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天守無しがアツい

玄宮園 (2025/06/22 訪問)

玄宮園…またの名を…玄宮楽々園と言うそうです

入口を入って左手に…楽々園の建物が見えました。井伊直弼がそこで誕生して…少年時代を過ごしたそうです

園内の中央には大きな池があり…それを周回する流れで園内を巡りました

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T-Shionoya

急峻な丘の上の鷲津砦 (2025/04/12 訪問)

前回投稿した大高城とセットで訪れた愛知県名古屋市の鷲津砦。

大高城の北東約700m。大高城とは大高川で分断された標高30m少々の丘陵の西端部に位置し、蓬左文庫の古城図では主郭と馬出状の施設が描かれている砦。

織田信秀(信長の父)の死後、今川方に奪われた大高城奪還のため信長が築いた砦の1つで、飯尾定宗らが布陣したが桶狭間の決戦の朝に絶滅したとのこと。

現在は長寿寺裏の丘陵南面が国史跡に指定され鷲津砦公園となっているが、その北の住宅地が砦跡とする説が有力な模様。

実際に訪れると、丘の斜面がとにかく急峻なことが印象的。
公園中腹の横堀状遺構は、つくられた時代が定かでないが、大高城主を務めた水野氏の墓所への通路であったとのこと。
公園上部の石碑が立つ辺りは、緩やかに傾斜しており削平が甘い印象。

帰宅後に、宅地化された北側エリアが砦推定地だと知り、2週間後に再訪問した私の城郭巡りの203城目でした。

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トク

私のお城巡りのきっかけとなった城 (2025/06/05 訪問)

姫路城の訪問は5回目ですが、何度来てもその美しさには目を奪われてしまします。私が本格的にお城を好きになったのは、30年前にこの姫路城を初めて見てからでした。

私は高校(普通科理系)→大学(情報工学科)→社会人(通信エンジニア)とずっと理系畑を歩んできたので、お城どころか高校・大学と、日本史の授業を受けた事もなく勉強したこともない、よって30年前の初めての姫路城を訪問した時は、美しいなとただ天守だけを眺めていただけの全くの初心者でした🔰。でもここから見たその景色が衝撃的でまぶたに残りました(写真①②の場所)。それから20年後、子供も独り立ちして趣味に費やす時間的余裕も出てきたので、あの時を思い出してお城や歴史の本などを読むようになり、近くの城などにも足を運ぶようになりました。するともっと色々と知りたくなり、その目標として試験がある事を知り、試しに受けてみようかなと思うようになりました。

2度目の姫路訪問(10年前)は、姫路城の前(姫路市民会館)がその城郭検定試験の会場だったので、受験の帰りに立ち寄りました。渦郭式とか入母屋破風とか野面積とか懸魚まで・・お城用語を覚えて行くと、だんだんと細かい所まで目が行くようになり、今までに経験した事のない空気感に浸る事ができました。本当に渦格式なのかを確かめるため最上階に登って見てみましたが、やはりドローンで空から見ないと分からないですね(笑)(写真③)。

3度目の姫路訪問(3年前)は、池田輝政はなぜこのような江戸城や大坂城にも匹敵するほどの大城郭を築いたのか🤔? ふと疑問がわき、吉田城から姫路城までの輝政の人生を追ってみました。輝政の築いた姫路城はこの美しさとは裏腹に、実は鉄壁の防御が施された城でした。ならばここで誰と戦い誰を守ろうとしたのか? しかし輝政は大坂冬の陣の直前の1613年に、脳卒中で突然亡くなったため、それは分かりませんでした(写真④)。この時家康よりまだ22才も若い50才だったそうです。

4度目の姫路訪問(2年前)は、西ノ丸にいた千姫の事が気になり、桑名城から姫路城までの千姫の人生を追ってみました。燃え落ちる大坂城から助け出され、桑名の七里の渡しで出会った本多忠刻に一目ぼれ、家康に懇願しその忠刻と桑名城で結婚、そして国替えで姫路城へ、子宝にも恵まれ今度こそ幸せになれるかと思いきや、子や忠刻に若くして先立たれ、結局ここでも幸せにはなれなかったという、悲しい結末を知りました(写真⑤)。

5度目の今回の訪問は、ある武芸者を追ってやって来ました。その武芸者は少なくとも二度この姫路城を訪れていたようです。「るの門」にそのキーポイントらしきものがあり驚きました(写真⑥)。

姫路城の入場料は現在1,000円ですが、来年3月から2,500円に値上げされるそうです😱! 早めの訪問がお得のようです。

夜は姫路駅構内ピオレの奥にある店で「姫路おでん」を頂きました。一人でも入りやすい場所なのでついつい毎回ここに来てしまいます。お城の形のこんにゃくが、私はとても気に入ってます(写真⑦)。
 

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イタさん

二之宮赤城神社 群馬県前橋市二之宮町 (2025/06/19 訪問)

城館として何も情報がないようである。堀・土塁がよく残るとあり訪問してみました。
神社境内の西に公民館の駐車場があり、すでにそこから西側の堀が見える。鳥居からの参道右側に堀状の水路が見られ、赤い橋で右奥に曲がっている。右奥の堀は途中まで確認する。本殿の北東から境内を出る場所に、分かりづらいが堀跡が確認可能。本殿背後、西側には土塁・内堀がよく遺っている。

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イタさん

宿阿内城/力丸城 群馬県前橋市亀里町/力丸町 (2025/06/19 訪問)

宿阿内(しゅこうち)城跡

先人さんの記事に、文明年間(1469~1487)に三輪氏により築かれたと載る。本丸跡と言われる畑に、「力丸、宿阿内 城の跡」と案内がある。下川淵カルタと書かれいるが、知識不足で初見であった。上毛カルタは有名だが。案内は藤大明神の背後にあたる。神社に隣接する民家後ろに土塁を思わせる高まりがある。

力丸古城跡

貞治6年(1367)に力丸氏により築かれたようだ。ここには立派な城跡碑があり、この辺りが主郭だったのだろうか。現在、町の会議所の北と東に水路が巡り、綺麗な水が流れており、堀の名残だろうか。

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カズサン

夏草茂る真壁城-1/3 濠・壕・堀編 (2025/06/07 訪問)

 石岡城、志筑城を終えて、宇都宮孫達の家に地道を使って移動、昨年の柿岡城からの帰りと同じ道、県道7号線の狭く曲がりくねった上曽峠越え、冷や冷やのドライブ、通り沿いに真壁城の案内、昨年は日も暮れて真壁城パスしましたが、今回は若干時間も有り9年振りに寄ってみる事にし、駐車場の有る真壁体育館(真壁城本丸跡)へ進行。

 ちょっと見の予定でしたが終わってみると1時間超、写真も60枚程撮って居り、濠・壕・堀編、虎口編、曲輪編に分けてみました、先ずは、本丸の真壁城本丸跡案内解説板横に在る資料ボックスの「オススメ散策コース」資料片手に散策探訪。
 本丸虎口土橋よりⅠの堀(本丸堀)南側の水濠、北側の水濠は葦が茂り水は見えない、本来のⅠの堀本丸堀は本丸を一周して取り囲んでいた、二の丸に入りⅡの堀跡も葦が茂り低きを堀と確認できる、中城(三の丸?)に南西虎口と南東虎口がありⅢの堀を確認、外曲輪南虎口より、Ⅳの堀を確認。Ⅳの堀は鹿島神社の南から東、北と廻り込み外周大きな堀とと成って居る、外曲輪東虎口からⅣの堀と土塁を確認、外曲輪北虎口からⅣの堀と土塁を確認しました。
 歩き散策は遊歩道と草刈されてる処のみです。
 堀の名称は資料ボックス散策リフレットによる、Ⅰの堀本丸、Ⅱの堀二の丸、Ⅲの堀中城会所、Ⅳの堀外曲輪と称して居た。

 夏草茂る真壁城-2/3 虎口編に続く。
  

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しんちゃん

時代を越えて弓庄城を落とす勢いで進め! (2025/04/12 訪問)

弓庄城は白岩川の右側の河岸段丘上に築かれた城で周囲を水堀で囲まれ南北に曲輪が連なった堅城だったようです。土肥氏によって築かれ、城主・土肥政繁は上杉謙信の死後、織田信長に従いましたが、本能寺の変の後に上杉氏に従ったため佐々成政の攻撃を受けました。
佐々の猛攻を弓庄城は良く耐え凌ぎますが上杉からの援軍が見込めなかった為、開城して越後に退去して行きました。
敵ながら天晴と言えるでしょう(現状佐々軍)。

本丸が有る程度かつての姿を留めているとの話ですが、堀や土塁が失われてしまったので、いささか解りづらい。かつての本丸の一角に石碑が立ち、その存在を示してくれています。

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しんちゃん

いけいけ佐々軍!! (2025/04/13 訪問)

仏生寺城は現在は舟橋村役場となり、城址東側の高低差に名残がありますが、遺構は残っていない様子。戦国時代に斯波氏家臣・細川曾(宗)十郎により築かれ、付近の竹内館はその出城とされています。後に佐々成政に攻められた際に自刃し廃城になりました。
佐々軍団の皆さん、頑張りましょう!! 全力を尽くして戦えば勝利は必ず訪れますぞ!!

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しんちゃん

がんばれ佐々軍団!! (2025/04/12 訪問)

日中城は白岩川の左岸の段級の上に築かれています。単郭のシンプルな平城(平山城?)ですが周囲を土塁と空堀で囲まれていて、城址をそのまま墓地に転用しているので破壊されることも無く、状態を良く残しています。良い墓地であり、良い城址です。
天正11年(1583)4月に佐々成政が弓庄城の城主・土肥政繁を責める際に築いた4つの砦の一つで、攻撃用の付城とされています。付城を使った戦術は織田信長配下の頃から豊臣秀吉が得意とした戦術で、福岡県の大三岳城の周辺には周辺の山を覆い尽くすほどに吉川・小早川の付城が築かれています。

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イタさん

上泉城 群馬県前橋市上泉 (2025/06/19 訪問)

大胡城の大胡氏一族が支城として築き、上泉氏を名乗ったと載る。城址より新陰流の祖、上泉伊勢守の生誕の地として宣伝している。また本丸に飢饉など非常時に備えた郷蔵が建っている。寛政8年(1796)から明治42年(1909)まで続いたようだ。

城址としての遺構は多く無さそうであった。資料の本丸半分・二の丸は自治会館の敷地になり、本丸北側・東側も民家が建つ。一の郭とある西林寺の東西境の道は堀跡を想像させるがどうだろう。西端の出丸とある玉泉寺は地続きとなる北側に立派な土塁の一部が見られる。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:横倉城(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/24 訪問)

野口城から徒歩15分くらいで、横倉城址(34.751065、134.869232)に着きました。

詳細は不明のようですが、別所氏の一族である野口新十郎厚躬の居城と伝わっています。野口新十郎厚躬は別所頼清の後裔だそうです。

駐車場付近にある加古川市遺跡標(城址碑)と土塁を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
当初の予定はここからライトアップされた明石城を見に行く予定でしたが、疲れてしまいパスしました。
本日の宿泊先に戻る為、東加古川駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=42895歩、歩行距離=30.0Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:野口城 (2025/05/24 訪問)

野口バス停から徒歩5分ちょっとで、教信寺参拝者駐車場(34.752642、134.855511)に着きました。
その後、大洋化成㈱付近(34.752093、134.856870)入って右側➡野口神社鳥居前(34.751911、134.859315)の順番に巡りました。

築城年代は定かではないようですが、三木城の支城で、別所長治の家臣である長井四郎左衛門長重の居城でした。
「播州一の名城」とも謳われた城で、別所氏が離反したことにより、1578年(天正6年)にはじまった「三木合戦」では最初の攻撃目標となり、織田信忠と羽柴秀吉の軍勢が三日三晩攻め立てて落城させました。

城址の正確な位置は不明のようですが、現在の野口神社や教信寺の一帯だと推定されているそうで、遺構はないようなので説明板巡りをしました。
驚きました、大洋化成㈱がなくなって更地になっていました。グーグルマップでは存在してましたが、写真が古いのでしょう。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=横倉城(城びと未登録 兵庫県加古川市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:大塚城(高木大塚城) (2025/05/24 訪問)

鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)から徒歩40分で、説明板前(34.786635、134.971187)に着きました。

羽柴秀吉を大将とする織田信長軍が別所長治の籠もる三木城を攻めた三木合戦(1578年(天正6年)~1580年(天正8年)で築かれた織田方の陣城の一つです。

マンション住宅地内にも関わらず、迷路のように巡っている小さな土塁がきれいに残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=野口城を目指す為、三木駅から電車➡バスを乗り継いで野口バス停へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市) (2025/05/24 訪問)

三木城(別所長治公首塚)から徒歩2~3分で、鷹尾山城入口(34.796526、134.989677)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1492年(明応元年)に別所則治が釜山城(三木城)を修築して以来、別所氏代々の居城となったようです。 
鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)は三木城の支城の一つで、三木合戦では別所長治の弟彦乃進友之が守っていました。
1580年(天正8年)織田軍の攻撃によって落城しました。その後、秀吉自身がこの鷹尾山城に入って三木城の別所長治と対峙し、三木城開城交渉が行われたそうです。
城は三木氏滅亡後も存続しましたが、1617年(元和3年)に明石城が築城されたときに廃城となったそうです。

三木勤労者体育センターの駐車場裏手に説明板と登城口あります。
三木勤労者体育センター西側に主郭部があり、東に堀切、南から東側に土塁が巡り、南西下に浅い堀、西は帯曲輪などが残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大塚城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:三木城 (2025/05/24 訪問)

三木上の丸駅から徒歩2~3分で、三木城址入口(34.800629、134.987592)に着きました。
かんかん井戸跡や天守跡、別所氏長治公の辞世の碑、別所長治公像を見学した後、三木市立みき歴史資料館(34.798818、134.987753)➡別所長治公首塚(34.796636、134.986989)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、別所氏によって築かれたと云われています。
三木城は1578年~1580年(天正6年~天正8年)羽柴秀吉による兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)で、別所長治以下一族が自害し落城しました。
その後、1585年(天正13年)摂津国茨木より中川秀政が入城しますが、朝鮮の役で没しました。
弟秀成が継いだものの禄高は半減となり、1594年(文禄3年)豊後国岡に転封となりました。
1600年(慶長5年)池田輝政が姫路に入部した際、三木城には伊木忠次が30,000石で在城しましたが、元和の一国一城令によって廃城となりました。

本丸跡周辺が上の丸公園として残っており、公園内には長治の騎馬像や城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」があります。
二の丸は南に隣接した部分でみき歴史資料館などがあり、三木城に関する展示となど常設展は無料で見学できます。
三木城には新城、鷹尾山城、宮ノ上要害などの支城があったそうですが、現在遺構を残すのは鷹尾山城のみだそうで、この後、攻城しました。
近隣に、三木城攻防戦の最中に陣中で没した竹中半兵衛の墓があるそうですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:小野陣屋 (2025/05/24 訪問)

小野駅から徒歩2~3分で、石碑前(34.843330、134.932747)に着きました。

小野陣屋は1653年(承応2年)一柳直次によって築かれました。
一柳直盛が68,000石に加増され伊勢国神戸から伊予国西条へ赴く途中死去しました。
嗣子直重が30,000石で伊予国西条を継ぎ、次子直家が伊予国宇摩郡、周布郡と播磨加東郡小野で28,000石で伊予国川之江、第三子直頼が伊予国小松で10,000石を継ぎました。
直次は園部藩主・小出吉親の次男でしたが、一柳直家の養子となり跡を継ぎました。
ただし末期養子であったことから伊予川之江の領地を没収され、播磨小野10,000石となりました。
当初は敷地(現在の大部小学校付近)に陣屋を置いていましたが、のちにこの地に陣屋を移しています。
以後10代にわたって一柳氏が支配して明治維新を迎えました。

小野陣屋の側に小野市立好古館があったので、覗いてみました。
その後、小野藩主一柳家墓所を確認する為、光明禅寺入口(34.840699、134.934646)に向かいました。
標柱の説明文は次のとおり。
「当 墓所は光明寺本堂西側に所在し、向かって正面には九代末延(すえのぶ)公[左]、十代末彦(すえよし)公[右]の墓、手前には十一代末徳(すえのり)公の 次女、喜久子女子の墓があります。
他の藩主は、江戸在勤時に亡くなったため、東京の祥雲寺に葬られています。
光明寺は、鎌倉時代後期に建立された臨済宗の 寺で、釈迦如来を本尊としています。
江戸時代に小野藩主一柳家の菩提寺(ぼだいじ)となり、位牌堂には藩主十一代とその奥方の位牌がまつられているそうです。
攻城時間は35分(小野市立好古館の見学、移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=三木城を目指す為、三木駅から電車で三木上の丸駅に向かいました。

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しんちゃん

大天守 (2025/02/23 訪問)

大天守の前にはスロープがこれでもかとばかりに張り出しています。バリアフリーに力を入れていることを主張したいのは解りますが、これはいささか「下品」ですね。正直、車椅子の障碍者と健常者が必ずしも同じルートで登城する必要は無いと思います。
ルートは別々に設けて車椅子の人を優先で案内するべきではなかろうか。この日、大勢の人が熊本城を訪れていましたが、車椅子の人は「一人」もいなかったというのが事実です。本来、障碍者の人専用のエレベータを親子連れが「いいのかな」という表情で使用していました。私はバリアフリーを否定しているわけでは無いし、それなりに気遣いもありますが、やはり大切なのはバランス感覚だと思います。
天守の最上階は2月の下旬でもかなり熱気がこもっていました。夏場だとどうなるのかな?

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しんちゃん

この先、どのように復興していくのか。 (2025/02/23 訪問)

熊本城の宇土櫓の修復は2032年完了予定、主要区域と重文建造物の修復は2042年完了の予定、この時点であと17年です。
地震前の姿に復旧するのは2052年度になる予定、長いですね。でも本当に以前の姿を完全に取り戻すことが出来るでしょうか。バリアフリー化を謳っている以上、今後様々な問題が発生すると思います。重要文化財は元の姿に戻すことを念頭に置いていても、本丸御殿や飯田丸五階櫓の修復はすんなり進むでしょうか? 現在は空中回廊が設置されて、エレベータも整備されているので車椅子の障碍者でも天守閣まで問題なく行くことが出来ます。ただ、回廊と昇降機がセットになっているので、回廊を撤去した後の状態が不明瞭です。
また本丸下の「闇り通路」からは、かつての「雰囲気」を感じることは出来ません。本丸前の広場もコンクリートですっかり覆われていて、人工的な感じが強くなりました。バリアフリーの為に仕方がないとはいえ、いささか過剰に感じる部分があるのも事実です。

復興した天守閣は小型のエレベータを組み込んであるという話ですが、実際には大きな容積を占めていて、健常者用の階段を減少せざるを得なかった為、さほど広くない階段に無理やり間仕切りをつけている状況です。登る人と降りる人が狭い空間で大量にすれ違うので転倒などのリスクが生じると思います。
岡山城の天守もエレベーターを設置していますが、三階までの限定で歩行者の移動も比較的スムーズです。熊本城に関しては、正直バリアフリーを取り入れた復興の方法が少し性急だったのではないかとも思いました。

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しんちゃん

本丸 (2024/12/31 訪問)

変形武者走りを楽しんだ後は五郭に沿って本丸に入ります。本丸の手前には土橋がかかっており、周囲には土塁が残っています。
小幡城は江戸氏の支配下に置かれますが、江戸重通は豊臣秀吉の小田原攻めの際に周囲を警戒して秀吉の元に参陣することが出来ず、常陸21万石の所領を安堵された佐竹義重によって常陸国を追われ、結城晴朝の下へ落ち延びて行きました。
一説には大掾氏とともに佐竹氏に、秀吉へのとりなしを依頼したが無視されたとのことです。

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イタさん

荻窪城 群馬県前橋市荻窪町 (2025/06/19 訪問)

見えにくい説明板には、荻窪城は大胡城の出城であったと言われています。荻窪地区に伝わる古文書には、文和2年(1353)足利尊氏の末派、赤荻主馬之介智宜・同弾正智則が居城。これにより同村の向山に城之守り本尊として、大日如来っを祀り・・・、築城は文書より古いく、赤荻一族と推定される。その他立地・縄張が載っている。

城址の西下の入口を利用。城址の西は谷戸を利用した公園になる。時季なのか篠・草が多いく歩きづらい。すぐに藪中に横堀が現れる。郭の北側に劣化した説明板、ベンチもあるが、藪っぽさは否めない。東に城址碑があり、主郭と分かる。さらに東の郭内には、土塁・堀が遺っている。南に下れば民家の敷地は郭に思え、先に南入口の標示がある。

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