昔は、草叢からまむしが出るので行かないほうが良いといわれていましたが、今は整備されていて、行きやすい。
二重空堀や竪堀と切岸、土塁がみやすい。
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2024/12/14 19:05
高知の山城にしては、整備されて登りやすい (2024/12/14 訪問)
昔は、草叢からまむしが出るので行かないほうが良いといわれていましたが、今は整備されていて、行きやすい。
二重空堀や竪堀と切岸、土塁がみやすい。
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2024/12/14 19:00
2024/12/14 18:41
2024/12/14 18:13
八田城 (2024/11/23 訪問)
【八田城】
<駐車場他>駐車場はなし。車が停まっていなければ、登城口前<34.615830, 136.449558>に1台入れれる。
<交通手段>車
<見所>土塁・櫓台・横堀・虎口
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅5城目。現地説明板によると八田城は同時代の資料は見当たらないようです。近世の地誌「勢陽五鈴遺響」には大多和兵部少輔が居たとし、明治に作成された「伊勢名勝志」には大多和氏の前身三浦氏の築城とする。とあります。
城跡は北の入口から模擬城門の櫓がこしらえてあり楽しめます。登城路を登って行くと主要部虎口は東側から入りますが、正面に土塁があり左右に別れさされます。右へ行くと横堀に突き落とされ、左に行くと主郭虎口に入れる技巧的な虎口です。主郭は高い土塁囲みで、南側にひと際高い土塁の見張り台、北西隅に模擬櫓があります。主郭の北西部に腰曲輪が付いています。主郭の南側に深い堀切兼横堀が走っていて東側は井戸跡・切通し道と繋がって東に落ち込んでいます。西側へは搦手の登城路になっていて、八田池の方へ行けます。
遺構の感じからは伊賀・甲賀の単郭方形高土塁の構造で戦国期に手を加えているように思いました。凸凹の遺構が明瞭に残り、模擬櫓も造られていてなかなか楽しめるいい城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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2024/12/14 17:11
現存三重櫓 (2024/11/30 訪問)
明石城は1619年初代明石藩主小笠原忠政によって築かれた城で、築城当初は舌状台地の先端に向かって、二の丸と本丸があり、台地の下に三の丸がある梯郭式でしたが、その後二の丸を分断して東の丸を作った為、連郭式に変化した城郭です。
この城の見所でもある、2基の三重櫓は国の重要文化財で日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です。巽櫓は本丸の南東端に築かれた三重櫓で船上城から移築されたと伝わっています。坤櫓は伏見城から移築されたと伝わる、城内で最大規模の三重櫓で天守が築かれなかった明石城では(天守台はあるのにね)天守の代用として使われ、巽櫓より一回り大きくなっています。
また、明石城の見所の一つ、高石垣は東西の幅が380m、三の丸からの高さが約20mの規模を誇ります。
「日本100名城かるた」購入しました(*^▽^*) 自分のニックネームが入った絵札が3枚・読み札が1枚あり本当に嬉しく、一緒に遊んでくれる方が居ないので絵札を見ながらにやけている今日この頃です。
今年も残りわずかとなりましたが、急に寒くなり体調等崩さないよう気を付けて下さいませ。
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2024/12/14 16:21
古渡城・東別院を初登城初参拝 (2024/11/24 訪問)
古渡城趾と東本願寺名古屋別院を初登城し初参拝しました。東別院と地元では呼ばれていますが名古屋出張で度々訪れて近くまで来ていましたが参拝、境内に入る事はありませんでした。
今回電車での探訪に星崎城を終えて名鉄金山駅から地下鉄名城線に乗り換えて東別院駅で下車、4番出口を出て西に約2、300m程で古渡城址の故地である東本願寺名古屋別院(東別院)の壮大な山門前に着きます、地下鉄からの歩道は幅広く東別院の参道の様です。
当日日曜日なのか?大きなイベントが有り山門前、本堂、対面所前の境内はテント屋台が多く出て人で込み合っていました、食べ物、衣料品、小物品の屋台ひしめく状態、本堂の登り階段の両脇はお昼時で屋台の食べ物を座って食べてる人でベンチ状態。
本堂では時期的に親鸞聖人の誕生を祝う報恩講の最中で信者の方が本堂に入りお参りして居ました。私は本堂の入口扉前で参拝し古渡城址碑へ。
人と屋台をかき分けて東別院南西、鐘楼前の古渡城趾石碑と案内板を確認、撮影、桶狭間の戦い攻路看板も設置されている、この近くでも食事されてる方が居り、人が写らない範囲の撮影と成りました。
東門から出る、東門は高麗門形式で昭和20年の空襲で焼け残った唯一の建造物で東別院最古の建物だそうです。
東門から通りを挟んで東に下茶屋公園へ、下茶屋公園は元東別院の新御殿の庭園があった所の様です、城びと投稿の皆さんが寄るべしとの伝達で散策、名古屋城石垣石の地上展示と解説板を確認、また東側に小高い高まりに天守台?櫓台?の様な石垣土壇も有りました。
古渡城址は織田信秀が天文11年(1542年)築城し、規模は東西140m程南北100m程の平城で2重堀、天文17年に末盛城(末森城)に移り廃城と成った。(案内板による)
昼もチョット過ぎ東別院の屋台は混雑して昼飯を購入出来そうも無いので、下茶屋公園の石ベンチで人も少なく景観も良い所で携帯食とお茶で昼飯としました。
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2024/12/14 15:51
香川元太郎先生…
遅ればせながら香川元太郎先生の訃報に接し心よりご冥福をお祈りいたします。
山城に行き始めて間もない頃、曲輪や堀が藪に蔽われていてわけわからん、という状態になっていたとき、登城口に設置されていたリーフレットに掲載されている香川先生の城郭イラストと照らし合わせて見ることで、なるほどここがこうなっていて、かつてはこんな感じだったのか…と山城の見方がわかってきて、おかげさまで今や山城大好きになっていますが、香川先生のイラストに出会えていなければ、あのまま山城わけわからん、で終わってしまっていたかもしれません。
また、香川先生は歴史考証イラストのみならず迷路絵本の第一人者としても知られますが、図書館で香川先生の迷路絵本を次々と借りてきては子どもと一緒に解いたのもかけがえのない思い出です。特に「忍者の迷路」は伊賀や甲賀にあるような単郭方形の居館にはじまり、高天神城や安土城、寺内町、瀬戸内の海城、赤瓦のグスクが迷路として描かれていて、まさに香川先生の本領発揮、子ども以上に私自身が夢中になってしまいました。
つい先日の「山城に行こう!2024」にも登壇しておられたとのことですし、今なお信じられない思いですが、もうこれからは香川先生の新しい作品を目にすることは叶わないのかと考えると残念でなりません。それでも、香川先生の作品のおかげで山城の楽しさを知り、子どもとの思い出を紡ぐことができたことには感謝しかありません。ありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください…。
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2024/12/14 11:22
お濠越しに眺めてほしい (2024/10/24 訪問)
層塔型の真っ白な天守が見どころなお城。天守の中は多くが島原の乱についての展示物。ところどころ手書きの説明書きがあったりして昭和レトロな雰囲気。なかなか凄惨な絵もあったりして、当時の大変な状況がよくわかりました。
車で来てしまうと気が付かない可能性があるのですが、実は城の南側や東側のお濠越しにみる石垣の連なりが凄くよかったです。折れが多用され、塀の真っ白な壁と黒々とした石垣のコントラストが奇麗でした。ぜひ城の周りをぐるっと歩いてほしい。
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2024/12/14 11:08
防御力高めの学校 (2024/10/23 訪問)
今は中学校の一角にあり、なんとなくここに城があったのかもなぁという程度の雰囲気があるだけの場所。
中学校の校庭の周りを水堀のように囲う水路があり、防御力高めの学校でした。
見学中に偶然まるまる一匹分の蛇の抜け殻を見つけ、金運上がるかなぁ~。
さらに近くの立花家史料館も見学。あまりお城とは関係ない展示が多いけど、大名家に伝わったお宝をゆっくり拝見できて面白かった。予想していたよりも展示物の量が少なくて残念。きっと展示替えで色々見られるんだろうけど、一度にもっと見られるとよかったな。
隣の御花も建物だけ見学。日の当たる大広間の縁側から見たお庭は綺麗だった。が、その向こうを流れる水路から船頭さんの大きな歌声が聞こえてきてちょっと残念(苦笑)まるで大宴会のようだった。
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2024/12/14 10:52
復興はまだまだ (2024/10/21 訪問)
「熊本城へ行ってきた」というと『あー、もう入れるんだね。元に戻ったんだ』と言われることがほとんどなんだけど、実際にはまだ瓦が落ちたままの建物があったり、ようやく修復の手が入り始めた櫓があったりとまだまだ道半ば。
もちろん大天守・小天守は綺麗に直され、中の展示も素晴らしかったけど、そこから一歩出れば入れない建物や区域だらけ。震災前に城内を歩き回った時の記憶を蘇らせながら、今の姿を見てきました。
まだ数年後経って少しずつ変わっていく姿を見に行こうと思ってます。
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2024/12/14 10:44
星崎城を初登城 (2024/11/24 訪問)
星崎城は桶狭間合戦の7城砦は探訪済ですが近くの笠寺地区に在り未探訪でしたので今回の電車による探訪で岡崎城を終えて名鉄本星崎駅(モトホシザキエキ)下車で初登城しました。
本星崎駅で同時に下車したご婦人の方に星崎城の在る笠寺小学校の方向を確認して進行、道のりは4、500m程、中間点に和菓子屋さん在り暫く登って行くと坂の上に現代石垣城壁?、城跡の匂いプンプン、当日は日曜日で名古屋市長選挙の投票日、運よく校門が開いており皆さん投稿の城名石碑、案内板を正面から撮影、本城跡は校庭の様ですが奥に入り込まず校門前後左右で終了、校門下では中日新聞の女性記者が出口調査で立っていました。
皆さんの投稿で笠寺小学校西の近く「秋葉社」の城名碑は参拝せず未確認です、案内板に標高10m程の高台にある星崎城址との事ですが笠寺小学校自体周囲より高台にあり城址の雰囲気がよく残って居ます。
周囲は住宅地で道は狭く駐車場は良く分かりませんが、ぴーかるさんの投稿に校門の下三角コーナー隅には1台位と有りました、路駐は可能でしょう。
帰り道に、行きで気に成っていた和菓子屋さん「本松本店」の薄皮饅頭、やごやんに近い焼きまんじゅう、栗蒸羊羹を土産に購入、店の立看板に「星崎城址」の記名と図案が載っていましたので撮影。
歴史は星崎城跡案内板をお読みください。
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2024/12/14 09:46
2回目攻城で学ぶ。 (2024/12/01 訪問)
2回目の「滝の城」です。
前回、秀吉さんの北条討伐で、浅野 長政さんが「滝の城」を落とした事にミーハー心の目で見てしまった事を反省し再訪しました。
「滝の城」は『滝の城址公園』として整備され駐車場もあります。入口に石碑があり早速、二重堀がお出迎えしてくれます。鳥居が見え土橋を渡ると左手に二の丸。前回ここに車を駐車しました。この日も車とバイクがありますが駐車場として利用して良いかは分かりません。
本丸跡には神社がありました。下にはグラウンドがあり野球やテニスコートがあります。
本丸から三の丸へ。
三の丸では、家臣と共に茶の湯を楽しんでいたと説明板にあり、戦のない日常を想像。高い所にあるので景色も良いです。
三の丸から二の丸へ門跡を通り虎口、馬出と続きます。
そちらから本丸を眺めると、矢を放ったら簡単に届きそうな印象です。その位、コンパクトです。
「滝の城」は伝えの城の役割だったそうなのでギュッとしているのかな?
宅地化された土地に、まだまだ敵軍に寄せられない遺構があったのかもしれません。
虎口を守る猫武将が、こちらを伺ってます。写真を写そうとスマホをいじっていると至近距離に接近。そのまま、ゆっくり立ち去りました。猫なのにかっこいい。
『行った』をポチッとしたくて足早に、お城攻めしてきましたが、再訪すると新たな発見があり違った見え方もするんだなと3回目攻城を誓う「滝の城」攻めでした。
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2024/12/14 08:06
2024/12/13 23:01
遠山景重 (2024/12/12 訪問)
明知遠山氏の居城で、標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した城です。令和6年12月27日まで本丸、出丸で発掘調査が行われていて、この日も関係者の方々がみえていました。遺構はよく残っていて曲輪、竪堀、堀切、横堀、切岸、土塁などを観ることができます。畝状竪堀が一番の見どころだと思っています。
2年前の全国山城サミット恵那大会に参加したとき以来の登城となりました。よく整備された城址で、気持ちよく散策できます。今回は搦め手登城口より登城し稲荷神社登城口へ下りてきました。
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2024/12/13 22:43
仲深山砦(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)
岐阜県恵那市にある明知城の南の万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地する砦です。「なかのみやまとりで」と読みます。東西2つの曲輪群から構成されていて、東側の曲輪は、背後に二重堀切を設けています。この二重堀切が見ごたえがありました。北側には帯曲輪が巡り竪堀を認めています。掘切を隔てた西側の曲輪にも畝状竪堀群がありました。砦と表示がありますが、城郭として十分楽しめます。歴史など詳細はわかっていないようですが、明知城の南を守る砦か、攻撃のための陣城ではなかったかと説明板に書かれていました。明知城の周辺観光で投稿させていただきます。城びとには未登録です。
明知鉄道明智駅から徒歩15分くらいの所に登城口の表示があり、約10分登れば城域に到達します。城域は案内もあり登城路もある程度整備されているので概ね歩きやすかった。ただ油断してこけてしまった。
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2024/12/13 22:26
明智光秀の伝承(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)
明智光秀の出生地はいくつかの候補がありますが、恵那市の明智町もそのひとつです。落合砦の説明板を見ると「明智光秀公は享禄元年(1528年)3月10日、ここで生まれたと伝えられています」と書かれていました。明智町を歩くと落合砦の明智光秀産湯の井戸、明智光秀出生地碑、明智光秀公学問所、明智光秀公手植えの楓、明智光秀公御霊廟、お牧の方墓所など明智光秀関連の場所があります。
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2024/12/13 22:08
斎藤別当実盛館 大我井神社 (2024/05/05 訪問)
斎藤別当実盛館は埼玉県熊川市妻沼の大我井神社や北側の妻沼小学校の当たりとされています。実盛公は越前国の出身で武蔵国幡羅郡長井庄を拠点としていたため長井別当とも呼ばれています。実盛公は源義朝に従っていましたが、やがて義朝の弟の義賢に従うようになります。義賢が義朝の長男・悪源太義平に殺害されると再び義朝に従いますが、旧恩を忘れず義賢の遺児・駒王丸を信濃国の中原兼遠に送り届けています。駒王丸は後の源義仲で、実盛公は義仲の命の恩人にあたります。
源義朝亡き後は実盛公は平氏に従い、源頼朝が挙兵しても平氏方に留まります。寿永2年(1183)平維盛らと木曽義仲追討に出陣し、加賀国・篠原の戦いで敗れ討ち取られます。石川県・篠原古戦場近くの首洗池のほとりには、実盛公の首を抱えて悲嘆にくれる義仲と樋口兼光、実盛公を討ち取った手塚光盛らの像があります。
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2024/12/13 22:06
2024/12/13 21:39
2024/12/13 21:02
精忠神社 (2024/09/14 訪問)
壬生城は文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたとされています。戦国時代に100年もの間、壬生氏の城として存続しますが、豊臣秀吉の小田原攻めに際して壬生氏も滅んだとされます。江戸時代には日根野氏一万石、阿部氏二万五千石、三浦氏二万石、松平氏四万二千石、加藤氏二万五千石と次々と城主が変わりましたが、正徳2年(1712)鳥居忠秀が近江水口から移封してきてからは明治維新までの160年もの間、鳥居氏三万石(実質四万八千石)が代々の城主となりました。
かつては本丸の周囲を二の丸、三の丸が囲み、東郭、下台郭、正念寺郭の六つの郭で成り、各郭は土塁と堀で囲われていたようです。また東郭の先の大手門は丸馬出しのようになっていたようです。現在は本丸周辺が壬生城址公園として整備されていて、鳥居氏が転封してきた際に建てられた精忠神社は鳥居元忠公を祭神として祀っています。
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