/22 訪問)

開国記念館で100名城スタンプを押して…城カードを買った際…御城印に「西の丸三重櫓」というのがある事を知る

スタッフにその位置を尋ねて…天守の裏側にある事を教わり…「ここ彦根城は2年前にも来た事あるが…そこはまだ行ってないと思われる…逃したくない!」と思えたので…それの御城印を購入後、そこへ向かう

入場ゲートを通ってから…ひたすら急な坂を上る…これだけで筋トレになるかもなくらい

ようやく櫓へ…靴を脱いで入場👞
三重櫓の名の通り…3階建て🏯
一層目は奥の部屋もあり…面積は広め
二層目以降に上がる階段が(天守の中のように)急すぎ
荷物を持ちながら上がるのは無理に思えたため、
「失くなりませんように😖」と願いながら…一層目の隅に置いて…二層目三層目へと上がる🪜

三層からの眺めはよい…二層のも…大河ドラマ江でこの櫓が使われた事あるそうで…その紹介もあり

なお…一層に戻り荷物確認…カバンだけでなく中に入ってる物も無事だったので…日本の治安に改めて感謝した😂

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ぴーかる

堀越城 (2025/04/28 訪問)

【堀越城】
<駐車場他>見学者用駐車場あり。トイレあり。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁・虎口跡
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目8城目。第14回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された堀越城に行きました。午後4時前に到着し、三の丸跡から順に巡りました。平城ながら、見事な堀と土塁は圧巻の見応えで散策を楽しみました。主郭跡に入ったところで雨が降り出し、城跡の西側を散策できずに切り上げてしまいました。城跡見学後に行こうと思っていた資料館となっている旧石戸谷家住宅も4時に閉館したらしく、調査不足で御城印も買えずじまいとなってしまいました。城跡巡りを欲張りすぎて時間配分を間違えた。ここは見応えある城跡なので結構時間かかる。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

延岡城 (2025/05/05 訪問)

延岡城の本丸南東には天守台があり、周囲に石垣も残っています。有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」には「天守台」と記載がありますが、天守閣は描かれていないようです。慶長年間の「日向国絵図」には望楼型の三重天守が描かれているとされ、現在でも天守があったのか、はっきりしていません。
明治初年ごろの絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓が有ったとされますが明治10年の西南の役で焼失してしまいました。明治11年に梵鐘が今山八幡宮に寄進されますが、後に天守台に移設されました。初代の鐘は教育委員会に保存され、今 天守台にある鐘は二代目にあたります。

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しんちゃん

魚津の漢達(うおーづめん) (2025/04/13 訪問)

天正10年(1582)「魚津城の戦い」では柴田勝家率いる織田の大軍が魚津城を包囲しました。上杉から離反した椎名氏が討伐されると、上杉方の重要な拠点となりましたが、魚津城の戦いで中条景泰ら「魚津在城十三将」とされる上杉方の主将13人がことごとく果て、魚津城は落城しました。しかし、落城の前日には織田信長が本能寺で横死したとの知らせが入っており、織田軍は撤退、魚津城は再び上杉方の手に戻りました。その後、佐々成政の手に落ちますが「富山の役」の後に前田利長に受け渡され青山吉次などが城代を務めました。

今日は忍びを放って、探りを入れてみたら合戦の勝者に「安(つね)」さんが配られていました。女武者+鎧の組み合わせ、いいですね。個人的にちょっとツボです「おつやの方」とか「直虎」さんとか。
戦が終わったので、あとは鎧をぬが(ザクッ!!)・・・

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シェル

出丸リベンジ!! (2024/06/27 訪問)

 京成佐倉駅から徒歩20分・JR佐倉駅から徒歩30分ほどです。
 約8年ぶり、二度目の登城です。前回は国立歴史民俗博物館の見学でかなり時間をかけてしまい、麓の出丸跡の遺構を見逃してしまったので、今回はリベンジということで、出丸の見学を目的に登城しました。まず京成佐倉駅前の観光協会で御城印を購入。(謙信一夜城、臼井城などの御城印もこちらで販売されています。)
 京成佐倉駅側の田町門跡から城内に入りました。城跡は佐倉城址公園として整備されています。
 両町橋→田町門跡→愛宕坂→復元角馬出→へび坂→出丸跡(薬医門)→清水出丸→台所門跡→本丸→一の門跡→出土の礎石→二の丸→二の門跡→三の門跡→大手門跡の順でぐるっと見学してきました。
 麓の両町橋・田町門跡周辺と二ヶ所の出丸の周辺には、水堀が残存しています。北西側の出丸には、現存する薬医門が残されています。
 空堀もかなりの深さがあり、見ごたえたっぷりです。特に三の門跡の空堀は見学しやすいのでおすすめです。国立歴史民俗博物館そばには、大規模な角馬出も復元されています。こちらの馬出も圧巻でした!!

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シェル

住宅地に上杉謙信ゆかりの地 (2024/06/27 訪問)

 京成臼井駅南口から徒歩5分ほど。
 駅前から南に少し歩くと一夜城公園があります。公園内の南西角に、大きな謙信一夜城の石碑があります。
 上杉謙信が臼井城攻めの際の陣城として利用した場所ということですが、遺構はなく、一般的な住宅街の公園という雰囲気でした。
 京成臼井駅から一駅先の京成佐倉駅の駅前観光案内所では、謙信一夜城の御城印が販売されています。訪問記念ということで購入しました!!

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シェル

上杉謙信を跳ねのけた城 (2024/06/27 訪問)

  京成臼井駅から徒歩20分弱。
道中はアップダウンがけっこうあります。公園にはトイレ、駐車場が設置されています。
 駐車場から土橋のそばへ向かう階段は、スズメバチ注意の貼り紙があり、立ち入り禁止になっていたので、回り道をして城址碑と説明板のある西側の入り口から公園内に入りました。
 臼井城は永禄九年(1566) 北条方の千葉氏の家臣 原氏が城主の時に、関東に出兵していた上杉輝虎(謙信)の攻撃を受けますが、撃退することに成功しました。この謙信の敗北以降、関東は北条氏優勢に転じ、佐竹氏ら関東諸氏の中では、上杉氏離れが起きるなど関東の戦国時代のターニングポイントになったお城として知られています。
 現在は公園内に二の郭と本郭が残っています。二の郭と本郭の間には空堀・土橋が残存しています。また本郭の虎口も良好な形で残っています。また本郭からは、印旛沼を望むことができます。

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トビシマカンゾウ (2025/06/16 訪問)

相川金山地区から、佐渡ヶ島西岸を北上して小川台場へ。満開時期は逃しましたが、トビシマカンゾウがまだ咲いていました。西海岸には、佐渡ヶ島の激しい隆起と日本海の荒波が作った絶景が続きます。よく道を作ったなあと感心する箇所も多々。

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カズサン

夏草茂る真壁城-3/3 曲輪編 (2025/06/07 訪問)

 夏草茂る真壁城-2/3 虎口編の続です。

 チョイ寄りの真壁城は9年振り2度目の登城です、真壁体育館駐車場を利用し本丸東虎口土橋より二の丸へ、二の丸の若干高い所で真壁城を東に眺めれば筑波山山系の北側に位置し西に広がる山麓に扇状地の様に広がる、城域を見る事が出来素晴らしい景観です、時は夏、夏草茂る真壁城は圧巻の景色。
 今回チョイ寄りに付き、遊歩道伝いの散策探訪です、二の丸、中城、中城の会所、中城北側はブルーシートに覆われて発掘調査中の様です、外曲輪、東突き当りの鹿島神社、外曲輪北虎口を移動したエリアです。
 本丸の真壁城解説板に依ると、国指定史跡エリアは125,000㎡(37,900坪)本丸跡から東方向の二の丸、中城、外曲輪が入ります、草が茂りますので、曲輪、虎口、土塁、濠・壕・堀の草刈整備が大仕事に成ります。
 今回土塁上には登りませんでしたので、土塁編投稿は無しですが、曲輪編に写ってる土塁で情景をお察してください。

 今回は孫の運動会観戦で宇都宮へ、翌日には創建1300年の多賀城外郭復元南門初対面、帰路に陸奥八丁目城、陸奥土合舘、16年振りの二本松城、翌々日には前年時間切れで断念した常陸石岡城、チョイ寄り志筑城、今投稿の真壁城と廻り同日夕方遅くに浜松帰宅、1500km程の走行距離でした。
 
 長々と投稿ご覧頂きありがとうございました。
  

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イオ

大徳寺 龍源院(京都市北区紫野大徳寺町) (2025/03/08 訪問)

龍源院は戦国初期に畠山義元、大友義長、大内義興らが創建した大徳寺最古の塔頭で、創建当初から遺る国重文の表門、附玄関(唐門)、方丈のほか、方丈の周囲に配した一枝坦(方丈前庭)、龍吟庭、東滴壺、滹沱底(阿吽の石庭)などの禅宗庭園が見どころですが、もちろん単なる寺院や庭園めぐりではなく、金森長近ゆかりの地として(ニッポン城めぐりの地域イベントとしても)訪れました。

金森長近は織田信秀に仕えた際に信長の守役となったようで、信長が家督を継いだ後も赤母衣衆として側近くで支え続けました。また、長近の嫡男・長則は近習として信長の嫡男・信忠に仕えていました。そして迎えた本能寺の変…。幼少期より見守ってきた主君だけでなく嫡男まで失った長近は、大徳寺住持・春屋宗園の下で剃髪して法印素玄と号し、金森氏の菩提寺として、そして信長の追福のために大徳寺に金龍院を創建しました。

金龍院は明治の区画整理により龍源院に統合され、跡地には石碑が立てられています(見落としてしまいました…)。統合に際して金龍院に伝わる金森氏ゆかりの品は龍源院に引き継がれ、日本最古とされる金森可重所用の火縄銃や、徳川家康と豊臣秀吉が伏見城で対局した際の碁盤と碁笥(長近が秀吉から拝領)が寺宝として展示されていました。

金龍院が廃寺となったのは残念ではありますが、金森氏ゆかりの品が引き継がれているのが救いですね。龍源院の庭園も、禅宗庭園のことなどさっぱりわからない私にも、なんかすごい…と思わせるものがありました。
 

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