三十年ぐらい振りの訪問です。復興天守閣ですが、昭和の初めの建築なので、街に馴染んでる感じがしました。
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2024/12/18 20:51
復興天守閣 (2024/12/14 訪問)
三十年ぐらい振りの訪問です。復興天守閣ですが、昭和の初めの建築なので、街に馴染んでる感じがしました。
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2024/12/18 18:49
浄福寺城散策2/2(主郭~畝状竪堀) (2024/11/04 訪問)
主郭からすぐに東側の尾根へ進んでしまうと,西側の竪堀を見落としがち。西側の竪堀を散策してから,東側の尾根へ進入していったほうが宜しいかと思います。ラストに畝状竪堀が待っていますョ❢
けど,うまく写っていませんでした…<泣>。たしか,赤い城さんもうまく写せてなかったと思います。
そもそも,畝状竪堀の撮影ってムズいと感じています…📷
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2024/12/18 18:28
浄福寺城散策1/2(登城口~主郭) (2024/11/04 訪問)
東京都コンプリートに向けて,残りの中で一番天候に影響されそうな城が浄福寺城でした。ホントは11月2日で攻城の計画を立てておりましたが雨天となり断念。しかし,何とか同じ遠征期間内に変更できました。
八王子駅から浄福寺付近までバスが出ておりますが,ウォーミングアップで少し歩きたいと思いました。
高尾駅北口から「美22」系統のバスで,川原宿大橋下車。約1㎞歩いて登城口の浄福寺到着。主郭の先のほうが楽しそうだったので,あまり時間をかけずに登りました…🐾
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2024/12/18 15:39
2024/12/18 12:33
2024/12/18 11:42
臼杵城探訪 (2024/12/04 訪問)
臼杵城を訪問しました。このお城は、戦国時代大友氏が築城し、その後太田氏が現在の近代城郭に整備したとのことです。
登城口に近い観光交流プラザを訪問し、パンフレットを入手して、登城しました。このプラザには駐車場があり、自動車でのアクセスも容易です。
このお城は現在周りが埋め立てられていますが、古橋口からは見上げる形となり臼杵湾に浮かぶ丹羽嶋の岩上に建つ天然の要害だったいうことが分かります。
再建された大門櫓を抜けると二の丸跡、さらに奥が本丸跡になります。本丸跡には天守台石垣が残っていますが、唯一残る16世紀の石垣だそうです。
なお、現存する櫓は畳櫓と卯寅口門櫓のみの2基です。太田氏の時代は31基の櫓があったとのこと。びっくりです。
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2024/12/18 07:19
香川県の城びと登録物件コンプリートに立直 (2024/12/07 訪問)
香川県の城びと登録物件コンプリートを目指して小豆島へと渡りました。四国行きの定番・前日夜8時前に家を出て淡路SAで仮眠をとり、早朝に高松港にアクセスして高速船に乗船。土庄にてレンタカーを借り受け、皇踏山城に直行しました。野外活動センターからすぐにアクセスできると高をくくっていたのですが、入り口はチェーンで封鎖されていたので、近くの路傍スペースに車を停め、そこから歩いて登城したら結構な歩きでがありました。展望所が二ヶ所あり、小豆島の観光スポット・エンジェルロードを俯瞰することができます。石塁も結構な長さがあり、山頂からの眺望もなかなかのものでした。すっかり時間をかけてしまい、午後には徳島で献血の予約を入れてあったので、星ヶ城の攻城は断念。それでも帰りがけ、晴天の下でエンジェルロードを堪能することができたので満足です。ピクミンブルームの山デコの白ピクミン(皇踏山)まで手に入れることができました。
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2024/12/18 06:59
飲み会前に登城 (2024/12/07 訪問)
楢崎城リアの後、少し時間があったのでもう1城。
国指定史跡の桜山城です。
備後一宮である吉備津神社駐車場を利用、南の住宅地に登城口がありました。
登城口は他にもいくつかあります。
少し登ると神社が建ち、尾根道が南に伸びています。
途中堀切も見られます。
しばらく進んだところに「桜山城入口」の道標があり、右に進むと主郭部にいきますがまずは直進。
南側の尾根道を進みます。
こちらにも堀切、さらに先には墓地がありました。
墓地の先にある祠のある曲輪までで引き返し主郭へ。
主郭も綺麗に草が刈られ整備されていました。
帰りは主郭先の尾根から下山、西側の民家裏手に出ました。
そんなに大きな規模の城ではありませんがそれなりに見どころはあるかと。
飲み会前のよいウォーミングアップになりました。
この後のビールが格別であったことは言うまでもありません。
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2024/12/18 01:12
高天神社 無人のため御朱印授与ならず (2024/12/13 訪問)
(参考サイト)https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/fs/3/7/0/1/7/2/_/______.pdf
政局という家康の家臣(外戚でもある)が囚われていた石窟(1枚目)が…城跡の一角にありました。この城にて天正二年(1574年)に激戦がおこなわれた際に武田側に降り、それから勝頼の怒りを買ってこの石窟に幽閉されたそうです
なんか…護良親王や日蓮上人が幽閉されていた土牢を連想させられますね…夏場は虫が湧き、冬場は寒風がヒューヒュー吹く…過酷な環境が容易に想像できるシチュエーション…ここに何年も閉じ込められた政局
こんな所…絶対入りたくない😅😱
天正九年(1581年)城陥落の際に家康に救出されて温泉療養♨️ それから3年後の小牧長久手の戦いで討死…と説明書にありました。せっかく助かった命なのに…それから数年後にそれを落とす事になるなんて…なんか切ないですね
最初の分岐点…本丸or高天神社の場所まで戻り、今度は神社方面に向かいました🚶♂️ (名称忘れたけど)小さな社に井戸があり…賽銭箱に10円玉を入れてお詣り
それから階段を上って…高天神社の本堂(2枚目)に辿り着きました。100円を賽銭箱に入れてお詣り…柱にチャック付きの透明ケースが掛けてあり、その中にメモ書きノートが入っていて、参拝者が自由にコメントできるシステムとなってました
そのノートに「◯◯市からきました。ここは思っていたより城の規模が大きく、階段を昇ると息があがってしまいました。高天神社にて参拝を済ませましたが御朱印は受けつけてないのでしょうか?よろしければ書いてもらいたかった。けれど悔いはありません」と書き残しました🖊️
それからもう一度…社務所の側まで足を踏み込んで確認すると…なんと御朱印受付の案内が…サンプルも窓にしっかり飾られてました。1枚300円…と言っても対応してくれる職員がいなければ授与できない…という事で残念ながらもらえずじまいで終わりました
高天神社との分岐点があり、もう一つの方向へ進むと二の丸がありました(3枚目)建物の具体的な規模こそ不明…けれど天目茶碗など国内外の陶磁器が多数出土されており、この城が単なる軍事施設ではなく、城内に詰める兵士たちの生活の場にもなっていた様子が伺えるそう
現在は木々が並んでいるだけの様子…けれどここでは柱跡が幾つも見つかっており、武田氏の勢力圏だった頃は何百人もの人間が暮らせるほどの規模の建物があったようです🏠
本間八郎三郎氏清と丸尾修理義氏清の墓🪦(4枚目)…二の丸からさらに右手に…奥に進むとそれがありました。その近くには天正年間の合戦で戦死した者への慰霊碑…空堀も(高低差がエグくて、堀に落ちた敵兵をフルボッコにできたらしい)
墓に葬られてる人物に関しては全く存じてませんが…おそらく城陥落の際に戦死した武田側の武将でしょう。降伏を潔しとせず最期まで戦い散っていった
一応…一回でほぼ全部周れたけど…やっぱり思っていたよりこの城は見どころが多かったですね。それだけ城の規模および機能が多様…そして二の丸で帰りのタクシーを電話手配した私は…入口まで戻って無事にタクシーと合流して乗車🚕 駅まで戻ったのでした
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2024/12/17 23:03
足利基氏館 埼玉県東松山市 (2024/05/06 訪問)
足利基氏館は現地に足利基氏の塁跡と記した案内板が立っています。足利基氏は足利尊氏の次男で初代鎌倉公方とされる人物です。貞治2年・正平18年(1363)に芳賀高貞が反乱を起こした際に(岩殿山合戦)基氏が当地に布陣したとされ、戦の間の短期間しか使われず、また地元豪族が造った館を陣地として利用したものと考えられています。
案内板の西側に南を除く三方を土塁と堀で囲まれた一帯があり、民家とも隣接しています。民家の脇から、敷地をさけて訪問し林の中の遺構を確認しています。周囲には坂上田村麻呂ゆかりの弁天沼も有り、弁財天を祀っています。
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2024/12/17 22:34
源氏骨肉の争い (2024/05/06 訪問)
大蔵館は木曽義仲の父・源義賢の居館とされています。館の中心部は大蔵神社の周辺とされ高土塁が残っています。大蔵神社の東側にも土塁が残っており、その北側に大手虎口が設けられていたようです。
源義賢は久寿2年(1155)8月、異母兄義朝の長男・悪源太義平に大蔵館を襲撃され討たれてしまいます。当時二歳の駒王丸(木曽義仲)は畠山重能・斎藤実盛らによって助けられ、木曾谷の中原兼遠に預けられました。
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2024/12/17 22:07
2024/12/17 20:12
高城 (2024/11/23 訪問)
【高城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.600096, 136.469149>の畑の方に車を寄せれば1台停めれる。
<交通手段>車
<見所>竪堀・主郭の凸凹
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅6城目。高城は北畠氏の北伊勢の拠点、阿坂城の支城で山脈から東に延びる尾根の先端部に高城があります。
登城口は上記駐車ポイントのすぐ北側にあります。土手を上がって黄色い手すりの極小の橋を渡ってすぐ左方向の笹をかき分けて進むと踏み跡の道に出ますので西方向に進むと説明板、左手に竪堀、主郭の東虎口があります。城跡は単郭方形の高土塁ですが、ちょっと変わっているのが主郭内部の平地が凸凹とした遺構になっています。主郭内に堀や土塁があったみたいで、陣城みたいな感じになっています。主郭の北西部にも虎口があり北西隅の土塁がひと際高く、土塁上が櫓台になっていたようで削平地になっています。単郭方形の城跡で広い主郭を持つ内部は現在は埋められているが、かつてはこんな感じだったのもあったのかも。
<満足度>◆◆◇
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2024/12/17 18:29
2024/12/17 15:40
佐伯城探訪 (2024/12/04 訪問)
佐伯城を訪問しました。このお城は江戸時代毛利氏が拠点として築城した山城とのこと。
自動車でのアクセスで、佐伯市歴史資料館の駐車場を利用しました。登城前には、この資料館でパンフレットを頂きました。
登城は三の丸櫓門からです。この櫓門は唯一現存する建物とのことで、堂々としています。本丸跡までの登城ルートは2つありますが、当時のメインルートの「登城の道」からとしました。
山頂の城郭までは麓から約20分強の工程です。全体は比較的コンパクトですが、二の丸跡、本丸跡、それらを繋ぐ廊下橋など城跡内は石垣はなかなか立派のものです。
結構、地元の方なのか登城者も少なくなく、本丸跡にて豊後水道から四国方面の眺望を見ていると声をかけられました。山城では珍しい出来事でした。
見どころの一つとして、本丸外曲輪跡の奥の斜面に雛壇状石垣があります。4段あるとのことでしたが、草に覆われていて少し分かりにくかったです。
帰りは、もう一つの「独歩碑の道」ルートを使ってのですが、こちらのほうが、なだらかで登城しやすいですね。
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2024/12/17 14:47
本丸外周の景観 (2024/11/24 訪問)
二の丸北東辺りと他を散策の続きです。
二の丸東鉄御門跡から入り東門より観覧料500円を払って入城、二の丸広場はイベント開催中、久しぶりの名古屋城ですが4時前に入り、そう時間も無いので本丸の外側周囲を南東隅櫓、本丸東門エリアを遠望し、本丸表二の門、西南櫓、大天守を眺めて御深井丸北西の西北櫓(清州櫓)を近くで見上げる、足腰の痛み、足の裏の痛みが無ければ外濠越しに眺めたいのですが今回はパス、すると外堀越しの対岸に有るはずの「ホテル名古屋キャッスル」が新しく改造されたようで、高石垣に城郭風のホテルに変わってる、以前キャッスルホテルの最上階レストランで名古屋城を眺めた事を思い出す。本丸東御門から本丸内部に入る。
天守閣の木造復元計画はどうなって居るのでしょうか?早く再開など検討いただき、木造復元か?現天守閣の耐震改造か?登れるようにして頂きたい。
本丸内部の景観に続く。
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2024/12/17 12:47
お城EXPO2024に静岡市が出展します!
令和6年12月21日(土)・22日(日)にパシフィコ横浜ノースで開催される「お城EXPO」に静岡市が出展します。「お城EXPO」とは城郭文化の振興と発展やお城好きの方々との交流を目的に開催されている日本最大級のお城の祭典です。当日は全国のお城を有する自治体や城郭関連団体のブースやイベントステージ、ここでしか聞けない専門家の貴重なトークショーなどを実施予定です。静岡市も駿府城を中心に静岡の歴史や文化をPRします!
歴史やお城が好きな方々必見です!ぜひお越しください♪
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2024/12/17 06:58
PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城⑦ (2024/11/24 訪問)
新井宿城からの転戦です。大森海岸駅から立会川駅まで京浜急行を利用しました。萬福寺など、梶原景時ゆかりの場所に接してきましたが、ここは、梶原景時とは関係はなさそうです。この日最後の攻城とし、鮫洲駅から帰路に着きました。
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2024/12/17 06:19
琵琶湖に映える夕日と紅葉がきれい (2024/12/11 訪問)
歴史博物館の外観がコンクリート製の模擬天守になっていて「長浜城」と呼ばれています。二階と三階が展示室で二階は「湖北・長浜の歩み」がテーマで湖北長浜の歴史と文化が紹介されており、浅井三代を中心とした展示、三階は領主となった秀吉と湖北の関わりや城下町長浜経営について紹介されています。城は模擬天守ですし、最初はあまり期待はしていませんでしたが、国友の鉄砲や反射望遠鏡が見られたのが良かったです。また五階の望楼からは小谷城、横山城、虎御前山がある山々を望めますし、夕日に映える琵琶湖もとてもきれいでした😄。今年は紅葉が遅く今が見頃です。
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2024/12/17 05:51
小弐氏の栄枯盛衰(2/3):岩門城②(岩門合戦) (2024/12/09 訪問)
岩門城①の続きです。
北の曲輪に着くとここからは福岡市内が一望できました(写真①②)。ここは見張台だったと思われます。市街地の先には博多湾、左に能古島、中央に志賀島、右に立花山(立花城)まで見えました。そして帰りは、行きと異なり高津神社の方を経由して鳥居をくぐる石段を下りて帰りました。高津神社は前回お伝えした、安徳天皇を匿った原田種直が建てた神社のようです(写真④⑤)。
二度の元寇を命がけで戦い、見事勝利したにもかかわらず、九州の御家人たちには恩賞が与えられませんでした。小弐景資は安達泰盛とともに鎌倉幕府に直談判します。しかし1284年執権北条時宗が死去すると、北条得宗家は鎌倉にて、目障りとなった安達泰盛を殺してしまいます(霜月の乱)。
同じ頃、父の小弐資能が死去すると、兄経資(つねすけ)と弟景資(かげすけ)の間で家督争いが起きます。弟景資の方が人気実績とも圧倒的であったため、兄経資はそれを妬みます。この時、安達泰盛が殺された事を知った景資は仇を討つため、肥後の守護であった泰盛の子安達盛宗とともに挙兵し鎌倉へ向かおうとしました。それを知った北条得宗家は家督争いに目をつけ、肥前守護の北条時定に兄経資と手を組んで岩門城を攻め落とすよう命じ、そして兄経資は弟景資を討ち取りました(岩門合戦)。敵は北条得宗家であったにもかかわらず、まさかの兄に殺されるとは、景資はさぞかし無念だったでしょう。その景資が討たれたとされる場所には墓が立てられていました(写真⑥⑦⑧)。裂田溝公園と高津神社の途中の少し入った所にありました(標識あり)。
「小弐景資・安達泰盛・竹崎季長」、元寇で最も活躍し、日本を救ったこの3人のヒーローたちは、一体何のために戦ったのでしょうか? 小弐景資の墓の前に立つと、あまりにも可哀そうに思えてなりませんでした。
もしよければ、私の過去の投稿(竹崎城・元寇防塁)もまた見て頂き、彼らの活躍を思い出していただければと思います。『みんなの投稿→竹崎季長』で検索して下さい!
次は、その後の兄経資と小弐氏の栄枯盛衰(浦ノ城)に続きます。
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