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じゅんじん

団地 (2024/10/18 訪問)

住宅団地になっていました。
近くに真田信繁が休憩したところと戦勝祈願した長吉神社があります。

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トク

石山寺(紫式部ゆかりの地を訪ねて②) (2024/11/11 訪問)

源氏物語発祥の地、石山寺を訪れました(写真①②③)。

私は大津城(びわこ浜大津駅)から京阪石山線に乗り、終点石山寺駅から行きました。現在入口には大河ドラマ館があり、そこではドラマのパネルやドラマでの衣装などが展示されていました(写真⑩)。

入口の東大門から入った紅葉のトンネルは若干色づき始めてはいましたが大部分はまだ青く、ピークは2週間後(28日前後)くらいでしょうか?(写真③外れたらすいません)。その頃に来たら紅葉がとても綺麗だろうな~とは思いますが、今でも京都と周辺はたいへん人が多く、さらにその頃は今の倍以上の人混みが予想されているので、御覚悟なされて行かれた方がよろしいかと(笑)。

石山寺を詣でたまひろは、ここで自分の好きな物語を書く事に没頭して気を紛らわせようと思い立ちます。この本堂の一角で琵琶湖や瀬田川を眺めながら構想を練り書き始めたそうです。その場所が今でも残っていました(写真④)。また紫式部の像(写真⑤)もありました。

まひろはここで、自由な恋愛や社会に出る事も許されず、閉ざされた女性たちのあわれさやはかなさを題材にした物語を書こうと決め書き始めます。しかしそのうわさがだんだんと広まっていき、その才が当時の最高権力者左大臣「藤原道長」の目に止まり、道長はここを訪れ「私のために新しい物語を書いてくれぬか?」と頼みます。まひろと道長の運命の再会でした(写真⑥の本堂で)。

最初は自分の書きたい物と反するので気が進まなかったようですが、結局は道長のために引き受けたようです。そして宮中に上がり、道長の娘で中宮「彰子」の女房(女官で教育担当)となります。

私も、まひろが没頭して書いたというこの場所から、同じように琵琶湖や瀬田川を眺めていると(写真⑦)、そういえばダラダラとした物語を書くのが好きな「紫式部とトクはどこか似ている?」とふと思ったのは私だけでしょうか・・・(🤔?)。

次は宮中「京都御所」へ続きます。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑧ (2024/10/20 訪問)

大川城で時間がかかってしまったので、ここがこの日最後の攻城となりました。立派な城址碑が建ち、空堀も深く、そして折れもあったりするのですが、笹や下草が刈られていないので、見栄えは今一つといったところ。それでも帰りがけにサクッと攻略するには手ごろな城でした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):北之庄城 (2024/10/09 訪問)

豊年橋和船のりば口バス停から徒歩10分弱で、北之庄神社鳥居前(35.145617、136.090274)に着きました。

築城時期・築城者など詳細は不明のようです。観音寺城六角氏関連と考えられるとの事ですが、遺構から織田信長侵攻後にも改修された可能性が指摘されています。

北之庄神社登山口は石段上の小屋の右手を木立の中に入ります。
登山道はよく整備されており、3つの休憩所を経由して城址説明板まで20分ちょっとで到着しまた。
上段曲輪の櫓台(のろし展望台)からは水茎岡山城方面が見え、七ツ池、東枡形虎口など見所満載です。
時間があまりなかったので、かなり端折って回りました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=浅小井城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):浮気城 (2024/10/09 訪問)

金ケ森城から徒歩30分ちょっとで、浮気バス停付近(35.051492、136.002229)に着きました。

浮気城は観音寺城主・六角氏の家臣である浮気氏の居城です。
六角氏が織田信長によって滅ぼされると、以後は織田氏、豊臣氏に仕えました。
1570年(元亀元年)に信長が金森御坊の一向一揆衆と対峙した際にこの城を拠点のひとつとして利用したと伝えられています。

住吉神社の辺りにいくつかの土塁と堀らしきものが有りました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=北之庄城を目指す為、守山駅からJR➡近江鉄道湖国バスを乗り継ぎ、豊年橋和船のりば口バス停へ向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):金ケ森城 (2024/10/09 訪問)

守山駅から徒歩25分くらいで、霊園前(35.055712、135.979328)に着きました。
そこから、徒歩2分くらいで金森御坊説明板前(35.056866、135.979220)に着きます。

金ヶ森城は、築城年代や築城者については定かでないが、川那辺道西の居城と云われており、1182年(寿永元年)に木曽義仲に攻められ、焼失したとされています。 
14世紀後半ごろに、川那辺氏は浄土真宗に帰依し金森には道場が開かれます。1465年(寛正6年)に本願寺法主の蓮如が京を追放されると、川那辺道西はこれを迎え入れました。
翌1466年(寛正7年)蓮如らは金森で蜂起し、比叡山の僧兵らと金森合戦に及びます。この金森合戦が、史上初の一向一揆であるといわれるそうです。
1469年(文明元年)蓮如は堅田へと移ったが、金森は寺内町として発達していきました。
戦国時代には一向衆徒の拠点ともなり石山本願寺と連携したが、織田信長の家臣佐久間信盛によって攻められ落城したそうです。 

金ヶ森城は、金森町地区の中心部にある善立寺一帯に築かれていたそうです。
現在、城の遺構は何も残っていませんが、善立寺南側の小公園内に石碑が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=浮気城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):青地城 (2024/10/09 訪問)

最終日の今日は本日中に自宅に戻る為、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
草津駅バス停から帝産湖南交通バスを利用して、志津小学校前バス停へ向かいました。
志津小学校前バス停から、草津市立志津小学校の北側にある池の説明板付近(35.004061、135.977125)➡小槻神社(35.001334、135.976832)の順番で廻りました。

青地城の築城は古く、鎌倉時代まで遡り、もともと在地の土豪だった小槻氏を祖に持ち、後に近江守護職の佐々木氏一族・馬淵氏の養子となって青地氏を名乗った青地左衛門尉忠綱が築城・城主となったと考えられているそうです。
ただ築城の時期に関しては諸説あるようですが、青地氏は佐々木七騎の一人として強大な力を持っていたともいわれています。
織田信長によって主君の佐々木氏が滅ぼされた後、青地氏は信長側につき戦国の世を生き延びていったようですが、青地城は1573年(天正元年)頃には廃城になったと考えられているそうです。
信長亡き後は、豊臣秀吉方につき、前田利家、豊臣秀次の家臣に入りますが、この秀次が切腹させられた後は、歴史の表舞台からは身を引いたそうです。

志津小学校と小槻神社の間に土塁、堀などの遺構が残っています
志津小学校の北側の池も堀跡なんでしょうね。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ケ森城を目指す為、志津小学校前バス停から帝産湖南交通バス➡JRを乗り継ぎ、守山駅へ向かいました。

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鍋山安室 (2024/11/14 訪問)

 大鍋山に本丸、小鍋山に二の丸、下鍋山に出丸が築かれていました。四天王神社脇から登る道が大手道で、途中屋敷跡を経由して本丸などに行くことができます。本丸方面は道も整備され比較的歩きやすくなっています。途中紛らわしい分岐した道がありますが、石柱に「→大手」などと彫ってあり何とか登城することができました。字五名より登る搦手道もあるようですが、今回は確認していません。本丸東側に石垣が残っています。本丸の西側の険しい坂を下りて行くと二の丸です。石柱を確認して引き返しましたが、帰宅後に高山市のHPを見ると「二之丸は巨岩のそびえ立つ自然の要害で、西南隅に石垣が残存する」と記載がありました。ノーマークでしたね(いつものことですが)。その後、本丸へ戻り出丸へ向かいました。途中までの道はよいのですが、堀切を越え登り始めた頃より道がわかりにくくなります。何とか下鍋山を登り出丸の石柱を確認して周囲の曲輪を散策して帰って来ました。

 

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小城小次郎

たった一本の堀に面して門が二つに櫓が五つ (2024/03/02 訪問)

堀一本の縄張と言ってしまえばそれまでだが、この堀に面して門が二つ、櫓が五つも並んでいたそうだ。三日月陣屋を数量・サイズともに倍増させたくらいのイメージを持てばよいということだろうか。迫力満点じゃないか。

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しんちゃん

お〇〇岩 天草郡苓北町 (2023/01/03 訪問)

九州・天草地方を旅した時の写真です。富岡城を目指していた時に立ち寄りました。まあ‥見たまんまです。しかも、鳥居まであるし。
なんでも直に触ると胸が大きくなるそうな‥ちなみに私は触っていませんぞ。

天草四郎乗船の地‥天草郡苓北町坂瀬川
天草四郎率いるキリシタンの一揆軍は富岡城城代・三宅藤兵衛を討ち取りますが、城を落とすことは叶わず、ここから島原に向けて出航したとのことです。

富岡吉利支丹供養碑‥天草郡苓北町富岡字首塚地内
天草・島原の乱で一万余のキリシタンが討ち取られましたが、その首を三分して葬ったのがこの首塚とされています。供養碑は天保4年(1647)に代官・鈴木重成によって建てられたとされています。

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しんちゃん

石垣ビュースポットが3ヶ所 (2024/10/20 訪問)

麓のルートから登城し、主郭(本曲輪)にたどり着くまでにさまざまな遺構が目を楽しませてくれます。頂部からの見晴らしも良く、ハイキングコースとしても人気が有るようで、多くの人が訪れています。途中石垣のビュースポットが3ヵ所あります。二つ目は道の下側に付いているので見落とし注意です。竪堀や腰曲輪群などを確認した後は主郭に向かうところですが、その前に3ヵ所目の石垣を見に行きます。主郭西側の郭にその石垣が有りました。石垣をひとしきり確認したあとは、いよいよ主郭です。

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しんちゃん

古今伝授の里フィールドミュージアム 岐阜県郡上市大和町牧 (2024/10/20 訪問)

篠脇城の麓、東氏館跡庭園から県道を挟んだ先に古今伝授の里フィールドミュージアムがあります。いくつか建物が有って、東氏にまつわる展示の他、レストランなどもあります。和歌文学館には和歌にまつわる展示が多く飾られ、短歌を詠む人なら、一度は訪れたい場所と聞いています。昔は武士といえど和歌などの知識が無いと辞世の句も詠めなかったので、教養は必須だったようです。ただ強いだけではダメだったということですね。わたしもいずれ、歌なども詠めるようになりたいと思いますが、まだまだ先になりそうです。
「よぶこどり」では好きな文学書を読むことが出来、土産物なども売ってます。ここで買ったりんごは香りと味が良いと好評でした。

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しんちゃん

大桑殿屋敷 岐阜県山県市大桑 (2024/10/20 訪問)

大桑殿屋敷は南泉寺境内一帯に築かれていたとされ、土岐氏の屋敷跡とされています。北側の墓地の北の高台に土岐頼純の墓や一族の供養塔があるようです。

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しんちゃん

主郭の周囲に多様な堀の遺構が残る (2024/10/20 訪問)

篠脇城は東氏の城ですね。東氏は鎌倉幕府の功臣・千葉氏の流れをくみ承久2年(1220)郡上郡山田荘を領したとされます。南北朝の時代に南朝方の拠点、越前からの来襲に備え篠脇城を築いたとされています。応仁の乱の際には城主・東常縁が関東に下向している隙に守護代・斎藤妙椿に城を奪われてしまいます。常縁が詠んだ「あるが内に斯る世をしも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」という歌が妙椿の耳に入り、かつての友人で歌仲間である常縁の悲嘆と歌に感じ入った妙椿は自分に歌を10首送ってくれれば、奪った所領をすべて返そうと約束します。常縁が歌を妙椿に送ると本当に城と所領を返してくれたそうです。
応仁の乱で敵味方に分かれていたとはいえ、両者ともに争うのは本意ではなかったようです。戦国時代では考えられない話ですが、何となく人間味が有りますね。
篠脇城主要部は主郭の北側に郭を段々に配したものですが、周囲に竪堀や畝状竪堀を周到に配しています。久々に来たし、じっくり遺構をみていこう、と考えていたのですがお腹の調子が悪くさっきからゴロゴロいってます。なんてこったい‥写真を撮りながら下山にかかります。

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朝田 辰兵衛

こち亀の聖地へ…🔫 (2024/10/14 訪問)

カルビンさんとチェブさんの投稿で,葛西城に来たらJR亀有駅をセットにしないとつまらないな…と感じていました。実際にはモニュメントが駅前ロータリーに3ヶ所ありました。
御殿山公園はゴミのポイ捨てが気になりました。
葛西城址公園は工事中で立ち入れず…何か新たな発見に期待します。

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エボママ

素晴らしいお城でした (2024/01/05 訪問)

名古屋城に行きました。
豪華絢爛。煌びやかで徳川家の栄華が表れている城でした。

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エボママ

石垣が魅力です (2024/11/12 訪問)

江戸城を想い、皇居に行ってきました。石垣が圧巻でした。もう一度、じっくりゆっくり行きたいです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:佐久良城 (2024/10/08 訪問)

西佐久良バス停から歩いてすぐ、城址碑説明板前(35.045303、136.254641)に着きました。
そこから八幡神社に行く途中に登り口があり、設置してあるポストの中に貸出縄張図及び各種資料が入っています。

築城年代は定かではないようですが、「応仁の乱」において東軍に属して活躍した小倉左近将監実澄(實澄)の居城として知られています。
実澄は1505年(永正2年)に没し、その二代後には蒲生定秀の三男実隆(實隆)が養子に入っているが、1564年(永禄7年)実隆は小倉右近太夫との合戦で討死しました。
その後、小倉氏は衰退して蒲生氏に取り込まれたようです。

散策路は整備されており案内表示も充実していますが、山に入ると真っ暗で雨も降ってきました。
土塁と堀切、土橋などを確認することができ、北山腹には馬洗池もあります。
真っ暗の中、傘をさしている状態で撮った写真はブレまくりピンボケ状態です。
なんとか見える状態の写真を投稿しましたが、写りの状態はご容赦ねがいます。
町営の最終バスの時間が迫っているので、攻城時間は25分くらいで撤退しました。
暗くなったので、次の攻城先の後藤館は断念し、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
本日の宿泊先に戻る為、西佐久良バス停から日野町営バス➡近江鉄道➡JRを乗り継出で草津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=24159歩、攻城距離=16.91Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:日野中野城 (2024/10/08 訪問)

仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町)から歩いてすぐ、城跡碑と堀切と石垣と橋が目に入りました。

日野城は蒲生氏郷の祖父、蒲生定秀が1533年(天文2年)から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城したそうです。
定秀以降の蒲生氏の本城で、氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていました。
蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、1582年(天正10年)本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れました。
1584年(天正12年)氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い以降廃城となりました。
1620年(元和6年)市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いたそうです。

日野川ダム建設に伴い、本丸以南が破壊されたようですが、涼橋神社と稲荷神社の先に横堀や土橋が残っており、主郭部の近くには、「蒲生氏郷公産湯の井戸」があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=佐久良城を目指す為、大窪北バス停から日野町営バスで西佐久良バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町) (2024/10/08 訪問)

日野川ダム口バス停から徒歩5分弱で、中野城跡入口(35.009505、136.266080)に着きました。

仁正寺陣屋は市橋長政によって築かれた陣屋です。
市橋氏は信長・秀吉・家康に仕え、越後三条40,000石を領していた市橋長勝が死去すると嗣子なく改易となりますが、家康の信任が厚かったことから養子の長政に改めて20,000石が与えられました。
長政は廃城となっていた旧中野城の一角を利用して陣屋を構えると代々相続して明治を迎えました。なお幕末の1865年(文久2年)には仁正寺藩から西大路藩へ改称しています。

中野城跡の北側に「藩主市橋氏邸趾」の石碑が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日野中野城へは徒歩で向かいました。

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