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赤い城

住宅地の中に (2025/06/18 訪問)

仕事で近くまで来たので立ち寄りました。
地下鉄の守口駅から向かい、徒歩で5分くらい。
難宗寺周辺が主郭跡ですが遺構は残りません。
このお寺には太鼓楼があり、城っぽさはなんとなく?
太鼓楼の前には京街道の石碑が立っていました。

近くの盛泉寺周辺が二郭跡とのこと。
こちらも遺構は残りません。
この2つの郭で成る連郭式平城だったとされています。

時間的にもあまりウロウロ出来なかったので早々に立ち去ることにしました。

【見どころ】
 ・難宗寺の太鼓櫓

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todo94

万博翌日の攻城⑤ (2025/05/11 訪問)

難波宮からの転戦です。多門櫓、千貫櫓、焔硝蔵の特別公開は真田丸の年2016年と2018年の2回、参加しましたが、乾櫓の特別公開は、未体験です。残念ながら5月6日が公開最終日でした。そんな中、狙っていたのは豊臣石垣館でしたが、大天守のチケット売り場の長蛇の列を目にしてあっさりと断念いたしました。混雑する城は開城前に並ぶに限りますので、朝一で駆け付けられる機会を待ちたいと思います。G24献血ルームでの献血を狙う際がチャンスかなと思っています。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:太田城 (2025/05/27 訪問)

宿泊ホテルから徒歩10分くらいで、堤防跡付近(34.234547、135.200632)に着きました。
その後、来迎寺山門前(34.230459、135.1958040)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)に第64代国造俊連が築城したとも云われて、太田氏の居城として知られています。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による「太田城の戦い(太田城水攻め)」の舞台となった城であり、この合戦は備中高松城、武蔵忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつに数えられています。

水攻め堤、いい味出してました。
来迎寺山門入って左側に説明板がありました。
来迎寺の跡、大立寺に移築城門を見に行く予定でしたが、雨が降ってきたので、ここで撤収しました。
本日の夕飯は、めはり寿司とくじらの刺身です。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先ホテルに戻りました。
歩行歩数=36384歩、歩行距離=25.5Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:土丸城 (2025/05/27 訪問)

雨山城からの転戦です。

1347年(南朝:正平2年/北朝:貞和3年)ごろに北朝方の日根野氏が築城したとされています。
1347年(南朝:正平2年/北朝:貞和3年)北朝の足利尊氏の命を受けて、和泉国守護に就任した高師泰は、雨山の麓、熊取荘に隣接する日根荘の武士であった日根野盛治にこの城の守備を命じました。
しかし、尊氏・直義兄弟の内乱(観応の擾乱)から高師泰は左遷され、南朝方が勢力を盛りかえした結果、1352年(南朝:正平7年/北朝:観応3年・文和元年)から翌53年の戦いで日根野氏は南朝方に土丸城を奪われました。
1378年(南朝:天授4年/北朝:永和4年)南朝方の橋本正高・和田正武らが土丸城を拠点として北朝方と戦ったが敗れました。
橋本正高は、1379年(南朝:天授5年/北朝:永和5年)と翌1380年(南朝:天授6年/北朝:康暦2年)にも当城に拠って戦ったが山名氏清らに敗れ、高名里で戦死したと伝えられています。
その後も楠木正勝や山名義理らが当城および雨山城に拠り、15世紀以降も山名氏や畠山氏らの抗争の舞台となりましたが、最終的には1617年(慶長20年)の一国一城令で雨山城と共に破却されたと伝えられています。

土丸城には雨山城の主郭と千畳敷跡の間の道から行くことが出来ます。
土丸城は、雨山城の三の丸とも言われています。
雨山城から土丸城まで結構近いと誤解してしまい、攻城時間の見積もりを間違いました。
このまま土丸城を攻城すると、本日最後の攻城先=和歌山の太田城に日の入までに間に合わない恐れがでた為、途中で攻城を諦め引き返しました。
攻城時間は100分(雨山城+土丸城)くらいでした。次の攻城先=太田城を目指す為、浪商学園前バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、東岸和田駅の宿泊先ホテルに戻り、預けた荷物を引き取りました。
その後、東岸和田駅から和歌山駅に向かい、本日の宿泊ホテルにチェックインした後、太田城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:雨山城 (2025/05/27 訪問)

浪商学園前バス停から徒歩20分弱で、雨山城跡駐車空スペース(34.374629、135.364009)に着きました。

1346年(南朝:正平元年/北朝:貞和2年)に南朝方で楠木氏一族の橋本正高が築城したとされています。
橋本正高は、当城と土丸城とを拠点として、1378年(南朝:天授4年/北朝:永和4年)ごろに度々北朝方と交戦したが、山名氏清軍の攻撃を受けて落城し、1380年(南朝:天授6年/北朝:康暦2年)に高名里で戦死したと伝えられています。
1388年(南朝:元中5年/北朝:嘉慶2年)には、南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、籠城したものの、北朝方の山名義理の攻撃により落城したようです。
その後は、根来寺の根来寺衆の拠点となった時期を経て、1617年(慶長20年)一国一城令で土丸城と共に破却されたと伝えられています。

一郭には休憩所があり、祠が祭られています。1郭南側下に井戸があり、この井戸の下の側面部から土丸城の方に向かいます。
攻城時間は100分(雨山城+土丸城)くらいでした。次の攻城先=土丸城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:千石堀城 (2025/05/27 訪問)

和泉橋本駅から徒歩20分くらいで、せんごくの社里山駐車場(34.418059、135.370135)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、根来衆によって築かれたと云われています。
「石山合戦」で石山本願寺と織田信長が戦った際、根来寺の支城として和泉国に5か所もしくは7か所の城を築いたといわれており、そのうちのひとつのようです。
1585年(天正13年)の羽柴秀吉による「紀州征伐」では最初の攻撃目標となり、大谷左大仁を大将として千数百人が籠城しましたが、筒井順慶・堀秀政・大谷吉継らに攻められ落城したようです。

案内標識とテープに従って進めば辿り着きます。
現在城址に遺構はありませんが、案内板が設置されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=雨山城を目指す為、和泉橋本駅から、電車➡バスを乗り継いで、浪商学園前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:稲葉城 (2025/05/27 訪問)

松尾寺城から徒歩40分くらいで、菅原神社駐車場(34.430642、135.436439)に着きました。

稲葉城は菅原神社の西背後に築かれています。菅原神社は1473年(文明5年)に城主稲葉元春が京都北野神社より勧請して祀ったのが始まりだそうです。
稲葉城は1476年(文明8年)稲葉元春によって築かれたと云われています。
1580年(天正8年)城主稲葉元春は織田信長に対抗した本願寺方の武将として軍勢と戦い、稲葉城も落城したそうです。

城の縄張りは、神社本殿あたりが二の曲輪、空堀を隔てて一の曲輪、更に西側(現在果樹園)にも曲輪を配しているようです。
祠の後ろに回り込もうとしたら、凄い警告音がなり、近ずけませんでした。
後で知りましたが、境内撮影禁止だったんですね。城びと先人の皆さんの投稿を先に確認していなくてすいません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=千石堀城を目指す為、稲葉(岸和田)バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、和泉橋本駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:松尾寺城 (2025/05/27 訪問)

和泉青葉台バス停から徒歩15分くらいで、松尾寺第3駐車場(34.434057、135.463830)に着きました。

松尾寺城は現在の松尾寺を中心とした山岳寺院を利用した城であったそうです。
松尾寺は672年(天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まり、その後、泰澄が中興し、熊野、吉野、白山の権現を勧進したそうです。
1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたそうです。
南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされます。
織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束します。
しかし、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまいました。
その後、1602年(慶長7年)豊臣秀頼による金堂の寄進などにより再興が行われました。

堀切、竪堀を確認しましが、石垣は見ていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲葉城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:仁王山城 (2025/05/27 訪問)

宿泊ホテル最寄りの東岸和田駅から電車➡バスを乗り継ぎ広野バス停に着きました。
そこから徒歩15分くらいで、登城口付近(34.428216、135.540347)に着きました。

ネットを検索しましたが、情報が無く、1332年(元弘2年)に楠木正成によって築城されたくらいしかわかりませんでした。

井戸跡、切通し、土塁、土橋が確認できました。
案内板も説明板もないので、井戸跡があった付近の平坦地を仁王山城、その手前の平坦地を火の谷城跡とみなしました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=松尾寺城を目指す為、広野バス停からバスで和泉青葉台バス停に向かいました。

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にのまる

予定変更して。 (2025/03/25 訪問)

若桜鬼ヶ城登城を終え、12:11に鳥取駅に戻ってきました。
このあと13:35発の山陰本線に乗り、各駅停車を乗り継いで6時間強かけて浜田まで移動の予定です。

列車の時間まで1時間と少しあるので、完成したばかりの中ノ御門を見に行こうと、駆け足で鳥取城に向かいました。

中ノ御門は一般公開前でしたが、前回訪問時はまだ建設中だったので完成を見られてよかったです。(朝田さんへのおめでとうクイズ「赤くない橋」はこの時撮ったものです。)

まだ時間の余裕があったので麓を散策していたのですが、(ここまで来て山上の丸に行かないなんて……)と気持ちがざわざわしてきました。

「行かなかったらきっと後悔する!」
「18きっぷにこだわらないで特急で浜田に行けばいいんだし!」
そう思っててっぺんを目指すことにしました。

この日二つ目の山城でまぁまぁきつかったですが、山伏の井戸を過ぎ足元に瓦片が散らばっているのを見つけると、やっぱり来てよかったなぁと大満足でした。

下りは登り以上にへろへろで、岩から岩へ因幡の白兎よろしくぴょんぴょんと跳ねていく地元の高校生に何人も抜かされました(><)

そして15:14発の特急スーパーまつかぜに乗ることにしたのですが、これで浜田まで行くと当初の予定より早く着きますが運賃・特急料金も結構かかります。
そこで時刻表とにらめっこ。スーパーまつかぜは米子で当初乗車予定だった各駅停車に追いつくことがわかったので、鳥取→米子間だけ乗り、米子で各停に乗り換えて浜田へ向かいました。
大成功です🙌

20時過ぎに着いた浜田駅前にはルートインの緑が輝いていました。
私のお宿は青い東横インでした。

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しんちゃん

かつての国府跡 (2025/04/13 訪問)

古国府城は小矢部川の左岸の台地状に築かれていました。勝興寺一帯が城址とされ、周辺から「椿の道」にアクセスすれば、城址を囲む土塁と堀を見ることが出来ます。かつては、ここに越中の国府が置かれ、城の名と地名にその名を残しています。
神保氏が長尾氏に放生寺城を追われた後に、守山城(二上城)などに拠って越後勢と対峙しますが、古国府城はその出城として機能したとされています。

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しんちゃん

室町10代将軍がやって来た (2025/04/13 訪問)

放生津城は放生津城小学校が本丸と見られ、北側に土塁のようなものがありますが、遺構との関連は不明です。
案内板によると「太平記」には元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族と共に放生津の城で最期を遂げたと記載があるようです。室町時代には越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏の居城となりました。
明応2年(1493)十代将軍・足利義材(義尹・義稙)が越中に逃れてきたときに、義材は神保長誠に支えられ、放生津に幕府政権を樹立し、京都の細川政元とや維持したそうです。
神保氏はやがて長尾氏に追われ、拠点を富山城に移し、後に放生津城には加賀前田氏の家臣が入り、江戸時代の初めまでに廃城になりました。

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ぴーかる

大光寺城 (2025/04/28 訪問)

【大光寺城】
<駐車場他>コミュニティセンター駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目7城目。現地説明板によると大光寺城は13世紀代に曽我氏によって築城され、南部氏・津軽氏と城主が変わり、1610年弘前城の築城にともない廃城となったようです。
 現地には表面観察できる遺構はなく、現地説明板の写真にあるように、発掘調査ののちに埋められたようです。説明板と城跡碑(痛恨の撮り忘れ)があります。また弘前城の北門(亀甲門)は大光寺城追手門を移築したものといわれているようですが、弘前城の北門の説明板(添付)には転用材が多く使われていることが記述されています。私も実視して弘前城の現存城門は北門・東内門・東門・南内門はほぼ同じ大きさ・形状の櫓門であったことから、移築城門ではないなあと感じました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

不悪糺斎右京輔 (2025/04/13 訪問)

若栗城の城主は不悪糺斎右京輔(へんな名前)と伝わります。天文23年(1554)に上杉謙信の侵攻を受け、城主・糺斎右京輔とその姫君が奮戦するも落城したとされています。「姫」の情報を知りたいのですが、城郭大系にも載っていません。気になるなあ。
遺構は土塁がコの字状に良く残っており、階段が付いているので土塁の上を歩くことが出来ます。また、糺斎右京輔の他にも「織田太郎左衛門」が城主であったともされていて、上杉謙信か景勝のころに、この城で討死したということです。
なんにせよ、城主についてはハッキリとした情報はないようです。

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朝田 辰兵衛

クマの気配はありませんでした…🐻 (2025/05/11 訪問)

登城口手前の田んぼで,田植え作業中でした。そんな中での登城でしたので,クマがいたとしてもひっそりとしていたと思います。
登城道を進むと,丁字路の尾根鞍部に出ます。右に進むと前御殿。左に進むと奥御殿となります。

さて,昨日も書き込みましたが,6/26~7/2まで遠征に出かけます。みなさんの書き込みはチェックしますが,書き込みはお休みします。

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Ciel先生

一郷山城のドローン空撮 (2025/06/20 訪問)

知人より一郷山城を紹介され訪れました。
ドローンにて空撮をしたかったので、群馬県高崎市吉井支所産業課商工観光様にドローン空撮の許可をいただきました。
当日は管理人さんより快くドローンを飛行させていただきました。
また商工観光課様や管理人さんから、11月は空気が澄んでいて近隣市町村だけではなく、遥か遠くの山々まで眺めることができるという貴重な情報をいただきました。
再度訪問に意欲を燃やしております!

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史跡指定されました 祝㊗️ (2025/06/20 訪問)

 6/20に史跡指定決定がTVのニュース番組で流れました。びわ湖放送とNHK大津放送局と極くローカルでした。市長が会見している様子と資料として、直近の発掘調査を踏まえて、見直された縄張り図も放映されました。史跡指定場所は、発見された三の丸石垣あたりと本丸です。
 ということで、先日の岡田さんの講演資料の新旧縄張り想定図を掲載してご紹介します。前の投稿でも述べましたが、以前は、微妙にカーブした道が、二の丸と三の丸の間の堀跡とされてました。新縄張り図では、カーブした道は特に遺構に反映されていません。講演後、岡田さんに、「ではこのカーブは何でしょう」と質問してみましたが、今は分からないと。講演では、三の丸石垣の対岸の石垣や舟入が見つかったことやピンポール調査で、発掘された石垣の延長にも石垣が埋まっていることも報告されてました。
 昌官忠さんの毎朝の怒涛の投稿及び中身がすごいですね。山城の梯子もへっちゃら。坂本城にも来ておられますね。昌官忠さんの一連の投稿が一段落したら、私も投稿しようかなと思ってましたが、マイページを拝見すると、25日間の東海地方と関西地方城巡りのまだ半分ほどの投稿なんですね。畏れ入りました。

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じゅんじん

大道寺の松井田 (2025/02/11 訪問)

群馬県最大級の山城です。大道寺政繁が大改修しました。豊臣方の大軍を1ヶ月食い止めました。

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トク

白亜の天守と再現された鉄板は綺麗でした (2025/06/07 訪問)

福山城は3回目の訪問ですが、北面に鉄板が張られリニューアルされてからは初めての訪問です。外壁も塗り直され屋根や内装もとても綺麗に生まれ変わっていたのでビックリしました。中は歴史博物館になっていて、春風亭昇太さんが解説するビデオなどもあり、とても楽しく分かりやすい展示でした。また見入っているとホテルウーマンのような制服を着た方が来て説明してくれたので、何やらちょっと緊張しました。まるで高級ホテルにいるような雰囲気です。そういえば現在はキャッスルステイもできるそうなので、どなたかぜひ宿泊体験を!(一泊2名で132万円)。でも入場だけなら500円です(笑)。

築城者の「水野勝成」は家康の従弟にあたり、関ケ原や大坂の陣での活躍で福山10万石を賜り、伏見城の伏見櫓は家康からプレゼントされ移築したようです。またわずか10万石にもかかわらず50万石に相当するようなこのような大城郭を築けたのも、家康からこれで西国を監視せよとのお墨付き(金銭援助)があったからだとか。これで当時は外様しかいない西国大名たちに「おれは譜代、しかも従弟だぞ!」と自慢したのかもしれませんね。

幕末の城主、日米和親条約を結んだ事で有名な「阿部正弘」は、江戸で生まれ福山には1回しか帰れなかったと知りました。でもその時は農民一人一人にも笠をとって手を振ったとか、温厚な人柄が偲ばれます。しかしそれ以降、ペリーの対応に忙しく激動の時代に老中首座を務め、その心労からか37歳の若さで亡くなったそうです。さぞかし無念だっただろうと思いました。
 

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イオ

…船岡山城よ、私は帰ってきた! (2025/03/08 訪問)

応仁の乱において西軍が船岡山に築いた陣城で、戦国前期には細川政賢が籠って大内義興と戦いました(船岡山合戦)。また戦国後期にも足利義輝が布陣して三好長慶と対峙しています。

船岡山の南西麓に自転車を駐めて登城開始。長く続く階段を見上げると、6年前に早春の雨に打たれながら自転車を走らせてここまで来たものの、この階段を見上げたところで心が折れて登城を断念したことが思い出されます。…船岡山城よ、私は帰ってきた! このイオは6年待ったのだ!(ガトー風に)

船岡山の西部は船岡山公園として整備され、東部には建勲神社が鎮座しています。南西の山頂部は東西二段に細長く削平されていますが、公園整備よるものか城郭遺構は見られません。比高は50m程度ながら独立丘のため周囲の見晴らしは良く、陣城には最適の地であることがわかります。山頂部北側の山腹には塹壕のような横堀が東西に長く続き、北麓からの侵攻に備えています。横堀は西端では竪堀となって落ち、東端からは北西に折り返して続いていました。横堀北端近くの削平地は展望所となっていて、眼下には広大な大徳寺が広がっています。

船岡山は豊臣秀吉により織田信長の霊地とされ、明治に信長を祭神とする建勲神社が創建されました。まずは建勲神社に参拝。拝殿には秀吉や柴田勝家、丹羽長秀ら家臣団を描いた額が掲げられていました(金森長近は…?)。縄張図によれば、本殿の奥には堀切・竪堀・竪土塁・横堀を複雑に組み合わせた遺構がある…はずですが、柵に鉄条網までめぐらせて立入禁止になっているため、北裾と南裾から柵越しに覗くことができるのみです。

…ということで、6年越しでリベンジを果たすことができましたが、遺構としては山腹の横堀くらいしか見るところはなく、入れ込んでいた割には…という感じでした。ただ、眺望と建勲神社、そして様々な合戦の舞台に立っているんだ、という感慨は悪くありませんでした。
 

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