設楽ヶ原の古戦場の徳川軍の最右翼・南端あたりに大久保忠世と忠佐の兄弟が布陣した跡地が有り、いろはかるたの看板が立っています。忠世と忠佐の兄弟は共に徳川十六神将として後世の人々に称えられています。また、この合戦での働きを織田信長から「良き膏薬のごとし」と賞賛されています。弟の忠教は鳶ヶ巣文殊山での戦いで初陣を果たし武功を挙げたと、講談で語られることが多いようですが、どうやら脚色された部分が多いようですね。
大久保兄弟の陣所跡には特に遺構は残っていないみたいです。
陣所跡からやや北西に行った場所に高坂源五郎昌澄の墓が有ります。現地の案内板の記載では昌澄は武田四天王の高坂弾正昌宣の子で、設楽ヶ原の戦いの際には25歳の若さで2000の兵を率いて戦ったとあります。初めは長篠城を取囲む城監視隊長だったが、設楽ヶ原前線の信玄南坂に転線を命じられ、悪戦苦闘の末に単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけ斬りこんだが、徳川の将・稲生次郎左衛門との戦いに敗れ討死したとのことです。
また長篠城の西岸の有明村で待機中に酒井忠次らの軍勢に攻撃され、兵力差を押し返せず討死したとする説もあるようです。諸説あるというやつですかね。
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