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零汰

起伏が唸る (2024/05/25 訪問)

大館、茶臼館の後に行きました。昨日は1日中雨の中で走る歩く走る歩くの繰り返しだったので少々体が気怠い。ナビ通りに登ってくと左に堀切が見えて来ました。「こりゃヤバイ」すかざす途中でUターンして堀切のあった場所に戻りました。こんな良さげな城跡は下から登って行かなきゃ勿体ない。道路の広くなった場所に停車して先程の堀切からスタート。

こちらは遺構の見ごたえのある素晴らしい城跡です。そして主郭に登る階段と申し訳程度のベンチしか後年の造作物が無い。門とか東屋とか蛇足的に作りそうなものだが見当たらず遺構の量と質で勝負していて清々しささえ感じられる。道路の拡幅などで多少の破壊はあったかもしれませんが在りし日の姿に近いのではないでしょうか。

城域全体の地面は曲輪以外には起伏が多くあります。特に気に入った場所は桝形背後の堀切から大堀切の間の範囲です(写真1)。曲輪に出来る程の広さに空堀を何本か配置して時には横方向の空堀ぶつけたりと土の切り盛りによっての起伏が激しい。この一帯を防御一点のみに使用出来る贅沢さにも恐れ入る。「嗚呼!真っすぐ歩けない」嬉しい悲鳴。

写真1を気に入って眺めていると何となく顔に見えてきた。雑草の茂み2つが目、切った幹が口、鼻は低い。其のうち起伏が唸り出しそうだ。

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朝田 辰兵衛

民家の表札が… (2024/05/06 訪問)

草木が繁茂して,なかなか水堀の姿が確認できませんでした。そもそも,民家の表札がある周囲をウロウロすることにためらいも感じました。しかし,パネルにしっかり謳われているということは,「公認」と判断して宜しいかと…。
JR上今井駅が最寄りですが,手小塚城や替佐城とセット攻城を計画するなら,JR立ヶ花駅やJR替佐駅も徒歩圏内です。飯山線の運行ダイヤを考えると,往路か復路のどちらかで「徒歩の1駅スルー」がおすすめです。

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ヒロケン

気温32度 (2024/07/26 訪問)

有子山城は標高321mの有子山山頂に築かれた東西約740m、南北約780mにもおよぶ大城郭です。有子山城は但馬守護職、山名祐豊によって築かれました。山名氏は此隅山城を本拠地にしていましたが、羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城、その後、山名祐豊は堺に出奔したのですが、織田信長の許しを得て但馬国へ帰国し、築城したのが有子山城との事です。
この頃の有子山城は土の城で、今に残る石垣の城に変貌したのが、1580年に再度、羽柴秀吉に攻められ落城した後、城主となった羽柴秀長により石垣の城となりました。

現在は、曲輪、石垣、竪堀、大堀切などの遺構が数多く残り、山名氏時代の遺構に加え、織豊期を中心にした古い積み方の石垣が大規模に残っており、中でも、本丸と千畳敷を隔てる幅28m、深さ12mを誇る大堀切(但馬地方最大)や、東西135m、南北50mを誇る千畳敷(但馬地方最大)、全国的にも珍しい7段の石垣から成る井戸曲輪(今回は石垣下に降りる元気がなく10年前の画像を投稿)は、この城の見所だといえます。

7月26日8時30分頃出石に到着。出石城は4度目、有子山城は2度目の登城となります。気温30度、熱くなる前に登城しようと企てましたが、出石城の石垣、櫓が目に留まり、出石城を先に攻略した結果、9時30分気温32度での登城となりました。登城口から本丸まで約1km、約1時間程の行程です。所々にロープが張られ、200m程登った時点で、汗が滝のように噴き出る始末(;^ω^)第五曲輪を過ぎた辺りからは、平坦なハイキングコースで進めます。

やはり、山城を攻略するなら夏の季節は避け、秋か初冬にするべきと少し後悔です。

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チェブ

マンション見学? (2024/08/12 訪問)

お盆休みを利用して「馬加城」攻めです。

「馬加城」は千葉 常胤さんの子、胤信さんが築城しました。
千葉 常胤さんは、千葉市の礎を築いた方です。
石橋山の戦いで、安房に逃れた 源 頼朝さんに味方しました。
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にもご出演してました。『千葉のじいさん』役です。

「馬加城」は皆さんの投稿にあるように大規模マンションが建ってました。
幕張東小学校の校庭側の道横が高くなっていて雰囲気がありました。上には神社があるようです。
この道をぬけると高台に14階建てのマンションが見えます。
マンションは1982年に建てられたそうで、私が小学生の頃だから、当時 見たら『カッコいい~』と言っていたと思います。最上階からは、千葉氏と同じ景色が見えるのでしょう。

最近、我が家付近は、雷の影響で停電になりました。マンション最上階から階段で下りるのは きついなー、と何の想像をしてるか分からなくなった「馬加城」攻めでした。

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しんちゃん

火ヶ峰砦  高天神城包囲六砦 (2021/02/07 訪問)

火ヶ峰砦は規模の大きい砦跡ですが、城址として整備されていないので、明確な登城道は有りませんでした。三箇所から攻めましたが、場所にとっては藪がひどくて、すぐに退散しています。他の二か所からは堀切、土塁、郭などの遺構を確認しています。
全体の確認まで及ばず、城址の一部は消滅しているようです。「武蔵の五遁」さんの記事を読むと、その凄さが解ります。南から攻めた際は、櫓台の先の大堀切に危険なものを感じて、迂回して北側の遺構を攻めています。あまりよく覚えていませんが東側の緩い傾斜から攻めているはずです。
第二次高天神城の戦いは敵兵に降伏を許さず、兵糧攻めを行うという、極めて鬼畜な城攻めであったと思います(鳥取城より酷い)。飢え死ぬか、討って出て死ぬかの二択しか許されず、じわじわ衰弱していくことになります。
若き井伊直政(21)が水の手を断ったことで、高天神城の将兵が討死の覚悟を決めることができたのは、結果として彼らにとっては幸いだったのかもしれません。高天神城の水の手に関しては私なりに幾度か訪れ推察をしています。それもどこかで投稿させていただきたいと思います。

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しんちゃん

火ヶ峰砦  高天神城包囲六砦 最後の一つ (2021/02/07 訪問)

高天神城包囲六砦の一つ 火ヶ峰砦です。ここと能ヶ坂砦は明確な登城道が無いので少し苦労します。結構藪が深いので自分は三か所から攻めています。南の津島神社から登っていくと土塁などの遺構が残っており、尾根上に郭が配されているようです。
ある程度進むと深い堀切が行く手を遮り、藪化しているので別の場所から攻めることにします。

火ヶ峰砦は高天神城から東に1.5kmの位置に築かれ、最も高天神城に近い砦とされています。規模も大きく城域は1kmを越え、高天神城に籠っていた横田尹松は火ヶ峰砦を見て敗戦を悟り、武田勝頼に兵力温存のために高天神城を見捨てるように書状を出したとされています。横田尹松は落城の際に「甚五郎抜け道」から脱出に成功し勝頼に高天神城落城を報告しています。
また尹松は岡部元信と共に、高天神城の城将をしている時に、降伏を拒否して石牢に幽閉された大河内政局に対して様々な配慮をし、そのおかげで政局は生き延びることが出来たとされています。

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todo94

お盆の攻城① (2024/08/15 訪問)

お盆の帰省に合わせて15日の午後、太田献血ルームに献血の予約を入れておきましたので、周辺の城めぐりも計画に入れました。山城が一つもなかったのは幸いです。まずは東毛地域に向かう途中で伊勢崎市の那波城に立ち寄ります。名波小学校前でネット越しの城址碑と説明板をチェック。本丸は東方にあった旨記載されているのは、ありがたい限りです。伊勢崎市立第二中学校前には城址碑のみが建っています。

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しんちゃん

当目砦  静岡県焼津市 (2021/02/23 訪問)

焼津市のサイトによれば当目砦は武田氏が花沢城を落とした永禄13年(1570)以降に築いたとされています。持舟城と連携して、海上監視を含めた出城としての役割を負っていたものと考えられています。
天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍が勝利を収めると、徳川軍は攻勢を強め天正7年9月に当目砦にいた持舟城の武田軍を追い払い、そのまま持舟城を攻めて、城将の三浦兵部と向井伊賀守を討ち取ったとのことです。
翌年5月、徳川軍は再び持舟城を攻めようと当目峠まで軍を進めるも、武田勝頼が駿府に向かったという報をうけ引き返したそうとしたところを持舟城の城兵たちから追撃を受けます。石川数正は敵を峠の麓の平場におびき寄せて囲み、散々に打ち負かしたそうです。
砦跡は私有地で果樹園になっているようです。特に遺構は残っていないようですが、周辺の眺望はなかなかのものです。

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ぎりょう

古代東北の英雄を訪ねる (2024/08/16 訪問)

東北地方も台風5号、7号が押し寄せ天候不順が続いた夏休みでしたが、最近たまたま読んだ澤田ふじ子の小説『陸奥甲冑記』に触発され、「阿弖流為の里」胆沢(奥州市水沢)を訪れました。阿弖流為は1200年前、朝廷の東北侵略に対して蝦夷を纏めて抗った、胆沢地方のリーダーです。13年間にわたり朝廷軍と勇敢に戦いましたが、延暦21年(802)坂上田村麻呂に降伏して都で刑死します。胆沢城は同じ年に坂上田村麻呂によって造営され、多賀城に変わって鎮守府がおかれた場所です。
先ずは奥州市埋蔵文化財調査センターを訪れて古代東北の蝦夷の時代について学習しました。その後は胆沢城跡歴史公園で復元された外郭の築地や南門の柱跡を見学し、一辺675mもあったという壮大な古代城柵に思いを馳せました。

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しんちゃん

御前崎灯台と見尾火燈明堂 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎市の御前崎の先端の切り立った丘陵の上に御前崎灯台は建てられています。日本の灯台50選に選ばれ、Aランクの保存灯台に指定されています。昔より、この周辺は航海の難所とされ、寛永12年(1635)に江戸幕府の命により見尾火燈明堂が築かれました。
明治4年(1871)に江戸幕府が建造した軍艦が沖合で座礁する事故が発生し、近代的な灯台の建造が必要とされ明治7年(1874)に完成しました。レンズはフランス製のフエネル式レンズとされ、日本で使用されるのはこの灯台が初になります。
参観灯台として解放されており、中学生以上は300円で見学が可能です。その美しいロケーションから映画やアニメの舞台として度々登場し、周辺には旨い海鮮料理の店も多く、それがメインで来る人も多いです。

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もりちゃん

水堀と土塁で見事に区画されています❗ (2024/07/21 訪問)

大手付近に上から見下ろせる絶景ポイントがあります。階段は急ですが、是非登ってみてください。
裏へ回ると「お屋形様の散歩道」なるものがあり、現存の躑躅ヶ崎館をぐるり一周できます。土塁や石垣、水堀が、そこかしこに残っていて必見❗️ 中でも主郭部と西曲輪を区間している水堀と土塁はお見事‼️
現在は信玄公を祀る武田神社になっており、もちろん御朱印好きにもたまりません。門前の茶店で信玄ソフトをいただきました❗

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しんちゃん

紀伊青石の岩場 (2024/02/25 訪問)

雑賀崎台場の続きです。石積み遺構の先に、土塁を備えた主要部(主郭と表記)があり、そこに大砲を設置していたようです。ライフル弾ならいざ知らず、大砲の直撃を受けると石が爆散して兵士を傷つけてしまうので、これで正解だと思います。防御の面で土塁だけだと少し不安になりますがやむをえません。主郭にはV字型の石積みが有るようですが、今は埋められてしまっているようです。
主郭南東にもV字状の石垣で区画された郭が有り、さらに南東にも土塁や石垣を備えた郭があります。これらの郭には台場に関わる設備があったと考えられているようです。
主郭からは大島や番所庭園を遠望することが出来ます。いずれも緑泥片岩の岩場と見られ、この周辺で採取された石材が和歌山城の主要部に使われているようです。

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城山八幡宮 (2024/08/17 訪問)

 久しぶりの末森城です。近くへ来たので立ち寄りました。城山八幡宮が跡地です。織田信秀が築き、死後は信長の弟、信勝(信行)が城主となりました。信勝が謀反を起こして殺された後は廃城となりますが、小牧長久手の戦いにおいて織田信雄が使用したと伝わっています。空堀が広範囲に残っています。南側の空堀は容易に観ることも散策することもできますが、他は藪になっている所も多く、また北側はフェンスに囲まれていて近づけません。それでも街中にこれだけの遺構があることに感謝です。
 地下鉄本山駅から徒歩10分くらいです。

 昼飯に末森城とは少し離れていますが、伏見にあるスパゲティハウスチャオ 錦通伏見交差点店さんで名古屋飯のひとつである「あんかけスパ」(ミラカン)をいただきました。

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上野城 (2024/08/17 訪問)

 1542年小豆坂の戦いにおいて活躍した小豆坂七本槍のひとり下方貞清が築城したと伝わる名古屋市千種区にある城址です。城びとは未登録です。東西約120m、南北約24m、二重の堀があったと伝わっています。名古屋市立上野小学校が跡地ですが、遺構はありません。周囲から見ると小学校は少し高い位置にあることがわかります。近くにある貞清の菩提寺である永弘院に石碑がありました。

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廣井城 (2024/08/17 訪問)

 天文年間に中村氏によって築かれたとされている城址で、名古屋市中区にある洲崎神社が跡地です。城びとには未登録の城址で遺構はありません。ネットで見ると廣井城と書かれている案内板があるようですが、見つけられませんでした。
 名古屋城築城時にはこの地から福島正則が堀川の開削を始めたとされ天王崎港として栄えました。尾張藩の御船手役所が近くにあり説明板が立っています。

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もりちゃん

甲府駅から徒歩スグです❗ (2024/07/20 訪問)

正面の遊亀橋から、お城の外周を数奇屋曲輪側にぐるり廻ると、どんどん石垣が高くなっていきます。その急峻さには圧倒されました❗
近くの甲府駅では名物「ほうとう」も食べることがてまきますよ。
甲府駅から山梨市駅まで行き、近くの桃畑まで足を延ばすと、このあたりは水路が多いですね。などと思っていたら何と、、、このあたりの川には桃が流れているんですね‼️ 桃から桃太郎が産まれてきてしまうと、これから先の面倒を見るのが大変そうなので、今回は拾うのはやめておきました😄

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しんちゃん

体に良いと思って飲んでたヤバい奴 (2021/02/23 訪問)

3年ちょっと前の田中城の写真が出てきました。基本的には今と大差無いですが下屋敷の冠木門の色合いや、中の展示物など若干の差異はあります。家康公と言えば薬オタクで知られ、「八味地黄丸」をベースに「海狗腎(オットセイの〇〇)」など数種の補腎剤を加えた「無比山薬円」を愛用していたようです(通称 八之字)。
田中城で鯛の天ぷらを食して体調を崩した際には、「万病円」「銀液丹」という薬を自らに処していたようです。その他にもサイの角を調合した「烏犀円」という調合薬を開発して、大久保長安(駿府記)や池田輝政(駿府記)にも分け与えていたようです。家康公は「烏犀円」は中風に効くと考えていたようですが、実は「万病円」「銀液丹」「烏犀円」にはヒ素や水銀が薬剤として調合されています。
家康公に関しては胃がんという定説が有りますが、自ら調合した薬が体をじわじわ蝕んでいた可能性もあります。

話はそれますが、豊臣秀吉公の死因については私は毒殺を疑っています(ヒ素もしくは水銀で)。
秀吉公の死因に関しては、ガンや梅毒・脚気などの説もあります。元々 世界的にも梅毒の治療薬として水銀が広く利用されてきているので、その毒が体に溜っていたとする考え方も有ると思います。
秀吉公はビタミンB1を豊富に摂取していたので脚気の線は薄いと思います。また梅毒であれば、他の側室にも移っているはずです。
私はやはり毒殺の線が怪しいと思いますが、そうであれば当然 上杉景勝公の会津移封の件が関わってくると思います。
いずれどこかで「関ヶ原」や「会津の城郭」との関わりを含めて、投稿させていただきたいと思っています。

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たか

草刈正雄さんが頭から離れない(笑) (2024/08/17 訪問)

真田丸が放送されてすぐに行きましたが再度じっくりと見たいと思い登城です。
草刈さんはわたしの母校の先生の同級生ということを昔から言われていましたので真田丸から離れられません(笑)

時間も押していましたのでまずは先に真田神社でお参り&御城印を購入。
100名城スタンプを押してから改めて見学。
しかし天気も良いせいか夕方の心地よさのせいかとてもいい気分です。

現在また調査等やっているところを見てとてもうれしく思いました。
やはり当時のことをはっきりさせるということはお金もかかりますがいろんな方々の思いがあるからこそで、それを見させて頂けるわたしはなんて幸せなんだろうとつくづく思いました。
永遠とこの先。何百年と古き良き日本を記録とともに残してほしいと願います。

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たか

遥々来たぜ~♪ (2024/08/17 訪問)

、昨日上田に泊まってからの高遠城は遠いですね(笑)

本丸先の駐車場は閉鎖されていました。
その先にもあったのですが300円と書かれていながら誰もいないので小心者のわたしは戻って勘助曲輪の駐車場へ(苦笑)
それからトイレを経由して三の丸、二の丸を経由し本丸へ。
いろいろと見て回りたいのですがまたもや時間に追われ…
しかし高遠の戦いの説明などを見て気持ちが熱くなり結局のところ速足でぐるりと一周。

そのあとに高遠町歴史博物館でスタンプ&御城印をゲット。
これで引き返して…と安堵していたらなんと御城印が観光案内所にまだあると書いてある。
すぐにスタッフさんに聞いたら親切に地図を使って説明をしてもらいたどり着きました。
しかしここに置いてある御城印のレパートリーが半端ない(笑)
結局、歴史博物館で買った以外のものをすべて購入。
いいお値段になりましたがこれもまた旅の思い出。
満足して次の目的地へと思ったがカーシェアの時間がやばそうなのでとりあえず上田方面に。
高島城などまだ行きたかったけどまたのチャンスに。

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ぴーかる

一之瀬城:東の城と西の城 (2024/06/08 訪問)

【一之瀬城】
<駐車場他>一之瀬城東の城跡駐車場あり。トイレあり。
<交通手段>車

<見所>東の城:堀切・主郭切岸 西の城:堀切・石積み
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅ラスト9城目。現地説明板によると一之瀬城は南北朝時代、豪族の愛洲氏が本拠地とした城でした。1337年には後醍醐天皇の息子宗良親王を一之瀬城に迎えています。先に行った五ヶ所城の情報によると愛洲氏は宝徳年間(1449~1452年)にこの一之瀬城から五ヶ所城へ本拠地を移したようです。
 東の城:登城口に登城記録ノートとA4コピーの縄張図が置かれています。一之瀬神社の背後に主郭があります。主郭の周囲を堀で囲み、北側に深い堀切を備えています。横堀北東部から東方向に竪堀が落ちていますが、現在は少し薄くなっています。主郭の切岸は高く周囲から屹立しています。神社の場所もおそらく副郭的な広い曲輪だったろうと思われますがここから麓部分は改変されていて雰囲気は感じ取れません。尾根南端に物見櫓跡があります。
 西の城:東の城から徒歩で行きました。登城口横に向井将監館跡があります。ちょっと鬱蒼としていますが居館跡の基壇の石積みが僅かに見えます。登城口からすぐに谷下の削平地に寺院跡があります。脇の尾根上を登って行きます。尾根に2か所尾根を仕切る石積み遺構があります。防御壁・柵か何かの基壇石積みのようにも見えます。珍しい遺構です。主郭手前から連段になっていて、主郭の手前に空堀があります。石段は当時のものか?主郭の削平地はやや小さく、主郭背後から深い連続堀切があり見応えがあります。西の城は山城でした。個人的にはこちらの方が見応えがあったので両城行って十分満足できる城跡かと思います。
 これにてこの旅終了。三瀬の変、戦鬼たちの海 九鬼氏原点の地、愛洲氏(知らなかった)のなかなか見ごたえある城跡を巡り充実した1日でした。537㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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