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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:英賀城 (2025/05/25 訪問)

英賀保駅から徒歩10分ちょっとで、公園付近(34.806760、134.639517)に着きました。
その後、本丸跡石碑前(34.802756、134.646977)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代初期に赤松祐尚によって築かれたと云われています。
祐尚は赤松則村の孫義則の子で、祐尚没後は姻族の三木通近が在城し、三木氏が代々城主となっています。
英賀城は三木氏の居城で、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城のひとつと称されていました。
1576年(天正4年)に起きた「英賀合戦」では播磨進出を狙う毛利氏を黒田官兵衛がこの地で撃退しました。
1577年(天正5年)織田信長は羽柴秀吉に命じて播磨国に侵攻、1580年(天正8年)には三木城が落城、その後英賀城も落城しました。

城址近くに英賀神社が建立されています。
神社の北側にある英賀城跡公園に復元石塁があるはずですが、見なかったです。
本丸跡石碑付近に英賀城の説明板もありました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高砂城を目指す為、西飾磨駅から電車で高砂駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:三石城 (2025/05/25 訪問)

JR三石駅から登城口入口(34.802632、134.271174)まで徒歩5~6分、そこから主郭まで35分でした。

1333年(正慶2年・元弘3年) 南北朝時代に南朝方として挙兵した伊東大和二郎によって築かれたと云われています。
室町幕府の成立によって赤松氏が備前守護職になると、浦上宗隆が備前国守護代として三石城を居城としました。
1519年(永正16年)浦上村宗は赤松義村から謀叛の嫌疑をかけられ三石城に籠もると、義村は兵を従えて三石城を攻めたがこれを落とせず、1520年(永正17年)に撤退しました。
その後、赤松義村は求心力を失い、1521年(大永元年)浦上村宗は義村を討ち戦国大名へとのし上がります。
村宗の跡を継いだ政宗は宝津城に居城を移し、三石城には城番を置いたが、後に弟宗景・国秀と不和となり宗景は天神山城に自立しました。
その後しばらくは天神山城の支城として維持されたものの、政宗の死後あるいは宗景が宇喜田直家に備前を追われた頃に廃城となりました。

城址は、石垣、土塁、切岸、井戸などがあり、どれも素晴らしく時間がいくらあっても足りないのが正直な感想です。
電車の時間が気になり本丸北側の堀切を見逃すなど、ちょっと残念。機会があればじっくり見学したい。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=英賀城に向かう為、JR三石駅から電車で英賀保駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:大嶋城 (2025/05/25 訪問)

相生市民病院前バス停から徒歩15分ちょっとで、参道入口(34.808294、134.466443)に着きました。
その後、大島山桜公園(34.807273、134.466655)に向かいました。

1104年(長治元年)播磨海老名の祖、家季がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。
1236年(建武3年)別名の下司職であった七代景知は赤松円心に属し、弟の詮季や同族の泰知と共に白旗城にたてこもって新田義貞軍と戦い功績をあげました。
しかし、留守にしていた大島城は新田軍に組した者によって焼き落とされたといわれています。

現在、城のあった山頂部は大島山桜公園と善光寺の境内となっていて、城の遺構は何も残っていないようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=三石城を目指す為、相生駅に向かい、相生駅から電車で三石駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:感状山城 (2025/05/25 訪問)

下土井城から徒歩60分ちょっとで、登山口(34.877607、134.446366)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたとも、南北朝時代に赤松円心の三男赤松則祐によって築かれたとも云われています。
感状山城の呼称は、1336年(建武3年)に赤松則祐が新田義貞の軍を防いだ功績により、足利尊氏から感状を賜ったことに由来するそうです。
ただし、現在も残る石垣は築城当時のものではなく、戦国時代にこの周辺を支配した宇喜多(浮田)氏の手によって改修されたものではないかと考えられています。

登山口付近に「羅漢の里石窯パン工房」、その前に感状山城案内所があり、パンフレット/ガイドマップが貰えます。
登山口から物見岩まで、ほぼ階段(途中から岩の階段ですが)です。
石垣が多用された見所の多い山城で、登山道も整備され見学しやすいですが、立入禁止区画が幾つかありました。
攻城時間は85分くらいでした。次の攻城先=大嶋城に行く為、瓜生東バス停から神姫バスで相生市民病院前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:下土井城 (2025/05/25 訪問)

若狭野陣屋から徒歩25分くらいで、登城口入口(34.843235、134.433303)に着きました。

1267年(文安4年)に岡豊前守が、矢野川と小河川とが合流する三角形の地形にある小高い丘の上に築城したとされるようです。
1600年(慶長5年)に起きた「関ケ原の戦い」で敗れた宇喜多秀家が改易されると、岡氏も没落し、12代・岡光顕は八洞村に閉居したと伝わります。

登城口入口の山方面の民家の奥に「下土井城入口」の道標があります。
城域はコンパクトですが岩盤を切った見事な堀切に、竪堀と見ごたえ満点な山城でした。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=感状山城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:若狭野陣屋 (2025/05/25 訪問)

ホテル最寄りの加古川駅から電車で有年(うね)駅に着きました。
有年駅から徒歩30分弱で、若狭野陣屋前(34.835126、134.415401)に着きました。

若狭野陣屋は赤穂藩主・浅野長直の養子となっていた浅野長恒が、1671年(寛文11年)3,000石を分知されて旗本となり、若狭野陣屋が築きました。
赤穂浅野家の分家旗本三家のひとつで、1702年(元禄15年)に本家の浅野内匠頭長矩が殿中での刃傷事件により断絶となったあとも若狭野浅野家は旗本として存続して、明治維新を迎えました。

法界庵は建物も土塀も崩壊しそうです。門に柵がしてありますが、建物外観は見学できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=下土井城へ徒歩で向かいました。

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ぎりょう

眺望の良さにびっくり! (2025/06/22 訪問)

孫の誕生日プレゼントを届けに名取市に出掛けました。孫は午後からは大学受験説明会の予定とのことで早々と退散。
時間が空いたので、先日訪問した多賀城の東北歴史博物館常設展示の高舘城復元模型を思い出して訪問することに。
とは言え草深いこの時期は遺構の確認はできそうもなく、ここ数日の真夏日、麓からの攻城はあきらめ、「とある煩悩の登城目録」さんの城びと投稿を参考に、熊野那智神社駐車場まで車で登ることにしました。
先ずは神社を参拝。標高は200mほどあり、名取市街から仙台空港、仙台湾まで眺めることができ抜群の眺望です。また、猛暑にかかわらず、若いカップルからお子さん連れと参拝客の多いことにもびっくり。
名取市西部の高舘山に位置し、最高部に神社が祀られており、その下北東側に曲輪群があるようですが樹木が生い茂り確認できません。初冬の頃にでも再度訪問したいと思います。

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朝田 辰兵衛

これで岩手県の未投稿城解消となりました🏰 (2025/06/21 訪問)

しっかり晴天日をチョイスすれば問題ありません。桂林寺の裏参道入口にパネルがあり,ここをしばらく登ります。途中の分岐路で桂林寺に行かないようにご注意ください。舗装道路の終わりから右折です(たぶん空堀道)。しばらく進むと左に道が見えてきますので,ここを登ると2郭の山神社。尾根の舌状地形の先端になります。さらに,ここから尾根を登ると主郭です。季節的に主郭の形状がわかりづらかったです。
「大迫ハンパないって」ということはありません…<笑>。難しい城だったら使いたかったんですけど。
これにて,これで岩手県の未投稿城解消となりました。アップデートしたい城を見つけてしまいましたが,とりあえず。

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ぎりょう

北上市・花巻市訪問その④ 岩崎一揆その後 (2025/06/21 訪問)

岩崎一揆の終結後、和賀忠親は徳川家康の尋問を受けるため伏見に護送されることとなりますが、仙台城下の国分尼寺で近臣とともに切腹します。国分尼寺には和賀主従の墓があります。旧領奪還を企てたこの一揆は、伊達政宗の働きかけが(水沢白石氏が参戦)あったようで、口封じに政宗によって殺害されたという説もあるようです。
慶長7年(1602)、忠親の子主馬義弘(松山初代)は賓客待遇で仙台藩領の松山郷千石村に禄を受けます。一揆から75年後の義直(松山三代目)の代に仙台藩士として召し抱えられます。
松山郷千石村は私の住む大崎市の松山にあり、現在も和賀氏屋敷跡が残っています。

国分尼寺 仙台市若林区白萩町34-5
和賀氏屋敷跡 宮城県大崎市松山次橋和賀山

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天守無しがアツい

玄宮園 (2025/06/22 訪問)

玄宮園…またの名を…玄宮楽々園と言うそうです

入口を入って左手に…楽々園の建物が見えました。井伊直弼がそこで誕生して…少年時代を過ごしたそうです

園内の中央には大きな池があり…それを周回する流れで園内を巡りました

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T-Shionoya

急峻な丘の上の鷲津砦 (2025/04/12 訪問)

前回投稿した大高城とセットで訪れた愛知県名古屋市の鷲津砦。

大高城の北東約700m。大高城とは大高川で分断された標高30m少々の丘陵の西端部に位置し、蓬左文庫の古城図では主郭と馬出状の施設が描かれている砦。

織田信秀(信長の父)の死後、今川方に奪われた大高城奪還のため信長が築いた砦の1つで、飯尾定宗らが布陣したが桶狭間の決戦の朝に絶滅したとのこと。

現在は長寿寺裏の丘陵南面が国史跡に指定され鷲津砦公園となっているが、その北の住宅地が砦跡とする説が有力な模様。

実際に訪れると、丘の斜面がとにかく急峻なことが印象的。
公園中腹の横堀状遺構は、つくられた時代が定かでないが、大高城主を務めた水野氏の墓所への通路であったとのこと。
公園上部の石碑が立つ辺りは、緩やかに傾斜しており削平が甘い印象。

帰宅後に、宅地化された北側エリアが砦推定地だと知り、2週間後に再訪問した私の城郭巡りの203城目でした。

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トク

私のお城巡りのきっかけとなった城 (2025/06/05 訪問)

姫路城の訪問は5回目ですが、何度来てもその美しさには目を奪われてしまします。私が本格的にお城を好きになったのは、30年前にこの姫路城を初めて見てからでした。

私は高校(普通科理系)→大学(情報工学科)→社会人(通信エンジニア)とずっと理系畑を歩んできたので、お城どころか高校・大学と、日本史の授業を受けた事もなく勉強したこともない、よって30年前の初めての姫路城を訪問した時は、美しいなとただ天守だけを眺めていただけの全くの初心者でした🔰。でもここから見たその景色が衝撃的でまぶたに残りました(写真①②の場所)。それから20年後、子供も独り立ちして趣味に費やす時間的余裕も出てきたので、あの時を思い出してお城や歴史の本などを読むようになり、近くの城などにも足を運ぶようになりました。するともっと色々と知りたくなり、その目標として試験がある事を知り、試しに受けてみようかなと思うようになりました。

2度目の姫路訪問(10年前)は、姫路城の前(姫路市民会館)がその城郭検定試験の会場だったので、受験の帰りに立ち寄りました。渦郭式とか入母屋破風とか野面積とか懸魚まで・・お城用語を覚えて行くと、だんだんと細かい所まで目が行くようになり、今までに経験した事のない空気感に浸る事ができました。本当に渦格式なのかを確かめるため最上階に登って見てみましたが、やはりドローンで空から見ないと分からないですね(笑)(写真③)。

3度目の姫路訪問(3年前)は、池田輝政はなぜこのような江戸城や大坂城にも匹敵するほどの大城郭を築いたのか🤔? ふと疑問がわき、吉田城から姫路城までの輝政の人生を追ってみました。輝政の築いた姫路城はこの美しさとは裏腹に、実は鉄壁の防御が施された城でした。ならばここで誰と戦い誰を守ろうとしたのか? しかし輝政は大坂冬の陣の直前の1613年に、脳卒中で突然亡くなったため、それは分かりませんでした(写真④)。この時家康よりまだ22才も若い50才だったそうです。

4度目の姫路訪問(2年前)は、西ノ丸にいた千姫の事が気になり、桑名城から姫路城までの千姫の人生を追ってみました。燃え落ちる大坂城から助け出され、桑名の七里の渡しで出会った本多忠刻に一目ぼれ、家康に懇願しその忠刻と桑名城で結婚、そして国替えで姫路城へ、子宝にも恵まれ今度こそ幸せになれるかと思いきや、子や忠刻に若くして先立たれ、結局ここでも幸せにはなれなかったという、悲しい結末を知りました(写真⑤)。

5度目の今回の訪問は、ある武芸者を追ってやって来ました。その武芸者は少なくとも二度この姫路城を訪れていたようです。「るの門」にそのキーポイントらしきものがあり驚きました(写真⑥)。

姫路城の入場料は現在1,000円ですが、来年3月から2,500円に値上げされるそうです😱! 早めの訪問がお得のようです。

夜は姫路駅構内ピオレの奥にある店で「姫路おでん」を頂きました。一人でも入りやすい場所なのでついつい毎回ここに来てしまいます。お城の形のこんにゃくが、私はとても気に入ってます(写真⑦)。
 

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イタさん

二之宮赤城神社 群馬県前橋市二之宮町 (2025/06/19 訪問)

城館として何も情報がないようである。堀・土塁がよく残るとあり訪問してみました。
神社境内の西に公民館の駐車場があり、すでにそこから西側の堀が見える。鳥居からの参道右側に堀状の水路が見られ、赤い橋で右奥に曲がっている。右奥の堀は途中まで確認する。本殿の北東から境内を出る場所に、分かりづらいが堀跡が確認可能。本殿背後、西側には土塁・内堀がよく遺っている。

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イタさん

宿阿内城/力丸城 群馬県前橋市亀里町/力丸町 (2025/06/19 訪問)

宿阿内(しゅこうち)城跡

先人さんの記事に、文明年間(1469~1487)に三輪氏により築かれたと載る。本丸跡と言われる畑に、「力丸、宿阿内 城の跡」と案内がある。下川淵カルタと書かれいるが、知識不足で初見であった。上毛カルタは有名だが。案内は藤大明神の背後にあたる。神社に隣接する民家後ろに土塁を思わせる高まりがある。

力丸古城跡

貞治6年(1367)に力丸氏により築かれたようだ。ここには立派な城跡碑があり、この辺りが主郭だったのだろうか。現在、町の会議所の北と東に水路が巡り、綺麗な水が流れており、堀の名残だろうか。

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カズサン

夏草茂る真壁城-1/3 濠・壕・堀編 (2025/06/07 訪問)

 石岡城、志筑城を終えて、宇都宮孫達の家に地道を使って移動、昨年の柿岡城からの帰りと同じ道、県道7号線の狭く曲がりくねった上曽峠越え、冷や冷やのドライブ、通り沿いに真壁城の案内、昨年は日も暮れて真壁城パスしましたが、今回は若干時間も有り9年振りに寄ってみる事にし、駐車場の有る真壁体育館(真壁城本丸跡)へ進行。

 ちょっと見の予定でしたが終わってみると1時間超、写真も60枚程撮って居り、濠・壕・堀編、虎口編、曲輪編に分けてみました、先ずは、本丸の真壁城本丸跡案内解説板横に在る資料ボックスの「オススメ散策コース」資料片手に散策探訪。
 本丸虎口土橋よりⅠの堀(本丸堀)南側の水濠、北側の水濠は葦が茂り水は見えない、本来のⅠの堀本丸堀は本丸を一周して取り囲んでいた、二の丸に入りⅡの堀跡も葦が茂り低きを堀と確認できる、中城(三の丸?)に南西虎口と南東虎口がありⅢの堀を確認、外曲輪南虎口より、Ⅳの堀を確認。Ⅳの堀は鹿島神社の南から東、北と廻り込み外周大きな堀とと成って居る、外曲輪東虎口からⅣの堀と土塁を確認、外曲輪北虎口からⅣの堀と土塁を確認しました。
 歩き散策は遊歩道と草刈されてる処のみです。
 堀の名称は資料ボックス散策リフレットによる、Ⅰの堀本丸、Ⅱの堀二の丸、Ⅲの堀中城会所、Ⅳの堀外曲輪と称して居た。

 夏草茂る真壁城-2/3 虎口編に続く。
  

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しんちゃん

時代を越えて弓庄城を落とす勢いで進め! (2025/04/12 訪問)

弓庄城は白岩川の右側の河岸段丘上に築かれた城で周囲を水堀で囲まれ南北に曲輪が連なった堅城だったようです。土肥氏によって築かれ、城主・土肥政繁は上杉謙信の死後、織田信長に従いましたが、本能寺の変の後に上杉氏に従ったため佐々成政の攻撃を受けました。
佐々の猛攻を弓庄城は良く耐え凌ぎますが上杉からの援軍が見込めなかった為、開城して越後に退去して行きました。
敵ながら天晴と言えるでしょう(現状佐々軍)。

本丸が有る程度かつての姿を留めているとの話ですが、堀や土塁が失われてしまったので、いささか解りづらい。かつての本丸の一角に石碑が立ち、その存在を示してくれています。

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しんちゃん

いけいけ佐々軍!! (2025/04/13 訪問)

仏生寺城は現在は舟橋村役場となり、城址東側の高低差に名残がありますが、遺構は残っていない様子。戦国時代に斯波氏家臣・細川曾(宗)十郎により築かれ、付近の竹内館はその出城とされています。後に佐々成政に攻められた際に自刃し廃城になりました。
佐々軍団の皆さん、頑張りましょう!! 全力を尽くして戦えば勝利は必ず訪れますぞ!!

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しんちゃん

がんばれ佐々軍団!! (2025/04/12 訪問)

日中城は白岩川の左岸の段級の上に築かれています。単郭のシンプルな平城(平山城?)ですが周囲を土塁と空堀で囲まれていて、城址をそのまま墓地に転用しているので破壊されることも無く、状態を良く残しています。良い墓地であり、良い城址です。
天正11年(1583)4月に佐々成政が弓庄城の城主・土肥政繁を責める際に築いた4つの砦の一つで、攻撃用の付城とされています。付城を使った戦術は織田信長配下の頃から豊臣秀吉が得意とした戦術で、福岡県の大三岳城の周辺には周辺の山を覆い尽くすほどに吉川・小早川の付城が築かれています。

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イタさん

上泉城 群馬県前橋市上泉 (2025/06/19 訪問)

大胡城の大胡氏一族が支城として築き、上泉氏を名乗ったと載る。城址より新陰流の祖、上泉伊勢守の生誕の地として宣伝している。また本丸に飢饉など非常時に備えた郷蔵が建っている。寛政8年(1796)から明治42年(1909)まで続いたようだ。

城址としての遺構は多く無さそうであった。資料の本丸半分・二の丸は自治会館の敷地になり、本丸北側・東側も民家が建つ。一の郭とある西林寺の東西境の道は堀跡を想像させるがどうだろう。西端の出丸とある玉泉寺は地続きとなる北側に立派な土塁の一部が見られる。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:横倉城(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/24 訪問)

野口城から徒歩15分くらいで、横倉城址(34.751065、134.869232)に着きました。

詳細は不明のようですが、別所氏の一族である野口新十郎厚躬の居城と伝わっています。野口新十郎厚躬は別所頼清の後裔だそうです。

駐車場付近にある加古川市遺跡標(城址碑)と土塁を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
当初の予定はここからライトアップされた明石城を見に行く予定でしたが、疲れてしまいパスしました。
本日の宿泊先に戻る為、東加古川駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=42895歩、歩行距離=30.0Kmです。

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