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イオ

御土居めぐり(紫竹~府立医大附属図書館) (2025/03/08 訪問)

(続き)

交通公園から紫竹御土居に向かう道中は微妙に入り組んでいますが、自転車を走らせていると御土居のラインに沿った町割りであることを感じます。

紫竹御土居(京都市北区紫竹上堀川町、紫竹上長目町・国史跡)
御土居の北東角にあたり、若狭川を堀代わりとする北辺の土塁と、賀茂川を堀代わりとする北東辺の土塁が遺っています。北辺の土塁は堀川通で分断されながらも、堀川通の西側まで続いています。生垣や柵に囲まれていて中には入れませんが、堀川通の西側にも遺されているのはありがたいことです。

石井神社(京都市北区小山元町)
御土居跡に建つ神社ということで、明瞭な遺構があるわけではないとしても、境内や社殿が一段高いところにあるとか境内の築山が御土居の名残だとか、何かしら痕跡があるのかと思いきや、しっかり削平されていて何の痕跡も見られませんでした。純粋に「跡地」なんですね…。

天寧寺(京都市北区寺町鞍馬口下ル天寧寺門前町)
御土居沿いに設けられた寺町北部の寺院で、山門越しに仰ぐ比叡山は「額縁門」として知られます。宗和流茶道の祖・金森宗和の墓所があるとのことで金龍紀行の一環として訪れましたが(宗和は金森可重の子)、宗和の墓所は見付けられず、代わりに明智光秀公報恩塔を発見。天正年間に会津から京に移転した際に光秀の尽力があったようです。金龍のつもりが麒麟がくる紀行になってしまいました(笑)

阿弥陀寺(京都市上京区鶴山町)
本満寺(京都市上京区鶴山町)
阿弥陀寺には織田信長の本廟、本満寺には山中鹿之助の墓所がある上に、墓地後背が御土居のラインとのことですが、すでに16時を過ぎ、蘆山寺の閉門時間が迫っているためやむなくスルーして次へ。

蘆山寺御土居(京都市上京区北之辺町・国史跡)
蘆山寺境内の墓地の奥に国史跡指定の御土居が遺っている…はずですが、あれ? 閉門は16時半じゃなかったっけ??(16時です) この日はいろいろと寺社をめぐっていますので、ほかの拝観時間と勘違いしていたようです…。境内の奥ということは、蘆山寺には入れなくても外から御土居だけでも見られるかも、と東側に回り込んでみましたが、たぶんこれがそうなんだろうけど…という藪が金網フェンス越しに見られただけでした。

府立医大附属図書館の復元御土居(京都市上京区梶井町)
河原町通沿いの府立医大附属図書館前に土塁が復元されています。蘆山寺御土居から南に続く御土居のライン上です。蘆山寺御土居の東側に回り込もうと河原町通に入ったところで綺麗に植栽された土塁(らしきもの)が視界に入ったので、もしやこれが蘆山寺御土居!?  とちょっと驚きました。

…ということで、せめて国史跡の9か所は全部めぐりたいと思っていましたが、ひとつだけ残してしまいました。でも、金森宗和の墓所を見付けられなかった天寧寺に、スルーした阿弥陀寺や本満寺、せっかく行くなら蘆山寺の源氏庭もゆっくり見たいし、御土居の痕跡がある渉成園にも行きたい…と考えると、かえってひとつ残っているほうが良いのかもしれませんね。今度は6年も間を開けずに再訪したいものです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:中野城 (2025/05/29 訪問)

東松江駅から徒歩で20分くらいで、標柱説明板前(34.256104、135.140153)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に雑賀衆の支城として、雑賀党によって築かれたと云われておいます。
1577年(天正5年)の織田信長による雑賀攻め(第一次紀州征伐)では織田勢を迎え撃つための前線基地となりましたが落城し、織田信忠がここに本陣を構えました。
中野城は弥勒寺山城に本陣を構える雑賀党に対する織田方の陣として利用されたようです。

小学校とその南にあるスーパーオークワの間にある民家の前に標柱と説明板が設置されています。
この民家の土台となっている石垣が城の遺構と伝えられ、その前にある土の部分(黒いシートがひいてありました)がかつて、堀であったようです。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、東松江駅から電車で和歌山駅に向かい、コインロッカーから荷物を取り出した後、電車で御坊駅に向かいました。
ちなみに和歌山駅での電車の待ち時間に和歌山ラーメン(中華そば)をいただきました。
歩行歩数=26253歩、歩行距離=18.4Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:淡輪城 (2025/05/29 訪問)

淡輪駅から徒歩5分で、説明板前(34.331936、135.175314)に着きました。
その後、西林寺鳥居前(34.332126、135.175718)に向かいました。

元久年間(1204年~1206年)頃、この地の地頭となった佐藤忠信の子小治郎重治が居住し、淡輪氏を名乗り淡輪城を築いたようです。
1333年(元弘3年)淡輪正円は足利尊氏に従い、室町期は和泉半国守護の細川氏に従ったようです。
戦国期に入り、天正初期には織田信長に従い、水軍を率いて1576年(天正4年)木津川の戦いで毛利氏の水軍と交戦しました。その後の雑賀攻めにも参加しました。
1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が横死した後は豊臣秀吉に従い、淡輪良重(徹斎)の娘「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督(ここ)の局と呼ばれました。
しかし、1595年(文禄4年)秀次事件で秀次が切腹に連座して、小督(ここ)の局は三条河原で斬首され、淡輪氏は改易となりました。
また、徹斎の次男六郎兵衛重政は1615年(慶長20年)4月29日、大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙(ばん)団右衛門と共に討死したそうです。

説明板がありません。付近を5分くらい捜しましたが見つかりません。
先人のみなさんの投稿写真を確認しましたが、2年前のぴーかるさんの投稿で写っていた建物がありません。
1年前のしんちゃんさんの投稿では建物は無くなっていました。回りの風景は同じなのですが・・・。
説明板は確認できませんでしたが、土塁らしきものは確認しました。
淡輪城は西林寺の南側一帯に築かれていたようですが、西林寺には何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中野城を目指す為、淡輪駅から電車で東松江駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:長藪城 (2025/05/29 訪問)

城山台センターバス停から徒歩15分くらいで、給水塔付近(34.353094、135.614845)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に牲川(贄川)筑後守義春によって築かれたと云われています。
牲川義春によって城が築かれると、義則、義次とつづいて畿内に勢力を伸ばした織田信長に臣従しています。
しかし牲川義清の代の1585年(天正13年)に豊臣秀吉の紀州征伐で攻められ落城しました。

ピンクのテープを頼りに行動しましたが少し迷いそうになりました。
堀切、竪堀などの遺構を確認することができました。
雨がポツリと降りだし、電車の時間の都合上、西城の攻城は断念しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=淡輪城を目指す為、林間田園都市駅まで35分くらい歩き、林間田園都市駅から電車を乗り継ぎ、淡輪駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:九度山真田ミュージアム(和歌山県九度山町) (2025/05/29 訪問)

高野口駅から徒歩30分くらいで、九度山真田ミュージアム(34.291650、135.559601)に着きました。
その後、善名称院(真田庵)(34.290495、135.559621)➡真田古墳(34.290767、135.561366)の順番で巡りました。

真田昌幸&黒田官兵衛推しの自分としては、真田昌幸が亡くなった九度山を訪問するのが今回遠征の目的の一つでした。
ちなみに、もう一つの目的は、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地の黒田城訪問です。(5/26(月)に訪問済)
九度山真田ミュージアムでは、「九度山・真田三代の物語」を見学しました。
善名称院(真田庵)では、本堂/大安上人御廟/真田宝物資料館等の見学、真田昌幸公の墓にお参りをしました。ちなみに、入口に六文銭のお賽銭箱がありました。
真田の抜け穴(真田古墳)、「この穴の向こうは大坂城に続き、真田幸村は監視の目をかすめて抜け穴を使って戦場へ出向いた」という荒唐無稽な抜け穴伝説があったことから、真田古墳と命名されたそうです。
観光時間は60分くらいでした。次の攻城先=長藪城を目指す為、九度山駅から電車➡バスを乗り継ぎ、城山台センターバス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:根来寺 (2025/05/29 訪問)

宿泊先のホテルから和歌山駅に向かい、和歌山駅から電車とバスを乗り継ぎ、岩出図書館バス停に着きました。
そこから、大門➡鐘楼門/聖天池/根来寺/聖天堂/庭園➡根来城跡➡大師堂➡大塔➡大伝法堂の順番で巡りました。

根路寺は1130年(平安時代後期)に開かれたお寺で、最盛期を迎える戦国時代の頃には数百の堂宇が立ち並び、その周りには村落ができ、ひとつの経済都市呼べるほどの規模があった大寺院です。
根来城は室町時代に根来衆たちによって築かれた城です。根来寺の外郭を守備するための砦的な意味合いを持っていたと考えられるようです。
強大な勢力となった根来寺は1585年(天正13年)豊臣秀吉の紀州攻めによって全山焼失してしまいましたが、江戸時代に入り、紀州徳川家の外護を受けて復興され、現在に至っています。

参拝受付は9:00からですが、散歩されている方もいて、外観だけは見ることが出来ました。
国宝、重要文化財が多くある霊験あらたかな寺院です。
見学が早く終わったせいかバスを1時間待ちとなりました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=九度山真田ミュージアム(和歌山県九度山町)を目指す為、根来寺バス停からバス➡電車を乗り継いで、高野口駅に向かいました。

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天守無しがアツい

福井城 天守跡 (2025/06/23 訪問)

福井城本丸の県庁の道を通り…階段を上って天守跡に入る

ここにはかつて…四層五階の天守が存在していたらしい…が、火災で焼失🔥 石の板が残るのみ

戦後間もない昭和23年に福井を襲った大震災は…ここの石垣をも破壊…福井市は(震災の恐ろしさを後世に語り継ぐためか)敢えてその崩れた石垣をそのままにして今日に至る

福の井という井戸が天守跡の側にある…一見これが「福井」の語源か?と思わせられるが…そうでは無いらしい。ちなみにこの井戸は近年復元したもので…水を汲む事ができるそう(蓋が閉じられてるので事実上は不可、あくまで見学用)

天守跡を階段で降りて…外に出ようとすると…山里口御門という門を通る…そこの2階は展示室となっており…城の歴史を学べる。映像展示も薄型テレビを通じてある

御廊下橋…これも近年復元した城の施設…屋根付きの木材がフレッシュ感あり美しい

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ぴーかる

石川城 (2025/04/28 訪問)

【石川城】
<駐車場他>大仏公園駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目ラスト9城目。石川城は別名大仏ヶ鼻城・大渕ヶ鼻城と呼ばれ、周辺の石川十三館の本拠地であったようです。1334年に曽我道性によって築かれました。曽我氏はその後南部氏に制圧され、1571年に津軽為信によって攻められて落城したそうです。弘前城築城とともに廃城となったようです。
 城びと情報では山城区分となっていますが、独立丘陵の丘城といった感じです。現地は公園化されていて、下段の広い曲輪跡はグランドとなっていますので改変されたかどうかはよく分かりませんでした。大きさが変わっていないのであれば、当時はかなり大きな城館が建ち並んでいたかと思われます。上段の曲輪は土塁囲みになっていて、当時の形状のままかと思いました。山の塁線を土塁として尾根上曲輪としています。ピークの反対側の斜面は松林になっていて、斜面にある曲輪や堀が明瞭に残ります。公園には桜が多く植えられていて満開見頃でした。
 これにてこの旅終了。石川城訪城前に下記道の駅に寄り、訪城後に天然温泉花の湯に入り、20時頃出立、帰路のルートは日本海東北自動車道・北陸道を仮眠をとりつつ帰りました。4日目は昼頃大阪に無事帰り着きました。自家用車で東北青森まで行って1周する感じで旅行するのが1つの望みでもありましたので無事完遂できて良かった。いい旅でした。人生最長となる2430㎞走破。

<満足度>◆◆◇

<グルメ>「道の駅ひろさきサンフェスタいしかわ」にて特Aのお米「はれわたり」を買いました。粒はやや小さいですが、もっちりとした食感で少し甘みのある美味しいご飯です。

<温泉>天然温泉花の湯は日帰り温泉で銭湯料金でアメニティ用品・タオルは付いていません。あっさりした透明度のある温泉でした。

<備忘録>初の東北・青森県でしたので、見たひと・町を備忘録として書き記しておきます。
①青森県の山といえば八甲田山とよく聞くので、八甲田山が見えるのかと思いましたが、浪岡や弘前市からは岩木山が美しく見えました。弘前周辺の人々は岩木山と共に暮らしてると思いました。曇り空でしたけれど晴天であればより美しい風景だったことでしょう。
②青森県のアスファルト道は雪でやられてとにかく凸凹で走りにくかった。中央線・車線も消えてしまって、片側3車線の広い道路の真ん中の走行車線も両サイドの車にぶつかりそうで、超走りにくかった。
③でっかい除雪車の中古車が数十台も並べて普通に売られているのにビックリしました。
④とにかく、りんご畑が広がっている。古木と若木の違いが明瞭。りんごの冷蔵所が多く建てられている。
⑤現地の特に女性の方の方言が皆、タレントの王林さんみたいで、生の方言がめっちゃ可愛かった。

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赤い城

お城EXPOin松江 (2025/06/28 訪問)

松江城国宝10周年事業で開催されました。
帰省もしたかったので少しだけ参加して来ました。
EXPO前には米子城と3日間だけ本丸と二の丸が公開される尾高城をリアしました。
こちらのレポートは後日。

11時頃会場に着きました。
開城前は行列ができていたそうです。
入城後、まずはニッポン城めぐりのガラポンへ。
幸運にも姫をゲット、幸先良いスタートです。
城友さんたちとも交流出来ました。

やはり中国地方の城のブースが多かったです。
私の地元の三沢城も尼子十旗のブースで出展していいて、三沢神社の宮司さんの説明も聞くことが出来ました。
地元の方ともお近づきになれ将来の相談事項も解決できそうです✨
各ブースでは資料をたくさん頂きましたが岡山城ブースで頂いた大きな紙袋が大変役に立ちました(感謝)。

また、会場では千田先生をお見かけしました。
ちょっと感激、玉鋼を叩いていらっしゃる姿がお茶目でした。
城ともさんは高橋英樹さんの講演に参加。
これ、聴きたかったです。

もちろん城びとブースにも立ち寄りました。
城びとオールスターズの皆さんにはお会いできないな、と思いながらHNでご挨拶しましたところ耳寄り情報が。
(投稿許可も頂いたので・・・)
この夏、赤色立体地図お城かるたのクラファン出陣決定だそうです。
地形の面白い50城の読み札を募集されるとのこと。
城びとの皆さん、腕が鳴りますね!





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元弘の乱 (2025/06/28 訪問)

 元弘の乱で倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置寺に行幸して御在所とし、鎌倉方の大軍と攻防戦を行った場所です。室町末期には山城守護細川晴元の守護代木沢長政が入城しています。笠置寺を受付からコースが設定されていて散策してきました。巨石が多く山も急峻であるため攻めるのは容易ではなかったと思われます。
「発掘調査の成果から、鎌倉時代と戦国時代の遺構が重複していることが判明しており、防御施設として地表面上で確認できる遺構の多くは、戦国時代に改修されたものである可能性が高いといえます」と京都府教育委員会のHPにありました。発掘調査では南尾根には堀切や土塁が観察されていたようですが、今も残っているのかわからず暑さにも負けて探すこともなく撤退しました。

JR笠置駅より徒歩にて約30分で笠置寺へ行くことができます。
笠置駅前には元弘の乱の笠置山の戦いを再現したモニュメントがあります。矢を射かけるのは三河の国の住人、弓矢の名人足助重範です。敵となる鎌倉幕府軍の攻撃を勇敢に迎え撃つ様子が表現されています。また山の上の笠置寺近くには「南朝忠臣足助次郎重範公奮戦跡」と刻まれた石碑が一ノ木戸跡に立っています。

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山口駿河守幻夢斎

さすがに三日月の丸くなるまで南部領 (2025/06/23 訪問)

秋田からの帰り道、盛岡冷麺を食べたく盛岡に寄った。

歩くしかないのかと思いきや、循環バスが20分ごとに走っているとのこと。1乗車130円で城跡公園の石垣の目の前まで行く。

目の前の高石垣に度肝を抜かれながら、水堀や桝形を堪能しながらの散策。

スタンプが置かれている歴史館の展示も料金のわりに(私は手帳があるので無料)充実しており、盛岡冷麺を忘れて見学した。

この日は東北遠征の最終日。腰もひざも限界で、ふくらはぎもパンパンに張っていたこともあり、すべての見どころを見つくしたとは言えないので、多分また行くと思う。

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山口駿河守幻夢斎

佐竹氏の意地を感じる城跡 (2025/06/20 訪問)

城跡内の芸術劇場でライブがあり、開場までの時間つぶしに散策。

土砂降りの雨の中、壮大な土塁や堀の遺構にすげースゲーと散策した。

佐竹氏は、大幅に領地を減らされてこの地にやってきた。また、転封命令が出たのも収穫前の時期で、もっともお金がない時期だったと聞く。さらに、幕府は佐竹氏の石高を当初確定せずに、城中に上がった際、どこに席を占めていいかわからず恥辱を被ったとも。

そんなこともあり、こじんまりとした館に毛が生えた程度の平城を予想していたが、とんでもないことでした。

石垣こそないものの、水戸城など土の名城を築いた佐竹氏の意地と誇りを感じる城でした。

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イオ

御土居めぐり(鷹ケ峯南~大宮交通公園) (2025/03/08 訪問)

(続き)

大徳寺から西側の御土居跡のラインまで戻って、御土居めぐり続行。北大路通から眺めても紙屋川(天神川)と御土居跡の高低差はかなりのものがあります。御前通(ほぼ御土居跡のライン)には御土居の説明板があるようですが、見落としてしまいました…。

鷹ケ峯(南)御土居(京都市北区鷹峯旧土居町・国史跡)
公園として整備された御土居で、土塁頂部に上ることもできます。土塁上から見下ろし、また下から見上げることで土塁の高さを実感できました。なお、城びとでの御土居の位置情報は此処です。

鷹ケ峯(北)御土居(京都市北区鷹峯旧土居町・国史跡)
御土居の北西角、京の七口・長坂口の脇に柵で囲まれた土塁が状態良く遺っています。道向かいの和菓子屋・光悦堂で柵の鍵を借りて中に入れるようなので行ってみましたが、店主さん(たぶん)が接客から電話対応までお一人で忙しそうにしておられたので、余計な用事(鍵貸して)を頼むのも気が引けて、御土居餅を買っただけで店を出てしまいました…(根性なし)。赤えんどう豆の入った羽二重餅でこし餡を包んできな粉を振りかけた御土居餅は鷹峯名物をうたっていますが、なるほどこれは美味しい! 光悦堂で御土居の鍵を借りがてら、お土産には御土居餅がおすすめです(写真は撮り忘れました)。

ところで、これら二つの御土居は直線距離で約450mほど離れているところ、史跡名ではともに「鷹ケ峯御土居」なのは何故なんだろう? と思っていましたが、鷹ケ峯(北)御土居を角として南に約880m、東に約400m続く御土居跡の削平地は全て「鷹峯旧土居町」なんですね。町名が同じだから(地番は違うでしょうけど)同じ名称になったということでしょうか。御土居自体は失われても地図上にはっきり残る御土居の形状。ぜひGoogleマップで「鷹峯旧土居町」と検索してみて下さい。

大宮御土居(京都市北区大宮土居町・国史跡)
大宮土居町のほぼ全域に巨大な土塁と堀がそのままの姿で遺っています。柵で囲まれていて中には入れませんが、柵越しに見るだけでも大迫力! こんなもの凄い代物が22.5kmにわたって続いていたかと思うと、改めて秀吉の権力の絶大さを感じます。

大宮交通公園御土居(京都市北区大宮西脇台町)
国史跡指定は受けていませんが、交通公園の南辺に土塁が遺っています。両端には階段が設けられて土塁の上を端から端まで歩くことができます。土塁の北裾が窪んで見えるのは堀の名残でしょうか。

交通公園に着いたところで15時を過ぎ、残る国史跡は2か所のみ。北東角の紫竹御土居に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

白樫城(城びと未登録 和歌山県湯浅町) (2025/05/28 訪問)

久米崎王寺跡説明板前から徒歩10分くらいで、満願寺入口(34.031349、135.179940)に着きました。
満願寺裏山が白樫城跡で満願寺裏の墓地より登ることができるようです。

1520年(永正17年)畠山尚順が湯河・野辺連合軍に敗れた後、畠山氏家臣であった白樫氏が満願寺山に城を築き、湯浅5000石を領有したそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の南征軍に対して徹底抗戦を主張した湯河氏に対して、白樫氏や神保氏が秀吉に恭順を示しました。
両者は名島表(広川町)で湯河氏と戦い白樫氏が劣勢でしたが、秀吉軍が湯浅に迫ったため湯河氏は居城亀山城(御坊市)を焼き払い熊野に落ちていったそうです。

白樫城に登ってしまうと和歌山駅への帰りの電車に間に合わなくなるので、攻城は断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、湯浅駅から電車で和歌山駅に向かいました。
歩行歩数=46952歩、歩行距離=32.9Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:湯浅城と久米崎王寺跡 (2025/05/28 訪問)

湯浅駅から徒歩20分ちょうとで、登り口(34.034774、135.192450)に着きました。
その後、国民宿舎湯浅城(34.036399、135.193320)➡久米崎王寺跡説明板前(34.028112、135.183166)の順番で巡りました。

1143年(康治2年)湯浅宗重によって築かれました。
南北朝時代には湯浅氏は楠木氏や畠山氏とともに南朝方に与して戦いましたが、山名軍の猛攻撃を受けて落城し、湯浅氏も滅亡しました。
その後は楠木氏の残党が後村上天皇の孫・義有王を奉じて入城し、紀伊守護に任ぜられた畠山氏に抵抗しましたが、1447年(文安4年)に畠山氏がこの城を三度攻めてようやく落城させたそうです。

看板の下に連絡先が書いてあり、連絡をするとボランティアの方がいらっしゃって、鍵を開けてくれるようです。
自分は登り口についた時間を考えて、連絡するのを遠慮しました。

・久米崎王寺跡
 久米崎王寺は熊野古道の九十九王子のうちの1つです。かつて熊野詣をおこなった人々がここに立ち寄り、旅の無事を祈りました。
 現在は説明板があるだけです。

攻城時間は35分(久米崎王寺跡説明板前までの移動時間含み)くらいでした。次の攻城先=白樫城(城びと未登録 和歌山県湯浅町)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:藤並城 (2025/05/28 訪問)

海南駅前バス停から下津野バス停に向かうバス(有鉄バス)は1日2便&12名定員の小さなバスです。(定員オーバだと乗れません)
出発の15:43まで、海南駅で1時間20分待ちでした。ICは使えず、おつりも用意されていません。しっかり運賃分の690円用意する必要があります。(自分は700円だしておつり辞退しました)
下津野バス停から徒歩2~3分で、藤並城跡道標(34.065060、135.219591)に着きました。

築城年代、城主ともに定かではないようですが、湯浅党支配下にあった下津野三郎が城館を築き、湯浅氏一門である藤並氏、その後は湯川氏、玉置一族の堅田次郎八の居城となったようです。
堅田氏の居城として約300年つづきましたが、1585年(天正13年)に羽柴秀吉による紀州攻めで滅亡し、廃城になったそうです。

現在は果樹園になっていますが、周囲には土塁や水堀が残っています。案内板は北側の堀のところに建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=湯浅城へ向かう為、下津野バス停からバスで藤並駅に出て、そこから電車で湯浅駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:日方城 (2025/05/28 訪問)

日方バス停から徒歩30分弱で、市民の森分岐点(34.164936、135.220082)に着きました。
ここから、市民の森方向に進みました。

詳細は不明のようで、山名氏の大野城の支城と云われています。

最初、道を間違い下山方向に進んでいましたが、間違いに気づき市民の森まで戻りました。
グーグルマップの方向を頼りに深い草の中を西に進みました。
少し進むと平坦地に着き、朽ちた説明板を発見。うっすらと見える城の文字で日方城跡を確信。
さらに進むと草に埋もれたベンチを見つけました。
草が深く、主郭も傾斜していて城跡としての残存度合いは低い。
攻城時間は40分くらい(最初、道を間違えた時間含む)でした。次の攻城先=藤並城を目指す為、海南駅前バス停からバスで下津野バス停に向かいました。

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天守無しがアツい

五十間長屋 (2025/06/24 訪問)

五十間長屋で100名城スタンプをスタンプ帳に押下
御城印が2種類あり…なまこ壁・辰巳用水の両方を購入

長屋には出窓が付いており…そこから石を落としたりして敵兵の侵攻に備える造り…鉄砲を撃つための狭間もある

菱櫓…橋爪門続櫓…と階段で連結している
そのため味方兵同士での連携がしやすい

五十間長屋の後…本丸も散策…しかし現在ここは森で覆われており…天守があった頃の面影はまるで無い

天守は慶長7年(1602年)…初代城主前田利家の死後3年後に…落雷で焼失。その後中心機能は二の丸に移ったため再建されなかった

丑寅櫓という施設もかつてはあったが…宝暦の大火(1759年)で焼失🔥…そこも今は無く跡地のみ。そこから外の景色を眺める

ここ金沢城は城の規模がデカすぎて…一回で全て周るのは無理…なので今回は五十間長屋、本丸、丑寅櫓をという事で

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しんちゃん

えもいわれぬ (2025/01/02 訪問)

沖野城は現在住宅地・畑地になっています。城域は東西約400m、南北約300mとされ、住宅の一角に土塁が残っているようです。
戦国時代に伊達政宗に従った粟野大膳の出城とされているようです。16次に渡る調査の結果、方形の堀遺構も発見されているようです。

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しんちゃん

しんちゃんじょう(ポカッ) (2025/01/01 訪問)

新地城・・しんちじょう・・しんちゃんじょうですか!(違う)急にシンパシーが湧いてきましたね♪ 
永禄年間(1558~70)に相馬氏によって築かれたとされ、本丸を中心に東館・北館・西館の曲輪が配されています。東館跡に駐車場があり、南に堀切があり土橋がかかっています。本丸の周辺には土塁が残り、チューリップ園として市民の憩いの場所になっています。
良く見ると、周囲に遺構が残っており、南側には複数の腰曲輪が配されていたようです。
北方の伊達氏に備えていたとされますが、天正17年(1589)5月20日に伊達氏の軍勢に取り囲まれ、伊達氏は一斉に鉄砲を撃ちかけ新地城は陥落してしまいました。その後、相馬氏は新地城を奪還することは出来なかったようです。

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