筑紫広門の続き(5/6)です。広門が幽閉された久留米の大善寺を訪れました。西鉄大善寺駅から徒歩5分の所です。
寺の入口に立つと(あれ?)、お寺なのに赤い欄干と鳥居がある(写真①)。門をくぐると(あれ?)社務所がある(写真②③)。さらに進むと(あれ?)賽銭箱がある(なぜ?🤔)。
寺と言っても、現在は神仏習合の場所のようです。そしてこの寺は島津氏によって焼き払われましたが、関ケ原後に筑後を治めた田中吉政とその子の忠政により、この地には玉垂宮という神社が再建されました。寺は山門のみ再建され残っています。毎年正月七日には「鬼夜」と呼ばれる伝統の火祭りがあるそうです(写真⑥)。
1586年、勝尾城にて島津氏に敗れた広門は捕らえられ、この大善寺に幽閉されます。その時ここでこんな和歌を詠んだそうです。
忍ぶれば
いつか世に出ん折やある
奥まで照らせ
山のはの月
その我慢の甲斐あってか、幽閉されてから1カ月後、豊臣秀吉が九州へ上陸すると島津氏は薩摩へ撤退。広門は大善寺を脱出し旧領奪還に動きます。そして勝尾城を守っていた秋月種実より居城を奪い返しました。これを大いに手助けしたのが立花宗茂です。広門と共に戦い旧領奪還に協力しました。
しかし秀吉は、広門には旧領の勝尾城ではなく筑後上妻郡(現在の八女市)に1万8千石を与えます。これにより、勝尾城は廃城となりました。また宗茂には、立花山城に代わり柳川8万石が与えられ、宗茂は大友家臣から豊臣の直臣となりました。
宗茂と広門、この二人は義兄弟としてまた盟友(親友)として、この頃から固い絆で結ばれていったようです。この後、筑前名島城に入った小早川隆景の傘下に入り、二人とも朝鮮(文禄・慶長の役)へ出兵します。そして広門は朝鮮でも宗茂を支え続けます。その広門の支えがあって、宗茂は蔚山でもはや絶体絶命の加藤清正を救出するなどの大活躍をします。隆景から「宗茂の3千は1万に匹敵する」と賞賛されたほどです。そして帰国後も、広門は関ケ原まで宗茂を支え続けて行きました。
最後に、広門が秀吉から与えられた地で、新たに居城とした八女市の福島城を訪れます。
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