日本100名城

ふないじょう

府内城

大分県大分市

別名 : 大分城、荷揚城、白雉城
旧国名 : 豊後

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府内城
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トク

平和について考える旅2026(3/3)【最後の特攻機】 (2026/07/31 訪問)

トクの終戦の日前、平和について考える旅(3/3)です。

皆さんは太平洋戦争で最後に飛び立った特攻機は、どこから飛び立ったのか、またそれは誰だったのかを、御存知でしょうか?

大分府内城から東へ3km程行った所、大分商業高校(夏の甲子園出場)の隣に、大洲総合運動公園という場所があります。実はこの一帯には太平洋戦争中、海軍大分基地飛行場がありました。昭和20年(1945年)8月15日12時、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏する旨の昭和天皇による玉音放送が、日本全国民に向け流されます。しかしその4時間後の16時、戦争はもう終わったにもかかわらず、ここ大分基地から沖縄に向け飛び立った飛行機がありました。これが最後の特攻機です。

この飛行機に乗っていたのは、「宇垣纏(まとめ)」中将です。連合艦隊作戦参謀を務め特攻作戦を立案し、その後は第五航空艦隊司令長官となって昭和20年3月に鹿屋基地に赴任、特攻作戦を先頭に立って陣頭指揮した人物です。彼が赴任中の昭和20年4月から7月の間に、1,271名の若者が鹿屋基地と串良基地から飛び立ち、帰らぬ人となった事は前回お伝えしたと思います。その後8月に入り、鹿屋にはもう飛行機が無くなったので、宇佐基地を経由して大分基地に入り、彼は終戦を迎えました。そしてその日、大分基地に隠されていた最新鋭の戦闘機「彗星」に乗って飛び立ったそうです。いくら悪化した戦況だったとはいえ「死んでこい!」と愚かな命令を出し続けたあげくに敗戦、「自分はいったい何という事をしてしまったのか・・・」と最後は後悔の念に駆られていたそうです。そして自ら飛行機に乗り出撃する事で、自分なりのけじめをつけたかったのではないでしょうか?

私は府内城の天守台に立ち、基地のあった方向を眺めてみました。昭和20年7月17日、B29による大分空襲で、このあたり一帯は一面の焼け野原になったそうです。その時に府内城も焼け落ちました。しかし、人質櫓と宗門櫓はだけは奇跡的に焼けずに残り、現存櫓として今でも残っています(写真⑤⑥)。

昨年1年間だけでも、ウクライナ・パレスチナ・イランなどで、数万人もの方々が戦争で亡くなられています。日本は巻き込まれる事なく、平和が続く事を願いたいものです。
 

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送りバント

20250921府内城(大分県大分市) (2025/09/21 訪問)

マチナカにある大分城址公園に、内堀や現存櫓、天守台や本丸櫓台の石垣などの見どころが多く残る。案内板も充実しているので、それを確認しながらのんびり一回りした

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トク

【竹中重利】(2)大分府内城 (2025/07/21 訪問)

竹中重利の続き(2/2)です。大分府内城は大友氏改易後の1597年、秀吉の命で府内(大分市)に入った福原直高(石田三成の妹婿)により、新たに築城された城です。故に大友氏とは全く関係のない城なのでお間違えなきよう。 直高はここに天守台を築きますが(写真③④)そこで1600年関ケ原へ出陣。西軍として大垣城の守備を任されますが、敗北し自害してしまいます。

関ケ原後の1601年、豊後高田から竹中重利が入り、直高が築いた天守台の上に四重の天守を建てました。ちょっと遊び心で想像図を作り妄想してみました。こんな雰囲気だったのではないでしょうか?(想像図⑩🤔)。

重利は内々堀・内堀・外堀と三重の堀を築き、内堀の外側の山里丸(現:松栄神社)に御殿を建て、御殿と本丸を廊下橋でつなぎました(写真⑤)。重利の頃は、北は海で東は大分川がある三角州に本丸があり、その本丸の北東側に天守がある悌郭式の縄張りだったようです。そして外堀で囲むように城下町を築いていきました。

その後1634年に下野国壬生より入った日根野吉明により、内堀に沿っての櫓や塀が白漆喰で塗られ、現在のような城の風貌が完成します。しかし、その後に入った大給松平氏の1743年に天守は火災で焼失、その他も1945年太平洋戦争の大分空襲で人質櫓と宗門櫓以外は全て焼失してしまいました。戦後から徐々に復興され、平成8年には廊下橋も再建されました(写真⑤)。

現在は大分城址公園となっていて、市民の憩いの場になっています。令和5年の豪雨で西ノ丸の石垣が壊れましたが、現在発掘調査を行いながらゆっくりと修復されているようです(写真⑥)。文化会館跡地も整備計画が示されていました。

重利は1615年54才で没し、松栄神社の傍らにある浄安寺に眠っています(写真⑨)。私は天守台に立ち、ぐるりと眺めてみました(写真⑦⑧)。四重の天守を完成させた重利は、どんな思いで天守からこの景色を眺めていたのでしょうか? 関ケ原以降、戦のない平和な世になった事に感謝しながら、そこから没するまでの約10年間、家督は子の重義に譲り、のんびりとここで・・・余生を過ごしていたのかもしれませんね。
 

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にのまる

すごくしつこいのですが9枚目の写真に🐈がいます。 (2025/01/25 訪問)

角牟礼城から戻ってきたその足で行きました。
24時間見学可能なので助かります。

見学の途中でスマホの電池がなくなり、モバイルバッテリーも接触不良(?)であまり写真が撮れませんでしたが、ずっと気にしていたことー、前回薄すぎたスタンプの押し直しができたのスッキリしました😊

ホテルの部屋で充電してから「えび福」さんに食事に出かけました。
今回の九州城めぐり旅、最後の晩餐です。まだ余力はあったのですが、翌々日から雨予報だったので翌日3城まわって終わりにすることにしました。

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概要

福原直高が大分湾の海際で海を背に築き、竹中重利が大幅に改修。海側の本丸を二の丸・山里丸・三の丸がL字形に囲むような縄張で、それぞれの曲輪は1つの橋で連結されている。現存する建物は宗門櫓と人質櫓のみで、その他の櫓や廊下橋は戦後に再建されたもの。

城郭情報

城地種類 梯郭式平城
築城年代 慶長2年(1597)
築城者 福原直高
主要城主 竹中氏、大給松平氏
文化財史跡区分 県文化財(人質櫓、宗門櫓)、県史跡(府内城跡)、市史跡(府内城跡)
近年の主な復元・整備 竹中重利
天守の現況・形態 型式不明[4重/1602年築/焼失(火災)]
主な関連施設 櫓、門、橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、櫓、堀
住所 大分県大分市荷揚町4-36
問い合わせ先 大分市企画部広聴広報課
問い合わせ先電話番号 097-537-5601