西郷も 落とせぬ縄張り 熊本城
(さいごうも おとせぬなわばり くまもとじょう)
1877年(明治10年)、士族の不満を訴えるべく薩摩で挙兵した「西郷隆盛」は、まず九州鎮台「谷千城」が守る熊本城を攻めます。西南の役の始まりです。最初は城全体を包囲し一斉に突破しようと試みます。しかし、連続桝形・49の櫓・18の櫓門とそれらを囲む白川・坪井川があり、城へは容易に近づく事すらできません。ならば今度は、弱点とにらんだ西側に攻撃を集中し攻めようと試みます。しかし加藤清正は270年前の築城時に、西側が弱点である事にすでに気づいていました。それゆえそこに宇土櫓を築き、20mの大堀と60もの鉄砲狭間を持つ長塀を築き、さらに西出丸をも築きました。清正が「ここを落とすには100日はかかるであろう」と豪語したほどの、完璧な縄張りです。
西郷は攻めあぐね、確かに52日たっても落とす事ができません。その時、官軍の援軍が南下し迫ってきたとの知らせを受け、全軍を「田原坂」に移動させ、そこで迎え撃つ事にしました。しかし、輸入したばかりの最新鋭の銃や大砲で装備された援軍に、旧式の銃や大砲と刀では太刀打ちできず、ここで致命的な大敗を喫してしまいます。薩軍はもはや薩摩へ撤退せざるをえませんでした。この時西郷は、こう言い残したそうです。
おいどんは
官軍に負けたとじゃなか
清正公に負けたとでごわす
もし西郷が熊本城を落とし、逆にここで100日間籠城していたら、全国の不平不満士族たちがその間に立ち上がり、状況は変わったかもしれません(ネバたらですが)。宇土櫓は、2032年に復旧する予定です。私はぜひその時に西側にある二の丸からもう一度、西郷が眺めた景色と同じ景色を、眺めてみたいと思っています。
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