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赤い城

【赤色立体地図かるた】

荒城も 今や名城 岡城址
(こうじょうも いまやめいじょう おかじょうし)

滝廉太郎の荒城の月のモデル、岡城。
曲はあまり知らないのでなんとも言えません。
100名城に選出されるくらいの城、未訪なので行ってみたい城です。

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しんちゃん

杉山城 (2014/02/07 訪問)

続百名城の杉山城です。規模はコンパクトですが良く手が入っている。この規模の土の城だと古宮城と同じくらいでしょうか。
どちらも良い城です。古宮城は武田氏に加えて徳川氏の改修も入っているという話ですが、古宮城に改修を加えたのは誰なのか?
井戸郭までたどり着いて、本丸までもう少しじゃんと思っていると、延々と本丸まで外周を迂回させられる・・ここで矢の雨が降って来てオジャンです。
地元の学生さんたちが整備に協力してくれているらしいです。草刈りとかでしょうか、地味ですが草刈りは大事です。
ヤブラーに占拠された城址を見るたびにそう思いますね。

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しんちゃん

越前大野城   ぴょん (2013/08/10 訪問)

最初に訪問した時は夏季だったので、無事に模擬天守に入ることが出来ました。この時には天空の城と言うイメージは無かったのですが、山+天守の組み合わせからの眺望は思った以上でした。個人的にはハムスターとウサギだったらウサギですね、どうでも良い話ですが。

大野城は12月~3月まで冬季閉館になります。思ったより閉館時期が早いので訪問するタイミングは選んだ方が良いと思います。

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しんちゃん

太鼓やぐら・織田家廟所 (2014/07/21 訪問)

かつて柏原陣屋の大手門付近に建てられていた太鼓やぐらは石田大蔵神社の本堂近くに移されています。内部は三階の立派な建物で、藩主の参勤交代からの帰りの合図や、火事・大水の時にも使われたそうです。
最上部には「つつじ太閤」が吊るされていると案内板には記載がありますが現在は非公開です。
柏原町東奥の織田家廟所には織田信休から九代藩主・信民までの藩主と一族の墓があります。

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しんちゃん

足摺岬 (2018/01/05 訪問)

四国で岬と言えば、まず頭に浮かぶのが室戸岬・・そして足摺岬だと思います。かつては那智勝浦と並ぶ補陀洛信仰の舞台であり、自殺の名所でもありました。昔はこの辺を歩いていると地元の人が心配して声をかけてきたそうです。
現在は公園化されて、かつてのイメージは払拭されています。とはいえ展望台から眺めると、切り立った絶壁が見渡せ、おそがい感じもします。公園の入り口あたりにジョン万次郎こと中浜万次郎の銅像があります。
元は漁師の子ですが、漂流中にアメリカの捕鯨船に助けられ、船長にその才能を認められた後は、船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンで語学や数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。
当時の日本人では最も進んだ技術や知識を身に着けた人物だったのではないでしょうか。正直言うと、国学とか山鹿流とかはどこか胡散臭い感じがするので、そんなに好きではないんですよ。面白いとは思うのですが。

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しんちゃん

東京タワーの階段 (2015/12/29 訪問)

東京タワーです。お城とは関係ないですが、好きなんですよ・・高い所が。。
眺望の良さって重要で、人が山に登る理由の一つでは無いでしょうか。お城の天守だって上まで行きたいし、きっと徳川家康も駿府城の天守から富士山を眺望していたと思います。
東京タワーですが、実は階段で展望台の間を移動することが出来ます。昔、マガジンの漫画で主人公が足首を鍛えるために東京タワーの階段を使っていたので、私も登って見ました。けっこう登りますが、山城に登ることを考えるとあっという間です。
今でも登れるのかな? 写真でみるとけっこう不思議な空間が広がっています・・昭和を感じますね。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)

 「障子堀 オンパレードの 山中城」(しょうじほり おんぱれーどの やまなかじょう)

 箱根越えの伊豆山中城は北条流の畝堀障子堀が曲輪間に張めぐされて畝堀の展示会場の様相を見せています、西櫓、西の丸周囲の障子堀・畝堀は圧巻です、岱崎出丸北側下の横堀には畝が入り横に長い畝堀でこれも見所の一つ、北の丸と二の丸・本丸間にも畝堀が施されている様ですが草が茂り畝の確認は難しい。
 西櫓辺りからは天気が良ければ秀峰富士山を見る事が出来て素晴らしい景観に触れる事が出来ます。
 

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しんちゃん

五箇山・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

相倉合掌造り集落は住人もけっこういて、安心感があります。菅沼は少し怖かったですね、人を一人も見ませんでしたので。
お昼のお勧めは「五箇山そば」です。山のごちそうと言えば「そば」だけど、五箇山そばには栃の実が入っています。
山菜も大きくて良い。国土の大半を山林で囲まれている我が国は、人が山に入って成り立っていると思います。もちろん登山や登城もその一環だと思います。人が適切に山に入って管理して初めて国の安全や生業が維持されるのだと思います。

五箇山そばの山菜も地元の方が山に入って取ってきているんだろうか。この先も熊に襲われず無事に家に帰ってきて欲しいですね。
見渡すと里山の原風景が広がっていて、心がなごみました。

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しんちゃん

五箇山・加賀藩流刑小屋・相倉合掌造り集落 (2015/10/22 訪問)

寛文7年(1667)加賀藩の流刑地として罪人が五箇山へ送られて来ました。明治維新までの200年間に約150人の罪人が送られてきています。流刑小屋にもいくつか種類があって、集落の中に限って歩ける平小屋、一歩も外へ出られないお縮小屋、小屋の中にさらに狭い檻がある禁錮などが有るようです。写真の小屋はお縮小屋にあたります。
この辺の川の渡しは「篭の渡し」なので一人では逃げることができないようです。
この後、相倉の集落に向かいました。ここは住人がけっこういて、人の気配があります。2013年に訪問した時に、玄関に「おばあちゃんが招き入れても、入らないでください」という貼紙がある家がありました。売店で五箇山そばを食べながら、あのおばあちゃんがどうなったか聞いたら施設に入ったと言ってました。狭い村なので何でも筒抜けなようです。

「五箇山そば」はおおぶりの山菜が入っていて、高野豆腐に栃餅が入っています。この栃の実が重要だと思います。縄文時代からドングリのようにアクを抜いて食べられ、山間部では重要な食糧だったようです。
この栃の実を食べるのは日本だけのようで、古来からの知恵が詰まっています。太古から日本人は山に入り、マタギが熊を獲ったりして生態系の一部を担っていたと思います。完全放置の自然が、本来の自然などと誰が決めたのか?

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2011/06/04 訪問)

 「濠と土塁 睡蓮浮かぶ 安田城」(ほりとつち すいれんうかぶ やすだじょう)

 14年前の6月4日富山城を訪ねて掛かりの方に安田城を紹介され安田城跡資料館に駐車利用、見学後、発掘調査し復元された安田城跡を探訪見学しました。時は6月濠の睡蓮は花開き濠に彩りを添えていました。

 安田城は秀吉の佐々成政征伐戦で秀吉が白鳥城本陣とし前田氏の家臣岡島一吉が支城とし築き布陣したと言われている。中世の平城が田圃の中から発掘調査の上、国指定史跡として保存整備されている。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2025/05/15 訪問)

 ①「東西に 登り石垣 洲本城」(とうざいに のぼりいしがき すもとしろ)

 ②「模擬天守 星霜百世 洲本城」(もぎてんしゅ せいそうももせ すもとしろ)

 今年5月15日に家内の希望の大塚国際美術館と祖谷つり橋観光に付き合いの帰り淡路洲本城に久しぶりに寄り、以前見て居なかった東側の登り石垣を東の丸高石垣下より樹木伐採もされてよく確認する事が出来ました。

 又今年は昭和100年となります、昭和3年に御大典の記念に天守台跡に竜宮城の様な模擬天守が建てられて97年と成って居ます、端折って100年百世として詠んでみました。

 三熊山山上の総石垣の洲本城は何時訪ねても石垣にうっとりと時間の経つのも忘れてしまいそうです、又下の城の石垣、濠も必見で淡路文化史料館には洲本城の展示、資料、情報が有り見学は見逃せません。
 

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todo94

夏のチャシめぐり⑤【城びと未登録】ピリカタイチャシ(北海道稚内市) (2025/08/11 訪問)

樺太記念館を見学しても、まだ時間がたっぷりあったので、8日に続いて再度、宗谷岬に向かいました。その途中、まずは宗谷公園に立ち寄って、間宮林蔵顕彰碑や旧藩士の墓、津軽・会津・秋田藩陣屋之跡碑などをチェックして回りました。そして宗谷公園にほど近い宗谷中学校にはピリカタイチャシの説明板が建っていました。チャシ内に踏み込むことはできませんでしたが、チャシらしい外観は確認することができました。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)

「壱岐対馬 最短出征 名古屋城(いきつしま さいたんしゅっせい なごやじょう)」

壱岐島・対馬と経由して、ほぼ直線ルートで朝鮮半島に到達しています。なんとも・・戦争の時は最短で出かけて行って、平和な時代には迂回して長崎に来てる。まあ直でやりとりするよりはワンクッション入れた方がお互いに良いのかもしれない。
名護屋城の破却は「島原の乱」の後と考えられています。ここは比較的一揆の場所に近いので、破城は念入りに行われたと思います。
まあ、豊臣秀吉の陣城でもあったし、朝鮮への配慮もあったのかも。

1630年代の島原藩では幕府の役人を巻き込んでフィリピンのマニラ侵攻を計画する動きが有りましたが、「島原の乱」勃発により計画は完全に頓挫し日本は鎖国に入っています。一揆軍はスペインの援軍を期待していた向きもあるようなので「島原の乱」は日本のフィリピン侵攻を妨げたいマニラ総督府の工作も関わっている可能性もあるのではないでしょうか?
だとしたら、彼らの思惑どうりに行き過ぎて少し面白くない。

赤色立体地図は国土地理院地図以上に地形がわかりすぎて少し危険です。「有事」の際には某国が工〇船で大量に侵攻してきて、山中を拠点にしながら都市部に〇スや細〇で攻撃を仕掛けることも可能なわけです。普通の人にはただの「赤くて気持ち悪い地図」だけど、見る人が見れば、どこをどう通れば目的地に行けるかすぐに解ってしまいますね。
国も環境省も熊を野放しのままだし、この国は国民の命を守る気が、全然無いように感じます。城址の形状を見るのには便利なんですけどね。

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鵜森神社 (2025/08/14 訪問)

 久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。近鉄四日市駅より徒歩5分くらいの場所にある鵜森神社付近が城址です。以前は遺構はないと投稿してしまい、後で皆さんの投稿を見て土塁が残っていることを知りました。今回は土塁、堀跡を確認しました。昔から予習不足はかわりません。

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赤堀城(三重県 四日市市) (2025/08/14 訪問)

 三重県四日市市にある赤堀城跡に行ってきました。城びとには未登録の城址です。城跡には石碑がありますが、遺構はありません。上野国赤堀庄に住んでいた田原氏が応永年間(1394~1428)に景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。赤堀三家として知られています。


 近鉄四日市駅から徒歩約15分の場所に石碑があります。四日市市内の松本街道と堀木日永線が交わる交差点近くの道路の隅にあります。

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菰野町立菰野小学校 (2025/08/14 訪問)

 久しぶりの登城です。近くへ来たので寄ってきました。菰野藩一万二千石の大名ひじかた氏の居城跡です。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城壕に堀の一部などが残っています。以前来た時は堀跡などを観ていなかったので、近くまで来たので再訪しました。菰野城跡の碑が建っているのは藩邸の庭園があった所です。菰野町のHPを見ると「また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られる。」とありました。隅櫓後は説明板がありますが、石積の遺構はよくわかりません。

 近鉄湯の山線「中菰野駅」から徒歩5分くらいの場所にあります。

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小城小次郎

横山党と八幡八雲神社 (2025/01/05 訪問)

ここが確かに横山党館である物証はないが八幡八雲神社は横山党の祖である小野氏が10世紀に建立したもので、境内には大江広元が和田合戦の後に小野氏の霊を鎮めるために建立した横山神社も残る。ここで間違いないのだろう。

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見性寺と力尾城 (2025/08/14 訪問)

 三重県菰野町にあるひじかた氏の菩提寺見性寺とその裏山にある力尾城(城びと 未登録)に行って来ました。ひじかた氏関連ということでここで投稿します。

見性寺
 臨済宗、妙心寺派に属し、菰野藩主ひじかた家の菩提寺です。境内にはひじかた家歴代藩主の墓などがあります。「八重姫について」という説明板がありました。八重姫は織田信雄の娘(織田信長の孫)で初代菰野藩主ひじかた雄氏の妻となった人です。雄氏が江戸や戦場に出ることが多く、藩主不在となる間菰野藩の政務を取り仕切りました。病弱であった2代目藩主雄高の藩政を支え、雄高が亡くなった後は14歳で藩主になった雄豊を支えたと伝わっています。菰野町では「八重姫伝」というマンガを制作しています。

力尾城
 見性寺の裏の山が力尾城です。遊歩道が整備されていて容易に散策することができました。土塁や曲輪跡と思われる削平地があります。ただどこまでが遺構なのかはわかりません。それらしき場所を撮影しましたが、自信はありません。1583年織田信雄の家臣であったひじかた雄久によって築かれた城と伝わっています。一時期、ひじかた氏はこの地を離れますが、雄久の子雄氏が1600年徳川家康より菰野12000石を与えられると2代目雄高はここから北東の滝川代官所跡に菰野城(菰野陣屋)を建て居城とします。それまではここが菰野城と言われていました。

 近鉄湯の山線「菰野駅」から徒歩5分くらいで見性寺に行くことができます。菰野城跡からは約15分です。

 皆さんが苦労されているように「ひじかた」が漢字で投稿できません。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2020/11/14 訪問)

「鷲の門 緑色片岩 徳島城(わしのもん りょくしょくへんがん とくしまじょう)」

まだシンプルなのが出てないよな…ということで,いっちゃいます。赤い城さんの阿波おどり系イイですね…。今回は,阿波おどりで決まりかも…。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2025/03/10 訪問)

「本丸だけ 土塁が分厚い 安田城(ほんまるだけ どるいがぶあつい やすだじょう)」

何となく想像はしていたけど、赤い地図で改めてみてみると何かシュールだ。資料館のパネルの写真を見直すと基底部が約14mで高さが約2mの盛土と書いてあるので、それほど間違ってはいないようだ。土塁と言いながら、上は郭のように兵が駐屯できたのかも知れない。
簡易的な多聞櫓みたいなもので囲っていたのかな?
簡素な構造だけど、攻撃の為の城だとしたら、これで良いのだろうか。

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