吉田城は小野寺景道が築いたとされる方形の居館式の城郭で周囲を堀と土塁が囲んでいました。今でも土塁を良く残し道路沿いに堀も残っているようです。
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2023/12/17 17:42
2020/11/08 21:14
方形単郭城館土塁、堀が立派に残ってます (2020/10/26 訪問)
横手市のホテルをGoTo割、地域クーポン券を活用して宿泊、朝飯バイキングはコロナ対策バッチリで早々に済ませ南西の方向約6km程の吉田城を目指す、近くに在る西法寺の東側道にナビを合わせ到着、情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん、駐車場無し、西法寺さん前の邪魔に成らない若干広い路肩にぎりぎり寄せて路駐。
高土塁が目に飛び込んで来る、南の櫓台に案内解説板、土塁堀には草が若干茂ってるが土塁、堀がしっかりと確認できる、北に櫓台的土塁、神社が鎮座、北虎口が有りその北には水堀、余湖図コレクションさん俯瞰図で100m程の方形土塁で囲まれ四隅に櫓台、周囲に水堀、周囲の田圃に囲まれてるので往時は田圃が沼か湿田か?防御に大変効果が有った事でしょう。
現在南の土塁は若干削られ墓地に成ってるがハッキリ土塁跡が分かる、西の土塁は樹木が茂り良く分からないが土塁は分かる、南西角の高土塁櫓台に横矢の土塁構えが残ってる、内部は現在草原、以前は畑だったようです。
良くこの状態で残してくれたと感謝です遠くから訪ねて見学できるのですからこれからもこの状態で保全管理整備をお願いしたい。
歴史的にここも小野寺氏の城、藤原秀郷の流れ名家小野寺氏の兵どもの夢のあと惜しまれます。
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2019/01/20 16:03
関ヶ原後の戦いの城 (2017/10/28 訪問)
田県横手市の吉田城です。戦国時代に秋田県南を領した小野寺景道が築城、隠居後入城したと伝えられています。城は、四方100メートルほどの平城で、横手盆地平野部のほぼ中央に位置し城の西側を大戸川流れる地に、東西南北に高さ2m程の土塁を廻らし、その4つの隅には物見櫓を配し、周囲に幅10m程の水堀があったとされます。景道は父を家臣大和田等の謀反により失い、山形庄内の大宝寺氏(武藤氏)に保護されたのち、大宝寺氏や由利諸将の支援を受け大和田らを滅ぼし、横手城を本拠に領土を秋田県南・由利地方・山形の真室川地方まで拡大、小野寺氏の最盛期を築き上げ、上洛し織田信長に会見後、家督を次男義道に譲って隠居したとされます。景道が亡くなると末子陳道が城主となり1600年関ヶ原の戦いの時、小野寺氏は山形の最上義光に奪われた秋田雄勝郡の領地奪還のため最上氏を攻撃、このため関ヶ原の戦いが終わると、最上氏や周辺大名1万余の軍勢から小野寺領西部の重要拠点大森城が攻撃を受け、同時に、大森城10km東の吉田城へ3千の軍が攻めてきます。これに対し、城主陳道は吉田城の兵5百、横手城からの援兵5百、北8kmの黒川城の5百の兵計15百で、迎え撃ち撃退したとされます。しかし、小野寺氏は反徳川とみなされ改易、陳道は南部氏をたより家臣となったとされ、佐竹氏が秋田に領地替えとなると、佐竹家臣茂木氏が城主となるも1615年廃城となっています。現在城跡は一部南側が墓地となり破壊されていますが、その他土塁が良好な形で残っています。
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分類・構造 | 平城 |
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築城主 | 小野寺輝道 |
築城年 | 永禄年間(1558〜1570) |
主な城主 | 小野寺氏、茂木監物(佐竹氏家臣) |
廃城年 | 元和元年(1615) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 県史跡(吉田城跡) |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 秋田県横手市平鹿町上吉田間内字吉田51-1他 |
問い合わせ先 | 横手市役所 |
問い合わせ先電話番号 | 0182-35-2111 |