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天守無しがアツい

火縄銃シミュレーションゲーム (2007/09/30 訪問)

(2007年9月の訪問 当時つけていた日記より)
米沢駅からバスで移動し上杉神社で下車⛩️ 今日はにわか雨に見舞われ、肌寒い日だった。境内はそんなに広くもなかったが、まず説明書を見てみた。上杉謙信・上杉景勝・直江兼続が紹介されていた。本殿にて参拝し、まだ時間があったので米沢市上杉博物館(1枚目)にも行ってみた。山形の歴史について展示されており、特に上杉氏を中心としたものになっていた…

ミニ映画も上映され、18c後半、財政難に陥った米沢藩を救った上杉鷹山が紹介されていた。若くして米沢藩の家督を継ぐと、大倹約令を出して改革を実行し、自らも一汁一菜で倹約したという。けれど家臣の反対にもあい、飢饉で不作が続いたりと試練はあったという…

けれど倹約および産業開発(農地改革・米沢織物)を長年にわたって進め、財政を立て直したそうだ。最後のシーンで彼が述べた「成せばなる成さねばならぬ何事も」という言葉は、何事も始めなければ成功にまで辿りつけないという意味を感じ、印象的だった…

上杉謙信の代では拠点は越後(新潟県)だったが、景勝の代にて関ヶ原の合戦で西軍につき負けた側となったので領地を大幅に削られ、米沢へ移転させられたそうだ

それから上杉家の拠点は米沢となり、領地を削られたりもしたが、藩は長年にわたって生き続けたという。上杉家の子孫は現在どうなっているのか知らないが、とにかくここは景勝が領土縮小させられたことで、上杉家ゆかりとなったようだ

火縄銃シューティングゲーム(2枚目)もあった。画像に出てくる的めがけて引き金を引くというもので、固定された火縄銃は結構重かった🔫「鉄砲隊って結構ハードなんだな…」とも思い、このゲームにチャレンジ!1回目はハズレで2回目は当たり(2回プレイ)となった

弓矢と同じく弾も重力の影響で放物線を描いて下に落ちていくので少し上を狙う感じでうつと良いようだ。2回目はそれを踏まえて取り組んだので「見事命中🎯」となった

弾をこめるのに時間がかかるようだし、命中率もさほど高くないと思えるから(腕のいい者はともかく)この時代まだそんなに実用的でもなかったのではとも思える(弓矢の方が打ちやすそう…)しかし、長篠の戦いにて鉄砲三千で武田騎馬隊を破ったように、うまく使えば十分な戦力になったとも言える…

他にも古文書を折りたたむという体験型イベントがあり、説明に沿ってたたんだ。A4位の紙がすっかり小さくまとまり、こうして相手の藩主に(使いを通して)渡していたと思われる

これもまた一種のワークシートと言えよう(博物館学🧑‍🎓) 当時の集落を再現したジオラマ(3枚目)もあり、説明文ももちろん必要だが、やはりそれだけではなく、ビジュアル的なものや体験型がより来場者を魅了するのだろう。私はこれまでに数多くの博物館を見学してきたが、今日のところは体験型もあり、館内もキレイで楽しめるものだったと思える

(2025年3月 2回目の訪問)
あの日から…17,8年もの月日が経過しての再訪問。残念ながら火縄銃シューティングゲームは故障中…再体験はなりませんでした。しかし上杉鷹山のミニビデオは上映されており…画質こそ少し古め…けれど改革を決して諦めない熱い想い…そして「成せばなる…」のラストシーンを再び見ることができたのはよかったと思いました🤔

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しんちゃん

おそらく和歌山の難関の一つ。瀧法寺ルートより。 (2025/03/30 訪問)

はい到着。主郭より投稿です。イオさんは南から攻めてましたか。私はヤブがキツイと評判の北西、瀧法寺のルートから攻略です(今頃投稿を読んでいる)。
めっちゃ大変です。ヤブシダがきつくて進めないので各所で迂回しながら進みます。この城は正直オススメできない。なんでって、危ないから。
道もはっきりとしたものはないので、昔のモノノフの使っていた(たぶん)道を使います。
武士道(ブシドー)なんつって...
堀切などは見当たりませんが、主郭の北側に土塁が付き、南北に数段の郭が付いていて、城域は案外広いです。
西側にも帯郭のようなものが付いていて、スロープ状の土橋が付いているように見えます。北に南北に長い郭があり、北端の入口にスロープ状の土橋がハッキリとわかるくらいに付いており、この城の見所の一つだと思います。

これから、この道を戻るのか..どこでもドアでお家に帰りたい(車は❓️)。

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トク

【対馬4城を巡る】(2)金石城 (2025/03/22 訪問)

(2城目)は金石城です。

金石城は、平安時代からこの地を治める宗氏の金石屋形が前身で、天守はありませんでしたが、櫓門を天守の代用としていたようで、その櫓門が現在再建されています(写真①②)。庭園も残っていました(写真③)。また隣接する萬松院には宗氏代々の墓所もありました(写真④⑤)。

宗氏は室町時代から朝鮮との橋渡し役を担ってきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で19代「宗義智」(写真⑥)は清水山城築城の労役を課せられます。そして出兵により朝鮮との関係は最悪となりました。しかし江戸時代に入り、対馬藩を立藩した義智に対して徳川家康は、「悪化した朝鮮との関係を修復せよ」命じます。それは容易な事ではありません。義智は偽文書まで捏造して幕府に嘘の報告をしながら、一方では捕虜の釈放などを条件に粘り強く交渉し、何とか国交を回復しました。いやすごい努力だと思います。

そして1607年第1回目の「朝鮮通信使」がやって来た時、ここで大きな問題が! 来日した使節は何と予想を上回る500名。幕府側からの迎入使節も500名程。金石城はこの大人数の接待をするにはあまりにも手狭で、また港から城まで近く全員が上陸し行列ができないという事態になってしまったのです。

そして1659年1661年と二度に渡る大火で金石城と城下は甚大な被害を受けます。22代「宗義真」は大規模な復興に取り組み、3km内陸の桟原の地に、この際使節も受け入れられるような城を築城しようと、藩主館や行政機関なども全て移し、大規模な接待施設も作りました。金石城もその後再建され、使節を接待する幕府側の迎入者の宿泊所などに使われたようです。庭園には1811年幕府大使の小笠原大膳(小倉藩主)が宿泊したとの記録も残されています(写真⑧)。

朝鮮通信使の歴史を知るのは韓国人にはとても人気があるツアーのようです。金石城は韓国人の団体客がとても多く、何台ものバスがたて続けに来ては、ぞろぞろと降りてきました(写真⑨)。ホテルも私以外の客はほぼ韓国人でした。チェックイン時に「オソオセオ~(いらっしゃいませ)」とあいさつされたので、思わず「私は日本人です」(🤔?・・笑)。いやまさに国境の街、いたるところ何から何まで、必ずハングル文字のふりがながついています。

次は(桟原城)まで歩きます。
 

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にのまる

夕焼け小焼けで (2025/01/24 訪問)

佐伯城から列車移動しました。
前回は卯寅櫓の方から入ったので今回は西の畳櫓の側から。
鎧坂の通路が落盤の危険があるということで安全のため防護壁を設置してくださっていました。
どこのお城も年月が経つにつれ傷みが生じてくるのは避けられないことで、整備してくださるありがたさを思うと同時に自分自身も充分に注意して歩かないとと思いました。
ちょうど日没の時間できれいな夕焼けを拝めました。

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しんちゃん

登城御免 (2025/03/29 訪問)

微妙に言いにくい空気が有る中での投稿です。某サイトに複数 行き方が書いてあるので、それに習って訪問しました。
民家か管理人らしき建物の脇から車道が山中に伸びています。一声かけたかったのですが、誰もおらず、そのまま登っていくと城趾公園のようになっていて、北側の遺構はネットが張っており確認ができません。某サイトに記載のあった城池は健在で土橋がかかり、堀切に繋がっていました。少しハードルは高めですが、周囲は切り立った崖で他に登城の方法は無いようです。

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赤い城

桜、ひらり (2025/03/29 訪問)

天気も良かったので高松城へお花見。
桜馬場はお花見客の皆さんで賑わっていました。
ソメイヨシノはまだ5分咲きくらいですが陽春という品種が満開になっています。

17時から無料開放されているようです。
夜桜見物にいかがでしょうか🌸

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スティクラ

朝一に小倉城へ (2025/03/28 訪問)

朝早くに小倉城へ。
天守はどの角度からみてもかっこよく見どころあり。

今は小倉城さくら祭りの期間だったようで、夜は露店で賑わっているみたい。食べ物も美味しそうでリーズナブルだった。
次回は夜来てみたいが、朝来たおかげでゆっくりまわりながら写真を撮ることができた。
桜は7〜8分咲き。

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倉賀野尚行 (2025/03/28 訪問)

 JR倉賀野駅から徒歩約10分、雁児童公園付近が跡地です。石碑と説明板があります。

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武田信玄 (2025/03/28 訪問)

 武田信玄が北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結んだときに、上野の備えとして築城したと伝わっています。山名城から約1.2Kmの距離にあり尾根道を、それほど高低差を感じることなく行くことができました。曲輪、空堀、竪堀、堀切などがよく残っています。北東側に展開している曲輪に降りて行くといくつかの竪堀を観ることができました。南の尾根を堀切等で防備して、北側を山裾へ向かって曲輪を展開していくという縄張りだと思います。空堀など雑草で見えにくい所もありますが、散策路は概ね整備されていて楽しむことができます。

 

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山名(新田)義範 (2025/03/28 訪問)

 上信電鉄西山名駅より徒歩で登城しました。山上碑、山上古墳を経由して20分くらいで行くことができました。比較的新しい標識があり迷うことなく登城することができます。曲輪、堀切、空堀などが残っています。一部藪になっている場所があり棘のある植物に注意が必要ですが、概ね散策は容易です。調子に乗って歩いていて痛い目に会いました。現在の姿は戦国時代により改修されたものです。

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井伊直政 (2025/03/27 訪問)

 井伊直政によって築城され、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭だったようです。主要部分は消失していますが、三の丸周囲の土塁と堀、乾櫓、東門が残っています。
 以前来た時は日没前であまり散策できませんでした。今回歩いてみると三の丸の土塁は記憶していたより広範囲で残っていました。

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北新波砦史跡公園 (2025/03/27 訪問)

 15世紀後半から16世紀中頃に築かれたと推定される出枡状の突出を付属した75m四方のほぼ正方形をした砦跡です。発掘調査で堀や井戸、建物の跡などが発見されました。早瀬川と関端川に挟まれた場所にあり天然の堀としていたのでしょう。長野氏に関連する砦と考えられています。現在は北新波砦史跡公園として整備されています。桜の名所のようですが、開花の気配を感じません。一本だけしだれ桜?が咲きかけていました。
 高崎駅から箕輪城方面に行くバスに乗り浜川十字路バス停下車、徒歩10分くらいで行くことができます。

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尾根道をけっこう激しく登りました。 (2025/03/15 訪問)

 城びと先達、ぴーかるさん、todo94 さんと同じルートで登城しました。ぴーかるさんの「ゲートを開けて右手の山尾根へ。左手には行かないように」「いったん左に約90度曲がり、東方向にさらに登る」などの指南は的確でした。尾根にケーブルが見え隠れしましたが、共同アンテナの名残で、ピークにアンテナの残骸あり。かつては、建設やメンテナンスで尾根道を行き来していたのでしょうね。
 新保山城は、大きな造りで、主郭南に6段の郭があって、いったん高い切岸と堀切で遮断し、さらに下って3段の平削地と浅めの堀切があります。主郭北に大堀切を配します。

 イオさん、お祝いおよびお気遣いのコメントをありがとうございます。滋賀からイオさんの地元の和歌山県に行くには、大阪府か奈良県を超えることになり、気持ちの敷居が高いです。まだ、和歌山市周辺、御坊市周辺、新宮市周辺を廻ったのみです。しかし、「行ってみたい」マークはたくさん付けています。特に、日高郡の赤松城が気になっています。播磨の赤松氏が、六波羅探題の命を受け、この地の一揆鎮圧のために築いたとか。イオさん投稿の登城道指南を頼りに近いうちに行きたいものです。

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井伊直政 (2025/03/27 訪問)

 久しぶりの箕輪城です。以前来た時は郭馬出西虎口門も本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋もありません。それでも当時から深い空堀など見応えのある城址でした。大規模な空堀、堀切はこの城址の最大の見どころ、歩きどころです。今回登城したときは、木橋は工事中で渡ることができなかったのは、少し残念でした。駐車場のある搦手口から北側にある新曲輪、丸馬出方面をまわり御前曲輪北堀から堀の中を木橋付近まで歩きました。その後、三の丸、二の丸、御前曲輪、本丸、大堀切など主要な場所を散策しています。
 現在の城跡は井伊直政在城当時のものですが、自分としては武田信玄の攻めを何度も退けた長野業正の城として印象が強いです。

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長野尚業 (2025/03/27 訪問)

明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によって築かれたと伝わってします。長野氏はその後、本拠地を箕輪城に移しますが、鷹留城は支城として機能していました。
宮坂武男先生の縄張図を参考に散策しました。曲輪、堀切、竪堀、土塁などがよく残っていて見応えがあります。主郭に鷹留城死没者慰霊碑や説明板などがありました。概ね整備されていて歩きやすい城址です。

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しんちゃん

また来たい。 (2025/02/02 訪問)

以前訪問した時は本丸周辺の堀切のみが印象的でしたが、久々に訪問してみると、二の丸・郭馬出周辺の遺構や木俣、稲荷曲輪、丸馬出など様々な見所が有ることに気づきます。確か丸馬出の周辺は調査中のようでしたが、気付かずに別方向から入ってしまいました。
申し訳ない・・入れる場所から入る悪い癖がついてますね。私は基本的に既に訪問している城は「行った」をクリックしていますが、出来るだけ再訪して鮮度の高い写真を載せるように努力はしているつもりです。でも古い写真を見てみると、それはそれで愛着が湧いてきます。年月や季節による微妙な変化が面白いですね。
今回の訪問では、再現された郭馬出西虎口門を見ることが出来たのが大きな収穫でした。城域がとても広くて全部を見切れていないので、何年かしたら、また再訪したいと思っています。

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todo94

献血前の攻城⑤ (2025/03/15 訪問)

湯崎城からの転戦です。福性寺の向かいにきれいな土塁に囲まれた方形の居館です。向かって左隣の郭は小学校、右隣の郭は墓地となっています。古びてきていますが、城の絵図が載っている説明板はわかりやすくてとてもありがたく感じました。除草など手入れが行き届いている点も素晴らしいと感じました。

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しんちゃん

不思議な世界が広がる。 (2025/03/16 訪問)

新田金山城は標高235.8mの金山(かなやま)の上に築かれています。古くは建武3年(1336)に佐野義綱が新田荘の新田城を攻め落としたとする記録が残っています。
応仁3年(1459)には新田一族である岩松家純が入りますが、享禄元年(1528)横瀬泰繁・成繁の父子が岩松氏を殺害し、後に由良氏に改姓、以後豊臣秀吉の小田原攻めで廃城になるまで由良氏によって金山城は支配されます。上杉、武田、北条の争奪戦が行われますが、天正12年に北条氏に降伏したとみられ、天正15年(1587)には今の状態に普請が行われたようです。
唐沢山城を除けば関東では珍しい石垣の城だと思います。高い石垣を築く技術が未発達なためか、どこかの国の遺跡のような段々の石垣が見られます。築城技術の発達した近世の総石垣の城とも雰囲気が異なり、石垣を多用したゴージャスな砦の様な感じです。

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シェル

入口の空堀から圧倒される… (2024/03/30 訪問)

つくばエクスプレス・関東鉄道 守谷駅から徒歩20分(道中は一部、歩道が狭いので注意してください。)城址公園には駐車場・トイレも設置されています。
 駐車場のそばに、空堀の断面図が展示されています。周辺は湿地帯で天然の要害となっています。駐車場側から湿地のある城跡西側に出ると城址の入り口があります。
 城址の入り口に着くと、いきなり大規模な空堀の堀底になっています。城址公園内には、深い空堀や坂道桝形虎口などの遺構がかなり良好に残っており、見ごたえたっぷりです。
 また城址北西側は、かつては古鬼怒湾という内海だった関係で、船着場跡もあります。現在も湿地が残っており、桜が植えられています。訪問した際は、河津桜がほぼ満開の状態で、お花見を楽しんでいる方も多くいらっしゃいました。桜の名所として、地元では知られているみたいです。河津桜以外にもソメイヨシノも植えられているので、ぜひ桜の時期に行ってみてください。

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シェル

ここは河津桜のようですね (2024/03/30 訪問)

 龍ヶ崎からJR取手駅に移動し、取手駅から関東鉄道常総線に乗り換え、ゆめみ野駅で下車。徒歩15分。
スーパーのある交差点を北に進み、住宅街を歩いたところに、高井城址公園の看板が立ち、坂を下り谷津を進むと城跡の入り口があります。
城跡は小高い所にあり、本郭が良好に残っています。
谷津からの登り坂を登り切った左手側には空堀があります。登城路の坂の部分も遠目に見ると堀のような雰囲気もあります。坂を登り切った本郭の虎口前に説明板が設置されています。
本郭跡には土塁も良好に残っていました。また本郭には河津桜が植えられています。訪問したときは残念ながら葉桜になっていました。(3月初め頃がベストですかね?)

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