最後の藩主は、西尾氏で、三万五千石です。
全国でも珍しい、玉石の石垣があります。あんな形の石をよく積み上げたと、感心しました。
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2023/05/28 05:41
2023/05/03 11:29
移築横須賀町番所 (2023/04/10 訪問)
横須賀町番所は東大手門外に建っており、維新後の建物解体移築の中、元の所に残されおり、民家として昭和51年まで使用されていた処、家主より寄贈を受け一時保管し、民家としての増改築部は取り外し、昭和55年現在の掛川市大須賀支所敷地に復元移築した。(横須賀町番所より抜粋)
移築横須賀町番所は横須賀城から東に約1.7km程の県道69号線沿い大須賀支所入り口付近にあります、県道69号線は国道150号線より北の通りです。
もう一つの現存旧城門が横須賀城から北西に約400m程の撰要寺に旧城門(不開門)移築されて山門と成っています。(住所:掛川市山崎1305)
撰要寺の移築門は、まだ訪ねて居らず、機会をみて北東側にある大堀切を下からの観察と併せて訪ねたいと思います。
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2023/05/01 11:00
主郭部天守台・本丸・西の丸 (2023/04/10 訪問)
玉石垣は掛川市のHPでの横須賀城の解説版では玉石積み石垣と記載されています、北の丸跡から本丸の南東角の虎口より入り、天守台、本丸、西の丸、本丸南下を探訪、本丸には横須賀城の立体模型が解説文と一緒に地表展示されてる、また初登城以来見ている最後の城主西尾氏の子孫、子爵西尾忠方氏書の横須賀城址碑は存在感が在ります。
南下曲輪、南下桝形門跡越しに南を見ると遠州灘、宝永4年(1707年)の地震の隆起で入江、湊は機能を失うが、現在は2km程南に太平洋を望む事が出来ます。
天守台には4層4階の層塔型天守が聳えていたとか古絵図で窺える事が出来ますが、相当想像を膨らませる必要は有りますが、佇んで暫し眺めるとよい探訪かと思います。
横須賀城のパンフレットは本丸南下枡形虎口にある案内板掲示には資料ボックスとしてありませんが、掛川市でパンフレットを「掛川三城ものがたり」掛川城・高天神城・横須賀城のセットで発行しています、掛川城、同観光案内所で入手できます。また掛川市HPで8ページのPDFでアウトプットする事も出来ます。
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2023/05/01 10:10
主郭周辺玉石垣と高切岸 (2023/04/10 訪問)
横須賀城の主郭部は本丸に天守台を設け西に西の丸、本丸南に南下曲輪、その下に南下枡形の構造でした、横須賀城古絵図を見ると、天守台には四層四階の層塔型天守が聳え四方海上を睨んでいた様です(御天守想像図は本丸南下虎口の案内板掲示板の写真付き散策マップ?の下に載っています)、また南下枡形門の北側玉石垣上には二層の櫓門が枡形横幅いっぱいに設けられていた(古絵図によると)。
横須賀城の特徴である、玉石積み石垣は本丸南下側の正面と左右面、一段下がった南下枡形門の正面と左右面、本丸に南東面の正面と東虎口に積まれている、玉石の曲面、石積郭の曲面が穏やかでかわいい、城主も余程石垣に拘ったのでしょう、玉石は近くの天竜川、大井川、太田川から産出された事でしょう、説明文では天竜川と記されていました。
北側、東側の裏手は土塁で高切岸に成っています、北の丸側から眺めると高い切岸は圧巻です、時期的に染井吉野桜は終わって居ましたが、チラホラ名残の桜が目を楽しませ、新緑若葉が目に眩しく光ってる良い城探訪でした。
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分類・構造 | 連郭式平山城 |
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天守構造 | 型式不明[3重4階/1578年頃築/破却] |
築城主 | 大須賀康高 |
築城年 | 天正6年(1578) |
主な城主 | 大須賀氏、渡瀬繁詮、西尾氏 |
廃城年 | 明治元年(1868) |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、移築櫓、枡形虎口 |
指定文化財 | 国史跡(横須賀城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 静岡県掛川市西大渕 |
問い合わせ先 | 掛川市役所観光交流課 |
問い合わせ先電話番号 | 0537-21-1121 |