東濃を代表する山城を三つ、まあ他にも有りますが。「鬼武蔵」と呼ばれた森長可の死後、森家の家督は弟の忠政が継ぎました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前に忠政は信濃へ移封となり、金山城は犬山城主・石川貞清の管理下に置かれ、建築物を解体して犬山へ運び込んだとされています。破城もこの時期に行われたとされ、二の丸や本丸の石垣も入念に崩してあります。駐車場となった出丸の石垣は復元されたものですが、奥の方は古い石垣が残っているそうです。秋にはイベントが有るので、また訪れる予定です。というか、できればもっと早く訪れたい。そろそろ地域限定城めぐりが始まりますね。
小里城は織田信長の岩村城攻めに際して、池田恒興が改修を施しました。岩村城落城後の天正4年(1576)織田信忠が訪れ、城の普請を行い小里光久に渡しています。城は一時、森長可の手に落ちますが、関ヶ原の合戦で小里光親は旧領3620石を回復して登城口の近くに陣屋を構えました。徳川家に仕える旗本となり陣屋を構えたことで、山上の城は不要となり破城となったようです。
元和9年(1623)小里氏は嫡子無く断絶となり、麓の陣屋も壊されました。天守台の石垣は良く残っていると思いきや、後世に修復されているようです。うまく直しよる・・往時の姿が思い浮かばない。主郭周辺の石垣は崩れていますが、自然に崩れたのか破城を受けたのかは不明です。なんにせよ金山城も小里城も同時期に破城となり、それ以降はあえて形状の変更は受けていないようです。
妻木城は明知光秀の妻・煕子さんの実家とされています。妻木氏は関ヶ原の合戦で本領を安堵され山麓に居館を築き、そこで政を行いました。山の上の城は元和年間には放棄されたようですが、石垣は崩されているように見えません。建物だけ撤去したのでしょうか?
この辺りは岩がゴロゴロしていて花崗岩の節理もあるので、見た目的に少しカオスです。
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