みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:目加田城 (2024/10/07 訪問)

下八木口バス停から徒歩30分ちょっとで、目賀田城跡公園入口(35.186797、136.235087)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、目賀田氏によって築かれたと云われ、観音寺城の支城のひとつみたいです。
目賀田氏の出自については定かではないようですが、鎌倉時代には御家人として登場しているそうです。
室町時代には近江国守護佐々木氏の重臣となり、その後は目賀田氏も分家して佐々木六角氏、京極氏、出雲国の尼子氏に仕えたそうです。
織田信長が近江国に進出した後は織田氏に従い、本能寺の変により信長が倒れると明知光秀に従って山崎の合戦に従軍し、羽柴秀吉によって所領を没収されました。

現在、城址は目賀田城跡公園として整備されており、分厚い土塁があります。また、本丸跡にあたる公民館裏に石碑が立っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町)へは徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【下総 成田山新勝寺】千葉県成田市 初参拝 (2024/11/08 訪問)

 孫の運動会を控えた前日に前々より成田山に行きたいと言ってた家内の要望に応えて初参拝しました。
 首都高速を通過するのは怖いので遠回りですが圏央道をぐるっと移動して東関東道から成田ICを出て成田山の駐車場を目指す。

 駐車場:成田山西下の土屋駐車場利用、800円/回
 参考資料:グーグルマップに依る。

 成田不動さんで有名で節分の豆まきでは歌舞伎の名優、横綱、野球有名選手が揃っての豆まきが有名で、家内もそれに綾かって成田山に行きたいと思っていたのでしょう、願いが叶いました。
 成田山は高い丘陵に鎮座し城郭の構え其の物です、山門街の町中を通て総門、仁王門、大本堂境内と石階段を二段に登って行きます、結構きつい急階段です、光輪閣よりエレベーターで昇るとこも出来ます。
 私たちは土屋駐車場から坂道を登って、屋台店屋街を通って西より、釈迦堂、大本堂、同境内、三重塔を見学参拝し、大本堂に入り参拝、家内はおみくじを引き大吉、海外の方も多く参詣されていました、大本堂の裏手に行き、石庭と仏像が並べられてる裏庭を眺める。
 境内では菊祭り、大輪の三本揃菊の鉢が並べられていました、懸崖造りの菊はまだ花が咲き始め状態でもう少ししたら見事な造りに在るでしょう。
 大本堂より一段更に登って平和大塔の方向へ移動、開山堂、額堂ここには沢山の額が飾られて居りまた7代目市川団十郎の石像と有り成田屋との関係が分かります、光明、奥の院、清滝権現堂は色彩鮮やか、弘法大師像、醫王殿、平和大塔(多宝塔)と廻り参拝。

 携帯食をPAで食べて居ましたが昼を大幅に過ぎて門前町の参道街で昼食を頂く、成田山名物うな丼うな重の匂いが漂いますが結構高く、ざるそばに天ぷらうどんで済ませました、午後の2時過ぎと成り、光輪閣の隧道を通て土屋駐車場へ戻る。

 金曜日ですが結構な人出でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

大津城と三井寺 (2024/11/11 訪問)

大津城跡に行き(写真①)、そこから琵琶湖の景色を眺めた後(写真②)、西へ2kmの高台の所にある三井寺(みいでら)を訪れてきました(写真③④⑤)。この寺は、天台寺門宗の総本山で、天智・天武・持統天皇の産湯があったとされ御井(みい)の寺と呼ばれたのが名前の由来だそうです。

また紫式部の父「藤原為時」は、越後の守として赴任していた最中に、娘の式部(まひろ)が死去してしまったため悲嘆に暮れ、この三井寺に出家し晩年を過ごしたと伝わっています。

そして関ケ原の前哨戦「大津城の戦い」では、毛利元康・立花宗茂・筑紫広門の筑後勢15,000がこの三井寺に陣を敷き、眼下の大津城を攻めます(写真⑥)。しかし守る京極高次も善戦し、なかなか城は落ちません。そこで宗茂は、大友宗麟が臼杵城で所有していた国崩し(大砲)を取り寄せ、この三井寺の観音堂から大津城めがけて何と砲撃! 高次はこれに驚いて降伏し開城しました。関ケ原本戦の1日前の出来事でした。私はまた想像図を作ってみました。こんな感じだったのではないでしょうか?(写真⑦)。

【余談1】近江ちゃんぽん
大津駅前で近江ちゃんぽんを食べました(写真⑧)。長崎より麺は細いし豚骨でもないし・・・と思っていたら「通の食べ方」と書いてあり、「この酢をかけよ!」とあったのでかけて見ると味が一変! さっぱり味でとても新鮮な感覚のちゃんぽんでした(これが近江の味か~!🤔)。

【余談2】東横インフォトコンテスト(珍百景)
大津城跡から今夜泊まる「東横イン琵琶湖大津」が見えたのでそこへ行こうとすると、電車軌道ではないアスファルト道路の上を、何とでっかい電車(四両編成)が走っている?(写真⑨)。そしてホテルの前で間近で見ると、そのでっかい電車は道路の信号が赤になると車といっしょに止まり、青になるとまた車と一緒に動き出しました(何これ~😱珍百景?)(写真⑩)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

成田山参拝の帰り初探訪 (2024/11/08 訪問)

 成田山新勝寺に参拝し、その帰路に寺台寺跡を目指し南下の寺台城跡案内指示板は目視確認したのですが駐車地JA跡地が分からず、寺台城跡山麓を一周して断念し、北方の長沼城を目指す。

 駐車場:神社鳥居より西に150m程の所の長沼保育園南の空スペースに駐車、保育園の方に了解を頂く。
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、城びと投稿の皆さん、グーグルマップに依る。

 長沼保育園から集落の道を東へ約150m程歩き、長沼市民の森の大きな標柱が立ち、道より一段高い曲輪に石碑、長沼城址の由来、長沼事件の長沼下戻記念碑(長沼村民苦難の歴史が記載されています)、稲荷神社の鳥居を潜り石階段を登ると中腹に朱の稲荷神社鎮座し、スロープを登ると本曲輪公園広場、その手前に一段下がって枡形虎口の様子、祠が数基祀られている。
 本曲輪南に樹木に囲まれて長沼城址標柱が立つ、結構広い広場で公園整備、北側に櫓台風の見晴台が有ります、登って眺望を観察、北遠くに利根川、干拓された田園が広がっています3時過ぎ西日が当たって奇麗に輝いて居ました。
 北西側に櫓台?土盛り、残念ながら西側の横堀は見学を失念しました。
 長沼城址は独立丘陵に築かれた城で周囲に堀が廻っていた様です。

 歴史は案内板によると、中世戦国期に長沼五郎武俊の居城、長沼氏は結城朝光の末葉で下野の長沼に住した五男朝良の後胤であり、五世の孫朝教がこの地に居城を設けた。長沼五郎はその子孫である。
 明治に入り村民苦難の長沼事件が起こり、解決に福沢諭吉が携わっており、村人の諭吉への報恩が熱く語られています。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑥ (2024/10/20 訪問)

狩川城から一気に県境を越えての転戦です。古舘城址公園はすぐに見つかりました。案内板もあったのにそこからの登城口がどうしても見出せませんでした。無理やり進んでみたら相撲場跡に出られました。因みに下城時も最後に登城路が分からなくなってしまいました。郭の表示板など経年劣化が進んでいてもう少し整備の手が入れば見どころの多い人気の城となりそうなのですが、鉄塔から先の登城路も見つけにくく現状は攻略難易度が高い城と言えるでしょう。おしゃぎり会館にあった三番平後背の巨大堀切の記述についてはちょっと盛りすぎだと思います。最上部はともかく、下の方は自然地形のようでしたので。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:和田山城 (2024/10/07 訪問)

河曲バス停から徒歩10分弱で、和田神社鳥居横の空スペース(35.1728055、136.1903667)に着きました。

和田山城の築城年代は定かではないようですが、六角氏の居城・観音寺城の支城として、六角義弼によって築かれた城のようです(和田氏による築城説もあり)。
義弼は家臣の田中治部大輔を城主に任命しています。
1568年(永禄11年)の織田信長による近江侵攻の際には六角氏側の最前線の城となりましたが、箕作山城が落城すると城兵は戦わずに城を捨てて敗走しました。

和田神社にある城趾碑から登り、平坦になったところにあるピンクリボンを右に回れば城域に入ります。
資料では遺構は土塁、喰違虎口、櫓台とありましたが、写真を撮ると雑木林にしか見えません。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=目加田城を目指す為、河曲バス停から近江鉄道湖国バスで下八木口バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:佐生日吉城 (2024/10/07 訪問)

佐生バス停から徒歩2~3分くらいで、共同墓地登城口(35.173872、136.178605)に着きました。

佐生城の築城年代は定かではないようですが、観音寺城の支城として六角氏の重臣である後藤氏が築いた城です。
後藤氏は藤原秀郷の子孫といわれ、平素は山麓の後藤館に居住しており、その詰城として築かれたようです。
後藤但馬守賢豊は進藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれ、六角義賢のもとで宿老として浅井攻めなどに活躍しました。
1563年(永禄6年)に義賢の子である義弼(義治)に謀殺されると「観音寺騒動」の発端となり、1568年(永禄11年)には織田信長によって観音寺城とともに落城させられました。

主郭部周辺に石垣が良好に保存されており、主郭には城主であった後藤但馬守城址の碑が建てられています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=和田山城を目指す為、佐生バス停から近江鉄道湖国バスで河曲バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:箕作城 (2024/10/07 訪問)

おーみ満喫パス(20141007)を利用して、今日1日の交通費(近江鉄道/近江鉄道バス/近江鉄道湖国バス)を節約します。(近江鉄道はICカードが使えないので、おーみ満喫パスを使えば改札が楽です)
今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
八日市駅停バスから近江鉄道湖国バスを利用して山本バス停に着きました。
そこから徒歩7~8分くらいで、箕作城登城口(35.139660、136.184269)に着きました。
登城口は貴船神社の階段付近(35.1386194、136.1830392)にもありますが、山本バス停からならこちらの方が近いです。(2~3分は違います)

1467年(応仁元年)に起きた応仁の乱で、六角高頼の観音寺城に対抗して、六角政堯が築城したそうですが、築城年は定かではないようです。
1550年(天文19年)頃、六角定頼が改修しています。
1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に観音寺城とともに落城し以後は廃城となったようです(観音寺城の戦い)。

登城路は手入れが行き届いており、快適ですが、尾根までの階段はきつく、大汗をかきました。
攻城した碑は曇空でしたが、主郭からの眺望はまあまあ良かったです。部分的に石垣(主郭の北西あたり)も残っています。
帰ってから気づきましたが、堀切も石垣の写真も撮っていませんでした。頭に記憶されているだけです。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐生日吉城を目指す為、山本バス停から近江鉄道湖国バスで佐生バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:長光寺城 (2024/10/06 訪問)

武佐駅から徒歩20分弱で、日吉神社鳥居付近の案内板(35.107217、136.127668)に着きました。

築城は応仁の乱のさなか、1468年(応仁2年)近江国守護佐々木六角髙頼と対立した佐々木四郎政尭により築城されたとされています。
1570年(元亀元年)南近江に侵攻した織田信長は長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。 六角氏は城を奪還するために攻め寄せ勝家は籠城して耐えます。
意を決した勝家は味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割って討って出ます。瓶割山の名は、これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語られているようです。

登城口の日吉神社の鳥居をくぐり、参道を歩き始めましたが中は真っ暗でした。
暗闇の山城は危険なので攻城は断念して引き上げました。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、武佐駅から八日市駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=23886歩、攻城距離=16.72Kmでした。
(ただし、油日駅➡和田城~滝川西城➡油日駅の間はレンタサイクルを使用しましたので、攻城徒歩/攻城距離は誤差があります)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:高野城 (2024/10/06 訪問)

紅葉橋北バス停から徒歩5分ちょっとで、城址碑説明板前(35.081923、136.307236)に着きました。

築城年代は定かでないようですが、小倉氏によって築かれました。
小倉氏は、小倉城を居城にしていまたが、伊勢に抜ける八風街道を押さえるこの地域に応仁の乱の頃より進出。
山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城を築きました。戦国時代には高野城も本拠としていたそうです。
1568年(永禄11年)に織田信長の側室お鍋の方が、この地に居館を構えていたとも云われていますが、これは信長没後に秀吉から高野近郊で500石の知行を与えられたことによる説ですが、確証はあまり無いようです。  

写真は撮り忘れましたが、西辺に川石を用いた石垣を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長光寺城を目指す為、山上バス停から近江鉄道湖国バス➡近江鉄道を乗り継ぎ、武佐駅へ向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:鯰江城 (2024/10/06 訪問)

八日市駅で東近江市ちょことバスに乗り鯰江バス停に着きました。鯰江バス停のすぐ側に、城址碑説明板前(35.108779、136.241987)があります。

築城年代は定かではないが、六角氏の重臣である鯰江氏によって築かれたようです。
鯰江氏は三井乗定の養子となった六角高久が鯰江氏を名乗ったのが始まりで、戦国時代には観音寺城の佐々木六角氏に仕えていました。
1568年(永禄11年)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に抵抗しました。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、1573年(天正元年)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城しました。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残しているようです。

石碑、説明板の写真を撮って速攻で撤退しました。
鯰江町住宅案内図を見ましたが、鯰江さん結構いらっしゃいました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高野城を目指す為、中小路バス停から近江鉄道湖国バスを利用して紅葉橋北バス停へ向かいました。
ちなみに鯰江城から中小路バス停までは徒歩で30分ちょっとかかります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

名勝二ノ丸庭園を初見学 (2024/11/02 訪問)

(HP)
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/guide/teien/

天守は閉館中…本丸御殿は待ち時間20分くらいと少し行列。なので消去法で二ノ丸庭園を今回は見学する事にしました

名古屋城は過去に2回…訪問したことがあり、1回目は天守…2回目は天守と本丸御殿を見学したのですが、後回しにしていたのがここ…庭園。まだ未見学だったので、御城印や100名城以外でも補完対象があったと言えます

東門手前に設置されてる城の地図(1枚目)。その右側中央が二ノ丸庭園になり、入ってすぐ右手にそれは見えます。この日はもう終わってましたが、紅葉シーズンにもしここを訪れたら…赤い葉っぱの生い茂る姿が見れるのではないでしょうか🍁

二ノ丸庭園は東庭園と北庭園から成り、東門から入るとまず東庭園(2枚目)が見えます。中央に石の敷き詰められた窪んだ場所があり…ここにはかつて池があったようです。奥には屋根付きのベンチ…休憩所もありました

北庭園に入ると…まず権現山(3枚目)が見えました🗻 山と言っても標高はわずか6m…この城が形成された江戸時代に人工的に造られた造形物…なのでしょう。工事中なのか立入不可

北園池(4枚目)…「江戸時代の地形が保たれており、深く掘り込まれた池と積み重ねられた護岸の石が…立体的で豪壮な風景を生み出している」と説明書にはありました。ここも立入不可

栄螺山(5枚目)…巻貝のように山を登っていく園路の姿に由来して「さざえやま」と名付けられたそうです🐚 ちなみにこの山の脇道を進んで後ろから見ると…この辺りに山が3つある事が分かりました

どれも江戸時代に人工的に造られた山のようですが、おそらくこれは…日本本土に存在する険しい山まで行かなくても…身近な場所で楽な気分で山を巡れるように、ここの城主が命じて造ったのでしょうね

栄螺山の裏手は大きな池となっており、その左手では石垣が修理中でした。その案内板を見ると…耐震性度を高めるために、まず石垣の石に一個一個番号を書いてから解体(後でまた元の配置に戻せるように)🪨

なるべくそっくりそのままにするために…当時の造りになるべく忠実にしようとはするのですが、当時(江戸時代あたり)の技術だと耐震性などにおいて現代に劣るため、そのままでは再び崩れてしまう危険性がある

そのため、耐震性においては現代の技術を混ぜて改修工事👷 つまり江戸時代の建築技術と現代技術とのハイブリッドでおこなわれてる…と言えるでしょう

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

鎌倉土産「半月」のシルエットは… (2024/09/15 訪問)

住吉城の散策を終え,小坪バス停に戻りました。さらに先へ進むため「鎌40」系統のバスに再び乗り,逗子駅へ。逗子駅で「逗12」系統のバスに乗り換えて,鐙摺バス停下車。進行方向に歩みを進めると,日影茶屋があります。向いの駐車場に旗立山のパネルがあり,登城口があります。
ここからの眺望にも富士山を期待していましたが,たまたま雲に隠れてしまいました。待つ気にもなれず,次へと進みました…。

そうそう,鎌倉土産に「半月」を購入しましたが,このシルエットは「パシフィコ横浜」ということに気づきました。「半月」のほうが歴史は古いと思いますので,「パシフィコ横浜」のほうが寄せたのかな…❓

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

急峻な切岸と連珠砦 (2024/03/02 訪問)

豊前国を東西に分断する尾根上に本城のほか11ヶ所もの砦が並び、そのひとつひとつに旗でも立てればさながら万里の長城が現出したかのように見えたことだろう。草が刈られて整えられた急峻な切岸もたまらんぞ。

+ 続きを読む

しんちゃん

公園として整備されているが、戦国の城としての遺構も見られる。 (2024/07/15 訪問)

下田城は北条氏の海城で、豊臣秀吉の小田原征伐の際には50日余りの籠城戦の末、開城降伏しています。下田公園として整備され、あじさいの名所となっていますが、戦国の城としての遺構はある程度残されており、大堀切や畝状の堀などがあります。
尾根上に伸びる展望台が3つあり、北側の「馬場ヶ崎展望台」東側の「お茶ヶ崎展望台」南側の「志太ヶ浦展望台」がありますが、私は登城ルートから伸びる「馬場ヶ崎展望台」を訪問しています。また、その直下の「和歌の浦」が水軍の船溜りとされています。
すぐ近くに母方の叔父の家がありますので、再度訪れた時に、またゆっくり下田城を散策してみたいと思っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

現代に再現された戦国山城。 (2024/06/15 訪問)

足助城は鎌倉時代に足助一族が拠った足助七屋敷の一つと伝わります。また戦国時代の足助鈴木氏の支配した足助七城の一つにも数えられています。標高301mの真弓山の山頂に築かれており信州・美濃路を押える要衝の地に築かれています。
戦国時代の山城を体験できる貴重な施設ですが、訪問客はそれほどいません。もっと多くの人にこの城の魅力が伝わると良いなと思います。本丸に建つ高櫓は発掘で見つかった掘立柱の穴跡を参考に築かれています。そういえば近くにある紅葉の名所の香嵐渓はそろそろ観光客で賑わうころではないでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

主郭の周囲、特に西の尾根沿いに遺構を良く残す。 (2024/10/13 訪問)

傘松城は標高802m、比高320mと江馬氏の持ち城の中では特に高所に築かれている城です。江馬下館からは傘松城が良く見え、傘松城からも江馬下館を始め、飛騨の街一帯が良く見えます。最高所に主郭が築かれ、北側にも郭や堀切があります。南西の尾根沿いにも遺構が良く残り、堀切や郭が連なっています。また西側の郭の周囲を土塁と堀が廻っている箇所があり、見どころの一つだと思います。
西の尾根をしばらく行った先に堀切があったので、そこで打ち切りにして引き返しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

戦国時代に滅んだ江馬氏の庭園が復活。 (2024/10/13 訪問)

江馬下館は江馬氏によって築かれた居館で、長らく田んぼの中に埋もれていましたが、かつての五つの庭石はそのまま残されていたそうです。その後の調査で、伝承通りに居館跡の遺構が発見され、1980年に国の史跡に登録され、会所と庭園が再現されました。
かつての庭石も整備された庭園の中にあるようです。現在は史跡認定に続いて、会所と庭園が国の名勝に指定されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

和歌山城 砂の丸 (2024/02/25 訪問)

西の丸を見て回った後は、追廻門をくぐって砂の丸を経て駐車場に戻ります。ここから石垣の種類が変わって和泉砂岩の高石垣が出迎えてくれます。元和5年(1619)に徳川頼宣が城主になってから築かれた石垣になります。これでようやく和歌山城一回りです。
写真を多くとってきたので、少し長めの投稿になりました。ご容赦願います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

タイ

大手石垣 (2024/11/12 訪問)

上の口から登り、主郭を見て、大手石垣を通ってかえろうとしたらあ、見落としてしまい、また登るハメに。
大手石垣には案内板も何もないので、下山時に訪れるときは、時々振り返りつつ気をつけましょう。

+ 続きを読む

ページ71