御前崎市の地味に良い城、「天ヶ谷の城平」続いちゃいます。
ほぼ謎の城ですが、武田軍の手が入っていると言われる遺構はなかなか見ごたえがあります。「地味に良い城」という言葉が良く似合う城で、二の郭の南側には虎口があり、そこから先にも遺構が残っています。南東側は行き止まりになっていて、南西は尾根沿いに堀切や郭が残っています。
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2024/08/16 19:08
2024/08/16 18:37
昌官忠式東北南下3日目:秋田城にて終了 (2024/05/26 訪問)
昌官忠式東北南下3日目は辛うじて秋田城を見る事が出来ました。
続いて久保田城に着きました。がバイクを停めるとこるが見当たらない。
昨日の弘前城もグルグル廻って停めるところが見つからないので歩道に停めて訪問しました。
其のうち駐輪場探すのが面倒になってきて意気消沈、東北南下を終了する事となりました。
体力的にもきつかったのも理由の一つです。
城訪問しているのに関わらず、城跡を目の前にして去っていく自分がそこにいた。
バイクで行くからだよと何処からか声が聞こえて来るようだ。
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2024/08/16 18:15
2024/08/16 15:34
水の手曲輪を忘れるな! (2024/06/01 訪問)
ということでめっちゃくちゃ久しぶりの投稿となってしまいました💦
みなさんお久しぶりです。POYO58です。
ということで2ヶ月前に行った大給城を紹介したいと思います。
大給城は長坂新左衛門が1460年ごろに築いたのが始まりですが、その後は松平信光をはじめ、松平家が支配することとなりました。なのでかなり古いお城ではありますが、国指定史跡となっています。
古いお城といっても遺構はなかなか見応えがありました。
三郭に行く手前には大きな堀切があり、石垣が少しありました。三郭の入り口には虎口が設けられており、サイドに石垣と櫓台が残っています。なんとこの時代から石垣があり、さらにはサイドの櫓で敵を阻む防御が素晴らしい👍
三郭には土塁が残り、郭を囲んでいます。二郭に行くと高ーい石垣と低石垣があり、その横を通っていくと本丸に辿り着きます。石垣があるせいで道が少し狭くなってます。本丸にも石垣が残っておりなかなか見応えのあるお城でした。
ただものすごく残念なのが水の手曲輪を見忘れてしまったことです。このお城には今でいうダムの役割をする水の手曲輪があるのですが、それを見れませんでした。まあ理由は暑かったのと虫と蛇にビビってたことですね。その前に鳥羽城に行ったときや、宇陀松山城で大きな蛇に遭遇しているのですごく怖くなってしまい… 今は道けばよかったなと反省してます。行けたら冬に再攻城しようと思っていますが、受験が近づいてるので行けないかな…
まあこんな感じですね!ぜひ行ってみてください!
評価★★★☆☆
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2024/08/15 22:19
本丸に 着いたと思えば 井戸郭 (2024/05/06 訪問)
杉山城は「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されています。とはいえ築城主については謎が多いのですが(山内上杉氏とも)、異様に発達した高度な縄張りを持っています。
城域は比較的コンパクトですが主郭を中心に複数の二郭・三郭を持っており、馬出郭などを含め多数の郭を持っています。土の城の要素を多分に持っている上に、過剰なまでの防御に関する仕掛けを施しており、不用意に攻め込んで来た攻め手は間違いなく あの世行きになると思います。
大手から馬出郭を経て、南三の郭を通って南二の郭にたどり着くと、眼前に本郭がそびえます。次は本郭だと勇んでいくと、なんと井戸郭にたどり着きます。二の郭から本郭までが遠い‥。攻城戦でこれをやられると精神的なダメージは大きいと思います。
そこから延々と西側を迂回して北側から本郭を目指しますが、ここまでの行程で横矢がバンバン掛かってくると思います。郭の少ない西側の防御を補うための構造だと思いますが、実に手の込んだ縄張りになっています。
ここでお城川柳を一つ。
本丸に 着いたと思えば 井戸郭
百名城のアレが達成できたので、次は続百名城のアレを期待しちゃいます。だいぶ気が早いですが、二度目の奇跡を期待しています。
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2024/08/15 20:11
アイス氏の城 (2024/06/08 訪問)
【五ヶ所城】
<駐車場他>愛洲の館駐車場
<交通手段>車
<見所>2重横堀・井戸跡
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅8城目。主郭の説明板と愛洲の館の説明板によると城主の愛洲氏は清和源氏武田氏の流れをくみ、南北朝時代 康永年間(1342~1345年)以前には五ヶ所浦に土着し西方の一之瀬にも城を持っていた。南北朝時代には南朝方として活躍しました。室町時代には伊勢国司北畠氏のもと勢力を伸ばし、宝徳年間(1449~1452年)より前に本拠地を一之瀬城から五ヶ所城に移したようです。この頃一族で剣祖である愛洲移香斎久忠が生まれています。愛洲氏は天正4年(1576年)に織田信雄軍に攻められ滅ぼされ城もこの時廃城となったようです。
まず愛洲の館にて御城印購入と入館しました。館内は愛洲移香斎の書状や五ヶ所城に関する物はジオラマ・出土品の青磁片・井戸の釣瓶桶底板等が展示されています。愛洲の館の裏から上がる急階段を登り主要部へ行きます。二郭と思われる曲輪は私有地のようで柵がしてあります。主郭手前に2重横堀が廻らされていて堀も深くなかなかの見応えがあります。主郭壁面に石垣跡があるようですが見落とし。次に南に下って居館跡、塔頭(愛洲氏墓地)、東に大きく回って井戸跡、八幡社(当時からあるという)と巡り愛洲の館に戻りました。
<満足度>◆◆◇
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2024/08/15 19:21
113【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と岡崎城) (2024/02/16 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑮です。ここから直政後半戦に入ります。またよろしくお願いします。
岡崎城の訪問は二度目です。前回は(12人目)「田中吉政」を追って岡崎城を訪れました。今回は「井伊直政」を追ってです(またも家康様でなくごめんなさい😥:写真①②)。
1585年小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉ですが、このままじっとしている理由がありません。翌1586年、大垣城に大量の兵糧を運び、次の決戦へ向け万全の準備をします。そして今度こそ打倒家康と一カ月後に出陣するよう天下に号令をかけます。しかしその直後、天正の大地震が発生し、大垣城を始め築城中の伏見城など多くの城が何と倒壊! 秀吉はもう家康どころではなくなってしまいました。そこで妹の「あさひ」を正室として岡崎城へ差し出し、さらに母(大政所=なか)までも人質として岡崎城へ差し出し、強硬策から懐柔策へと切替えます。さすがの家康もこれには折れ、形だけの臣下の礼をとるため一カ月の間、大坂城を訪れました。直政はその間、岡崎城の留守居役を務めています。その時の遺構がどこかにないか? 岡崎城内をくまなく探してみましたが、見つかりませんでした。しいて言えば直政の名前が入った花壇があり、そこに花がきれいに咲いていたのと(写真③)、大河ドラマで井伊直政役を演じていた板垣李光人さんのパネルを見つけたくらいです(写真④)。なかなか岡崎で直政の痕跡を探すのは難しかったようです。
大政所が岡崎城に一カ月間滞在している間、直政は毎日のようにお菓子などを持って行き、話し相手をしてあげたとか。それで大政所はとても直政の事を大変気に入ったようです。しかしその様子が大河ドラマ「どうする家康」では、高畑淳子さんがおおげさに演じていられたのには、ちょっと笑ってしまいました。直政とはいったいどんな人物だったのか、なぜ皆にこんなに好かれるのか、不思議でなりません。そして家康が無事に大坂より戻ると、今度は直政が入れ替わりに大政所を丁重に大坂城まで送り届けたようです。その際に秀吉にも会い、家臣にならぬかと誘われるなど、秀吉は以前から直政に一目置いていたようです。しかし直政は、これを丁重に断り、そして同席していた裏切者の石川数正には罵声を浴びせて帰ったとか。また同じく同席していた小早川隆景からは何と、「直政は小身なれど天下の政道相成器量あり」と絶賛されたようです。
岡崎城外に出ると、唯一直政に関するものとして、直政の石像がありました(写真⑥⑦)。大手門(写真⑤)前から10分程国道1号を東に歩いた場所です。長久手の戦いで敵陣に向かって行く姿をイメージして造られた石像だそうです。しかしなぜか(🤔?)馬の首がありません。(誰だ壊した奴は😠!)と思ったら最初からのようで、作者の意図らしく理由は不明です。そして、ここにあった説明を読んでいてビックリしたのですが、実はこの石像のすぐ後ろにあるNTTビルの場所(写真⑧)が、当時築山があった場所(正室の「瀬名」が住んでいた場所)だそうです。
岡崎城内の茶屋では、八丁味噌を使った「味噌田楽定食」をいただきました(写真⑨)。とても美味しかったです。でもあとデザートに“ぴーこさん”が投稿されていた直政パフェがあるとは知りませんでした(食べたかった😩くやしいな~)。
次は、秀吉と北条との決戦(小田原攻め)に続きます。再び小田原で直政と北条の、二度目の関りを追いたいと思います。
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2024/08/15 19:19
周辺の平城を見張る丘陵上にある。‥‥櫓? (2024/04/20 訪問)
金鑵城は周囲の眺望に優れた要害の地に築かれています。西側一帯は断崖と見られ、南から東は急な斜面になっており、東に加古川、南に万願寺川が流れています。
城主は赤松氏の有力な家臣・中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城になったようです。主郭からは河合城・堀井城・小堀城などの周辺の城を俯瞰することができます。主郭のすぐ近くに駐車場があり、車でのアクセスは良好です。主郭の北西に大きな堀があり、橋を渡って主郭に入ります。主郭の周囲には土塁が配され、柵列が再現されています。かつては弥生時代の集落でもあったようですが、主郭内の建物跡の表示は戦国期のものになっているようです。
そういえば先人の皆さんの投稿にある櫓が見当たらないですね。撤去されちゃったのかな?
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2024/08/15 18:52
天ヶ谷の城平 遠州のちょっと良い城 (2021/02/13 訪問)
御前崎市の天ヶ谷の城平はマイナーですが、遺構を良く残している良い山城です。比高もそれほど高くないので、オススメです。
ただし城びとの城ではありませんし、城郭大系にも載っていません。
比較的最近、注目され始めたのではないでしょうか。静岡は良い山城が多いので一時期良く来てました。コロナの影響もあって遠出がはばかられていたころですね。
室町時代の在地領主(高橋氏?)の城と見られますが、横堀や二重堀切などの技巧的な遺構が残っており、武田軍の改修を受けているのではないかと考えられています。
登城道を進むと、幾重もの堀切があり、まずは主郭に到達します。主郭には土塁が残り、西側には横堀が配されており、城域に入って早々に楽しませてもらえます。
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2024/08/15 18:52
『一里塚』『首供養塚』の巻き。 (2024/07/21 訪問)
暑いですね。皆さんお元気ですか?
お城は涼しくなってからだ。と、決意し「足柄城」攻めの写真を整理していたら、『一里塚』の写真が出てきました。
全国にある『一里塚』は、徳川 家康さんに命じられ、大久保 長安さんが設置し、塚ごとに樹木を植えたそうです。
因みに『大久保 長安陣屋』は東京都 八王子市 小門町にあります。
以前、『大久保 長安陣屋』攻めした時に、長安さんを調べてみたら、側女がビックリする人数いたり、横領が亡くなってから発覚したり悪いイメージでした。
『一里塚』の功績から、どんな人だったか興味が出て来ました。写真③を図書館で借りて読み進めている途中です。
涼しお部屋で、読書。いかがでしょうか?
写真②は「足柄城」近くの関所にあります。
説明板のような物がなかったので、調べてみたら、『首供養塚』でした。
関所破りや盗賊の処刑した首が、さらされていたんだそうです。
『首供養塚』の周り、知らないでグルグル回ってしまった。
ゾクッとしましたが、エアコンの温度はそのままにしておこーと思った『一里塚』『首供養塚』攻めでした。
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2024/08/15 18:47
2024/08/15 16:16
関ケ原古戦場(桃配山 杭ノ瀬古戦場跡など) (2024/08/15 訪問)
関ケ原古戦場は笹尾山などの関ヶ原駅の西側の主戦場エリア、松尾山、南宮山等へ行きましたが、徳川家康が最初に本陣を置いた桃配山へは行ったことがなかったので散策してきました。徳川家康最後の陣地跡まで約2Kmあります。近くには山内一豊の陣地跡もありました。
関ケ原の戦いの前哨戦といわれる杭瀬川古戦場跡の説明板が養老鉄道北大垣駅より徒歩5分くらいの場所にありました。
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2024/08/15 16:06
2024/08/15 08:25
景色抜群 (2024/08/12 訪問)
汗をかきながら💦
登城しました。
景色がサイコーでした。
讃州井筒屋敷でブリ丼食べました。
こちらもサイコーでした。
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2024/08/14 23:08
津山の町並みを一望 (2024/08/10 訪問)
津山は2回目の訪問。
メインは別の用事だったため津山城には入らなかったけど、津山の町並みが一望でき石垣の石切り場がある石山寺に行ってきた。
築城当時、石を運ぶ人達はここから城を見て「あそこまで運ぶのかよぉ」てなことを思ったのかな、なんてことを想像してみたり(^^)
津山城は立派な石垣がいっぱい残っているし、備中櫓だけじゃなくていつか天守も再現して欲しいなぁ。
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2024/08/14 21:45
庭園の名残りなのかも (2024/08/02 訪問)
日進市・名東区の城歩きの最中、小休止している間に本丸の石碑の石が江戸時代からそこに立っていることを知ってこれは庭園なのではないかと直感。今のところ確かめる術はないが、後々のために声だけは上げておきたい。
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2024/08/14 20:37
平成の調査で石積み遺構などが確認されている。 (2024/02/25 訪問)
雑賀崎台場は和歌山市の雑賀崎に紀州藩によって築かれた台場とされ、和歌山県の史跡に指定されています。この周辺は紀州青石と呼ばれる緑泥片岩の産地であり、和歌山城の本丸周辺の石垣に多用されています。付近には元番所台場跡である番所庭園があるのですが、スルーしています。雑賀崎台場跡に向かう途中、遠くに番所庭園が見えるのでズームで撮影。
もちろん入場料は払っていません。
元番所台場のある岬も、その先にある大島も緑泥片岩の岩肌が露出しています。しかし見事な絶壁です。雑賀崎台場に向かって進んでいくと算木積の石垣が見えてきます。
雑賀崎台場は「トンガの鼻」と呼ばれる岬に築かれていたとされ、平成19年から平成26年までに3度の発掘調査が行われています。土塁や石垣などが確認されており、V字型の石積みの遺構もあり、砲台に関する施設ではないかと考えられているようです。
ちなみにこの周辺では鍬のことをトンガと呼ぶそうです。南太平洋のトンガ王国とは関係ないみたいですね。
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2024/08/14 18:41
2024/08/14 18:18
路急ぐ 旅の目惹かむ 大賀蓮 田丸の城の 空碧きかな (2024/07/07 訪問)
多くは語らずとも、タイトルと写真で充分に伝わるかと思います。
後日投稿予定ですが、鳥羽城からの転城です。
初夏に訪れたこともあって、城内は草が生い茂っていましたが、
当日の天候が幸いして見事な眺望でした(とても暑かったですが、、、)。
実際に足を運ぶまで、本やネットでは天守台の写真ほどしか見ていなかったので、
石垣の多さに驚きました。本丸の枡形虎口や城の搦手まで遺構がしっかりと残っており、
南北朝期の乱世を窺える実に歯ごたえのあるお城でした。
石垣も見どころですが、7月上旬は内堀に植えられた大賀蓮(オオガハス)が開花時期に入るので
この時期の登城は一度で二度おいしいと言えるでしょう。
本投稿のタイトルは、本丸に立つ歌碑に刻まれた短歌にあやかってつくりました。
写真にも添えましたが、何気にこの1枚が上手く撮れて気にいっています。
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2024/08/14 17:08
越賀城 (2024/06/08 訪問)
【越賀城】
<駐車場他>横の漁港広場に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅7城目。越賀城の築城年代は定かではないが、初代越賀隆俊が城を構えたとされます。信長に属した九鬼嘉隆に攻められ降伏しその後は九鬼氏に仕え、以降江戸時代は綾部藩三田藩に分かれた九鬼氏にそれぞれ仕えることになります。
城跡は海へ突き出た丘陵にあります。丘陵の北側の堀切から丘陵上に行けます。丘陵上の曲輪跡は以前は畑だったらしいが現在は藪化しています。曲輪の北側に土居が盛られていて北側の堀切にはまあまあな切岸になっています。城跡が小さすぎるので海側に伸びるコンクリートの岬部分もかつて丘陵があったのではないかと思います。浸食されて小さくなった丘陵部分が今の岬になったかと。
堀切の北側の住宅地に江戸時代の藩の米蔵が現存しています。
<満足度>◆◇◇
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