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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城⑥ (2024/11/24 訪問)

馬込城からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。先達の皆さんと同様、新井宿義民六人衆の説明板、しっかりと拝見させていただきました。

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遠山景重 (2024/12/12 訪問)

 明知遠山氏の居城で、標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した城です。令和6年12月27日まで本丸、出丸で発掘調査が行われていて、この日も関係者の方々がみえていました。遺構はよく残っていて曲輪、竪堀、堀切、横堀、切岸、土塁などを観ることができます。畝状竪堀が一番の見どころだと思っています。
 2年前の全国山城サミット恵那大会に参加したとき以来の登城となりました。よく整備された城址で、気持ちよく散策できます。今回は搦め手登城口より登城し稲荷神社登城口へ下りてきました。

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仲深山砦(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)

 岐阜県恵那市にある明知城の南の万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地する砦です。「なかのみやまとりで」と読みます。東西2つの曲輪群から構成されていて、東側の曲輪は、背後に二重堀切を設けています。この二重堀切が見ごたえがありました。北側には帯曲輪が巡り竪堀を認めています。掘切を隔てた西側の曲輪にも畝状竪堀群がありました。砦と表示がありますが、城郭として十分楽しめます。歴史など詳細はわかっていないようですが、明知城の南を守る砦か、攻撃のための陣城ではなかったかと説明板に書かれていました。明知城の周辺観光で投稿させていただきます。城びとには未登録です。

 明知鉄道明智駅から徒歩15分くらいの所に登城口の表示があり、約10分登れば城域に到達します。城域は案内もあり登城路もある程度整備されているので概ね歩きやすかった。ただ油断してこけてしまった。

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明智光秀の伝承(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)

 明智光秀の出生地はいくつかの候補がありますが、恵那市の明智町もそのひとつです。落合砦の説明板を見ると「明智光秀公は享禄元年(1528年)3月10日、ここで生まれたと伝えられています」と書かれていました。明智町を歩くと落合砦の明智光秀産湯の井戸、明智光秀出生地碑、明智光秀公学問所、明智光秀公手植えの楓、明智光秀公御霊廟、お牧の方墓所など明智光秀関連の場所があります。

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しんちゃん

斎藤別当実盛館 大我井神社 (2024/05/05 訪問)

斎藤別当実盛館は埼玉県熊川市妻沼の大我井神社や北側の妻沼小学校の当たりとされています。実盛公は越前国の出身で武蔵国幡羅郡長井庄を拠点としていたため長井別当とも呼ばれています。実盛公は源義朝に従っていましたが、やがて義朝の弟の義賢に従うようになります。義賢が義朝の長男・悪源太義平に殺害されると再び義朝に従いますが、旧恩を忘れず義賢の遺児・駒王丸を信濃国の中原兼遠に送り届けています。駒王丸は後の源義仲で、実盛公は義仲の命の恩人にあたります。
源義朝亡き後は実盛公は平氏に従い、源頼朝が挙兵しても平氏方に留まります。寿永2年(1183)平維盛らと木曽義仲追討に出陣し、加賀国・篠原の戦いで敗れ討ち取られます。石川県・篠原古戦場近くの首洗池のほとりには、実盛公の首を抱えて悲嘆にくれる義仲と樋口兼光、実盛公を討ち取った手塚光盛らの像があります。

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落合砦(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)

 岐阜県恵那市にある明知城近くにある砦で明智光秀はこの砦で生まれたとの伝承があり、産湯として使ったとされる井戸が残されています。城びとには未登録です。明知城の支城と考えれていますので、ここで投稿させていただきました。千畳敷公園として整備されています。主郭と出丸があり、周囲には曲輪と思われる平坦地を見ることができます。

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しんちゃん

甘棠院 (2024/05/05 訪問)

足利政氏館は現在・臨済宗円覚寺派の寺院・永安山甘棠院の境内になっています。古河公方二代・足利政氏は嫡子・高基と対立し敗れ、出家して当地の館に引退しました。甘棠院は政氏によって開山されたとされています。
政氏の墓は境内にあるようです。南側に門が設けられ、堀が残っています。西側にも堀が残り、北側にも残っているようです。

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しんちゃん

精忠神社 (2024/09/14 訪問)

壬生城は文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたとされています。戦国時代に100年もの間、壬生氏の城として存続しますが、豊臣秀吉の小田原攻めに際して壬生氏も滅んだとされます。江戸時代には日根野氏一万石、阿部氏二万五千石、三浦氏二万石、松平氏四万二千石、加藤氏二万五千石と次々と城主が変わりましたが、正徳2年(1712)鳥居忠秀が近江水口から移封してきてからは明治維新までの160年もの間、鳥居氏三万石(実質四万八千石)が代々の城主となりました。
かつては本丸の周囲を二の丸、三の丸が囲み、東郭、下台郭、正念寺郭の六つの郭で成り、各郭は土塁と堀で囲われていたようです。また東郭の先の大手門は丸馬出しのようになっていたようです。現在は本丸周辺が壬生城址公園として整備されていて、鳥居氏が転封してきた際に建てられた精忠神社は鳥居元忠公を祭神として祀っています。

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ばばよ

工事中 (2024/12/13 訪問)

鹿島神宮駅を出たら右前にある山です。
どこからが正式な登城口かはいまいちわからず。
はるばる行ってみたら、工事中で中に入れませんでした。
なので訪問した城にはカウントしませんでした。
まぁ外からもなんとなくわからんでもないですが...
ご検討中の方は2025年2月以降をお勧めします涙

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WEST

杵築城探訪 (2024/12/03 訪問)

大分県の杵築城を訪問しました。大分空港から自動車で約25分でアクセスできます。
駐車場は城山公園駐車場を利用しました。
杵築城は城山台地に築造されましたが、一国一城令により破却され、現在の天守は昭和に建てられた模擬天守となります。
模擬天守は歴史資料館となっており、杵築城の歴史などの資料が展示してあります。天守の展望室からは、守江湾が望めます。
また、お城の麓には九州の小京都と呼ばれる城下町が広がっており、散策することをお勧めします。坂、武家屋敷などを見ることができますよ。

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コウマくん

紅葉の天守閣 (2024/12/07 訪問)

曇りでしたが赤と黄色に色づいた紅葉と見事な天守閣が雄大で素晴らしかった。木曽川を眺める天守閣からの眺めも最高でうっとりしました。流石は国宝!

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カズサン

東岡崎駅頭から岡崎城登城散歩 (2024/11/24 訪問)

 家康公騎馬像の続きです。
 
 名鉄東岡崎駅頭の徳川家康公騎馬像を初拝見しリバーサイドテラスを乙川沿いの歩道に降りる、乙川の南側川原ではグランピングキャンプテントが並び昨日よりキャンプを楽しまれた方が大勢の賑わい。
 徒歩で岡崎城までは則で約1km程約15分の散歩道。
 乙川も奇麗で澄んでいる、乙川南の歩道も広く歩き易い環境整備、先ず明代橋辺りで岡崎城の天守が見えてくる、進み歩行者専用木橋の桜橋、幅広の木橋で散歩、一時休息に気持ちよく過ごせる、西に進んで豪華なコンクリート架橋殿橋、岡崎城天守が更に良く観える、殿橋を渡り乙川北側の川沿い歩道を進むと、七五三で賑わう家康公所縁の菅生神社、進んで一昨年兄弟夫婦で会食した岡崎ニューグランドホテル、ホテルと茶室庭園城南亭の間の道を菅生曲輪多目的広場、東曲輪の東隅櫓が良く観える、広場には昨日のイベントか?黒ずくめの仮設ステージが残って撤去前、隠居曲輪さくら茶屋、本丸辰巳櫓の下石垣を眺めて、清海堀の南、本丸御門跡に到着。
 この後は松の大木が伐採されスッキリした岡崎城天守閣を初登城50数年ぶりに初見参、リニューアル天守閣に登閣、願いが叶った登城と成りました。

 3編に渡り投稿をご覧頂きありがとうございます。
  

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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城⑤ (2024/11/24 訪問)

池上氏館からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。じゅんじんさんの投稿を拝見して、湯殿神社から梶原景時創建という萬福寺まで脚を伸ばしてみました。源頼朝の愛馬・磨墨の像がありました。羽黒城に行ったときに磨墨塚史跡公園にも立ち寄っているので、ちょっと嬉しくなりました。

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トク

安徳台遺跡(安徳天皇ゆかりの地) (2024/12/09 訪問)

福岡県那珂川市の高台に「安徳台遺跡」という所があります。ここは壇ノ浦の戦いの時、入水した事で有名になった、幼い安徳天皇が1年間ほど源氏から逃れ過ごしていた場所だとされています。私も以前からこの一帯には「安徳」という地名が多く(例えば安徳小学校など)不思議に思っていましたが、やっと謎が解けましました。

安徳天皇は、高倉天皇と建礼門院(平清盛の娘)との間に生まれた子で、幼くして第81代天皇として皇位を継承しました(この時まだわずか満1才)。1183年源氏の台頭により木曾義仲(源義仲)が京を占領すると、都を追われ大宰府へ逃れます。当時太宰小弐の原田種直の所領であった岩門城そばの高台であるこの地に館が建てられ、三種の神器を携え1年程ここで匿われたそうです。

そして安徳天皇3才の時、木曾義仲が追討され亡くなると、京に戻るためいったん屋島に移されますが、そこで源頼朝が台頭してきます。平家追討軍として源義経が屋島に攻め込んだため、安徳天皇は平家の船に乗り込み、瀬戸内海を西へと逃げました。そして壇ノ浦で入水し、悲惨な最期を遂げたようです(参考写真⑤⑥:壇ノ浦安徳天皇入水の地)。この時まだ満6才だったそうです。

ここ安徳台には、幼くして亡くなった安徳天皇を偲び、「安徳宮」が建立されています(写真①)。

次は、その隣にある岩門城に行き、小弐氏の栄枯盛衰を追いたいと思います。
 

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宗春

新城七名城デジタルスタンプラリーに参加しました ④柿本城 (2021/12/07 訪問)

2024年11月から2025年1月まで愛知県新城市で実施の『新城七名城デジタルスタンプラリー』に参加してきました。4城目は柿本城。

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あき

土のお城の面白さ (2024/12/11 訪問)

山中城前の一つ前のドラゴンキャッスルバス停辺りから箱根旧街道を通って岱崎出丸へ 右側は出丸 矢や鉄砲で打たれる想像しながら進みます 山中城売店の裏辺りに岱崎出丸入口があります 出丸の旧街道側には土塁や畝堀で守りを固めているのが良く解り出丸だけでも見応えあります 出丸から売店へスタンプ押して御城印買って山中城本丸を目指して出発 三の丸の堀や沼など写真撮りつつ進むと畝堀が各曲輪を守っています 西の丸からは見事な障子堀が見えます 敵を落とすためのものなのに芸術的で美しい ここで壮絶な戦いがあったとは‥ 時の流れを感じます 土のお城の面白さは堀や土塁を自在に作れる所だと思ってます 土のお城で同じ印象な所って無いなと 山中城はそんな魅力がたくさん詰まったお城でした

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しんちゃん

世渡り上手。 (2024/09/18 訪問)

大田原城は天文14年(1545)大田原資清によって築かれ、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで大田原氏の居城でした。なかなか世渡り上手な一族で、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者に信頼されてきたのも長持ちの秘訣のようです。石高は1万1千石で、本来は城持ち大名の格ではないのですが奥州の大名への押えとして重視され、三代将軍家光からは常時玄米一千石を城中に貯蔵するよう命を受けています。
現在は龍城公園として整備されています。本丸の北に北城(北曲輪)があり、その先にも曲輪があります。東には蛇尾川が流れ、南に二の丸があり、三の丸は南の麓にあり御殿が築かれていたようです。北城・本丸・二の丸には土塁が残り、本丸の土塁はかなりの高さがあります。本丸と二の丸の間には空堀があり、その空堀は本丸の周囲に続いています。明治まで長く持ちこたえた城だけあって、遺構も多く残っていて、なかなか見ごたえがあります。

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しんちゃん

郷土史料展示室 (2024/05/05 訪問)

永禄6年(1563)3月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城が上杉謙信に攻められ、助三郎は自害し、騎西城は落城しました。天正2年(1574)にも上杉謙信によって騎西・菖蒲・岩槻などの北武蔵の諸城が落城させられています。
徳川家康の関東移封後の天正18年(1590)松平康重が2万石で入り、江戸時代にも使用されますが寛永9年(1632)に大久保忠職が美濃国加納に転封となると廃城になったようです。
現在、天守を模した郷土史料展示室がありますが、ここはかつては外堀であったようです。かつての本丸は田畑となっていて、かつての面影は有りません。二の丸は住宅地になっています。本丸の南東が馬屋曲輪と天神曲輪の跡になり、ここに土塁跡がありますが、写真を撮り損ねています。しまったにゃあ。

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ぴーかる

久居陣屋 (2024/11/23 訪問)

【久居陣屋】
<駐車場他>津市久居グラウンド駐車場に停めました。
<交通手段>車

<感想>日帰り伊勢山城攻め旅4城目。現地説明板によると久居陣屋は藤堂高虎の孫藤堂高通が1669年に5万石を分地され久居藩を立藩します。1671年に野辺野と呼ばれる高台に陣屋と城下町を造ります。築城は認めらていなかったが堀と防塁は造ったようです。永久鎮居の願いをこめて久居藩と名付けました。久居藩は明治まで続き、本家の津藩へも跡継ぎを出しています。
 現地は公園や中学校になっていて遺構はほとんど残されていません。空堀が残されているようですが、中学校の金網の向こう側のようで公園を一回りして終了しました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

栃木城址公園 (2024/09/14 訪問)

栃木城は慶長14年(1609)に皆川氏が改易になると同時に廃城になったようです。城として機能したのは、わずか19年という短い間でした。かつての栃木城は東西約149m、南北約131mの本丸の東に二の丸と三の丸が配され、南側に南丸、北側に屋敷があったと考えられています。平成20年に主郭の調査が行われ、堀底に畝の様な盛り上がりが見つかり、障子掘りであったことがわかりました。
現在は栃木城址公園として整備され、堀と土塁の様な築山が残っています。

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