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2024/08/31 17:28
綺麗です! (2022/11/21 訪問)
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2024/08/31 16:37
古渡城 (2024/07/27 訪問)
【古渡城】
<駐車場他>東本願寺名古屋別院参拝者専用駐車場あり。
<交通手段>地下鉄名城線東別院から徒歩
<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾1城目。先週の猛暑の中でのロング徒歩、予定の途中でリタイヤした反省から今回は名古屋の地下鉄・バス乗り放題のドニチエコきっぷ(620円)を購入しこれを活用しながら攻略しました。
古渡城の築城は1534年に織田信秀が東南方向からの敵に備えるために築城しました。信長は13歳の時この城で元服をしたそうです。1548年に織田信秀は末森城を築いて移転したのでわずか14年で廃城となったようです。
現地は東本願寺大谷派東別院の境内の南西隅に城跡碑があります。また東隣の下茶屋公園が堀跡を利用した公園だそうで、中心の池が窪地になっていて堀跡納得です。東別院の東門が建造年代が分からないが趣のある高麗門です。
<満足度>◆◇◇
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2024/08/31 15:00
攻め寄せてはいるのだが、、、。 (2024/08/12 訪問)
ここで正解か分からなかった「金堀城」。
Googleの示すポイントは写真③④でした。
草木が元気で、戦意喪失させてくれます。
どこかに登城口はないかと車で一回りしましたが、『金堀』バス停を見つけて退却しました。
この日は35℃の猛暑日で、あきらめるのが早かったです。(←いつでもでした)
今年の夏は非常に暑かったですね。それから地震と台風も心配です。
イライラするくらいノロノロ進んで来る 今回の台風10号に、予定を変更された方、多いんではないでしょうか?
被害を受けられた皆さまに謹んでお見舞いを申し上げます。
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2024/08/31 11:43
「城びと捕まる」はシャレになりません (2024/05/03 訪問)
トクさんの関ヶ原の投稿、いつも楽しみに読ませていただいております。関ヶ原に関しては諸説があり、昨今学会で次々と新説が発表されております。私も関ヶ原を踏まえたうえで会津等に関わる次の投稿に繋げていきたいと考えており、従来とは異なったスタンスでの投稿になりますが、お気を悪くせずご了承いただければと思います。私なりに旧説を踏まえながら、新説も考慮して散策をする方式を取っており、近代関ヶ原研究の祖・神谷道一翁には特に敬意を表しております。
さて蒔田城の投稿になりますが、ここからいつものグダグダ投稿に戻ります。蒔田城は吉良氏の居城とされ、横浜英和学院が城址にあたります。と、言うわけで下校の時刻とも重なったため、とても写真を撮ったりできる状況ではありません。確実に通報されます。逃げるように裏手に走っていくと道がとたんに狭くなり戻って来るのに難儀しました。
そんなわけで写真が少ないため、今日の昼食で作った「水攻め」カレーをついでに載せます。郭のすみっこに乗っているソーセージは櫓をイメージしてます。さしずめ対岸にいる人影二つ(?)は豊臣秀吉と石田三成といったところでしょうか。
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2024/08/31 10:44
多度津陣屋 香川県仲多度郡多度津町 (2024/08/14 訪問)
丸亀藩の支藩である多度津藩の藩庁。
多度津駅から徒歩で8分、車は資料館北側のシルバー人材センターに停めます。
町立資料館は浅見邸の跡で門が残ります。
中を見学(無料)した後は周辺の散策です。
東側には厩跡や蔵があり、蔵の前には説明板も立っていました。
大手通周辺は宅地化されています。
資料館の斜向かいには蓮堀跡の碑がありました。
堀は明治初期に埋められたそうです。
近くの多度津城は香川氏の居館でしたが秀吉の四国平定後に滅び、江戸時代には丸亀藩領となりました。
京極氏4代の高賢が陣屋建設の許可を受けて築かれた陣屋です。
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2024/08/31 10:42
116【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政人生最大の失態(2/2)-焼津岡部宿) (2023/03/18 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑱です。
前回の続きで、直政のそもそもの(浮気)のなれそめと、その結末はいったいどうなったのか? についてお話します。
直孝が生まれたとされる中里の井戸からさらに北へ1km程行った所に、「岡部」という東海道の宿場町があります。1588年に直政はこの岡部の「柏屋(かじばや)」に宿泊しました。その時この中里の娘「阿古」が世話をしたそうです。阿古は正室「花」の父「松平康親」の家臣「印具徳右衛門」の娘とされ、花が輿入れの時からかまたはこれより侍女になったようです。
私もその柏屋に行ってきました。旧国道1号線沿いにあり、宿場町の様子がよく保存されている所でした。いったい二人はどの部屋に泊まったのだろうか? 間取り図を眺めながら、いらぬ詮索までしてしまいました(笑)。
直政はたいそうこの阿古を気に入り、そして花にはバレぬようしばらく秘密の関係は続いたようです。しかし結局は身ごもった事でバレてしまい、花から追い出された阿古は実家の中里へ帰り、直政の子(弁之助(後の直孝))を産みました。
翌年の1590年小田原攻めが終わると、家康は関東(江戸)へ移封、直政も箕輪城へ移ります。そして弁之助が6才になった時、阿古は弁之助を連れてに密かに箕輪を訪れ、直政に「どうかこのあなたの子を、あなたの元で立派に育てて下さい」と託します。直政は弁之助を花にはばれぬよう近くの庄屋に匿った後、安中の北野寺に預け修行をさせました。そして阿古はこの後自害してしまいます。
直政は高崎城を経て、1600年関ケ原後に佐和山城に移ります、しかし2年後の1602年に島津から受けた鉄砲傷が元で死去してしまいました。その死の直前、直政は弁之助に一目会いたいと佐和山へ呼び寄せ対面します(弁之助この時12才)。そして直政死後、正室花の子「直継」(同じく12才)が井伊家佐和山藩18万石を継ぎ、4年後の1606年直継と花(唐梅院)は築城中の彦根城に移ります(彦根藩と改名)。弁之助は「直孝」と名を改め、群馬の臼井に1万石の領地をもらい徳川秀忠に仕えます。この時秀忠からの評判は、なかなかよかったようです(この時16才)。
一方の直継は、病弱なため家臣もまとめられず、天下普請であったにもかかわらず彦根城の築城は進みません。豊臣秀頼との決戦「大坂の陣」を前に、筆頭の井伊家がこれではと業を煮やした家康は、秀忠から直孝には才能があると聞き、1613年に直孝に井伊の家督を継ぐよう命じます(この時23才)。そして1615年大坂の陣では、その直孝が豊臣秀頼と淀を自刃に追い込むなど、「井伊の赤牛」(赤鬼でなく赤牛)と恐れられる程の大活躍をします。1622年には滞っていた彦根城の築城も完成させ(この時30才)、秀忠・家光からも絶大なる信頼を得て、直孝は35万石に加増され「譜代大名の筆頭(大政参与=後の大老職)」にまで上り詰め、幕末の直弼までこの直孝の血筋が代々彦根藩主となり大老などの要職を務めました。
そう考えると、この浮気があったおかげで井伊家や徳川幕府は盤石となる事ができたので、つまりこの浮気は結果オーライだったのではないでしょうか? (なるほど~🤔)などと浮気を正当化する結論で終わると、私は世の女性たちから袋たたきに合いそうなので、この話はこの辺でお茶を濁して終わりたいと思います。
ちなみに浮気がバレた後も、箕輪で直政と花の間には「亀姫」(後に宇和島藩主「伊達秀宗」へ嫁ぐ)が生まれているので、うまく仲直りできたのではないでしょうか? また彦根藩主の座を追われた直継は「直勝」と名を改め群馬安中に3万石の領地をもらい。井伊の分家として母親の花(唐梅院)とともにひっそりと暮らしたそうです。そして最期は掛川で没しましたが、皮肉にも直孝より長生きしたとか・・・
以上、またどうでもいい話をダラダラとしてしまい、大変申し訳ありませんでした~。
(トクには喝!ですね😱~)(笑)。
次は、直政が徳川家臣団の筆頭となったその「箕輪城」に向かいます。
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2024/08/31 08:08
国史跡・石田三成陣跡 関ヶ原町 (2024/03/30 訪問)
関ヶ原古戦場の石田三成陣跡は笹尾山に案内板が設置されています。陣地には石碑や馬防柵が設置してあり、石碑のある小高い丘からは関ヶ原一帯を俯瞰でき、南宮山や松尾山も良く見えます。
明治25年(1892)に発行された神谷道一翁の「関原合戦図示」にも笹尾山に石田三成の陣所があるとされ、翌年に発行された陸軍参謀本部の「日本戦史関原役」の「関原合戦図」とも一致しているようです。「関原合戦図示」のデータは手元にあり内容を確認している所ですが、なかなかボリュームが有るので、必要な部分から読ませていただいてます。明治初期の難しい文章ですが、何とか読めないことも無いです。
「関原合戦図」は国立公文書館にデータが無いので、確認できていませんが、グーグルマップにも記載されている現在の陣跡の多くは「関原合戦図」を参考にしているようです。また「関原合戦図示」と「日本戦史関原役」の「関原合戦図」の内容は細部に多くの不一致な箇所が有ります。特に南宮山の配置に大きな違いが有るのは注目するべきでしょう。
「戸田左衛門覚書」には自害ヶ峰に石田三成が陣を張ったと記載がありますが、なかなか難解な文章で読むのに骨が折れます。江戸時代に新井白石が手を加えている可能性もあり、一次史料では無く二次史料(編纂物)と考えた方が良いのではないでしょうか。また記載されている陣所の多くに不可解な部分があり、史料として参考にしてよいのかなと思います。
以前、自害峰を訪問した時には、それらしい陣所は見当たりませんでしたが、また訪れてみたいと思います。
石田三成陣跡は関ヶ原古戦場の「附」として国の史跡に指定されていますが、近年は一次史料にその名が出てこないことから、三成の陣所とするには適切ではないとの指摘が出ています。
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2024/08/30 23:49
18きっぷで。 (2024/07/31 訪問)
東海道線富士駅で身延線に乗り換え富士宮駅で下車しました。
大宮城(大宮小学校)までは駅から徒歩10分くらいです。神田蔵屋敷神社に教育委員会設置の説明板がありました。小学校の位置がちょうど主郭と二郭と推定されるとのことなので400余年後のお城の姿をインプット。また推定模式図には周囲に土塁と西側にケバが描かれていたので現在でも雰囲気を感じることができるかもしれないと学校の周囲を一周してみました。坂道、高低差…。これも広義の遺構なのかもしれないと現地の空気を吸いながら思いました。
その後、富士山本宮浅間大社と静岡県富士山世界遺産センターへ。
富士山世界遺産センターは富士登山の擬似体験ができる見学路になっていておもしろかったです。霊峰の山容は空気の澄んだ冬までお預けですが、見えない富士山を真正面から見るとこんなふうに見える(見えない)んだ!ということがわかる貴重な経験ができました。
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2024/08/30 20:35
史跡関ヶ原古戦場 決戦地・島左近陣地 (2024/03/30 訪問)
近代関ヶ原研究の祖・神谷道一翁が明治25年(1892)に発表した「関原合戦図示」には笹尾山に石田三成の陣が有ったとされており、現在も同じ場所に「石田三成陣地」の石碑が建っています。石田三成陣地は関ヶ原古戦場の「附(つけたり)」として国の史跡に指定されています。
また石田三成陣の麓には島左近陣地の案内板があり、のぼりも立っています。
「関原合戦図示」はいわゆる江戸時代の編纂物(二次史料)を元に製作されたとされますが、道一翁が岐阜県知事の小崎利準から依頼を受けた時の年齢を66歳として、それから数年間 自らの足で現地調査を行い、限られた条件で道一翁なりに関ヶ原に向かい合った力作だとおもいます。石田三成陣地から南東に100mほどの地点に関ヶ原古戦場決戦地の大きな石碑が立っています。
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2024/08/30 20:03
宇喜多秀家陣 関ヶ原町 (2024/03/30 訪問)
近代関ヶ原研究の祖・神谷道一翁(1823-1904)によって明治25年(1892)に発表された「関原合戦図示」には関ヶ原の戦いの進捗によって第一号図~第八号図まで八枚の図示が載せられており、第一号図には家康が桃配山の到着した時の、合戦の最初の布陣が記されています。「関原合戦図示」の発表の翌年に、陸軍参謀本部より「日本戦史関原役」の初版がされており、現在の関ヶ原の案内板の配置は、この「日本戦史関原役」の中にある「関ヶ原合戦図」を元にしているとされています。
静岡大学名誉教授の小和田教授の話では「日本戦史関原役」「関ヶ原合戦図」は神谷道一翁の「関原合戦図示」を参考にしているとのことですが、実はある部分において大きな差異があります。神谷道一翁の発表の翌年という異様ともいえる早さでの発表になるわけですが、その短期間にある思惑によって変更を加えたと見るべきでしょう。
神谷道一翁は南天満山周辺に宇喜多(浮田)秀家の陣所を比定していますが、それは現在でも引き継がれています。「関原合戦図示」に関しては神谷道一翁が逝去されてから140年が経過していることから、参考資料として掲載させていただいています。
貴重な書物ですが国立公文書館のデータベースに登録されているので、ログインすればダウンロードして内容を確認することが可能です。ちなみに城郭大系も同様に閲覧したりダウンロードすることが可能です。
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2024/08/30 19:02
龍眼山城 駿河湾 (2022/12/03 訪問)
静岡県牧之原市の龍眼山城の投稿になります。城址は榛原公園になっていて、登城道を登って行くと程なく主郭にたどり着きます。比高は70mほどで、平山城とも山城とも言い切れない微妙な立地です。主郭には展望台があり、太平洋を俯瞰できます。主郭の北西には二の郭があり、二の郭の北端には二重の堀があるようです。
一般には勝間田氏の属城とされているようですが、構造が滝境城に類似していることから、小山城と滝境城を繋ぐ城として武田方に整備されたと見る向きもあるようです(城郭大系より)。余ったスペースに当日撮った駿河湾の写真を載せさせていただきます。
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2024/08/30 13:24
城跡は駅近!! 移築表門もお忘れなく (2024/01/23 訪問)
JR水戸線 宍戸駅から徒歩3分ほどで到着。(常磐線と水戸線の乗り換え駅のJR友部駅からは徒歩20分ほど)
宍戸駅前の踏切を南に進むと、「旧陣屋」と書かれた看板があり、そのそばに土塁が残っています。土塁そばに宍戸の歴史に関する説明板が設置され、土塁の上には末廣稲荷神社が鎮座しています。
また末廣稲荷神社から南へ進み、友部駅の方へ向かう市道沿いにも土塁が残存しています。
周辺には、旧宍戸町役場を改装した笠間市歴史民俗資料館があり、宍戸藩関係の展示も行われています。資料館の建物は国登録有形文化財になっています。
また宍戸城の表門は笠間市土師地区の県道30号沿いに移築されています。
表門へは、JR常磐線 岩間駅から徒歩45分ほどかけて向かいました。別の行き方としては、友部駅から茨城交通の「旭台団地経由水戸駅行」または「旭台循環」のバスで、「住吉団地入口・友部スクエア」下車。そこから徒歩30分ほどです。
表門は茨城県指定文化財になっており、門のそばに説明板も設置されています。
移築門の前を通る県道30号は、車の交通量が多く道幅も狭いので、見学される際は、十分注意して下さい。
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2024/08/30 08:46
ニジゲンノモリで城めぐり? (2024/08/04 訪問)
テーマパークの城めぐり? 第3弾は、ニジゲンノモリ・ドラゴンクエストアイランドのオノコガルド城と魔王城です。本格的な造りだったホグワーツ城(USJ)やシンデレラ城(TDL)などと異なり、いかにも張りぼてっぽい造りが、かえってドット絵当時のドラクエを彷彿とさせます(笑)
屋外型フィールドRPGアトラクションと銘打っているとおり、オノコガルド城で王様から依頼を受けて冒険が始まり、オノコガルドの町や北の森、勇者の丘などを歩き回ってイベントをクリアしながら冒険を進めていきますが、全部自力でクリアしてやるぜ、と意気込んでいたのも束の間、最初のお使いイベントで詰まってしまい、占い師にヒントをもらって何とか続行…。その後は詰まることなく魔王城(写真撮り忘れました…)にたどり着き、ラスボス戦は予想通りの展開ながら大いに盛り上がりました。ドラクエ世代であり、今も城めぐりのお供にドラクエウォークをしている身としては、子ども以上に楽しんでしまいました。
…などというネタ投稿をするのも、本圀寺(真っ当な城でいえば彦根城)以来、あまりの暑さに2か月ほど城めぐりができておらず、今週末の予定も台風で延期せざるを得ませんので、つい…。
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2024/08/30 07:27
歴史民俗郷土館と旧香南町の城跡 (2024/08/15 訪問)
高松空港から近く、歴史民俗郷土館が城跡です。
立派な模擬天守が建っています。
駐車場もあり、無料で入館できます。
中庭に土塁が残っていることからその外側の道路が堀跡なのでしょう。
資料館で旧香南町の史跡マップを発見!
城址もいくつか載っていたので廻ることにしました。
近くの道の駅に移動し歩きます。
まずは横井城。
城跡は水田になっています。
蛇行した川が堀の跡と思われます。
尾池保俊または横井光政が築いたとされます。
次は吉光城、こちらも水田が広がります。
横井城の出城として機能していたようです。
鬼門にあたる北東部には佐賀神社が鎮座します。
さらに行業城と岡館に向かいます。
行業城跡は畑になっていますがそれが城塁っぽい?
そばに水路があり、堀跡と思われます。
道路を挟んで岡館ヘ。
こちらは民家の駐車場かな?
行業城は岡行業の居城で岡館は讃岐守護の細川頼之が行業城に立ち寄った際に築いたとされます。
最後は池内城、こちらも水田です。
僅かに高くなってるかな?
十河氏一族の池内氏の居城です。
午前中とはいえ炎天下の中、遺構の無い城めぐりウォーク約2時間、さすがに堪えました。
帰ってビールが美味しかったことは言うまでもありません。
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2024/08/29 22:19
本宮山城 言のままに願いがかなうのなら (2021/12/31 訪問)
本宮山城は静岡県掛川市にある遠江国一宮の事任八幡宮の本宮山の山頂に築かれていました。この事任(ことのまま)八幡宮は願いが「言のまま」に叶うと社として古くから信仰されてきたようです。ようは語呂あわせが民衆の間で良いふうに解釈されてきたわけですが、清少納言も「枕草子」の中で「ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき(抜粋)。」と紹介していますが、清少納言らしい皮肉もちょっぴり入っているとする指摘もあるようです。
物事を自分たちに都合よく解釈して喧伝するということは、今の我々やマスコミにも当てはまるのではないでしょうか。
そんなわけでこの比高100mほどの山城は城好き以外の人々にも、けっこうな人気があるようです。清少納言に皮肉を受けて尚、願いをかけたいという欲求が湧いてくることを否定できません。皆さんなら何を願うでしょうか?
本宮山城は今川氏の被官・加茂氏の城だったと伝わります。参拝者が頻繁に訪れるだけあって道はそんなに険しくなく、鉄塔の有る曲輪や扁平地を西に進んでいくと磐座のように御神体らしき岩が複数存在する主郭にたどり着きます。
永禄12年(1569)徳川家康の掛川城侵攻の際に加毛氏らは籠城して抵抗しますが、衆寡敵せず落城し、千人余が討ち取られてしまったそうです。そんな悲劇があったとは知らずに、これからも多くの人が参拝しに来ると思います。南無南無‥
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2024/08/29 21:18
将棋駒のモニュメント…☖ (2024/06/15 訪問)
中央郭に将棋駒のモニュメントが…。「一会場で同時に行った将棋の最多対局数(2,362局)」ギネス記録達成を祝すモノでした。これは予想外で,しばらく釘付けになりました。
南郭では常連客と思えるファミリーが。BBQで盛り上がっていて,避けて撮影するのに大変でした…<苦笑>。
なお,主郭の愛宕神社までは意外に距離がありましたので,時間に余裕をもっていただければと思います。
南北朝時代,北畠天童丸が居を構えたとのことですが,最上氏の「圧」に耐えきれず去って行ったそうです。
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2024/08/29 19:55
お台場公園 (2018/08/26 訪問)
幕末に築かれた品川台場のうち現在残っているのは第三台場と第六台場のみです。第六台場は無人島として海上で保全され、第三台場は台場公園として整備され見学が可能になっています。複数の砲台が侵入者に対して横矢ならぬ、十字砲火を浴びせることが可能なようになっており、敵を複数の方向から攻撃することを想定して設計されているようです。第三台場の防衛は忍藩が担い、佐賀藩で製作されたカノン砲が配備されたようです。
靖国神社の遊就館に所蔵されている、品川台場に設置されていたとされる80ポンド青銅製カノン砲は安政元年に湯島大砲鋳造所(東京)で製造したものとされています。口径25cm、全長3830cmの滑空砲ですが船舶用の大砲に似た特徴を有していることから、ロシアのディアナ号が下田で横転した時に散らかしていった大量の大砲を改修して使用したという見方もあるようです。
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2024/08/29 19:17
ハナマキマキ (2015/05/04 訪問)
マキマキといえば‥‥ミスターカーメン? う~ん、正解(でいいか)。ではハナマキといえば‥そう岩手県花巻市の花巻城です!
私立花巻小学校の東の鳥谷ヶ崎公園が本丸とされ、西側と南側に堀切が切られ、その周囲が二の丸になるようです。花巻小学校とグラウンド、花巻市武徳殿あたりですね。その南側、花巻幼稚園から鳥谷崎神社の周辺が三の丸と思われ、近くに三の丸公園が有ります。「余呉クンとお城のホームページ」さんの縄張り図を参照にさせていただくと花巻市役所のあたりに大手門が有ったようです。
本丸跡には模擬の西御門が再現され、鳥谷崎神社には円城寺坂搦手門が移築されています。
戦国期には稗貫氏の城で、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏が没落した後は秀吉家臣・浅野氏が入りますが和賀・稗貫一揆によって一時奪還されます。翌年一揆勢が鎮圧された後は南部領となり代官として北秀愛(ひでちか)が入ったそうです。この一族、親兄弟から子供に至るまで名前に「愛」が入ってます。なんか微笑ましいですが「愛」と書いて「ちか」と読むようです。
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2024/08/29 10:19
【甲斐 谷村陣屋】山梨県都留市 陣屋跡は裁判所 (2024/08/24 訪問)
谷村城探訪中、谷村第一小学校校門の斜め向かいの裁判所側の歩道に谷村陣屋跡石碑を発見確認して周囲を散策探訪。
住所:山梨県都留市中央2丁目1(都留裁判所内)
駐車場:都留市役所の駐車場利用
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
谷村陣屋跡石碑は谷村第一小学校校門前の通り県道705号線と国道139号線から小学校に北西に通り通りの北角歩道に在ります。
遺構は無い様で跡地は現在谷村裁判所に成っています、裁判所の周囲は低い石垣塁で囲まれて往時の雰囲気を出しています、石碑の碑文は読みにづらい、案内板は有りません。
この後訪ねた都留市博物館ミュージアム都留の常設展示の陣屋解説によると、江戸期の宝永元年(1704年)秋元氏が川越に移った後は天領と成り陣屋が設けられた、敷地1080坪に代官所と代官の住居である本陣、代官の下で働く手付・手代が住む長屋が在った。
谷村陣屋は初めの頃、代官が直接務める本陣屋とされて居ましたが、享保7年(1722年)以降は石和陣屋(山梨県笛吹市)の出張陣屋として位置づけられていました。
そのころから谷村の絹織物の集散地としての賑わいは変らず大いに栄えていました、現在も往時の曳き廻し屋台が現存しミュージアム都留のも展示されて、毎年8月末にはお祭りの屋台曳き廻しで町中が賑わっているようです。
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2024/08/28 23:42
天守他 (2024/08/26 訪問)
所要時間は1時間ぐらいです
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