いまいじんじろ

今井陣城

神奈川県小田原市

別名 : 今井陣場、御陣場
旧国名 : 相模

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家康本陣
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Tokyobay

徳川だけでなく米軍からも攻撃された土塁 (2025/03/10 訪問)

小田原城攻めではいくつかの戦闘が行われているが、徳川部隊はここを本拠地とし山王口で攻撃を仕掛けている。現地周辺には総構えの土塁が残っているが、太平洋戦争でも米軍から攻撃を受けて土塁が破壊されいるのが印象的。ちなみになんでここが家康本陣だったかというと、湿地帯で長期滞在には非常に不向きだったこと、東から挟み撃ちにされる可能性が高いこと等々、かなりヤバイ場所なので秀吉がイジワルして配置したのではないかというのがガイドの説明。ちなみに、この土塁はブラタモリでも紹介されたとかナントカ。

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トク

114【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と小田原攻め) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑯です。
直政と北条氏との関わりは二度あると以前お話しましたが、その二度目の関りです。それは秀吉の小田原攻めの最中でしした。

1590年秀吉は15万の大軍をもって小田原城を囲みます。この時家康は、城の東側の山王川と酒匂川の間にある今井の地に陣を敷いたとされています。私もその陣跡へ行ってきました。小田原駅前から「城東車庫行き」の箱根登山バスに乗り10分、今井のバス停で下車し、目の前の標識がある狭い路地を入って行ったすぐの所にありました(写真①②③)。

そしてこの近くでは、小田原攻めで唯一の戦いが行われたという場所がありました。総構えのいちばん南東部分にあたる「篠曲輪」という場所です。その篠曲輪にも行ってきました。今井の家康陣跡から15分程歩いた場所です。国道1号線と山王川が交わる現在の「山王神社」が当時は篠曲輪だったようです(写真④⑤)。

秀吉と北条、両者膠着状態が続く中で、井伊直政は赤備え隊を引き連れ、独断で山王口に築かれた北条の出丸であるこの篠曲輪を攻撃し、ここを落としましたとされています。しかしすぐさま、城内から北条軍が出て来て奪還されたようです。

命令違反にもかかわらず、秀吉は怒るかと思えば、「でかした直政!」と数いる武将の中で、唯一独断で攻め入った直政の事を大いに賞賛し、何と褒美まで与えたそうです。秀吉はここで直政をますます好きになったようですね~(これはちょっと家康にとって危ない雰囲気かも・・?)。

次は、直政人生で最大の失態の話へ続きます。
 

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しんちゃん

小田原攻めの家康公の本陣。この周囲に三万の兵が集結。 (2024/01/26 訪問)

今井陣城は天正18年(1590)の小田原征伐の際に徳川家康が陣を張った場所とされています。案内板によれば家康は3万の兵を三方に分けたとされ、三島から宮城野を経て久野・諏訪原に出た部隊、鷹ノ巣城を経て湯坂を越えた部隊、足柄城・新荘城を落として足柄越えをした部隊とが合流して、小田原城の東方のこの地に布陣したとのことです。
案内板や石碑のある、この場所は当時は柳川和泉守泰久の宅地で家康はここを本陣として、およそ110日滞留していたとのことです。ちなみに駐車場はありません。私はどうしたかといいますと、まあ一瞬のことですので‥

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朝田 辰兵衛

ホテルから朝駆け… (2024/02/12 訪問)

小田原駅前のホテルから朝駆けしました。天候には恵まれましたが,朝は寒かったです。越後帰還日でしたが,この晴天のおかげで思ったよりも散策できた一日となりました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 徳川家康
築城年 天正18年(1590)
主な城主 徳川氏
遺構 消滅
指定文化財 市文化財(徳川家康陣地跡の碑)
再建造物 石碑、説明板
住所 神奈川県小田原市寿町4-14-15