日本100名城

ふないじょう

府内城

大分県大分市

別名 : 大分城、荷揚城、白雉城
旧国名 : 豊後

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府内城
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トベシュン

九州13城巡り (2022/11/20 訪問)

五日間で九州13城巡りしてきました。
初日は、福岡城址、大野城址、佐賀城址。二日目は、吉野ヶ里遺跡、名護屋城址、平戸城。三日目は島原城、熊本城、人吉城址。
四日目、鹿児島城址、飫肥城址。五日目、岡城址、府内城址。

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トク

昔を懐かしく思い出させてくれる城-(大分府内城) (2022/09/04 訪問)

大分府内城というと、豊後大友氏ゆかりの城と思われている方がいらっしゃるのではないかと思いますが、それは誤りで大友氏とは全く関係ありません。大友氏の本拠は約1km南東にある大友館であり、ここは大友氏が改易された後、1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命で「福原直高」(石田三成の妹婿)が入り築城を始めました。しかし築城半ば、福原直高は関ケ原の戦いで大垣城の守備を任されましたが敗れて自害します。代わって、竹中半兵衛の従弟の子で、九州の関ケ原では黒田官兵衛の与力であった「竹中重利」が初代府内藩主となり、1602(慶長7)年に四重の天守を完成させました(時期的に見ておそらく望楼型と思われます)。その後の正保の絵図では白い層塔型で描かれているため、竹中氏またはその後に入った日根野氏が白漆喰の層塔型に改築したのか、わざと絵図には徳川をはばかってそう書いたのか、今でも謎に包まれています。そしてその後は大給松平氏が入り幕末まで居城としました。天守は松平期の1743(寛保3)年に火災で無くなり、その他の大部分は戦時中の大分空襲(1945年)で焼失しました。

今では回りは埋め立てられて当時の面影は全くありませんが、かつては東に大分川、北は別府湾に面した位置に立地されており、その大分川の水を内堀・外堀に引き込んでいました。よって、まるで水に浮かぶような形で北側の海と東側の川の間に突き出るように天守が立っていたため、悌郭式の縄張りとなっています。火災や空襲をまぬがれた人質櫓と宗門櫓が現存し、廊下橋は1995年に再建されました。

100名城スタンプとパンフレットは、大手門の軒下にポツンと置いてありました(特に案内所などはなく、無料で開放されている所なので、ご自由にどうぞといった感じです)。

【余談】私事ですいませんが・・
実は私は若い頃大分に住んでいたので、その時は何度も府内城を訪れました。当時は本丸に文化会館という大きなホールがあり、20才の時そこで成人式があったのを記憶しています(40年も前の話です(笑))。今ではホールは解体され、跡地は隣接する市役所の駐車場、その他の部分は大分城址公園として市民の憩いの場として開放されています。10月なると大分生活文化展が開催され多くの市民が集まります。大分名物の「だんご汁」や「椎茸飯」「吉野の鶏めし」などが(有料ですが)振舞われ、よくここで食べたのを憶えています。何かとても懐かしく感じました。

今後、天守などを含め元の姿に復元するための調査・研究が今なされているようです。是非復元した姿を見たいものです。
 

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おっちゃん

府内城跡案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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前ちゃん

大阪逃亡 (2022/07/24 訪問)

進路東(滋賀、愛知)を不発弾で塞がれたので、進路を西へ


大友宗麟さんです

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概要

福原直高が大分湾の海際で海を背に築き、竹中重利が大幅に改修。海側の本丸を二の丸・山里丸・三の丸がL字形に囲むような縄張で、それぞれの曲輪は1つの橋で連結されている。現存する建物は宗門櫓と人質櫓のみで、その他の櫓や廊下橋は戦後に再建されたもの。

城郭情報

城地種類 梯郭式平城
築城年代 慶長2年(1597)
築城者 福原直高
主要城主 竹中氏、大給松平氏
文化財史跡区分 県文化財(人質櫓、宗門櫓)、県史跡(府内城跡)、市史跡(府内城跡)
近年の主な復元・整備 竹中重利
天守の現況・形態 型式不明[4重/1602年築/焼失(火災)]
主な関連施設 櫓、門、橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、櫓、堀
住所 大分県大分市荷揚町4-36
問い合わせ先 大分市企画部広聴広報課
問い合わせ先電話番号 097-537-5601